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第九章 鬼起つ
27 少尉の決意
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雪の離宮は宮殿から北に2キロ離れた区域にある。周囲は鬱蒼とした森に囲まれており、道路から離宮の様子はまったく見えない。門や高い塀の周辺に兵士がいるのでここに重要な建物があるらしいとしか一般の市民は知らない。ここに皇配ラウル・エルナンドが起居していることを知るのは皇帝一家と政府高官、宮内省職員、警備隊隊員だけである。
雪の離宮の警備をしているのは陸軍近衛第一連隊の兵士たちである。兵士たちを統率するのは軍大学卒業のエリートである。軍大学を卒業した一年後、あるいは二年後の少尉が拝命するのが離宮の警備隊の副隊長である。それを一年ほど経験した後、地方の駐屯地に異動し経験を積み中央に帰って再び出世するというのがお決まりのコースだった。
フィデル・フェデリコ・フロレス少尉もまた離宮の第二警備隊副隊長として職務に精励していた。離宮の主がめったに表に出ぬ人物であるため、隊員たちの中には実在を疑う声もあった。そのせいか、隊員らの士気がいささか下がり気味であった。フィデルは23という若さで自分よりも年長の兵士の緩んだ規律を正す毎日を送っていた。
この日も職務中に喫煙し枯れ葉に吸い殻の火がつき危うく火事を起こしそうになった伍長の処分について隊長と意見の食い違いで言い争いとなった。事なかれ主義の隊長は始末書で済ませ、上には喫煙の報告だけすればいいと言った。だが、フィデルは貴人のおわす離宮の森が燃えたらどうするのか、上に火事が起きかけたことを報告ししかるべき処分をと反論した。
「貴官の言うことももっともなことだ。だが、ボーン伍長には家族がいる。ここで処分されて免職にでもなってみろ、一家そろって路頭に迷うことになる」
「家族がいようといまいと処分に関係はないはずです」
「貴官は正しい。だが、それだけでは世間を渡ることはできない。融通というものが必要だよ」
フィデルの父親ほどの年齢の隊長は長い軍隊生活の中で良くも悪くも処世術を身につけていた。軍大学卒業とはいえ才覚もなく強力な縁故もない彼はあと数年で退役になり年金生活に入る。だから離宮が火事になりそこねた程度のことで監督不行届で処罰されたくなかった。火事にならなかったのは伍長本人が消火に励んだためであるから不問にすべきと考えていた。
だがフィデルには納得いかなかった。離宮におわす方は皇配殿下である。万が一ということもある。それなのに責任者である隊長の言葉は保身のための言い訳ばかりである。とても国を守るべき軍人の言葉とは思えない。
はらわたが煮えくり返るような怒りを感じるフィデルに隊長はさらに続けた。
「フロレス少尉、今回の件は副隊長の貴官にも責任がないとは言えない。若い貴官の今後にも差し支える。何より火は伍長がちゃんと消している。消えた火をまた燃やすような真似をする必要はない」
結局、フィデルが折れるしかなかった。自分の経歴に傷がつくかもしれないと言われたからではない。軍隊では上の命令に従うのが絶対だった。フィデルもまた隊長に従うしかなかった。
鬱々とした気分で官舎に戻ると母から手紙が届いていた。また生活費の催促だろうかと恐る恐る封を切るとやはりそうだった。毎月給与からいくばくか送金しているのだが足りないらしい。
二年前に公務員だった父が職場で急な心臓の病で亡くなり労災の手当金や保険金があったのに、母は使い果たしていた。母自身も図書館で非常勤で働いていて食べるには困らない収入があるはずなのに。
いい加減にして欲しかった。封筒を机の上に置きため息をついた。
こんな母親がいては結婚など無理だ。すでに大学の同期生は半分近くが婚約、結婚している。軍人、特に宇宙軍以外は命の危険が宇宙軍に比べて少ないので安定した職場と考えられ結婚が早い。結婚しているほうが出世が早いという話も聞くし、実際そうだった。
