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第一章 厄介者
12 田鶴姫一人語り 肆
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愛されないことには慣れているはずだった。
けれど数日後、下屋敷に住む若殿の側室美伊の方が登与姫を伴い、中屋敷の奥の広座敷に姿を見せた時には、ひどく気持ちが揺らいだ。
美伊の方は町人の出で慎ましい女性だった。出しゃばることもなく、慎み深い態度を崩さなかった。容貌は十人並だった。もっと美しければ、寵愛を当然のことと受け止められたかもしれなかったが、このような容貌であっても愛されるという事実を突きつけられると、何とも言えぬ心持ちになるのだった。
四つの登与姫は母親に厳しく言われたのか、きちんと挨拶し母の横で畏まっていた。
同席していた貞眞院が登与姫を連れて離れに行ったおかげで、美伊の方と少し話ができた。人目が少なくなっても彼女はあくまでも側室として正室に対する礼儀を守った。
祝いの品の話をしていた時だった。見事な柄の反物と褒め、お目が高いと言うと、美伊の方は言った。
「選んだのはわらわではございません。奥方様です」
上屋敷に住む殿の奥方祝姫が祝いの品を選んだ。その事実は重かった。美伊の方は若殿の母である奥方様に大事にされているということである。
「貞眞院様と奥方様のご実家では狆を育てておいで。今度仔が生まれたら姫に一頭もらう約束になっております。御新造様もいかがでしょう」
そんな話にさえ、貞眞院や奥方との親密さが伺えた。
「母上、おばばさまからおてだまをいただきました」
登与姫が戻ってきた。背後から貞眞院がやって来た。
「これこれ、声が大きい。もそっと静かに」
そう言いながらも顔はすっかり緩んでいる。お手玉を両手にいくつも抱えた童女は母親にべったりとくっついた。母親は貞眞院に頭を下げた。
「貞眞院様、いつも申し訳ございません」
「よいよい」
貞眞院はにこにこと微笑んでいる。まるで厨子の中の御仏のように。姫を見つめる美伊の方の顔は慈愛にあふれていた。二人の愛情を一身に受けた童女は無邪気に笑っている。三人の姿は眩し過ぎた。
恐らくこれが以前この部屋で見られた光景なのだろう。だが、若殿が正室を娶ったことでこの母子は中屋敷から出て行かねばならなくなった。
この部屋の中でまるで己一人が邪魔物のように思えた。
頭が痛いと言って、部屋を退出したのは、何も頭痛のせいだけではなかった。
「もそっと、美伊に優しくしてくれぬか」
数日後、奥入りした若殿は夕食後に言った。優しくないというのは自分でもわかっていた。だが、そう言われても、どうすればいいのかわからない。
「そなたが頭痛で部屋から出たので、美伊は何か機嫌をそこねたのではないかと、ひどく気に病んでおる」
本当に頭痛だったのだと言った。機嫌が悪かったわけでもないとも言った。
「そうか。ならば仕方あるまい。だが、美伊は町人の出ゆえ、わずかなことでも気に障ったのではないかと心配するのだ。そこのところは気を付けてくれ。一生懸命、武家の暮らしに慣れようとしておるのだから」
この気の遣いようは尋常ではないように思われた。大名の世継ぎがそのような考えでは家臣を率いて領民を守ることなどできないのではないか。
「正室のわらわが側室に気を遣うとはおかしくはないか」
若殿の顔色が変わった。
「美伊には頼れる身内がおらぬ。父と弟らを火事で亡くしておるのだ。下の者を思いやるのが上に立つ者の心得だと思うのだが」
しまったと思った時は遅かった。若殿の逆鱗に触れてしまったらしい。
「今宵は中奥で休む」
若殿は食事の間を出て行った。その足音の荒さに小姓は目を丸くしていた。
それが二人のすれ違いの始まりだった。
その後、月に二回ほど奥入りがあった。
けれど、若殿の態度は変わってしまった。
元々、行為の最中の口数は多くなかったのだが、ほとんど話すことはなく、義務だけで腰を動かしているようだった。
終わればさっさと床に入ってしまう。
