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第三章
玖 不安と想像
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「擦り傷でございます」
佐助はいつもと変わらぬ落ち着いた声で答えた。
いつもの志緒ならそれで納得しただろう。だが左の袖の血については合点がいかなかった。
「擦り傷であのように袖に血が付くものか」
「そういうこともございます」
そういうこともあるかもしれない。けれど、志緒は転んで擦り傷が出来ても遠目でもわかるほど衣類に付くほど血を流したことはない。あの血が源之輔のものなら単なる擦り傷とは思えない。もし、あの血が源之輔のものでなかったとしたら。
「何を案じておいでなのですか」
佐助は志緒の不安を感じているようだった。
「案じているのは旦那様の身です」
本当はそればかりではない。だが佐助にそれを言うのは憚られた。佐助は本当のことを答えないかもしれない、それが志緒には恐ろしかった。ますます深い疑惑の底に沈む己を想像するのは耐え難かった。
「手前が申すのもおこがましいのですが、旦那様には何の落ち度もないはずです。ですから案じることはございません。暗くなる前に番所の近くで様子をうかがって参りますので」
佐助は志緒の不安を少しでも軽くしようと考えているようだった。恐らく源之輔の傷が擦り傷でなかったとしても志緒に不安を与えまいと本当のことは言わないだろう。
結局、佐助の口からは真実を知る事はできないのだと志緒は悟った。
「ありがとう。ただし無理なことはせぬように。佐助まで番所に入るようなことになったら困ります」
「かしこまりました」
佐助が部屋から下がると志緒は小さくため息をついた。
何故、こんなにも自分は疑い深くなってしまったのだろうか。
源之輔の袖に付いていた血は本当に彼のものなのか。そう思い始めてしまったのが、始まりだった。志緒の経験から考えて転んで腕を擦っただけで明らかに血とわかるほど袖を濡らすはずがなかった。
では誰の血なのか。源之輔のものであるとすれば、擦り傷ではあるまい。もっと重い傷、たとえば切り傷ではないか。ならば何故切り傷が付いたのか。己自身で腕に傷をつけるはずはない。誰かが傷をつけたのだ。一体何者がそんなことをしたのか。源之輔は江戸の北辰一刀流の玄武館で初目録を得ている。相手はかなりの手練れだろう。そのような相手と立ち会うのに、忘れ物をしたと言い訳をするのは不審だった。万が一命を奪われたらと考えなかったのであろうか。
袖の血が源之輔のものでない恐れもある。立ち合いの相手のものであろうか。源之輔が誰かを斬ったということであろうか。だがそんなことをして黙っていていいはずがない。たとえ正当な理由があったとしても、人を斬ったらその地のしかるべき役所に届け出なければならないと以前父から聞いたことがある。
どう考えても源之輔が誰かと立ち会ったというのは無理がある。
そう思った時、三島で殺された女のことが思い浮かんだ。
袈裟懸けに斬られた女の返り血だとしたら……恐ろしい想像に志緒は身をすくめた。あり得ないのに。情に深く物静かな源之輔がそんなことをするはずもないのに。
だが、金谷の宿でのことが思い出された。源之輔は二本の刀を床に置いたことがあった。今思えば相部屋となった母娘を警戒していたのではないか。あの時の源之輔の眼差しの鋭さは尋常ではなかった。
いざとなれば女でも子どもでも斬る覚悟があったのではないか。
不安に駆られて志緒は佐助を呼び、傷と血のことを尋ねたのだ。
だが、佐助は志緒に擦り傷だと言い、血は源之輔のものだと言う。結局志緒の不安は消えなかった。
一体、何故そんな想像を一瞬でもしてしまったのか。志緒は己が恐ろしくなった。己は夫である源之輔を心から信じていないのではないか。妻ならば夫の言葉をそのまま受け止め信じるべきではないのか。
妻と夫が互いに信じ合うのは言うまでもないことだった。両親も姉夫婦も駒井の両親も佐江夫婦も皆そうだった。そんな人々を側で見ていたのに。志緒は情けなくなった。以前の志緒は幸之助のことも信じていたというのに。何故源之輔のことを疑ってしまったのか。
そう思った時、志緒ははっとした。