母の実家は騎士の家柄だった。裕福ではないが、初代皇帝から仕えてきたという誇りある家系だった。その上、母の従妹は財務大臣エドムンド・アキレス・マドリガル男爵の夫人だった。そんな生まれの母は職場の図書館で知り合った真面目だけが取り柄の公務員フロレスと結婚した。夫と自分の給与の範囲で質素な生活を続け一人息子は軍大学に入った。
だが、父が死んでしばらくしてから、まるでタガが外れたように母の生活は変わった。帰省する度に母の着る服の色は鮮やかになっていった。恋人でもできたのかと思ったがそうではなかった。もう男に縛られるのは御免だと言って、以前から好きだったという男性歌手を追いかけ始めた。ファンクラブに入りコンサートに行くのは勿論、グッズを買い込んだ。
母が人生を謳歌するのは別に構わない。父が死んでいつまでもくよくよしているよりはましだった。だが、常軌を逸していた。どうやら財務大臣夫人の従姉だと知ったファンクラブの仲間に誘われてコンサートを見るついでに旅行したり高級レストランで食事をしたりしているようだった。従妹が財務大臣夫人だからといって裕福なわけもないのに。母は生まれて初めて取り巻きにチヤホヤされる喜びを知ったのか、父の保険金がなくなってもそんな生活をやめなかった。
いい加減にしてくれとフィデルが言ってもきかなかった。それどころか、従妹の息子の結婚式の招待状が来たから出席すると返信しておいたと言うではないか。
母の従妹の息子、すなわち財務大臣の子息コンラドとは子どもの頃に一度しか会ったことがない。母方の曾祖母の葬式の時だった。非の打ちどころのない年上の少年は初めて会うフィデルに穏やかに接してくれた。そんな彼から招待されたのなら出席してもいいかと思っていた。結婚相手の名を見るまでは。
テクラ・コルティナ。
忘れられない名まえだった。貴族女学校高等科の生徒の彼女と知り合ったのは母の実家に行った時だった。母方の祖父の誕生パーティに両親と来ていたのだ。意気投合して幾度か休日にテーマパークに行ったり、ドライブをしたりした。高等科の生徒で祖父と親しい一家の娘ということで一線を越えることはできなかった。一度だけドライブに行った海岸でいい雰囲気になりキスをしようとしたが、彼女は驚いて拒んだ。
今思えば無理もなかった。彼女は処女だったのだ。
だが、フィデルは愚かだった。嫌われていると思い連絡できなくなった。そんな時に現れたのがアルマだった。アルマは高等科の生徒にしては大胆だった。伯爵令嬢であり、容姿に自信を持っていたからだろう。二度目のデートでキスから一気に身体の関係になった。が、処女ではないアルマと寝て彼は気付いた。テクラこそかけがえのない女性だったのだと。結局アルマとは別れた。首都を離れる長期の訓練が続き連絡ができなくなり彼女のほうが別の男に走ったのだ。
それでよかったのだとフィデルは思った。テクラの貞操を汚さずに済んだのだから。尻の軽い女とも別れられたのだから。
そのテクラがコンラドと結婚する。コンラドは有名な銀行で働いている。テクラにはお似合いだろう。そうは思ったものの、心の片隅では惜しいことをしたと思う。
招待状に返事をした母は言った。
『きっとお相手のお嬢さんのお友達も招待されてるはずよ。貴族女学校の出身だそうだから。あなたもさっさとお相手をそこで見つけなさい』
アルマのことを思い出した。彼女も招かれているのだろうか。だが、たとえ彼女が招かれていたとしても今度は彼女を選んだりしない。彼女は自分の過ちの象徴でしかなかった。彼女を抱いたりしなければテクラと結ばれていたのは自分かもしれないのだ。
地球のはるか昔の映画に他の男の花嫁になった恋人を式場で奪うものがあった。あんなことはありえないのはわかっていた。テクラにとってフィデルは裏切り者なのだ。結婚式に顔を出すなどおこがましかった。それなのにまだ未練があるとは女々しいにもほどがある。
母が出席の返事をしてしまった上に挙式の日は非番だった。巡り合わせの悪さにフィデルはうんざりしてきた。やはり出席は取り消そうか。まだ間に合うのではないか。