わらわは常葉には若殿様が絶えず耳元に睦言を囁くなどと言うたが、あれは見栄じゃ。我ながらあさましいことと思う。ただ、満たされた心地になったのは嘘ではない。わずかな時間であっても、あの心地はそれまでまったく知らぬものであったのだ。
ただ、気持ちがすれ違って後は砂を噛むようであった。
たまに口を開いたかと思えば、親戚が来るとか上屋敷から使いが来るとか、御年寄からも知らせのあったようなことばかりであった。
その知らせについても、美伊の方が中屋敷に登与姫を連れて来る時は直前になって知らされた。美伊の方は挨拶だけすると、離れの貞眞院のところへ登与姫とともに行ってしまうのだった。離れから童女の無邪気な声が聞こえると、心穏やかではいられなかった。美伊の方と話すことなどないのだが、ここまで避けられるとなぜと思う。
「なぜ、前の日に知らせぬのか」
美伊の方の訪問について御年寄に尋ねた。
「それは若殿様のご命令で。御新造様に気を遣わせたくないと」
若殿の命令だったと知れば文句を言うわけにはいかなかった。
一方、美伊の方は正室が不機嫌らしいと知り、中屋敷に足を運ばぬようになった。登与姫とお付きの乳母だけで中屋敷に行き挨拶だけして離れに行くということになってしまった。
十二月になった。部屋で文を書いていると、実家から一緒に来た奥女中が慌てた様子で部屋に入って来た。
「姫様、若殿様が下屋敷にお出かけのようです」
「それがいかがした」
下屋敷には美伊の方がいるが、馬場や蔵もあり、乗馬で若殿が出向くことは別に珍しい話ではない。
「何をのんびりとなさっておいでですか。下屋敷で夕餉までおとりになるそうですよ。御末の者が言うには、十日に一度は下屋敷にお出ましになって美伊の方とお過ごしになっているとか」
そういうこともあろうが、いちいち目くじらを立ててもどうしようもない。若殿の行動を止めるなどできない。
「そうか」
「姫様はお優し過ぎます」
「なれど、行くなと言えるわけがなかろう」
そう言った時だった。不意に頭がずきりと痛んだ。嫁いでから時折頭痛が起きるようになっていた。
「いかがされましたか」
「大事ない」
そう言ったものの、額をつい押さえてしまった。
「おつむが痛いのですか」
「いつものことゆえ。薬を飲めば治る」
「姫様が頭痛で苦しんでおるのに、ご自分だけ下屋敷とは」
奥女中は薬と水を持ってくるように小姓に命じると、中奥と奥を隔てる御錠口に向かった。
薬を飲むと、少し楽になったように思われた。
「大丈夫か」
足音が聞こえた。まさかと思い顔を上げると若殿が目の前に立っていた。
「頭痛がひどいと聞いていたが」
「薬を飲んだので少し楽に」
若殿はそばに座り横になるようにと言った。
「それほどひどくはない。大袈裟な」
「しかし」
「それより、下屋敷においでになるのでは」
「なぜ、それを知っておる」
奥女中から聞いたなどと言えば、警戒するに違いなかった。最悪、奥女中を実家に帰せと言いかねない。嫌味な女達だが、役目を果たせず豊前守家に帰ることになれば恥をかくことになる。
「とにかく、下屋敷へお出ましを。あちらの方は支度をして待っておいでのはず」
だが、若殿はいや今日は参らぬと言い、表に連絡を入れた。
結局、夕刻までそばにいた。
申し訳ないと思いながらも、若殿がそばにいるのは心強かった。頭痛がまた起きるといけないからと話はしなかったが、気配があるだけで穏やかな気持ちでいられた。ただ奥女中らが頻繁に顔を出し、若殿に話しかけるのは少々礼を逸脱しているように思えたが。
その後もなぜか若殿が下屋敷に行くという日になると腹が痛くなったり、頭が痛くなったりした。
そのたびに、若殿は奥に来た。
だが、次第に若殿がそばにいる時間が短くなった。
「まことに頭が痛いのか」
そう言われたのは年が明けた二月の初めのことだった。
「はい」
「まことにか」
明らかに疑いのまなざしで見つめられていた。
その次から若殿は予定を変えることなく下屋敷に行くようになった。
嘘ではなく頭や腹が痛くなるのだが、下屋敷に行く時に限って頻繁に起きれば、信用ならぬということなのであろうか。
なかなか太らぬ身体といい、己の身体の弱さが恨めしかった。
「頭や腹が痛くなるのは、ずっと屋敷に籠っておるからではないか。温かくなってきたから、外へ行かぬか。大川で舟に乗って桜を見るのも一興」
