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第三章
捌 袖の下と血
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「まったくひどい話じゃありませんか」
昼の膳を運んで来たおかみは志緒が茶にまったく口をつけていないことに気付き元気づけるように細い身体に似合わぬ大きな声で言った。
「駒井様といえば、御家中の馬廻組を務める御家柄。それなのに町人を引き立てるように番所に連れて行くなんて。うちの若い衆が雲助たちから聞いた話では、言いがかりだって。峠を越える前に駒井様が一人奥方様より遅れて来たのを見て怪しいと言った雲助がいたって言うんですよ。勿論奥方様を乗せた雲助とは別の雲助です。まったくいい加減にして欲しいもんです」
「雲助が……」
思いもよらぬことだった。
「上客をいつも運んでいる雲助だから妬まれたんですよ。江戸へお仕事においでになるようなお武家様が辻斬りなんてするわけないのに、役人連中も錆ついてしまったもんですよ」
役人連中と口にするおかみに志緒は驚いた。以前に他の宿場で舌打ちをした客引きがいた。あの時、武家を武家とも思わぬ町人がいることに驚いたものだが、家中の侍を泊めている宿のおかみが地元の役人に対して連中などと口にするのは意外だった。
志緒の表情の変化に気付いたおかみは自分の失言に気付いた。
「あ、申し訳ございません。役人連中だなんて。同じお武家ですのに。でも、ここだけの話、袖の下をもらうようなお役人もおりますからね」
「袖の下とは何でしょうか」
父が勘定方をしている村田家は「袖の下」という言葉とは無縁だった。
おかみは一瞬怪訝な表情を見せた。が、すぐに真面目な顔になった。
「まあ、これは……失礼いたしました。その、賂と申しまして色々と手心を加えてもらうように役人に銭金や物を贈る者がいるのでございます」
「賂……わかりました」
志緒は幸之助が中国の歴史書のことを語った時に賂の話をしたことを思い出した。一体あれは何年前のことであったか。幸之助が麟子館の学頭の助手になった頃だったか。亡くなった直後はほんの些細な思い出であっても胸が苦しかった。けれど今は幸之助のことを思い出しても以前のように苦しくなかった。去る者は日日に疎しとはこのことなのだろうか。
志緒の感慨はおかみの言葉で吹き飛ばされた。
「はい、そうでございます。わいろをもらって袖の下に隠すから、袖の下と言うんです」
生々しい表現に志緒は驚いた。
「教えてくださりありがとうございます」
「いえいえ、大したことではございません。役人はともかく、駒井様のことはちょっと調べればすぐにわかることですよ。すぐにお戻りになられます」
少し甘いのではないかと志緒は思ったが口に出せなかった。わざわざ旅籠に赴き源之輔を取調のために連れ出した役人が簡単に帰すとは思えない。間違いだとわかったら、今度は彼らが恥をかく。武士にとっての恥は何よりも重い。
だがおかみはおかみなりに客のことを案じている。その言葉を否定するのは彼女の思いやりに水を差すように思えた。
おかみの話を遮ったのは女中の「おかみさん」という襖越しの声だった。
おかみが部屋を出た後、膳を前に志緒はため息をついた。
食べる気になれない。だが、もし口にしなければおかみは心配してまた色々と志緒のために時を割いてくれるだろう。忙しいおかみに気を使わせるのは心苦しかった。
何より、もし源之輔が志緒が何も口にしていないと知ったら。
志緒は膳を見つめた。とにかく食べなければ。
これまでも食べ物を口に入れる気になれないようなことが幾度もあった。けれどその度に志緒は苦しみながらも食べた。それですべて乗り越えられるわけではないが、少なくとも耐える気力は補えた。
吸い物の蓋を取った。鰹節からとったらしい出汁を使った吸い物の香りは故郷のものより力強く感じられた。
