ふたりの旅路

三矢由巳

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第三章

弍 若殿様

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「源之輔はいつ戻って参るのだ」
「予定では三日後です。しかしながら、国許から江戸への道中にある川が増水しておりますので遅れるやもしれません」
「遅れるやもとはいかなることだ、三太夫」

 青年の目が初老の守役を鋭く射抜いた。

「恐れ入りまする。幾日遅れるかわからないということです。川の水がいつ引くか、江戸ではすぐにわかりかねまするゆえ」
「わからぬのか」

 青年はふうとため息を吐いた。が、すぐに父から家臣の前でため息などついてはならぬと言われていたことを思い出した。

「わからぬということはわかった。三太夫、仕事に戻ってよいぞ」

 三太夫が座敷から出ると、彼は立ち上がり開け放たれた明かり障子の向こうに見える庭を見た。まばゆいほどの青葉に青年は目を細めた。





 彼の名は倫矩のりかね、幼名は熊千代。今年の正月で二十になった。幼少の頃に国許から江戸に呼び寄せられ殿様と呼ばれる父の世継ぎとなった。故に生母の亀の方の名は知っていても顔は忘れてしまった。育ての母の殿様の奥方様を母上と呼ぶのを何の不思議もなく受け入れていた。
 奥方様は若殿様と呼ぶのを忘れ時折熊千代様と呼んでしまい、失礼をいたしましたと謝ることが年に数度かあった。が、彼は奥方様に熊千代と呼ばれるのを不快に感じなかった。幼い彼を奥方様は血を分けた我が子のように育ててくれたからである。彼女には姫が二人いたが、いつも熊千代を上座に座らせ兄上様に失礼のないようにと言い聞かせていた。二人の姫は母の教えに従い、兄を敬った。二人とも他家に嫁いだが今でも時候の挨拶の文を送ってくる。それを読むと彼は温かい心持ちになるのだった。
 そういうわけで、彼は奥方様を実母のように慕い、年内に輿入れする予定の某家の姫君が奥方様のようであればいいのにと心の奥底で願っていた。実際はそんなにうまくはいかないだろうということもわかっていたが。
 すでに奥方を娶った親しい他家の若殿たちの話を聞けば、夫婦の仲が皆よいとは限らないようだった。両親のように仲睦まじい上に、国許から来た側室の子を可愛がるような奥方様というのは珍しいように思われた。

『何事もお心次第です。誠を尽くせばきっとお相手の姫君様も同じ気持ちで若殿様をお慕いになるはずです』

 縁組が決まった後、そちはどう思うと側に従っていた者に尋ねた時にそう答えたのは国許から勤番でやって来た駒井源之輔だった。北辰一刀流の初目録を持っているということで、警護の役目を負っていた。馬廻組の駒井甚太夫の養子で妻を娶ったばかりだと三太夫が言っていた。
 きっと国で妻と幸せな生活を送っていたからそんなことを言えるのだろうと思った。実際江戸に出立する前に妻の懐妊が判明したらしい。まったくいい気なものだと思った。
 そんなある日、源之輔が仕事を休んだ。三太夫に理由を問うと、白髪交じりの頭がわずかに揺れ源之輔の妻が流産したのだとだけ答えた。
 いい気なものだと思った自分を彼は恥じた。
 さらに三太夫は言った。

『駒井源之輔は養子になる前は実家で肩身の狭い思いをしていたとか。実の母と生き別れ生さぬ仲の母に育てられずいぶんと苦労したようです。駒井家の養子になりやっと運がめぐってきたと思った矢先のことで』

 国に帰してやれぬのかという言葉が喉まで出かかった。それを言ったら最後、源之輔がいなくなってしまうような気がした。それに源之輔の境遇が己と似ていることを知ると、なおさら側にいて欲しく思われた。
 翌日出仕してきた源之輔を呼び、元気を出せと菓子をやった。源之輔は平伏した。
 菓子ぐらいで大の男が元気になるものでもないと彼にもわかっていた。それでも少しでも慰めたかった。
 菓子のせいかわからぬが、すぐに源之輔は再び以前のように職務に励んだ。登城の供だけでなく他の家中の若殿たちとの宴の供にも以前と変わらぬ様子で付き従った。
 本当は国に帰って妻を慰めたいのだろうと彼は源之輔の気持ちを推し量っていた。だが、源之輔は一切そんな素振りは見せなかった。
 なんとかしてやりたいものだと思っていた矢先、突如として源之輔の姿が中屋敷から消えた。
 警護の者に尋ねたが、誰も知らなかった。上屋敷で父の警護をしているのではないかと思ったが、そういう噂も聞かない。三太夫に尋ねると、御心配は無用です、必ずここに戻って来ますと言う。
 ならばそれを信じようと思った数日後、三太夫は源之輔が妻を伴い国許から帰って来ると知らせてくれた。

「家老の森山盛右衛門が若殿様の御側に仕えるようにと命じたということです」

 江戸家老の森山は殿様の信頼が篤い。つまり、これは父である殿様の意向であるということだった。父が源之輔を世継ぎである己に仕えさせるということは源之輔を父が高く評価しているということである。彼は嬉しかった。
 だが、予定の日を過ぎても源之輔は帰って来ない。というわけで冒頭の仕儀となったわけである。
 恐らく川止めに遭っているのだろう。川の水が引かなければ渡れぬのだ。早く水が引いて欲しいと思う一方で、源之輔が妻と二人で一緒にいられると思うとすぐに帰って来なくともいいと思えてくる。
 とはいえ源之輔のいない中屋敷は物足りない。他の家臣と彼は何となく違っていた。何が違うのか判然とはしないが、初めて会った時から源之輔は倫矩の心の一隅に場所を占めていた。これまで彼にはいなかった身内、喩えて言うなら兄のように。
 



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