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第九章 鬼起つ
25 おまえを皇帝にする
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現場は廃墟の中では辛うじていくつか建物が残っている区画だった。ホテルは五階建ての四角い形で元は雑居ビルだったと思われた。
幸いにして銃撃戦は始まっていなかった。始めようにも警官の数が少ない。何より狙撃部隊が来ていなかった。
すでに周囲は大勢の人々に取り囲まれ、警官が数人でなんとか人々を止めている状況だった。アルカンタルの若い衆たちは何をすべきか心得ていた。
「みんな、十歩下がれ! 流れ弾が飛ぶぞ!」
ひときわ声の大きい男が言うと、人々は後退した。若い衆はその前に立ち、少しでも前に出ようとする記者がいると死ぬぞ、下がれと押しとどめた。
降車したアルカンタルはサカリアスとともに人の波を抜け最前列に出た。記者はいち早く気付き写真を撮った。警官もサカリアスに気付いた。
「で、殿下? ですか?」
「そうだ。今、どういう状況か、簡潔に説明してくれ」
警官は頭に血が上りそうになるのを必死でこらえた。
「黒熊一家ナンバー2のパンチョ・ボノが捜索の手を逃れ、このホテルに逃げ込みました。今、二階の客室にいた娼婦を一人人質にして立てこもっています。あの客室です」
警官たちの視線の先にはカーテンが閉じられた窓があった。
「あれか。部屋の窓はあれだけか」
「はい。入り口はドアが一つです」
「パンチョ・ボノの要求は何だ?」
「逃走用の車を用意しろと。そうすれば女は助けると言ってます」
今時、車を用意しろとは。空から追跡されれば逃げるのは不可能だろうに。パンチョは頭が悪いらしいとサカリアスは判断した。
「要求はどうやって伝えたんだ?」
「立てこもる前にもう一人の娼婦に伝えそれでわかりました」
「あたしだよ」
人混みの中から濃い化粧の少女が飛び出して来た。
「おまえは……」
サカリアスに声を掛けた少女だった。
「アマンダを助けてくれるんだね、赤い髪のおじさん」
自分を公爵とも皇子とも知らない少女は追悼式を見る暇もなかったのかもしれない。
「アマンダ……」
奇しくも人質の少女の名はアマンダだった。
「ああ、助ける、助けるとも」
イグナシオは肩をすくめ、携帯端末で基地に出発が少し遅れると連絡を入れた。サカリアスがアマンダという名の少女を見捨てるはずがなかった。
「アマンダの背丈は?」
「あたしより頭一つ大きい。今日は緑色のワンピースを着てる」
本物のアマンダより少し背が低いようだった。
「あの部屋の下は厨房だ」
アルカンタルはホテルの構造を知っているらしかった。
「火事でも起こせば燻し出せる」
「店主が困るだろう」
「煙だけを出せばいいんだ」
そう言うとアルカンタルは手下の中でも小柄な男を二人呼び耳打ちした。
「殿下、おまわりに手出ししないように命令してくれるか」
「わかった」
この町の事をよく知るアルカンタルのことである。信頼してもいいはずである。
サカリアスは警官らに言った。
「手出ししてはならぬ。人質を決して殺してはならぬ」
こんなことを皇子に言われたら誰も否とは言えない。皆弥次馬たちの整理に専念した。
小柄な男二人は走ってホテルの一階のドアを堂々と開けて入って行った。
数分後、一階の窓が開き、白い煙が立ち上った。
「火事だ!」
叫んだのはアルカンタルの手下たちである。大きな声に、二階の窓が開いた。人質と思しき少女が顔を覗かせた。
「アマンダ、火事だよ」
濃い化粧の少女が窓に向かって叫んだ。人質の少女はすぐに顔を引っ込めた。次に出て来たのは中年の禿げ頭の男だった。
「消せ! 俺を殺す気か!」
サカリアスは顔をしかめた。煙とは違う妙なにおいがしてきた。
「くせえぞ! 何が燃えてるんだ!」
誰かが叫んだ。アルカンタルがニヤリと笑った。
窓から顔を出している禿げ男も悪臭に耐えきれぬという顔だった。
「さっさと消せ!」
野次馬達もあまりの臭いに後ずさった。中には走って遠ざかる者もいた。
「クサヤとニシンの塩漬けの発酵缶の威力だ!」
アルカンタルは両腕を腰に当てて笑った。サカリアスは思い出した。そうだ。これは……。