そうは思ったものの、母の言葉も一理あった。貴族女学校の卒業生なら確実に名家もしくは富豪の令嬢である。名家ならその縁を、富豪なら金の力を使えば軍の中で出世ができる。浪費家の母の従妹が大臣というだけのフィデルにとってそれはまさしく夢だった。このままでは隊長のように事なかれを良しとして終わってしまう。
無論、すでに嫁ぎ先の決まった令嬢も多かろう。だが、相手を探すために来る令嬢もいるはずである。そういう女性なら……。
軍での出世に結婚は必須だ。あのだらしないボーン伍長でさえ妻子がいるからと隊長に庇われるのだ。それを思えばやはり結婚式に行くべきかもしれなかった。
翌日警備隊の詰め所に出勤すると珍しく隊長が早く来ていた。
「今日は来客があるそうだから、建物を中心に警備する」
めったに人の来ない雪の離宮は周辺の森をいつも重点的に警備する。建物を中心にというのは珍しかった。フィデルも二つ年上のシャウデン曹長と本館の玄関前に立哨することになった。
「貴官らは若く見栄えもいいからな」
近衛隊隊員自体体格や容姿で選ばれていると言われているから目立つ離宮の玄関に若いフィデルとシャウデン曹長が立つのは不思議ではない。
午前9時を過ぎた頃、車の音が聞こえた。玄関の車寄せ前に直立不動で視線を音のする方向に向けた。貴人の乗る高級車ではなく街中でよく見かける大衆車だった。
車は木立の間の道を抜け車寄せに近づいた。扉を開けて離宮の管理を務める60がらみの家令が現れた。家令は武芸の達人でなければ務まらないと言われている。フィデルは幾度か打ち合わせで話したことはあるが、達人の片鱗はうかがえなかった。
車が玄関前で停まると後部座席から男性が降りた。30にはなっていないが、フィデルよりは年上のように感じられた。サングラスをしているのは貴人と面会するには不敬だと思ったが、家令はとがめず男を中に招き入れた。もしかすると盲人かもしれない。障がい者と貴人の面会は珍しくない。寄付の御礼言上だろうとフィデルは思った。
車は裏手の駐車場に向かい玄関前はフィデルと若い隊員だけになった。
「本当にここ、人がいたんですね」
「シャウデン曹長、私語は慎め」
「はい」
どこか不服そうだったが、警備に私語は禁物だった。フィデルより三か月前にここに赴任した曹長は高等学校卒業後陸軍に入隊していた。この若さで曹長に昇進し近衛隊に入隊するというのは優秀なのかもしれない。だが、今はフィデルが上官である。
一時間足らず後に車が玄関前に停まり家令に見送られ男が出て来た。男はちらっとフィデルを見た。フィデルは直立不動でその視線を受け止めた。男は盲人ではないらしい。フィデルの存在を認識した上での視線だった。
男は来た時と同じように後部座席に乗り込んだ。車が木立の向こうに消えた後、何故かフィデルはほっとしていた。男の視線のもたらした緊張感が緩んだせいなのか。視線一つで人を緊張させることができる男は只者とは思われなかった。
立哨は午後1時で終わり、フィデルはシャウデン曹長と詰め所に戻った。隊長は二人の姿を見ると「ご苦労さん、わかってると思うが職務で知り得たことは厳重に秘すように」と言った。
あの男は重要人物らしい。皇配殿下と面会できること自体普通ではない。その上視線が緊張感をもたらすとは。
フィデルは軍人として様々な武術の訓練を受け、在学中から大学や軍対抗の武術大会に出場し優勝こそしていないが入賞したことは幾度もある。特に得意なものはないが、苦手なものもない。そんな彼を緊張させた男はもしかしたら軍人かもしれない。
シャウデン曹長も同じことを考えていたようだった。
「あの人、軍人じゃないですかね」
賄いの昼食を食べながら目の前でぽつりと言った。
「隊長の言葉忘れたのか」
その一言で曹長は口をつぐんだ。
フィデルが食事を終えた時だった。曹長がにこやかな顔で言葉の爆弾を投げた。
「忘れるところでした。少尉、自分は来週から産休になりますのでよろしくお願いします。隊長には届を出してたんですが、少尉にはまだ話してなかったですよね」
「産休……そうか、おめでとう」
「ありがとうございます」
フィデルは衝撃に耐え平静を装って食器を窓口に運んだ。