二月の末、桜の盛りの頃、若殿は昼間奥に来て言った。
舟遊びなど贅沢としか思えなかった。大方、御年寄あたりが、少しは正室を大事にするようにとでも言ったのであろう。
「さような贅沢なことをしてもよいのか」
「贅沢なことはない。町人も舟で川から桜を見る。桜餅を食べながら見る桜は格別」
桜餅。その言葉が忘れかけていた記憶を呼び覚ました。
実家の奥で桜餅がふるまわれたことがあった。無論、お下がりしかもらえなかったが、初めて聞く桜餅はいかなるものか期待していた。せめて半分でもよいと思った。
だが、お下がりとして与えられた皿にのっていたのは桜の葉の塩漬け一枚だけだった。奥女中達が葉だけを残して餅をすべて食べてしまったのだ。口にした葉は塩の味とかすかな桜の香りがした。一体いかなる餅なのか想像をめぐらしたが、味だけは想像できなかった。
あの時の惨めな気持ちが甦る。食べたいけれど、食べたくない。
「行かぬ」
自分でもなぜそんなことを言ってしまったのかわからなかった。
若殿は悲しそうな顔をした。
なぜ、はいと言えなかったのか。
上屋敷の殿様が国許に戻ったのは四月のことであった。
殿様の出立を見送るため、若殿も上屋敷から高輪の下屋敷までお供をする。それゆえに、夜半過ぎには起きて上屋敷へ向かう。
その明け方、またも頭痛が起きた。
おうら達は呆れていた。
「姫様がこんなにも苦しんでおいでなのに、若殿様は見送りとはいえ下屋敷まで行かれるとは。大方美伊の方に会うのが目当てではありませぬか」
そんなことはあるまいと言おうと思ったが、つらくて言葉も出なかった。
「表に一言伝えねば姫様がお可哀想」
おたねが御錠口に向かった。さようなことはするなと言おうと思ったが、起き上がるのも難儀だった。
しばらくするとおたねが戻って来た。
「ひどうございますよ、若殿様は。これは江戸屋敷を守る世継ぎの大事な役目と。あんまりではありませんんか」
いや、当然のこととやっと口に出した。が、彼女は聞いていなかった。
薬の効き目が出て頭痛が癒えた頃には、外は明るくなり、若殿は上屋敷に出立していた。
また、若殿が遠ざかっていくような気がした。
けれど数日後、下屋敷に住む若殿の側室美伊の方が登与姫を伴い、中屋敷の奥の広座敷に姿を見せた時には、ひどく気持ちが揺らいだ。
美伊の方は町人の出で慎ましい女性だった。出しゃばることもなく、慎み深い態度を崩さなかった。容貌は十人並だった。もっと美しければ、寵愛を当然のことと受け止められたかもしれなかったが、このような容貌であっても愛されるという事実を突きつけられると、何とも言えぬ心持ちになるのだった。
四つの登与姫は母親に厳しく言われたのか、きちんと挨拶し母の横で畏まっていた。
同席していた貞眞院が登与姫を連れて離れに行ったおかげで、美伊の方と少し話ができた。人目が少なくなっても彼女はあくまでも側室として正室に対する礼儀を守った。
祝いの品の話をしていた時だった。見事な柄の反物と褒め、お目が高いと言うと、美伊の方は言った。
「選んだのはわらわではございません。奥方様です」
上屋敷に住む殿の奥方祝姫が祝いの品を選んだ。その事実は重かった。美伊の方は若殿の母である奥方様に大事にされているということである。
「貞眞院様と奥方様のご実家では狆を育てておいで。今度仔が生まれたら姫に一頭もらう約束になっております。御新造様もいかがでしょう」
そんな話にさえ、貞眞院や奥方との親密さが伺えた。
「母上、おばばさまからおてだまをいただきました」
登与姫が戻ってきた。背後から貞眞院がやって来た。
「これこれ、声が大きい。もそっと静かに」
そう言いながらも顔はすっかり緩んでいる。お手玉を両手にいくつも抱えた童女は母親にべったりとくっついた。母親は貞眞院に頭を下げた。
「貞眞院様、いつも申し訳ございません」
「よいよい」
貞眞院はにこにこと微笑んでいる。まるで厨子の中の御仏のように。姫を見つめる美伊の方の顔は慈愛にあふれていた。二人の愛情を一身に受けた童女は無邪気に笑っている。三人の姿は眩し過ぎた。
