6 / 35
第一章 厄介者
05 父の死
しおりを挟む
病の者が苦しんでおれば、その命を助けようとするのが、人として当然のこと。そう信じておった。たとえ嫌な相手であっても。それが脆くも崩れ去った。
あの時のことを話すのは、これが初めてじゃ。誰にも言えなんだ。だが、なぜ、わらわはそなたになど語っておるのであろう。
まあよい。あの女はここにはおらぬしな。
あの後、あの女はわらわに言うた。姫様の最期のこと誰にも語るなと。語ればどうなるかわかっておるであろうとも。
それで、わらわは気付いた。わらわは恐らく、あの者のおかげで生きてこれたのだと。あの者が手を回せば、死んでいてもおかしくなかったのだと。
ただの奥女中ではないかと思われるかもしれぬが、奥というのは不思議な場所でな。殿の寵を得ていた者が突然寵を失ったかと思うとそれで役目が終わったかのように亡くなることがある。その中には不審なことも多いのじゃ。
恐らくはあの女のような者がどこにでもいるのではあるまいか。
そういえば、先だって大奥の天英院様が天寿を全うされて亡くなった。だが、同じ大奥のうちにいながら、天英院様と同じように大納言様の京から来た御簾中は嫁いで二年に満たぬうちにみまかられた。まだ二十三という若さであったと聞く。大納言様の父であらせられる公方様の御簾中も都の方で若くで亡くなられた。死産の後とはいえ、若過ぎではないか。
わらわは時々思うのだ。貴人であっても、奥の女ども次第で命を縮めさせることができるのではないかと。逆に、命を長らえさせることもまたできるのかもしれぬと。子どもならばなおさらじゃ。わらわも生まれる前に殺されていたかもしれなかったと老いた奥女中が言っておったな。それを聞いたのは一度きりじゃが。
勝姫はすでに死ぬ定めだったのかもしれぬが、もっと早く医者を呼べば、楽になれたのではないか。さすれば、あれほど苦しい思いをせずにすんだのではないかと思うのだ。
何もありがとうと言われたからそう思うわけではないのだが。
ただ幼い者が死ぬ前に誰にも触れられずに亡くなるというのはどれほど寂しいことかと思うのだ。背中をさすることもあの女は許さなかった。それを思い出すと、わらわは心底怖い。あの女の心のうちには何があったのかを思うと。
というわけで、わらわは象が嫌いじゃ。象を見ると、勝姫を思い出し、あの女のことを思い出すからじゃ。
勝姫が亡くなったのは享保十五年の秋のことであったか。
それから変わりばえのせぬ年月が過ぎた。その間に一緒に働いておった女子は奉公を終え家に戻り嫁入りしたり、豊前守の若様のお手付きになったりと、身の上は変わっていく。相変わらずわらわは奥で奥方様や姫様方の着る物を縫い、後から入って来た者に縫物を教えて過ごしておった。新参の者達のほとんどはわらわのことを殿の弟の娘だとは知らなかったから、後でずいぶん驚かれたものだった。
そういえば、わらわの実の父だが、ほとんど会うことはなかった。わらわは奥で、父は同じ屋敷の中奥にある部屋で暮らしておったから、まったく接する機会というのがないのだ。父が、あるいはわらわが会いたいと思えば会えたのかもしれぬが、わらわも父も会いたいとは互いに思っていなかったのじゃ。ある意味、似た者親子かもしれぬ。
十八の年の冬であったか、御錠口の掛の者から父が危篤じゃと知らせがあった。突然の話であった。それまで父親が恋しいなどと思ったこともなかったが、殿様からお許しが出たゆえ父に対面するようにと言われ、奥から中奥の父の部屋に参った。
やはり身内ゆえ、最後くらいはという気持ちもあった。母の死んだことも覚えておらぬのだから、せめて父はと思ったのじゃ。
御錠口から初めて中奥に入ったが、あそこはまこと男しかおらぬのだ。そのうちの老いた男がわらわを父の部屋の前まで案内してくれた。