幸之助の一件を思い出した。志緒の知らなかった幸之助の過去のこと、そしてそれを志緒に隠していた周囲の大人たち。義母の津奈には口封じの道具にされたようで気分はよくない、心の狭い女だからすべてを許して受け入れることはたやすくできないと本音を伝えた。それで気持ちは少しは晴れたはずだった。
けれど一件は志緒の心に小さな傷を残したようだった。人には隠された一面があることを思い知らされ、目に見えるものをそのままを子どもの頃のように無邪気に信じられなくなったのではないか。
だとしたら己は汚れてしまったのかもしれない。夫のことを信じられぬようになるとは。それどころか、とても妻として許されぬような想像をしてしまった。忠義者の佐助までが源之輔と口裏を合わせているのではないかと想像してしまった。
このような心持ちでは源之輔に合わせる顔がない。源之輔の疑惑が晴れて帰って来たとしても、どんな顔で迎えればいいのか。
小太刀の師匠砂村雲斎が言っていた明鏡止水の境地など夢のまた夢。今の己の心は疑心暗鬼で曇っているばかりではないか。
明鏡止水。鏡のように澄み切った心。今一度曇りのない目で源之輔を迎えようと志緒は思った。
夕刻、佐助が息を切らして部屋に来た。
「番所に旦那様の他に三人お武家が連れて来られております。ちょうど手前が番所の前に来た折に一人番所に連れて来られたのですが、驚きました」
一体何に佐助が驚いているのか、志緒のほうが驚いてしまった。こんなに落ち着きのない佐助を見るのは初めてだった。
「一体何があったのですか。ゆっくりでいいから落ち着いて話して」
「物頭の荒垣さまの御子息の銑次郎さまだったのです」
物頭の荒垣藤右衛門なら知っている。祝言の際にご祝儀を頂いている。だが、息子の銑次郎の名は聞き覚えがない。
「荒垣せんじろう」
「はい。城下を出られたと伺っておりましたが、まさか小田原においでとは」
「何故、城下を出たのですか」
佐助はえっと小さな声を上げた。
「奥様、御存知なかったのですか」
「せんじろう殿のこともよく知りません」
申し訳ありませんと佐助は頭を畳に擦り付けんばかりに下げた。
「幸之助さまが道場で倒れられた時の手合わせの相手だったのです」
当時の記憶が定かでない志緒にとってそれは初めて聞く話も同様だった。
佐助はいつもと変わらぬ落ち着いた声で答えた。
いつもの志緒ならそれで納得しただろう。だが左の袖の血については合点がいかなかった。
「擦り傷であのように袖に血が付くものか」
「そういうこともございます」
そういうこともあるかもしれない。けれど、志緒は転んで擦り傷が出来ても遠目でもわかるほど衣類に付くほど血を流したことはない。あの血が源之輔のものなら単なる擦り傷とは思えない。もし、あの血が源之輔のものでなかったとしたら。
「何を案じておいでなのですか」
佐助は志緒の不安を感じているようだった。
「案じているのは旦那様の身です」
本当はそればかりではない。だが佐助にそれを言うのは憚られた。佐助は本当のことを答えないかもしれない、それが志緒には恐ろしかった。ますます深い疑惑の底に沈む己を想像するのは耐え難かった。
「手前が申すのもおこがましいのですが、旦那様には何の落ち度もないはずです。ですから案じることはございません。暗くなる前に番所の近くで様子をうかがって参りますので」
佐助は志緒の不安を少しでも軽くしようと考えているようだった。恐らく源之輔の傷が擦り傷でなかったとしても志緒に不安を与えまいと本当のことは言わないだろう。
結局、佐助の口からは真実を知る事はできないのだと志緒は悟った。
「ありがとう。ただし無理なことはせぬように。佐助まで番所に入るようなことになったら困ります」
「かしこまりました」
佐助が部屋から下がると志緒は小さくため息をついた。
何故、こんなにも自分は疑い深くなってしまったのだろうか。
源之輔の袖に付いていた血は本当に彼のものなのか。そう思い始めてしまったのが、始まりだった。志緒の経験から考えて転んで腕を擦っただけで明らかに血とわかるほど袖を濡らすはずがなかった。
では誰の血なのか。源之輔のものであるとすれば、擦り傷ではあるまい。もっと重い傷、たとえば切り傷ではないか。ならば何故切り傷が付いたのか。己自身で腕に傷をつけるはずはない。誰かが傷をつけたのだ。一体何者がそんなことをしたのか。源之輔は江戸の北辰一刀流の玄武館で初目録を得ている。相手はかなりの手練れだろう。そのような相手と立ち会うのに、忘れ物をしたと言い訳をするのは不審だった。万が一命を奪われたらと考えなかったのであろうか。
