死神若殿の正室

三矢由巳

文字の大きさ
上 下
21 / 35
第二章 果報者

03 加納様

しおりを挟む
 上屋敷の殿様一行はわらわ達の倍以上の者を従えてやって来た。当然である。殿様と奥方様だけでなく、美伊の方と登与姫に従っている下屋敷の者もいるのだから。
 さっと見た感じ、やはり若い者が多い。今年は初めて国許を見るという江戸生まれの者もいるということだからそうもなろう。皆おとなしく従っている。
 一番声が大きいのは奥方様であった。美伊の方にしきりに話しかけている。美伊の方は少々困っているように見えた。無理もない。わらわがここで待っておるのだから。奥方様と図々しく話しているとわらわに思われては困るのであろう。登与姫は時折奥方様に話しかけられるとはきはきと答えている。なんとなく若殿に似ているように見えた。やはり父と娘である。
 やがて殿様がこちらへ近づいて来た。
 挨拶の後、殿様はやはり御立場の上の人物に気付いた。

「父上、あれはいかがなものかと」

 若殿は相変わらず不審者を見る目でそちらを見ている。わらわには不審者とは思えぬのだが。
 殿様も件の人物を見上げた。
 すると側用人の岡部惣左衛門が何やら殿様に小声で語った。岡部は、昨年わらわが上屋敷に押しかけた時に木っ端役人と言った侍である。実際は木っ端どころか、堂々たる大樹で、殿様の懐刀なのだが。わらわが中屋敷に戻る際には失礼をいたしましたと言ってなにくれとなく世話を焼いてくれた。後でわかったのだが、常葉の夫の留守居役の村越新左衛門の実父だと言う。小さい家中ではあちこちに誰彼の弟だ、従兄弟だのがいて世間が狭くなるものらしい。
 わらわは再び御立場の人物を見上げた。なんとその方は殿様の方を見て微笑んでおった。
 殿様も気付いたのか、御立場へと昇る階に向かって駆けだした。階の傍に立つ男達は平然としていた。

「父上、なりません」

 若殿は驚いて止めようと手を伸ばした。わらわはその袖を引いた。

「何をする」
「あそこに立てる方といったら決まってるのでは。その方がお呼びならば、よいではありませぬか」

 どうも若殿は用心が過ぎる。御立場に近づくのを止める者がいないのを見ればわかると思うのだが。

「まさか」

 そのまさかであろう。そうでなければ、御立場に殿様が近づくわけがない。
 困惑する小姓らに川合忠之進(これはわらわがでぶと言った者じゃ)は落ち着いた声で言った。

「我らはここで待っておればよい。騒ぐのは見苦しい」

 この川合という者、なかなか肝がすわっておるようじゃ。肥えた身体は伊達ではない。
 奥方様もわかっておいでのようだった。

「それよりも桃を見ましょう。登与姫、こちらへ。美伊、そなたは若殿のおそばに」

 美伊の方は目を伏せたままで、若殿に近づいた。といっても手を伸ばしても届かぬほど。これを近づいたというのであろうか。わらわは少しおかしくてつい言ってしまった。

「もっとこちらへおいでなされ。取って食うたりはしませぬ」

 声を上げて笑ったわらわを驚いたように皆が見た。若殿も目を丸くしていた。
 昨年、懐妊がわかって以降、美伊の方は懐妊祝いの挨拶と出産祝いの挨拶の二度しか中屋敷に顔を見せていない。恐らくわらわの機嫌を慮って皆が美伊の方の来訪を止めていたのであろう。
 だが、皆が思うほど、わらわは美伊の方に腹は立たぬ。なぜなら、わらわだけが若殿の正室なのだから。この桃園行きにしても、もしわらわが許さねば美伊の方の同行はなかったのだ。離縁の危機を乗り越えて子を産んだわらわは改めて正室の地位というものの重さを知った。
 それに美伊の方とて、わらわ同様最初から自らの意思で若殿と契ったわけではあるまい。たまたま若殿に見初められたがために今の身の上となったのであろう。もし美伊の方が選ばれなければ他の女が同じ立場になっていたはずである。わらわもまた、たまたま叔父が豊前守の元に連れて行ったから姫として扱われただけでのことで、そうでなければこの辺りの百姓の娘同様に下肥を汲んで田畑を耕していたかもしれぬ。あるいは若殿の許嫁達の一人でも元気であれば、まだ豊前守家の奥で縫物をしていたであろう。すべて人智の及ばぬ巡り合わせというものである。
 わらわも美伊の方も結局偶然の巡り会わせで、それぞれ今の立場にいる。それを思えばわらわ達は似たようなものである。たまたまわらわは正室であるというだけのこと。ならばいがみ合って暮らすのは馬鹿馬鹿しいではないか。
 無論、正室の地位は重い。重いからこそ、立場を振りかざすのだけは避けたかった。振りかざせば弱い立場の美伊の方は吹き飛ばされてしまう。わらわが豊前守家で受けた仕打ち以上の目に遭わせることになりかねない。それだけは避けたかった。
 美伊の方はゆっくりと若殿に近づいた。ようやく手を伸ばせば届く近さになった。わらわは言った。