一口飲んだ。胃の腑に流れ込んだ瞬間空腹だったことに初めて気づいた。食欲がよみがえった。
結局志緒は膳の上のものをほぼ全部食べた。満足に食事をとれていないであろう源之輔に申し訳なさを感じながらも。
胃の腑が満たされたせいか、当初の動揺が収まってきた。そのおかげで少しは冷静にこの事態を考えることができそうだった。
源之輔は藩の手形を持っている。どこにも属さない浪人とは当然扱いが違う。いくら疑いをかけているといっても酷い取調をされるはずがなかった。
それにおかみは袖の下を受け取る役人がいると言っていたが、取調の役人がそうとは限らない。何より取調の件で袖の下を役人に贈る者がいるはずがない。一体誰に便宜を図るというのか。もし源之輔に疑いをかけて取り調べることが誰かにとって得になるのなら、その誰かこそ旅の女を殺害した者ではないのか。そんな者がわざわざ役人に袖の下を贈るはずがない。
源之輔を連れて行った役人の態度はよいとは言えないが、取調は身分相応にされるはずである。ならば疑いはすぐに晴れるはずである。刀を改めればすぐにわかるのだから。人を斬れば刀には血曇りが生じると師匠の砂村雲斎が言っていた。源之輔の刀に血曇りなどあるはずがない。
そう思った時、志緒はあっと小さく叫んでいた。
志緒は佐助を部屋に呼んだ。佐助はちょうど番所の周辺で源之輔の取調の様子を探って帰って来たところであった。彼はすぐさま部屋に行くと出入りの者から聞いたことを伝えた。
「番所の上役の方がきちんとした方で、酷い取調はされていないようでございます。昼の食事も汁と豆腐の焼いたものと香の物が出されたそうです」
とりあえず、源之輔は酷い扱いはされていないようだった。だが、食事の内容まで旅の男に語る者が番所に出入りしているというのはあまりいいことではないように思われた。
志緒は礼を言った後、切り出した。
「昨日の旦那様の怪我のこと、詳しく聞かせてくれませんか。旦那様は大した怪我ではないと言って傷を見せてくださらなかった。けれど羽織の左の袖に血が染みていて擦りむいただけとは思えないのです」
昼の膳を運んで来たおかみは志緒が茶にまったく口をつけていないことに気付き元気づけるように細い身体に似合わぬ大きな声で言った。
「駒井様といえば、御家中の馬廻組を務める御家柄。それなのに町人を引き立てるように番所に連れて行くなんて。うちの若い衆が雲助たちから聞いた話では、言いがかりだって。峠を越える前に駒井様が一人奥方様より遅れて来たのを見て怪しいと言った雲助がいたって言うんですよ。勿論奥方様を乗せた雲助とは別の雲助です。まったくいい加減にして欲しいもんです」
「雲助が……」
思いもよらぬことだった。
「上客をいつも運んでいる雲助だから妬まれたんですよ。江戸へお仕事においでになるようなお武家様が辻斬りなんてするわけないのに、役人連中も錆ついてしまったもんですよ」
役人連中と口にするおかみに志緒は驚いた。以前に他の宿場で舌打ちをした客引きがいた。あの時、武家を武家とも思わぬ町人がいることに驚いたものだが、家中の侍を泊めている宿のおかみが地元の役人に対して連中などと口にするのは意外だった。
志緒の表情の変化に気付いたおかみは自分の失言に気付いた。
「あ、申し訳ございません。役人連中だなんて。同じお武家ですのに。でも、ここだけの話、袖の下をもらうようなお役人もおりますからね」
「袖の下とは何でしょうか」
父が勘定方をしている村田家は「袖の下」という言葉とは無縁だった。
おかみは一瞬怪訝な表情を見せた。が、すぐに真面目な顔になった。
「まあ、これは……失礼いたしました。その、賂と申しまして色々と手心を加えてもらうように役人に銭金や物を贈る者がいるのでございます」
「賂……わかりました」
志緒は幸之助が中国の歴史書のことを語った時に賂の話をしたことを思い出した。一体あれは何年前のことであったか。幸之助が麟子館の学頭の助手になった頃だったか。亡くなった直後はほんの些細な思い出であっても胸が苦しかった。けれど今は幸之助のことを思い出しても以前のように苦しくなかった。去る者は日日に疎しとはこのことなのだろうか。