袖の血が源之輔のものでない恐れもある。立ち合いの相手のものであろうか。源之輔が誰かを斬ったということであろうか。だがそんなことをして黙っていていいはずがない。たとえ正当な理由があったとしても、人を斬ったらその地のしかるべき役所に届け出なければならないと以前父から聞いたことがある。
どう考えても源之輔が誰かと立ち会ったというのは無理がある。
そう思った時、三島で殺された女のことが思い浮かんだ。
袈裟懸けに斬られた女の返り血だとしたら……恐ろしい想像に志緒は身をすくめた。あり得ないのに。情に深く物静かな源之輔がそんなことをするはずもないのに。
だが、金谷の宿でのことが思い出された。源之輔は二本の刀を床に置いたことがあった。今思えば相部屋となった母娘を警戒していたのではないか。あの時の源之輔の眼差しの鋭さは尋常ではなかった。
いざとなれば女でも子どもでも斬る覚悟があったのではないか。
不安に駆られて志緒は佐助を呼び、傷と血のことを尋ねたのだ。
だが、佐助は志緒に擦り傷だと言い、血は源之輔のものだと言う。結局志緒の不安は消えなかった。
一体、何故そんな想像を一瞬でもしてしまったのか。志緒は己が恐ろしくなった。己は夫である源之輔を心から信じていないのではないか。妻ならば夫の言葉をそのまま受け止め信じるべきではないのか。
妻と夫が互いに信じ合うのは言うまでもないことだった。両親も姉夫婦も駒井の両親も佐江夫婦も皆そうだった。そんな人々を側で見ていたのに。志緒は情けなくなった。以前の志緒は幸之助のことも信じていたというのに。何故源之輔のことを疑ってしまったのか。
そう思った時、志緒ははっとした。
幸之助の一件を思い出した。志緒の知らなかった幸之助の過去のこと、そしてそれを志緒に隠していた周囲の大人たち。義母の津奈には口封じの道具にされたようで気分はよくない、心の狭い女だからすべてを許して受け入れることはたやすくできないと本音を伝えた。それで気持ちは少しは晴れたはずだった。
けれど一件は志緒の心に小さな傷を残したようだった。人には隠された一面があることを思い知らされ、目に見えるものをそのままを子どもの頃のように無邪気に信じられなくなったのではないか。
だとしたら己は汚れてしまったのかもしれない。夫のことを信じられぬようになるとは。それどころか、とても妻として許されぬような想像をしてしまった。忠義者の佐助までが源之輔と口裏を合わせているのではないかと想像してしまった。
このような心持ちでは源之輔に合わせる顔がない。源之輔の疑惑が晴れて帰って来たとしても、どんな顔で迎えればいいのか。
小太刀の師匠砂村雲斎が言っていた明鏡止水の境地など夢のまた夢。今の己の心は疑心暗鬼で曇っているばかりではないか。
明鏡止水。鏡のように澄み切った心。今一度曇りのない目で源之輔を迎えようと志緒は思った。
夕刻、佐助が息を切らして部屋に来た。
「番所に旦那様の他に三人お武家が連れて来られております。ちょうど手前が番所の前に来た折に一人番所に連れて来られたのですが、驚きました」
一体何に佐助が驚いているのか、志緒のほうが驚いてしまった。こんなに落ち着きのない佐助を見るのは初めてだった。
「一体何があったのですか。ゆっくりでいいから落ち着いて話して」
「物頭の荒垣さまの御子息の銑次郎さまだったのです」
物頭の荒垣藤右衛門なら知っている。祝言の際にご祝儀を頂いている。だが、息子の銑次郎の名は聞き覚えがない。
「荒垣せんじろう」
「はい。城下を出られたと伺っておりましたが、まさか小田原においでとは」
「何故、城下を出たのですか」
佐助はえっと小さな声を上げた。
「奥様、御存知なかったのですか」
「せんじろう殿のこともよく知りません」
申し訳ありませんと佐助は頭を畳に擦り付けんばかりに下げた。
「幸之助さまが道場で倒れられた時の手合わせの相手だったのです」
当時の記憶が定かでない志緒にとってそれは初めて聞く話も同様だった。
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