部屋に入った途端に、香の匂いが鼻をついた。
見れば床の上に顔に白い布を掛けた者が横たわっており、そのそばでは香が焚かれておった。
なんとまあ、父はすでに事切れておったのだ。それもその日の朝のことだと言う。
傍にいた男に顔を見るかと言われ、うなずいた。一度くらいは親の顔を見ておこうと思ったのだ。
痩せこけた顔であった。殿様の顔に似ておった。弟だから当たり前だが。
不思議なほどわらわの心は動かなかった。ただ、父は人ではなく物になったのだと思った。不思議なことに勝姫が死んだ時のことを思い出すほうがよほど、わらわの心は動くのだ。そもそも文のやりとりすらしておらぬような親子だからな。生きている時に一言でも話をしておれば違ったかもしれぬ。
すぐにまた顔に布が掛けられ、手を合わせて、父との対面は終わった。
奥に戻り、御年寄に報告した。御年寄はそうかと言っただけでな。普通なら父の喪に服せとでも言うのであろうが、奥方様から頼まれた繕い物を目の前に積まれたのには驚いた。
今思えば、あの時、わらわの縁組話がきていたのであろうな。実の父の喪中だから祝言ができぬということにならぬように、あれこれ殿様達は画策しておったのだろうよ。
とはいえ、さすがに奥の者達も鬼ではないから、父の葬儀の日だけは仕事はなかった。勝姫の時のあの奥女中が御年寄に掛け合ってくれたらしい。あの女子は鬼のようでもあるが、時には人に戻ることもあるらしい。だが、奥を出る時まで心を許すことはできなんだ。
葬儀の日、わらわは自分の部屋で経を上げると、横になった。昨夜遅くまで縫物をしておって眠かったのじゃ。その時だけは父に感謝した。父上のおかげで眠ることができると。
わらわが縁組を知ったのは年が明けてからじゃ。
あの時のことを話すのは、これが初めてじゃ。誰にも言えなんだ。だが、なぜ、わらわはそなたになど語っておるのであろう。
まあよい。あの女はここにはおらぬしな。
あの後、あの女はわらわに言うた。姫様の最期のこと誰にも語るなと。語ればどうなるかわかっておるであろうとも。
それで、わらわは気付いた。わらわは恐らく、あの者のおかげで生きてこれたのだと。あの者が手を回せば、死んでいてもおかしくなかったのだと。
ただの奥女中ではないかと思われるかもしれぬが、奥というのは不思議な場所でな。殿の寵を得ていた者が突然寵を失ったかと思うとそれで役目が終わったかのように亡くなることがある。その中には不審なことも多いのじゃ。
恐らくはあの女のような者がどこにでもいるのではあるまいか。
そういえば、先だって大奥の天英院様が天寿を全うされて亡くなった。だが、同じ大奥のうちにいながら、天英院様と同じように大納言様の京から来た御簾中は嫁いで二年に満たぬうちにみまかられた。まだ二十三という若さであったと聞く。大納言様の父であらせられる公方様の御簾中も都の方で若くで亡くなられた。死産の後とはいえ、若過ぎではないか。
わらわは時々思うのだ。貴人であっても、奥の女ども次第で命を縮めさせることができるのではないかと。逆に、命を長らえさせることもまたできるのかもしれぬと。子どもならばなおさらじゃ。わらわも生まれる前に殺されていたかもしれなかったと老いた奥女中が言っておったな。それを聞いたのは一度きりじゃが。
勝姫はすでに死ぬ定めだったのかもしれぬが、もっと早く医者を呼べば、楽になれたのではないか。さすれば、あれほど苦しい思いをせずにすんだのではないかと思うのだ。
何もありがとうと言われたからそう思うわけではないのだが。
ただ幼い者が死ぬ前に誰にも触れられずに亡くなるというのはどれほど寂しいことかと思うのだ。背中をさすることもあの女は許さなかった。それを思い出すと、わらわは心底怖い。あの女の心のうちには何があったのかを思うと。
