銀河の鬼皇帝は純愛を乙女に捧げる

三矢由巳

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第十章 動乱

10 桃と吹雪

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 男達は声も出さずリノの死骸を見つめていた。

「迷ってる奴はいねえよな」

 アルカンタル伯爵の低い声が周囲を圧していた。
 彼よりも少し年上に見える男が一歩前に進んだ。

「へい。俺たちはこの抗争に絶対勝ちやす。そうだな、おまえら」
「お、おう!」
「当たり前だ!」

 男達は口々に叫んだ。誰も倒れたリノに目を向けなかった。
 アマンダは動けなかった。何も言えなかった。曹長に手を引かれるようにアマンダはその場を去った。

「お食事持ってきます」

 アマンダを元の部屋に強引に入れて曹長は出て行った。

「銃声が聞こえたが何があった?」

 警護のイポリト・アドルノ少尉はアマンダとアルビナの顔色の悪さに気付いていた。
 
「伯爵がやらかした。皇帝杯予選の延期に動揺した若い手下を」
「殺したのか」

 その声にアルビナとイポリトは慌てて敬礼した。
 サカリアスはアマンダは見たのかと尋ねた。

「はい」

 厳ついサカリアスの顔に深い憂いが浮かんだことにアルビナは気付いた。

「すぐに食事をお持ちします。閣下もお召し上がりになりませんか」
「私が取りに行く」

 サカリアスは食堂へと足を進めた。自分の食事のためだけではないことは明らかだった。



 昨日初めて会ったアルカンタル伯爵はもじゃもじゃ頭の小男で、伯爵どころか大勢の子分を従えているようには見えなかった。
 だがやはりその筋の者だった。先ほどの姿があるからこそ子分たちは従っているのだ。飴と鞭を使い分け彼はのし上がったのだろう。
 そんな男が従うサカリアスにもアマンダの知らない一面があるのかもしれない。
 考えてみれば父もそうだ。福祉事務所の小役人が皇帝の愛人となり、その寵愛を失った後追放されて小さな飲食店の雇われ主人になった。父もまた様々な面を持っている。人は同じ顔だけを持っているわけではないのだ。いや、アマンダもそうだ。昨日の行いでそれを思い知らされたではないか。
 自分はアルカンタル伯爵についてあれこれ言える立場にないのだ。そう思った時、ドアを叩く音がした。クリエル曹長だろうと思い、ロックを解除した。

「え?」

 ドアを開けて入って来たのはサカリアスだった。彼の持つトレイの上の皿からは湯気が立っている。トマトの匂いがした。

「食べろ。食欲はなくても食べるのが仕事だ」
「ありがとうございます」

 サカリアスはテーブルの上にトレイを置いた。
 アマンダは椅子から立ち上がった。

「リップクリーム、ありがとうございます」

 サカリアスのすぐ目の前にアマンダがいた。

「この先宇宙に出ればもっと乾燥するはずだ」
「宇宙へ出るのですね」

 確かにこの極寒の地にいつまでもいられるものではない。アマンダにも理解できた。

「いいか?」
「はい。ずっと一緒です」

 リップクリームの香りがサカリアスの鼻孔をくすぐった。

「これは何の香りだろうか」
「桃です」
「桃……そうだな」

 たわわに実った宮殿の果樹園の桃を思い出した。そういえばこんな香りだった。瑞々しく甘い桃。多くのリップクリームから無造作に選んだがこれは当たりかもしれないとサカリアスは思った。

「あなたの時間を少し分けてくれ」

 サカリアスはアマンダを抱き寄せた。アマンダはサカリアスを見上げた。燃えるような色の長い髪、広い額、大きな二重瞼の目、筋の通った鼻梁、少し厚い唇。それが少しずつ近づいてきた。
 お休みのキスとは違う力強い口づけだった。唇をこじ開けて舌が入ってきた。目がくらみそうになるほどの刺激だった。その場にうずくまりたくなったが、力強い腕がアマンダの身体をしっかりと抱き止めた。その感触だけでも恥ずかしいのに、口の中で舌が自在に動いているのには驚いた。
 いつこんなことを練習したのだろうかと思いながらも舌が歯茎や頬の裏、舌に触れる感触が恐ろしく感じられた。これは単なる口づけではない。このままだと取返しのつかぬことになりそうな予感がした。
 舌が口から離れ唾液が口の端からこぼれた。見苦しいことになったと思った瞬間、それをサカリアスは舐めとった。予想外の行為だった。