志緒の感慨はおかみの言葉で吹き飛ばされた。
「はい、そうでございます。わいろをもらって袖の下に隠すから、袖の下と言うんです」
生々しい表現に志緒は驚いた。
「教えてくださりありがとうございます」
「いえいえ、大したことではございません。役人はともかく、駒井様のことはちょっと調べればすぐにわかることですよ。すぐにお戻りになられます」
少し甘いのではないかと志緒は思ったが口に出せなかった。わざわざ旅籠に赴き源之輔を取調のために連れ出した役人が簡単に帰すとは思えない。間違いだとわかったら、今度は彼らが恥をかく。武士にとっての恥は何よりも重い。
だがおかみはおかみなりに客のことを案じている。その言葉を否定するのは彼女の思いやりに水を差すように思えた。
おかみの話を遮ったのは女中の「おかみさん」という襖越しの声だった。
おかみが部屋を出た後、膳を前に志緒はため息をついた。
食べる気になれない。だが、もし口にしなければおかみは心配してまた色々と志緒のために時を割いてくれるだろう。忙しいおかみに気を使わせるのは心苦しかった。
何より、もし源之輔が志緒が何も口にしていないと知ったら。
志緒は膳を見つめた。とにかく食べなければ。
これまでも食べ物を口に入れる気になれないようなことが幾度もあった。けれどその度に志緒は苦しみながらも食べた。それですべて乗り越えられるわけではないが、少なくとも耐える気力は補えた。
吸い物の蓋を取った。鰹節からとったらしい出汁を使った吸い物の香りは故郷のものより力強く感じられた。
一口飲んだ。胃の腑に流れ込んだ瞬間空腹だったことに初めて気づいた。食欲がよみがえった。
結局志緒は膳の上のものをほぼ全部食べた。満足に食事をとれていないであろう源之輔に申し訳なさを感じながらも。
胃の腑が満たされたせいか、当初の動揺が収まってきた。そのおかげで少しは冷静にこの事態を考えることができそうだった。
源之輔は藩の手形を持っている。どこにも属さない浪人とは当然扱いが違う。いくら疑いをかけているといっても酷い取調をされるはずがなかった。
それにおかみは袖の下を受け取る役人がいると言っていたが、取調の役人がそうとは限らない。何より取調の件で袖の下を役人に贈る者がいるはずがない。一体誰に便宜を図るというのか。もし源之輔に疑いをかけて取り調べることが誰かにとって得になるのなら、その誰かこそ旅の女を殺害した者ではないのか。そんな者がわざわざ役人に袖の下を贈るはずがない。
源之輔を連れて行った役人の態度はよいとは言えないが、取調は身分相応にされるはずである。ならば疑いはすぐに晴れるはずである。刀を改めればすぐにわかるのだから。人を斬れば刀には血曇りが生じると師匠の砂村雲斎が言っていた。源之輔の刀に血曇りなどあるはずがない。
そう思った時、志緒はあっと小さく叫んでいた。
志緒は佐助を部屋に呼んだ。佐助はちょうど番所の周辺で源之輔の取調の様子を探って帰って来たところであった。彼はすぐさま部屋に行くと出入りの者から聞いたことを伝えた。
「番所の上役の方がきちんとした方で、酷い取調はされていないようでございます。昼の食事も汁と豆腐の焼いたものと香の物が出されたそうです」
とりあえず、源之輔は酷い扱いはされていないようだった。だが、食事の内容まで旅の男に語る者が番所に出入りしているというのはあまりいいことではないように思われた。
志緒は礼を言った後、切り出した。
「昨日の旦那様の怪我のこと、詳しく聞かせてくれませんか。旦那様は大した怪我ではないと言って傷を見せてくださらなかった。けれど羽織の左の袖に血が染みていて擦りむいただけとは思えないのです」
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