あれは冬のことだった。幼年学校入学の前の年だったか、あるいは年明け後か。とにかく寒い日だった。
母が珍しく公務が早く終わったということでサカリアスら子ども達を呼んで食事をすることになった。
すでに働いている長兄アレホはやや遅れて食堂に入って来た。ブルーノとカミロは大学生だった。ドロテオとエロイは貴族学校の高等科、フラビオとガスパルは中等科だった。
久しぶりの兄弟そろった食事はなごやかに進んだ。少なくともあれが出るまでは。
「今日のメインの料理は献上品ゆえ、心して食べよ」
母の言葉に続いて女官長が説明を始めた。
「本日、日本のハチジョウ島出身者の会から皇帝陛下に特産のクサヤが献上されました」
女官長は出身者の会が何十年もの苦労を経て故郷の特産品の味を再現したことを語った。こういうことはこれまでも幾度もあったので、サカリアスはいつものことだと思っていた。イスパニヤのイベリコ豚や日本のスシ、ワガシ等、珍しいもの、美味いものが食べられた。今回もそういうものだろうと思っていた。
女官たちがワゴンを押して来た。フラビオの表情が少し変わった。アレホが咳払いをした。
サカリアスはいつもと兄たちが違うことに気付いた。なんだかおかしいと思ったが口に出さなかった。
銀色のクロッシュに覆われたメイン料理が銘々の前に運ばれた。給仕の女官たちが一斉にクロッシュを外した。
「うわっ!」
叫んだのはドロテオだった。
「陛下、これは食べられるのですか」
尋ねたのはブルーノだった。
「食べられるから献上したのだ。毒見もしておる」
母は毅然としていた。
「そうですよね。きっとワインになら合いますよね」
カミロはそう言って白ワインを飲んだ後、ナイフでカットしたクサヤをフォークで口に入れた。が、顔色が変わった。
「んんん、ワインでは合わないような」
母は女官長に耳打ちした。すぐに酒が運ばれてきた。
「これは一緒に献上されたショウチュウという酒だ。カミロ、そなたの年ならよかろう。飲んでみよ」
給仕の女官は湯をグラスに注いだ後、ショウチュウを入れ、年嵩の三人の兄たちの前に置いた。
最初にショウチュウを口にしたカミロはすぐにクサヤを口に入れた。
「これはいける」
アレホとブルーノが続いた。だが、二人はカミロほどの反応は見せなかった。その顔を見たサカリアスは気が進まなかった。
「故郷を懐かしみ、懸命に再現した味ゆえ、心して食べるのだ」
母はそう言ってショウチュウを自分も口にしながらクサヤを食べた。
サカリアスは思った。母上は恐らく美味しいとは思っていないだろう。それでも帝國の臣民の思いを汲んで味わっているのだ。それこそ、皇族のあるべき姿に違いない。臣民の支え亡くして皇族は生きていけないのだから。
サカリアスは思い切ってナイフで大きめに切って口に入れた。
味は悪くなかった。いや、それどころか好みだった。ただしパンには合わない。
「コメの飯はあるか」
サカリアスよりも先にフラビオが給仕の女官に命じた。女官はかしこまりましたと下がった。
「コメなら合うかもな」
ドロテオが言うとエロイもガスパルも賛同した。
結局、母と成人した兄はショウチュウ、それ以外はコメの飯とともにクサヤを食すこととなった。子どもらの様子を見る母の表情は満ち足りているように見えた。そんな食事の光景を見た記憶はそれ以来ない。
クサヤはともかくニシンの塩漬けの発酵缶というのは初めて聞いた。
「ニシンの塩漬けを発酵させた缶詰があるのか」
「あります」
答えたのはイグナシオだった。地球の北欧に伝わる保存食で軍隊でも食されていたという。
「ただし開缶する際は、屋外でという決まりになっていたとか」
「そうだ。そいつを開けさせたのさ。一階でクサヤを焼かせて、二階の天井で缶詰を開けて天井板を外して部屋の中に投げ込んだのさ」
アルカンタルはそう言って二階を見上げた。
「黒熊の頭はクサヤだのニシンの缶詰だのが好きで取り寄せさせてたんだ。一家の事務所に置いてたら子分が間違って開けるからと食堂の冷蔵庫で預かってもらってた。ここは自家発電装置が無事だったからな」
サカリアスは顔をしかめた。いくら地球の伝統食とはいえ、黒熊一家の頭の好みはどうなっているのか。しかもそれをアルカンタルが知っているとは。そういえば黒熊一家の不審な動きも彼は把握していた。
「何故、そんなことを知ってる?」
「そういう話はいろんな筋から伝わってくるのさ」
その時だった。二階の窓から禿げ頭のパンチョ・ボノが身を乗り出した。
「助けてくれ!」
黒熊一家の名が泣くぞとサカリアスは内心思う。
「飛び降りろ!」
アルカンタルの若い衆たちがいつの間に用意したのかマットレスを道路に敷いていた。
パンチョ・ボノは何の躊躇もなく飛び降りた。そういう思い切りのいいところは、ならず者の一味らしい。すぐに警官らが身柄を確保した。
その後を追うようにアマンダが飛び降りた。火事ではないのだから飛び降りなくともよいのだが、少女はまだ何も知らなかった。
サカリアスは臭いを忘れ駆け寄った。
「大丈夫か」
尻餅をついた緑色のワンピースの少女をマットレスから抱き上げた。
その瞬間、記者たちはいっせいにサカリアスと少女にカメラを向けた。
「持ってるな」
アルカンタルは呟いた。すぐにこの写真は通信社に送られ帝國中に広まるだろう。公爵閣下の人助けとして。恐らくサカリアスは計算などしていない。無心の行いだろう。人々が彼にどのようなイメージを持つかということなど考えてもいないだろう。だが、恐らくサカリアスが胸に秘めていると思われる野望の助けとなるだろう。
「決めた!」
アルカンタルは車の前で待つイグナシオに囁いた。
「おまえさんの御主人を皇帝にしてやるよ」
イグナシオは冷淡さを装った。
「何の話ですか」
「しらばっくれなくていいさ。俺も宇宙へ出る。アルカンタル伯爵領とかいうのを見たいからな」
そこへサカリアスが走って来た。記者たちを振り切ってきたのか汗をかいていた。
「基地へ行きましょう」
イグナシオはそう言って後部のドアを開けた。サカリアスが乗ると、アルカンタルも乗った。
車が走り出すとサカリアスは言った。
「最高の義手を作るように技師に言っておく」
「ありがとうよ」
「礼には及ばない。命を助けてもらったのだから。こちらこそ感謝する」
「おまえを皇帝にする」
唐突な言葉にサカリアスはしばし沈黙した。
アルカンタルは続けた。
「おまえさんは少しばかりお人よしだからな。見てて危なっかしいのさ。運転手の兄さんだけじゃ人手が足りないだろ」
「まあ、人手が多いに越したことはないですからね」
イグナシオの声が聞こえた。
「そうだな」
サカリアスのその一言で、親分が伯爵となる未来が決まった。
幸いにして銃撃戦は始まっていなかった。始めようにも警官の数が少ない。何より狙撃部隊が来ていなかった。
すでに周囲は大勢の人々に取り囲まれ、警官が数人でなんとか人々を止めている状況だった。アルカンタルの若い衆たちは何をすべきか心得ていた。
「みんな、十歩下がれ! 流れ弾が飛ぶぞ!」
ひときわ声の大きい男が言うと、人々は後退した。若い衆はその前に立ち、少しでも前に出ようとする記者がいると死ぬぞ、下がれと押しとどめた。
降車したアルカンタルはサカリアスとともに人の波を抜け最前列に出た。記者はいち早く気付き写真を撮った。警官もサカリアスに気付いた。
「で、殿下? ですか?」
「そうだ。今、どういう状況か、簡潔に説明してくれ」
警官は頭に血が上りそうになるのを必死でこらえた。
「黒熊一家ナンバー2のパンチョ・ボノが捜索の手を逃れ、このホテルに逃げ込みました。今、二階の客室にいた娼婦を一人人質にして立てこもっています。あの客室です」
警官たちの視線の先にはカーテンが閉じられた窓があった。
「あれか。部屋の窓はあれだけか」
「はい。入り口はドアが一つです」
「パンチョ・ボノの要求は何だ?」
「逃走用の車を用意しろと。そうすれば女は助けると言ってます」
今時、車を用意しろとは。空から追跡されれば逃げるのは不可能だろうに。パンチョは頭が悪いらしいとサカリアスは判断した。
「要求はどうやって伝えたんだ?」
「立てこもる前にもう一人の娼婦に伝えそれでわかりました」
「あたしだよ」
人混みの中から濃い化粧の少女が飛び出して来た。
「おまえは……」
サカリアスに声を掛けた少女だった。
「アマンダを助けてくれるんだね、赤い髪のおじさん」
自分を公爵とも皇子とも知らない少女は追悼式を見る暇もなかったのかもしれない。
「アマンダ……」
奇しくも人質の少女の名はアマンダだった。
「ああ、助ける、助けるとも」
イグナシオは肩をすくめ、携帯端末で基地に出発が少し遅れると連絡を入れた。サカリアスがアマンダという名の少女を見捨てるはずがなかった。
「アマンダの背丈は?」
「あたしより頭一つ大きい。今日は緑色のワンピースを着てる」
本物のアマンダより少し背が低いようだった。
「あの部屋の下は厨房だ」
アルカンタルはホテルの構造を知っているらしかった。
「火事でも起こせば燻し出せる」
「店主が困るだろう」
「煙だけを出せばいいんだ」
そう言うとアルカンタルは手下の中でも小柄な男を二人呼び耳打ちした。
「殿下、おまわりに手出ししないように命令してくれるか」
「わかった」
この町の事をよく知るアルカンタルのことである。信頼してもいいはずである。
サカリアスは警官らに言った。
「手出ししてはならぬ。人質を決して殺してはならぬ」
こんなことを皇子に言われたら誰も否とは言えない。皆弥次馬たちの整理に専念した。
小柄な男二人は走ってホテルの一階のドアを堂々と開けて入って行った。
数分後、一階の窓が開き、白い煙が立ち上った。
「火事だ!」
叫んだのはアルカンタルの手下たちである。大きな声に、二階の窓が開いた。人質と思しき少女が顔を覗かせた。
「アマンダ、火事だよ」
濃い化粧の少女が窓に向かって叫んだ。人質の少女はすぐに顔を引っ込めた。次に出て来たのは中年の禿げ頭の男だった。
「消せ! 俺を殺す気か!」
サカリアスは顔をしかめた。煙とは違う妙なにおいがしてきた。
「くせえぞ! 何が燃えてるんだ!」
誰かが叫んだ。アルカンタルがニヤリと笑った。
窓から顔を出している禿げ男も悪臭に耐えきれぬという顔だった。
「さっさと消せ!」
野次馬達もあまりの臭いに後ずさった。中には走って遠ざかる者もいた。
「クサヤとニシンの塩漬けの発酵缶の威力だ!」
アルカンタルは両腕を腰に当てて笑った。サカリアスは思い出した。そうだ。これは……。
あれは冬のことだった。幼年学校入学の前の年だったか、あるいは年明け後か。とにかく寒い日だった。
母が珍しく公務が早く終わったということでサカリアスら子ども達を呼んで食事をすることになった。
すでに働いている長兄アレホはやや遅れて食堂に入って来た。ブルーノとカミロは大学生だった。ドロテオとエロイは貴族学校の高等科、フラビオとガスパルは中等科だった。
久しぶりの兄弟そろった食事はなごやかに進んだ。少なくともあれが出るまでは。
「今日のメインの料理は献上品ゆえ、心して食べよ」
母の言葉に続いて女官長が説明を始めた。
「本日、日本のハチジョウ島出身者の会から皇帝陛下に特産のクサヤが献上されました」
女官長は出身者の会が何十年もの苦労を経て故郷の特産品の味を再現したことを語った。こういうことはこれまでも幾度もあったので、サカリアスはいつものことだと思っていた。イスパニヤのイベリコ豚や日本のスシ、ワガシ等、珍しいもの、美味いものが食べられた。今回もそういうものだろうと思っていた。
女官たちがワゴンを押して来た。フラビオの表情が少し変わった。アレホが咳払いをした。
サカリアスはいつもと兄たちが違うことに気付いた。なんだかおかしいと思ったが口に出さなかった。
銀色のクロッシュに覆われたメイン料理が銘々の前に運ばれた。給仕の女官たちが一斉にクロッシュを外した。
「うわっ!」
叫んだのはドロテオだった。
「陛下、これは食べられるのですか」
尋ねたのはブルーノだった。
「食べられるから献上したのだ。毒見もしておる」
母は毅然としていた。
「そうですよね。きっとワインになら合いますよね」
カミロはそう言って白ワインを飲んだ後、ナイフでカットしたクサヤをフォークで口に入れた。が、顔色が変わった。
「んんん、ワインでは合わないような」
母は女官長に耳打ちした。すぐに酒が運ばれてきた。
「これは一緒に献上されたショウチュウという酒だ。カミロ、そなたの年ならよかろう。飲んでみよ」
給仕の女官は湯をグラスに注いだ後、ショウチュウを入れ、年嵩の三人の兄たちの前に置いた。
最初にショウチュウを口にしたカミロはすぐにクサヤを口に入れた。
「これはいける」
アレホとブルーノが続いた。だが、二人はカミロほどの反応は見せなかった。その顔を見たサカリアスは気が進まなかった。
「故郷を懐かしみ、懸命に再現した味ゆえ、心して食べるのだ」
母はそう言ってショウチュウを自分も口にしながらクサヤを食べた。
サカリアスは思った。母上は恐らく美味しいとは思っていないだろう。それでも帝國の臣民の思いを汲んで味わっているのだ。それこそ、皇族のあるべき姿に違いない。臣民の支え亡くして皇族は生きていけないのだから。
サカリアスは思い切ってナイフで大きめに切って口に入れた。
味は悪くなかった。いや、それどころか好みだった。ただしパンには合わない。
「コメの飯はあるか」
サカリアスよりも先にフラビオが給仕の女官に命じた。女官はかしこまりましたと下がった。
「コメなら合うかもな」
ドロテオが言うとエロイもガスパルも賛同した。
結局、母と成人した兄はショウチュウ、それ以外はコメの飯とともにクサヤを食すこととなった。子どもらの様子を見る母の表情は満ち足りているように見えた。そんな食事の光景を見た記憶はそれ以来ない。
クサヤはともかくニシンの塩漬けの発酵缶というのは初めて聞いた。
「ニシンの塩漬けを発酵させた缶詰があるのか」
「あります」
答えたのはイグナシオだった。地球の北欧に伝わる保存食で軍隊でも食されていたという。
「ただし開缶する際は、屋外でという決まりになっていたとか」
「そうだ。そいつを開けさせたのさ。一階でクサヤを焼かせて、二階の天井で缶詰を開けて天井板を外して部屋の中に投げ込んだのさ」
アルカンタルはそう言って二階を見上げた。
「黒熊の頭はクサヤだのニシンの缶詰だのが好きで取り寄せさせてたんだ。一家の事務所に置いてたら子分が間違って開けるからと食堂の冷蔵庫で預かってもらってた。ここは自家発電装置が無事だったからな」
サカリアスは顔をしかめた。いくら地球の伝統食とはいえ、黒熊一家の頭の好みはどうなっているのか。しかもそれをアルカンタルが知っているとは。そういえば黒熊一家の不審な動きも彼は把握していた。
「何故、そんなことを知ってる?」
「そういう話はいろんな筋から伝わってくるのさ」
その時だった。二階の窓から禿げ頭のパンチョ・ボノが身を乗り出した。
「助けてくれ!」
黒熊一家の名が泣くぞとサカリアスは内心思う。
「飛び降りろ!」
アルカンタルの若い衆たちがいつの間に用意したのかマットレスを道路に敷いていた。
パンチョ・ボノは何の躊躇もなく飛び降りた。そういう思い切りのいいところは、ならず者の一味らしい。すぐに警官らが身柄を確保した。
その後を追うようにアマンダが飛び降りた。火事ではないのだから飛び降りなくともよいのだが、少女はまだ何も知らなかった。
サカリアスは臭いを忘れ駆け寄った。
「大丈夫か」
尻餅をついた緑色のワンピースの少女をマットレスから抱き上げた。
その瞬間、記者たちはいっせいにサカリアスと少女にカメラを向けた。
「持ってるな」
アルカンタルは呟いた。すぐにこの写真は通信社に送られ帝國中に広まるだろう。公爵閣下の人助けとして。恐らくサカリアスは計算などしていない。無心の行いだろう。人々が彼にどのようなイメージを持つかということなど考えてもいないだろう。だが、恐らくサカリアスが胸に秘めていると思われる野望の助けとなるだろう。
「決めた!」
アルカンタルは車の前で待つイグナシオに囁いた。
「おまえさんの御主人を皇帝にしてやるよ」
イグナシオは冷淡さを装った。
「何の話ですか」
「しらばっくれなくていいさ。俺も宇宙へ出る。アルカンタル伯爵領とかいうのを見たいからな」
そこへサカリアスが走って来た。記者たちを振り切ってきたのか汗をかいていた。
「基地へ行きましょう」
イグナシオはそう言って後部のドアを開けた。サカリアスが乗ると、アルカンタルも乗った。
車が走り出すとサカリアスは言った。
「最高の義手を作るように技師に言っておく」
「ありがとうよ」
「礼には及ばない。命を助けてもらったのだから。こちらこそ感謝する」
「おまえを皇帝にする」
唐突な言葉にサカリアスはしばし沈黙した。
アルカンタルは続けた。
「おまえさんは少しばかりお人よしだからな。見てて危なっかしいのさ。運転手の兄さんだけじゃ人手が足りないだろ」
「まあ、人手が多いに越したことはないですからね」
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