恐らくこれが以前この部屋で見られた光景なのだろう。だが、若殿が正室を娶ったことでこの母子は中屋敷から出て行かねばならなくなった。
この部屋の中でまるで己一人が邪魔物のように思えた。
頭が痛いと言って、部屋を退出したのは、何も頭痛のせいだけではなかった。
「もそっと、美伊に優しくしてくれぬか」
数日後、奥入りした若殿は夕食後に言った。優しくないというのは自分でもわかっていた。だが、そう言われても、どうすればいいのかわからない。
「そなたが頭痛で部屋から出たので、美伊は何か機嫌をそこねたのではないかと、ひどく気に病んでおる」
本当に頭痛だったのだと言った。機嫌が悪かったわけでもないとも言った。
「そうか。ならば仕方あるまい。だが、美伊は町人の出ゆえ、わずかなことでも気に障ったのではないかと心配するのだ。そこのところは気を付けてくれ。一生懸命、武家の暮らしに慣れようとしておるのだから」
この気の遣いようは尋常ではないように思われた。大名の世継ぎがそのような考えでは家臣を率いて領民を守ることなどできないのではないか。
「正室のわらわが側室に気を遣うとはおかしくはないか」
若殿の顔色が変わった。
「美伊には頼れる身内がおらぬ。父と弟らを火事で亡くしておるのだ。下の者を思いやるのが上に立つ者の心得だと思うのだが」
しまったと思った時は遅かった。若殿の逆鱗に触れてしまったらしい。
「今宵は中奥で休む」
若殿は食事の間を出て行った。その足音の荒さに小姓は目を丸くしていた。
それが二人のすれ違いの始まりだった。
その後、月に二回ほど奥入りがあった。
けれど、若殿の態度は変わってしまった。
元々、行為の最中の口数は多くなかったのだが、ほとんど話すことはなく、義務だけで腰を動かしているようだった。
終わればさっさと床に入ってしまう。
わらわは常葉には若殿様が絶えず耳元に睦言を囁くなどと言うたが、あれは見栄じゃ。我ながらあさましいことと思う。ただ、満たされた心地になったのは嘘ではない。わずかな時間であっても、あの心地はそれまでまったく知らぬものであったのだ。
ただ、気持ちがすれ違って後は砂を噛むようであった。
たまに口を開いたかと思えば、親戚が来るとか上屋敷から使いが来るとか、御年寄からも知らせのあったようなことばかりであった。
その知らせについても、美伊の方が中屋敷に登与姫を連れて来る時は直前になって知らされた。美伊の方は挨拶だけすると、離れの貞眞院のところへ登与姫とともに行ってしまうのだった。離れから童女の無邪気な声が聞こえると、心穏やかではいられなかった。美伊の方と話すことなどないのだが、ここまで避けられるとなぜと思う。
「なぜ、前の日に知らせぬのか」
美伊の方の訪問について御年寄に尋ねた。
「それは若殿様のご命令で。御新造様に気を遣わせたくないと」
若殿の命令だったと知れば文句を言うわけにはいかなかった。
一方、美伊の方は正室が不機嫌らしいと知り、中屋敷に足を運ばぬようになった。登与姫とお付きの乳母だけで中屋敷に行き挨拶だけして離れに行くということになってしまった。
十二月になった。部屋で文を書いていると、実家から一緒に来た奥女中が慌てた様子で部屋に入って来た。
「姫様、若殿様が下屋敷にお出かけのようです」
「それがいかがした」
下屋敷には美伊の方がいるが、馬場や蔵もあり、乗馬で若殿が出向くことは別に珍しい話ではない。
「何をのんびりとなさっておいでですか。下屋敷で夕餉までおとりになるそうですよ。御末の者が言うには、十日に一度は下屋敷にお出ましになって美伊の方とお過ごしになっているとか」
そういうこともあろうが、いちいち目くじらを立ててもどうしようもない。若殿の行動を止めるなどできない。
「そうか」
「姫様はお優し過ぎます」
「なれど、行くなと言えるわけがなかろう」
そう言った時だった。不意に頭がずきりと痛んだ。嫁いでから時折頭痛が起きるようになっていた。
「いかがされましたか」
「大事ない」
そう言ったものの、額をつい押さえてしまった。
「おつむが痛いのですか」
「いつものことゆえ。薬を飲めば治る」
「姫様が頭痛で苦しんでおるのに、ご自分だけ下屋敷とは」
奥女中は薬と水を持ってくるように小姓に命じると、中奥と奥を隔てる御錠口に向かった。