「御覧なされ。この桃を。間もなく桃の節句。今年は姫二人の節句になるゆえ、賑やかであろうな」

 美伊の方は驚いて顔を上げた。奥方様はにっこりと笑った。

「それはよいのう。登与姫と珠姫そろっての節句とは。わらわも入れてもらえぬか」
「勿論でございます」

 否とは言えぬ。これで今年の桃の節句は美伊の方と登与姫と奥方様を交えたものになる。

「では戻ったら住吉に早速支度をさせねば」

 上屋敷で桃の節句の祝いをするというのがこの場で決まってしまった。
 若殿は美伊の方を安堵の表情で見つめていた。が、わらわの視線に気付くと視線を御立場に向けた。
 そちらでは殿様とまさかの人物が親し気に言葉を交わしていた。




 殿様とまさかの人物がともに御立場から降りて来た後、日程が変更になった。少々気は向かぬが、致し方あるまい。
 殿様はまず側用人の岡部を呼んだ。岡部が近習や小姓を呼んで命じると彼らはすぐさまあちこちに走った。
 そうそう、御立場から降りて来た方は「加納かのう」様という。一体どちらの御家中の加納様なのやら、殿様は一切説明しなかった。しかも殿様は自らを「それがし」と言う。そのようにへりくだる相手が何者か、もはや気付いておらぬ者はいなかった。お忍びゆえ、その場に跪くようなことはしなかったが。
 奥方様もそうであった。何も考えていないように見える方だが、そうでもないらしい。

「お久しうございます。飛騨守の室にございます」
「おお、そなたは。いつぞや、た、いや娘が世話になった」

 奥方様は旧知の間柄のように話をしている。わらわにはとてもできぬ。やはり御老中の孫であった方は違うらしい。
 言いかけた「た」の付く人物、加納様の娘には心当たりがあった。それはともかく、わらわ達も加納様に紹介された。緊張したものの、昨年珠姫が生まれたことを聞いた加納様がめでたいと言ってくれたのは嬉しかった。見たこともない赤子の誕生も喜んでくれる。わらわなどがさすがはと言うのもおそれおおいことである。
 高台から下りながら我らは桃の林の中を昼食場所になっている寺まで進んだ。
 暖かくなってきたせいか、桃の花は先ほどよりも開いてきたようだった。時折木々の間を吹き抜ける風も薄桃の色に感じられた。
 皆の顔が笑顔になっていた。殿様も若殿も加納様も。わらわの顔もいつもより緩んでいたかもしれぬ。奥方様も美伊の方と登与姫もまた楽し気だった。上が笑えば下も倣うのか、年若い小姓たちも緊張が緩んだのか足取りが軽い。
 目当ての寺の本堂で我らは昼食をとった。国許への旅の鍛錬ということなので握り飯と煮物と玉子焼きという簡素なものであった。それを殿様も加納様も何の文句も言わず食べている。
 わらわにとってそれは不思議な光景だった。豊前守家ではありえなかった。身分の上下を問わず同じものを口にするなど。参勤交代の旅は何があるかわからぬゆえのこととはいえ、ここは江戸。贅沢な食事をしようと思えばいくらでもできるのに。
 なれど、わらわはこの家に嫁いでよかったと思った。豊前守家よりはずっとましじゃ。皆が桃の花を見て握り飯を食って笑っていられるというのは悪いことではあるまい。
 ただ、少し気がかりなのは、この後のことじゃ。 
 ここより南側にある寺の裏手に象小屋があるという。加納様のたっての願いにより立ち寄ることになったということだった。
 わらわは少しだけ怖かった。果たして穏やかな気持ちであれを見ることができるものであろうか。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

漱石先生たると考

神笠 京樹
歴史・時代
かつての松山藩の藩都、そして今も愛媛県の県庁所在地である城下町・松山に、『たると』と呼ばれる菓子が伝わっている。この『たると』は、洋菓子のタルトにはまったく似ておらず、「カステラのような生地で、小豆餡を巻き込んだもの」なのだが、伝承によれば江戸時代のかなり初期、すなわち1647年頃に当時の松山藩主松平定行によって考案されたものだという。なぜ、松山にたるとという菓子は生まれたのか?定行は実際にはどのような役割を果たしていたのか?本作品は、松山に英語教師として赴任してきた若き日の夏目漱石が、そのような『たると』発祥の謎を追い求める物語である。

忍者同心 服部文蔵

大澤伝兵衛
歴史・時代
 八代将軍徳川吉宗の時代、服部文蔵という武士がいた。  服部という名ではあるが有名な服部半蔵の血筋とは一切関係が無く、本人も忍者ではない。だが、とある事件での活躍で有名になり、江戸中から忍者と話題になり、評判を聞きつけた町奉行から同心として採用される事になる。  忍者同心の誕生である。  だが、忍者ではない文蔵が忍者と呼ばれる事を、伊賀、甲賀忍者の末裔たちが面白く思わず、事あるごとに文蔵に喧嘩を仕掛けて来る事に。  それに、江戸を騒がす数々の事件が起き、どうやら文蔵の過去と関りが……

証なるもの

笹目いく子
歴史・時代
 あれは、我が父と弟だった。天保11年夏、高家旗本の千川家が火付盗賊改方の襲撃を受け、当主と嫡子が殺害された−−。千川家に無実の罪を着せ、取り潰したのは誰の陰謀か?実は千川家庶子であり、わけあって豪商大鳥屋の若き店主となっていた紀堂は、悲嘆の中探索と復讐を密かに決意する。  片腕である大番頭や、許嫁、親友との間に広がる溝に苦しみ、孤独な戦いを続けながら、やがて紀堂は巨大な陰謀の渦中で、己が本当は何者であるのかを知る。  絡み合う過去、愛と葛藤と後悔の果てに、紀堂は何を選択するのか?(性描写はありませんが暴力表現あり)  

処理中です...