結婚しているとは聞いていたがもう子どもが生まれるのか。自分と二つしか違わないのに。階級も下なのに。軍大学も出ていないのに。勤務中に私語をするのに。
やはりコンラドとテクラの結婚式には行かねばなるまい。少しでもよい条件の女性を見つけて結婚までなんとか持ち込まなければ。
雪の離宮の警備をしているのは陸軍近衛第一連隊の兵士たちである。兵士たちを統率するのは軍大学卒業のエリートである。軍大学を卒業した一年後、あるいは二年後の少尉が拝命するのが離宮の警備隊の副隊長である。それを一年ほど経験した後、地方の駐屯地に異動し経験を積み中央に帰って再び出世するというのがお決まりのコースだった。
フィデル・フェデリコ・フロレス少尉もまた離宮の第二警備隊副隊長として職務に精励していた。離宮の主がめったに表に出ぬ人物であるため、隊員たちの中には実在を疑う声もあった。そのせいか、隊員らの士気がいささか下がり気味であった。フィデルは23という若さで自分よりも年長の兵士の緩んだ規律を正す毎日を送っていた。
この日も職務中に喫煙し枯れ葉に吸い殻の火がつき危うく火事を起こしそうになった伍長の処分について隊長と意見の食い違いで言い争いとなった。事なかれ主義の隊長は始末書で済ませ、上には喫煙の報告だけすればいいと言った。だが、フィデルは貴人のおわす離宮の森が燃えたらどうするのか、上に火事が起きかけたことを報告ししかるべき処分をと反論した。
「貴官の言うことももっともなことだ。だが、ボーン伍長には家族がいる。ここで処分されて免職にでもなってみろ、一家そろって路頭に迷うことになる」
「家族がいようといまいと処分に関係はないはずです」
「貴官は正しい。だが、それだけでは世間を渡ることはできない。融通というものが必要だよ」
フィデルの父親ほどの年齢の隊長は長い軍隊生活の中で良くも悪くも処世術を身につけていた。軍大学卒業とはいえ才覚もなく強力な縁故もない彼はあと数年で退役になり年金生活に入る。だから離宮が火事になりそこねた程度のことで監督不行届で処罰されたくなかった。火事にならなかったのは伍長本人が消火に励んだためであるから不問にすべきと考えていた。
だがフィデルには納得いかなかった。離宮におわす方は皇配殿下である。万が一ということもある。それなのに責任者である隊長の言葉は保身のための言い訳ばかりである。とても国を守るべき軍人の言葉とは思えない。
はらわたが煮えくり返るような怒りを感じるフィデルに隊長はさらに続けた。
「フロレス少尉、今回の件は副隊長の貴官にも責任がないとは言えない。若い貴官の今後にも差し支える。何より火は伍長がちゃんと消している。消えた火をまた燃やすような真似をする必要はない」
結局、フィデルが折れるしかなかった。自分の経歴に傷がつくかもしれないと言われたからではない。軍隊では上の命令に従うのが絶対だった。フィデルもまた隊長に従うしかなかった。
鬱々とした気分で官舎に戻ると母から手紙が届いていた。また生活費の催促だろうかと恐る恐る封を切るとやはりそうだった。毎月給与からいくばくか送金しているのだが足りないらしい。
二年前に公務員だった父が職場で急な心臓の病で亡くなり労災の手当金や保険金があったのに、母は使い果たしていた。母自身も図書館で非常勤で働いていて食べるには困らない収入があるはずなのに。
いい加減にして欲しかった。封筒を机の上に置きため息をついた。
こんな母親がいては結婚など無理だ。すでに大学の同期生は半分近くが婚約、結婚している。軍人、特に宇宙軍以外は命の危険が宇宙軍に比べて少ないので安定した職場と考えられ結婚が早い。結婚しているほうが出世が早いという話も聞くし、実際そうだった。
母の実家は騎士の家柄だった。裕福ではないが、初代皇帝から仕えてきたという誇りある家系だった。その上、母の従妹は財務大臣エドムンド・アキレス・マドリガル男爵の夫人だった。そんな生まれの母は職場の図書館で知り合った真面目だけが取り柄の公務員フロレスと結婚した。夫と自分の給与の範囲で質素な生活を続け一人息子は軍大学に入った。