「いけません!」

 やっとの思いで出た声だった。

「本当はアマンダのすべてが欲しい。今は口づけしかできないから唾液の一つも無駄にはできない」

 いつもより低い声が全身に響いた。
 
「すべて……」
「次は私の口の中に舌を入れてくれ」

 そんなこと無理だと思ったが、サカリアスはその無理なことをやったのだと思い、アマンダは頷いた。
 
「会議があるから」

 サカリアスはさっと身を離し部屋を出た。動揺の収まらないアマンダはソファに尻餅をつくように腰かけた。
 あんな口づけ、チャンドラーへの往復で覚えたのだろうか、それともアルカンタル伯爵が教えたのか。
 ゲバラ侯爵邸では口づけも男女交際もしたことがないと言っていたのに。一体、誰に教わったのだろうか。見知らぬ女性の存在を想像すると胸が苦しくなってきそうだった。
 あれこれ思いながら食べるトマトスープとパンは味がしなかった。
 食べ終わった後、さっきアルカンタル伯爵が子分を射殺したことを忘れていたことに気付いた。
 あの口づけはサカリアスなりの配慮だったのかもしれない。



 危なかった。桃の香りは危険だった。会議の場の管制室のドアを開けるまでサカリアスは口づけのことで頭がいっぱいだった。
 アルカンタル伯爵の発砲銃殺を目の当たりにしたアマンダの衝撃と緊張を少しでも和らげたいと思っての口づけのつもりだった。
 だが口づけをするうちにサカリアスの身体は危うい状態に変化しそうになった。今回はレストルームに逃げるわけにはいかなかった。時間がなかった。
 舞踏会で再会した時に不可思議な化粧をしていたアマンダはそれでも美しかった。彼女の中にある魅力をあの化粧が引き出していた。昨日のパイロットスーツ姿も魅力的だった。時間があったら何をしていたかわからない。
 そして今日の桃の香り。ありふれた香りなのかもしれないが、アマンダの唇は一層魅力的になった。もし会議の予定がなかったら何をしていたか想像するのも恐ろしかった。
 チャンドラーからの復路の艦内で読んだ恋愛指南本の通りの口づけをするので精一杯だった。あれでよかったのだろうか。恐らく未経験のアマンダには採点できないだろう。サカリアス自身にもわからないのだ。

「エスクデーロ元帥はどんな奴なんだ」

 会議室に入るなりアルカンタル伯爵の質問が飛びサカリアスは恋する男から軍人に戻った。

「慎重元帥というあだ名がある。何をするにも慎重だ。ここを攻めるにしても入念な準備をしてくるはずだ」
「では少し時間が稼げるな」
「いや、そうはいくまい」

 サカリアスはわざわざ母が慎重元帥を司令官に指名したのは理由があるはずだと考えている。

「時間があると思わせて急襲してもおかしくない」
「慎重なのに?」
「慎重と機敏は対義語ではない」
 
 さほど戦いの経験がないのに元帥になれたということは運の良さもさることながら、事務処理能力に長けているということだ。攻撃の時間は思っているよりも早いかもしれない。

「シャトルの燃料は?」
「充填完了しています。リーセロット号の貨物搬入も8割、燃料充填も完了してます」

 アルカンタル伯爵についてきた元軍人のアマド・ロデスが答えた。彼は基地の会計の不正を告発したために上司らの恨みをかい濡れ衣で軍を追われていた。故郷のチャンドラーでくすぶっていたところをアルカンタル伯爵に拾われている。貨物船だったリーセロット号の運用については彼の力に依るところが大きい。

「搬入を急がせろ。今夜にも出る」

 アルカンタル伯爵もそれには驚いた。

「まだ訓練もできちゃいないのに」
「この星に長くいると訓練の前に子分をなくすぞ」

 そう言ったのは今朝早く合流したマルコ・エールトマンスだった。

「そうだ。せっかく実戦仕様のBR-02型を手に入れたんだ。破壊されないうちに宇宙へ出ないとな」

 一緒に合流したエルンスト・タロウ・モモヤマ・ファン・ソーメレンは携帯端末で気象データをチェックしながら言う。

「まあ現役の軍人の言うことならそうなんだろうよ」

 アルカンタル伯爵はうなずいた。

「ここにいる者はすでに皆帝國の軍人ではない」

 エールトマンスは窓の外の白い景色を見つめた。
 ファン・ソーメレンは自分は元々軍人ではないのだがと思いながらエールトマンスの視線の先にある吹雪の滑走路のまばゆさに目を細めた。



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