というわけで、わらわは象が嫌いじゃ。象を見ると、勝姫を思い出し、あの女のことを思い出すからじゃ。
勝姫が亡くなったのは享保十五年の秋のことであったか。
それから変わりばえのせぬ年月が過ぎた。その間に一緒に働いておった女子は奉公を終え家に戻り嫁入りしたり、豊前守の若様のお手付きになったりと、身の上は変わっていく。相変わらずわらわは奥で奥方様や姫様方の着る物を縫い、後から入って来た者に縫物を教えて過ごしておった。新参の者達のほとんどはわらわのことを殿の弟の娘だとは知らなかったから、後でずいぶん驚かれたものだった。
そういえば、わらわの実の父だが、ほとんど会うことはなかった。わらわは奥で、父は同じ屋敷の中奥にある部屋で暮らしておったから、まったく接する機会というのがないのだ。父が、あるいはわらわが会いたいと思えば会えたのかもしれぬが、わらわも父も会いたいとは互いに思っていなかったのじゃ。ある意味、似た者親子かもしれぬ。
十八の年の冬であったか、御錠口の掛の者から父が危篤じゃと知らせがあった。突然の話であった。それまで父親が恋しいなどと思ったこともなかったが、殿様からお許しが出たゆえ父に対面するようにと言われ、奥から中奥の父の部屋に参った。
やはり身内ゆえ、最後くらいはという気持ちもあった。母の死んだことも覚えておらぬのだから、せめて父はと思ったのじゃ。
御錠口から初めて中奥に入ったが、あそこはまこと男しかおらぬのだ。そのうちの老いた男がわらわを父の部屋の前まで案内してくれた。
部屋に入った途端に、香の匂いが鼻をついた。
見れば床の上に顔に白い布を掛けた者が横たわっており、そのそばでは香が焚かれておった。
なんとまあ、父はすでに事切れておったのだ。それもその日の朝のことだと言う。
傍にいた男に顔を見るかと言われ、うなずいた。一度くらいは親の顔を見ておこうと思ったのだ。
痩せこけた顔であった。殿様の顔に似ておった。弟だから当たり前だが。
不思議なほどわらわの心は動かなかった。ただ、父は人ではなく物になったのだと思った。不思議なことに勝姫が死んだ時のことを思い出すほうがよほど、わらわの心は動くのだ。そもそも文のやりとりすらしておらぬような親子だからな。生きている時に一言でも話をしておれば違ったかもしれぬ。
すぐにまた顔に布が掛けられ、手を合わせて、父との対面は終わった。
奥に戻り、御年寄に報告した。御年寄はそうかと言っただけでな。普通なら父の喪に服せとでも言うのであろうが、奥方様から頼まれた繕い物を目の前に積まれたのには驚いた。
今思えば、あの時、わらわの縁組話がきていたのであろうな。実の父の喪中だから祝言ができぬということにならぬように、あれこれ殿様達は画策しておったのだろうよ。
とはいえ、さすがに奥の者達も鬼ではないから、父の葬儀の日だけは仕事はなかった。勝姫の時のあの奥女中が御年寄に掛け合ってくれたらしい。あの女子は鬼のようでもあるが、時には人に戻ることもあるらしい。だが、奥を出る時まで心を許すことはできなんだ。
葬儀の日、わらわは自分の部屋で経を上げると、横になった。昨夜遅くまで縫物をしておって眠かったのじゃ。その時だけは父に感謝した。父上のおかげで眠ることができると。
わらわが縁組を知ったのは年が明けてからじゃ。
0
お気に入りに追加
28
あなたにおすすめの小説
13歳女子は男友達のためヌードモデルになる
矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
真夏の温泉物語
矢木羽研
青春
山奥の温泉にのんびり浸かっていた俺の前に現れた謎の少女は何者……?ちょっとエッチ(R15)で切ない、真夏の白昼夢。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる