ふたりの旅路

三矢由巳

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第三章

拾 物頭の子

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 志緒の曖昧な記憶の中に荒垣銑次郎の名はない。
 物頭の荒垣藤右衛門は知っている。屋敷は馬廻組の組屋敷に隣接している。幾度か登城の折に見たことがある。温厚そうな顔をした老人だった。嫡男もよく似た顔で父親に従っていた。
 だが、銑次郎という息子がいたとは知らなかった。ましてや幸之助が死んだ際に道場で共に竹刀を交えていたなど。
 思えばあの頃の志緒は夢も現もわからず、ただただ何故幸之助が死んでしまったのか嘆くだけだった。起きていても目の前の日常は他人事のように過ぎていくだけだった。もしかしたら父か母、あるいは駒井家の人々が彼の名を口にしたかもしれないが、聞き漏らしたのかもしれなかった。
 佐助はそんな志緒の事情を知ってか知らずか話を続ける。

「幸之助さまが最後に稽古をした相手だということで、あることないこと取沙汰されて道場に居づらくなったようで。たまたまその頃あった縁組の話も立ち消えになり、ふさぎこむようになってしまったそうで。手前ども奉公人仲間の間でも噂になったほどです。このままではよくないと荒垣さまは御家老に相談し、大坂の蔵屋敷に銑次郎さまをやったとうかがっております。ほとぼりが冷めるのを待ってのことかと」

 大坂の蔵屋敷には毎年勘定方の者が赴任していたので、父や義兄から蔵屋敷のことを聞いたことがある。もし銑次郎が勘定奉行所勤めなら蔵屋敷に行ってもおかしくない。そうではないから父親が家老に頼んで大坂へやったのだろう。
 銑次郎には何の罪もないのに、「ほとぼりが冷める」とはまるで咎人のようだった。
 だが志緒には何となくわかるような気がした。志緒自身もまた幸之助亡き後、夢もうつつもわからぬありさまで生きていた。今にして思えば志緒の両親はどれほどつらい気持ちで娘を見守っていたことか。
 恐らく銑次郎も不吉な者だと道場や近所で言われたのかもしれない。縁組もそれで立ち消えになったのかもしれない。ふさぎこむようになったのもわかる気がした。彼の父もまた息子のことを案じて大坂へやったのではなかろうか。



 それにしても不思議なことだった。縁組があったというなら幸之助とさほど年は離れてはいまい。狭い城下なら近い年頃であれば男女問わず少なくとも名まえくらいは知っているものだった。たとえばほとんど交流のない家老岡本寛右衛門の娘の多喜の名を志緒は知っているし、彼女が江戸屋敷の小姓組頭に嫁いだことも聞いている。
 だが荒垣銑次郎の名は家族の口からも聞いた記憶がなかった。
 幸之助と同じ道場で修業しているのなら名まえくらいは彼の口から聞いていてもおかしくはなかった。幸之助は親しい者をよく家に招いていた。志緒もたまたまその場に居合わせたことがある。皆明るく礼儀正しい若者たちだった。中には足軽の家の出の者もいたが、幸之助は遠慮せぬようにと言い他の者と同じように相対していた。その仲間たちの中に荒垣はいなかった。
 もしかすると幸之助とは親しくなかったのかもしれない。むしろ仲が悪かったのではなかろうか。だからこそなおさら道場の中での立場が悪くなってしまったのではなかろうか。
 
「お気の毒なことになってしまったのですね」
「まあ、なんというか……口の悪い者は身から出た錆などと」
「え?」
「これは言い過ぎました。お忘れください」
「身から出た錆とはどういうことなのですか。聞き捨てなりません」

 佐助は一呼吸置いて口を開いた。

「少々お振舞がよろしくないようで。荒垣さまと奥様が厄年の時に生まれたので親戚の家に里子に出していたそうで。元服前に呼び戻したものの田舎育ちのせいか振舞に難がおありで荒垣さまは表には出したがらなかったようで」

 子どもの頃に城下にいなかった上に親が表に出したがらなかったのなら名を聞いたことがないのも無理はなかった。
 振舞がよろしくないということは行儀が悪いということだろうと志緒は受け取った。そんな男を嫁入り前の妹もいる家に招くはずなどなかった。ましてや幸之助が志緒に語らなかったのも道理である。
 
「大坂にいた者が何故小田原に」
「手前もそれが解せません。大坂から国許にお戻りになる途中で寄り道をするにしては少々遠回りし過ぎかと」
 
 ひょっとすると江戸勤番にと思ったが、行儀の悪い者を殿様のおいでになる江戸にやるとは思えなかった。 
 
「その者も女を斬ったと疑いをかけられているのですね」
「そのようで。番所の者が言っておりました。取調の上、明日辰の刻に一番疑わしい者を三島の役所に引き渡すとか」
「え……」
「旦那様が潔白なのは明らかです。引き渡されるはずがありません」

 佐助は力強く言った。志緒もまたそう思ったが、荒垣銑次郎が三島に引き渡されるのも嫌だと思った。幸之助が倒れた時近くにいたばかりにとかくの噂を立てられて大坂に行くことになった男が女の旅人を斬ったと疑われるというのは理不尽だった。
 とはいえ、疑われるのはそれなりの理由があるのかもしれない。いや、もしかしたらまことにと思った時、志緒の脳裏に明鏡止水の文字が浮かんだ。会ったこともない者のことを佐助の言葉だけで想像するのは良くない、己の目で判断しなければならないのではないか。

「荒垣殿は剣の腕はいかがなのであろう」
「幸之助さまと稽古をしていたくらいですから、それなりの腕前かと」

 幸之助は道場の若手の中でも五本の指に入る力を持っていた。ということは銑次郎もその五本の指に入っていたのかもしれない。
 人を斬る、それも袈裟懸けにというのはたやすいことではない。何より武士が刀を抜くというのは相当なことである。道場でも力のある荒垣が刀を使う意味を知らぬはずがない。しかも相手は女である。旅の空で何等かの理由があったとしても人を斬るなどできるものだろうか。

「腕に覚えがあるならなおさら人を斬るなど」

 佐助はいえいえと首を振った。

「手前も斬ったとは思っておりません。ただ疑われるには疑われるだけのわけがおありかと」
「理由とは」
「それは……御覧になればわかります」

 佐助はそれ以上銑次郎のことを口にしなかった。
 志緒も百聞は一見に如かずと、尋ねなかった。
 
「明日、私も番所の前に参ります」
「かしこまりました」
  
 佐助が部屋を出た後、志緒は姿勢を正し丹田に力を込め目を軽く閉じた。
 明鏡止水。その境地で源之輔を信じ、銑次郎を見よう。志緒は夕餉の膳が運ばれるまで黙想を続けた。





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