薬を飲むと、少し楽になったように思われた。
「大丈夫か」
足音が聞こえた。まさかと思い顔を上げると若殿が目の前に立っていた。
「頭痛がひどいと聞いていたが」
「薬を飲んだので少し楽に」
若殿はそばに座り横になるようにと言った。
「それほどひどくはない。大袈裟な」
「しかし」
「それより、下屋敷においでになるのでは」
「なぜ、それを知っておる」
奥女中から聞いたなどと言えば、警戒するに違いなかった。最悪、奥女中を実家に帰せと言いかねない。嫌味な女達だが、役目を果たせず豊前守家に帰ることになれば恥をかくことになる。
「とにかく、下屋敷へお出ましを。あちらの方は支度をして待っておいでのはず」
だが、若殿はいや今日は参らぬと言い、表に連絡を入れた。
結局、夕刻までそばにいた。
申し訳ないと思いながらも、若殿がそばにいるのは心強かった。頭痛がまた起きるといけないからと話はしなかったが、気配があるだけで穏やかな気持ちでいられた。ただ奥女中らが頻繁に顔を出し、若殿に話しかけるのは少々礼を逸脱しているように思えたが。
その後もなぜか若殿が下屋敷に行くという日になると腹が痛くなったり、頭が痛くなったりした。
そのたびに、若殿は奥に来た。
だが、次第に若殿がそばにいる時間が短くなった。
「まことに頭が痛いのか」
そう言われたのは年が明けた二月の初めのことだった。
「はい」
「まことにか」
明らかに疑いのまなざしで見つめられていた。
その次から若殿は予定を変えることなく下屋敷に行くようになった。
嘘ではなく頭や腹が痛くなるのだが、下屋敷に行く時に限って頻繁に起きれば、信用ならぬということなのであろうか。
なかなか太らぬ身体といい、己の身体の弱さが恨めしかった。
「頭や腹が痛くなるのは、ずっと屋敷に籠っておるからではないか。温かくなってきたから、外へ行かぬか。大川で舟に乗って桜を見るのも一興」
二月の末、桜の盛りの頃、若殿は昼間奥に来て言った。
舟遊びなど贅沢としか思えなかった。大方、御年寄あたりが、少しは正室を大事にするようにとでも言ったのであろう。
「さような贅沢なことをしてもよいのか」
「贅沢なことはない。町人も舟で川から桜を見る。桜餅を食べながら見る桜は格別」
桜餅。その言葉が忘れかけていた記憶を呼び覚ました。
実家の奥で桜餅がふるまわれたことがあった。無論、お下がりしかもらえなかったが、初めて聞く桜餅はいかなるものか期待していた。せめて半分でもよいと思った。
だが、お下がりとして与えられた皿にのっていたのは桜の葉の塩漬け一枚だけだった。奥女中達が葉だけを残して餅をすべて食べてしまったのだ。口にした葉は塩の味とかすかな桜の香りがした。一体いかなる餅なのか想像をめぐらしたが、味だけは想像できなかった。
あの時の惨めな気持ちが甦る。食べたいけれど、食べたくない。
「行かぬ」
自分でもなぜそんなことを言ってしまったのかわからなかった。
若殿は悲しそうな顔をした。
なぜ、はいと言えなかったのか。
上屋敷の殿様が国許に戻ったのは四月のことであった。
殿様の出立を見送るため、若殿も上屋敷から高輪の下屋敷までお供をする。それゆえに、夜半過ぎには起きて上屋敷へ向かう。
その明け方、またも頭痛が起きた。
おうら達は呆れていた。
「姫様がこんなにも苦しんでおいでなのに、若殿様は見送りとはいえ下屋敷まで行かれるとは。大方美伊の方に会うのが目当てではありませぬか」
そんなことはあるまいと言おうと思ったが、つらくて言葉も出なかった。
「表に一言伝えねば姫様がお可哀想」
おたねが御錠口に向かった。さようなことはするなと言おうと思ったが、起き上がるのも難儀だった。
しばらくするとおたねが戻って来た。
「ひどうございますよ、若殿様は。これは江戸屋敷を守る世継ぎの大事な役目と。あんまりではありませんんか」
いや、当然のこととやっと口に出した。が、彼女は聞いていなかった。
薬の効き目が出て頭痛が癒えた頃には、外は明るくなり、若殿は上屋敷に出立していた。
また、若殿が遠ざかっていくような気がした。
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