だが、父が死んでしばらくしてから、まるでタガが外れたように母の生活は変わった。帰省する度に母の着る服の色は鮮やかになっていった。恋人でもできたのかと思ったがそうではなかった。もう男に縛られるのは御免だと言って、以前から好きだったという男性歌手を追いかけ始めた。ファンクラブに入りコンサートに行くのは勿論、グッズを買い込んだ。
母が人生を謳歌するのは別に構わない。父が死んでいつまでもくよくよしているよりはましだった。だが、常軌を逸していた。どうやら財務大臣夫人の従姉だと知ったファンクラブの仲間に誘われてコンサートを見るついでに旅行したり高級レストランで食事をしたりしているようだった。従妹が財務大臣夫人だからといって裕福なわけもないのに。母は生まれて初めて取り巻きにチヤホヤされる喜びを知ったのか、父の保険金がなくなってもそんな生活をやめなかった。
いい加減にしてくれとフィデルが言ってもきかなかった。それどころか、従妹の息子の結婚式の招待状が来たから出席すると返信しておいたと言うではないか。
母の従妹の息子、すなわち財務大臣の子息コンラドとは子どもの頃に一度しか会ったことがない。母方の曾祖母の葬式の時だった。非の打ちどころのない年上の少年は初めて会うフィデルに穏やかに接してくれた。そんな彼から招待されたのなら出席してもいいかと思っていた。結婚相手の名を見るまでは。
テクラ・コルティナ。
忘れられない名まえだった。貴族女学校高等科の生徒の彼女と知り合ったのは母の実家に行った時だった。母方の祖父の誕生パーティに両親と来ていたのだ。意気投合して幾度か休日にテーマパークに行ったり、ドライブをしたりした。高等科の生徒で祖父と親しい一家の娘ということで一線を越えることはできなかった。一度だけドライブに行った海岸でいい雰囲気になりキスをしようとしたが、彼女は驚いて拒んだ。
今思えば無理もなかった。彼女は処女だったのだ。
だが、フィデルは愚かだった。嫌われていると思い連絡できなくなった。そんな時に現れたのがアルマだった。アルマは高等科の生徒にしては大胆だった。伯爵令嬢であり、容姿に自信を持っていたからだろう。二度目のデートでキスから一気に身体の関係になった。が、処女ではないアルマと寝て彼は気付いた。テクラこそかけがえのない女性だったのだと。結局アルマとは別れた。首都を離れる長期の訓練が続き連絡ができなくなり彼女のほうが別の男に走ったのだ。
それでよかったのだとフィデルは思った。テクラの貞操を汚さずに済んだのだから。尻の軽い女とも別れられたのだから。
そのテクラがコンラドと結婚する。コンラドは有名な銀行で働いている。テクラにはお似合いだろう。そうは思ったものの、心の片隅では惜しいことをしたと思う。
招待状に返事をした母は言った。
『きっとお相手のお嬢さんのお友達も招待されてるはずよ。貴族女学校の出身だそうだから。あなたもさっさとお相手をそこで見つけなさい』
アルマのことを思い出した。彼女も招かれているのだろうか。だが、たとえ彼女が招かれていたとしても今度は彼女を選んだりしない。彼女は自分の過ちの象徴でしかなかった。彼女を抱いたりしなければテクラと結ばれていたのは自分かもしれないのだ。
地球のはるか昔の映画に他の男の花嫁になった恋人を式場で奪うものがあった。あんなことはありえないのはわかっていた。テクラにとってフィデルは裏切り者なのだ。結婚式に顔を出すなどおこがましかった。それなのにまだ未練があるとは女々しいにもほどがある。
母が出席の返事をしてしまった上に挙式の日は非番だった。巡り合わせの悪さにフィデルはうんざりしてきた。やはり出席は取り消そうか。まだ間に合うのではないか。
そうは思ったものの、母の言葉も一理あった。貴族女学校の卒業生なら確実に名家もしくは富豪の令嬢である。名家ならその縁を、富豪なら金の力を使えば軍の中で出世ができる。浪費家の母の従妹が大臣というだけのフィデルにとってそれはまさしく夢だった。このままでは隊長のように事なかれを良しとして終わってしまう。
無論、すでに嫁ぎ先の決まった令嬢も多かろう。だが、相手を探すために来る令嬢もいるはずである。そういう女性なら……。
軍での出世に結婚は必須だ。あのだらしないボーン伍長でさえ妻子がいるからと隊長に庇われるのだ。それを思えばやはり結婚式に行くべきかもしれなかった。
翌日警備隊の詰め所に出勤すると珍しく隊長が早く来ていた。
「今日は来客があるそうだから、建物を中心に警備する」
めったに人の来ない雪の離宮は周辺の森をいつも重点的に警備する。建物を中心にというのは珍しかった。フィデルも二つ年上のシャウデン曹長と本館の玄関前に立哨することになった。
「貴官らは若く見栄えもいいからな」
近衛隊隊員自体体格や容姿で選ばれていると言われているから目立つ離宮の玄関に若いフィデルとシャウデン曹長が立つのは不思議ではない。
午前9時を過ぎた頃、車の音が聞こえた。玄関の車寄せ前に直立不動で視線を音のする方向に向けた。貴人の乗る高級車ではなく街中でよく見かける大衆車だった。
車は木立の間の道を抜け車寄せに近づいた。扉を開けて離宮の管理を務める60がらみの家令が現れた。家令は武芸の達人でなければ務まらないと言われている。フィデルは幾度か打ち合わせで話したことはあるが、達人の片鱗はうかがえなかった。
車が玄関前で停まると後部座席から男性が降りた。30にはなっていないが、フィデルよりは年上のように感じられた。サングラスをしているのは貴人と面会するには不敬だと思ったが、家令はとがめず男を中に招き入れた。もしかすると盲人かもしれない。障がい者と貴人の面会は珍しくない。寄付の御礼言上だろうとフィデルは思った。
車は裏手の駐車場に向かい玄関前はフィデルと若い隊員だけになった。
「本当にここ、人がいたんですね」
「シャウデン曹長、私語は慎め」
「はい」
どこか不服そうだったが、警備に私語は禁物だった。フィデルより三か月前にここに赴任した曹長は高等学校卒業後陸軍に入隊していた。この若さで曹長に昇進し近衛隊に入隊するというのは優秀なのかもしれない。だが、今はフィデルが上官である。
一時間足らず後に車が玄関前に停まり家令に見送られ男が出て来た。男はちらっとフィデルを見た。フィデルは直立不動でその視線を受け止めた。男は盲人ではないらしい。フィデルの存在を認識した上での視線だった。
男は来た時と同じように後部座席に乗り込んだ。車が木立の向こうに消えた後、何故かフィデルはほっとしていた。男の視線のもたらした緊張感が緩んだせいなのか。視線一つで人を緊張させることができる男は只者とは思われなかった。
立哨は午後1時で終わり、フィデルはシャウデン曹長と詰め所に戻った。隊長は二人の姿を見ると「ご苦労さん、わかってると思うが職務で知り得たことは厳重に秘すように」と言った。
あの男は重要人物らしい。皇配殿下と面会できること自体普通ではない。その上視線が緊張感をもたらすとは。
フィデルは軍人として様々な武術の訓練を受け、在学中から大学や軍対抗の武術大会に出場し優勝こそしていないが入賞したことは幾度もある。特に得意なものはないが、苦手なものもない。そんな彼を緊張させた男はもしかしたら軍人かもしれない。
シャウデン曹長も同じことを考えていたようだった。
「あの人、軍人じゃないですかね」
賄いの昼食を食べながら目の前でぽつりと言った。
「隊長の言葉忘れたのか」
その一言で曹長は口をつぐんだ。
フィデルが食事を終えた時だった。曹長がにこやかな顔で言葉の爆弾を投げた。
「忘れるところでした。少尉、自分は来週から産休になりますのでよろしくお願いします。隊長には届を出してたんですが、少尉にはまだ話してなかったですよね」
「産休……そうか、おめでとう」
「ありがとうございます」
フィデルは衝撃に耐え平静を装って食器を窓口に運んだ。
結婚しているとは聞いていたがもう子どもが生まれるのか。自分と二つしか違わないのに。階級も下なのに。軍大学も出ていないのに。勤務中に私語をするのに。
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