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第三章
壱 峠越え
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志緒は己があまりに生まれ育った地について無知だったことを旅の初日で知った。
まず、生まれ育った地はあまりにも恵まれていた。関所を過ぎて隣の領国に入った途端に歩きにくいでこぼこ道になった。志緒の知る限り、城下の武家の住まいのある辺りは石畳が敷かれ風があっても土埃が舞うことはほとんどなかった。町人地の道も出来る限りまっすぐ敷き均され歩きやすかった。
道だけではない。人の性格も故郷は温厚だった。が、二里ばかり歩いたところで小さな村を通りかかると旅人目当ての茶屋の客引きが袖をつかまんばかりに志緒を呼び止めようとした。源之輔が間に合っておると言うと、客引きは舌打ちした。驚く志緒に源之輔はこれがよそでは普通なのだと言った。
「それでは御城下は普通ではないのですか」
その問いに源之輔は頷いた。
「御城下は恵まれている。けれどそうではない土地のほうが世間には多い」
「殿様の御蔭でしょうか」
「それもあるが、人の気質というものだろう。御城下は温厚な者が多い」
人の気質。志緒はこれまで出会った人々のことを思い出す。確かにそうかもしれない。けれど、温厚ではない者もいた。少ないけれど。だから皆温厚だと源之輔は言わなかったのだろう。
「旦那様、そろそろ三軒茶屋です」
供の佐助の声で源之輔は足の動きを緩めた。
「そうであった。そこで一休みするとしよう」
「まだ早いのでは」
志緒はまだ歩けると思っている。あと二里は大丈夫だろう。
「明日も明後日も歩くのだ。今日疲れてしまったら明日は歩けなくなる」
それはそうだがと言おうと思ってやめた。荷物を担いでいる佐助の疲れを思えばここらで休んだほうがいいかもしれない。源之輔の母津奈の実家の奉公人で江戸に行った経験のある佐助は頑健な身体つきをしていても父たちと同年代なのだ。
三人が休息したのは峠の手前にある三軒の茶屋の一つだった。地名も三軒茶屋と言う。客引きなど一切しないが峠を越える旅人たちや越えて来た旅人たちで盛況だった。彼らは伊勢参りだとか大坂からの帰りだとか話しながら団子を食べ茶を飲んだ。
だが武家の源之輔と志緒に親し気に話しかける者はいない。当然と言えば当然のことである。お武家様に町人から話しかけるなど簡単にできることではない。舌打ちをした客引きのほうがおかしいのである。
だが、源之輔に声を掛ける者がいた。
「おそれいりますが、馬廻組の駒井様でございますか」
腰の低いさまは商人のようであった。年の頃は三十かそこらというところであろうか。
「お初にお目にかかります。手前は三方屋の手代で弥之助と申します」
三方屋といえば米屋と両替商を営む城下でも屈指の商家である。志緒も幾度かその名を耳にしたことがある。
「いかにも、駒井家の者である」
源之輔の答えに弥之助はにっこりと笑った。
「手前は江戸に参るところですが、駒井様も江戸へおいででございますか」
「いかにも。三方屋は江戸に出店はないはずだが」
「はい。主の使いでございます。江戸では日本橋の旅籠西国屋におりますので御用の節はなんなりとお申しつけくださいまし」
それではお先にと弥之助は茶屋を出た。しっかりとした足取りで歩く振り分け荷物を負った後ろ姿は旅慣れた者のように思われた。
「一体江戸にどのような用件があるのでしょうか」
志緒には商人の行動の理由がまるでわからなかった。三方屋は米を売り買いし両替ということをするのだとしか知らなかった。
「私にもわからない。だが主の使いなら商いの話であろう」
「では関わりのないことですね。それなのに、旦那様に御用の節はと申すのは何故なのでしょうか」
「関わりがないことでもない。三方屋は城下の武家にとってはなくてはならないものなのだ」
また私の知らないことがと志緒は驚きかつ無知な己に呆れていた。三方屋が商人であると知っていても武家にとってなくてはならないとは知らなかった。
「山中の家では扶持米をいただくと家族の糧食分以外は三方屋に買ってもらい銭にしていました。三方屋に銭を借りる家もあります」
「三方屋は銭を貸すのですか」
知らないことばかりだった。源之輔はうなずいた。
「扶持米を担保にするのです。村田様は銭を借りることはなかったのでしょう。あなたが知らないのも無理はない」
山中家は借りていたから源之輔は知っていたのかもしれないと志緒は思った。
「たんぽとは何でしょうか」
「銭が返せなかった時に代わりに差し出すものです」
「つまり銭を返せなかったら扶持米を三方屋に渡すということですか」
「そうです」
藩から支給される扶持米を渡したら食べるものがなくなるのではないか。志緒はそんな恐ろしいことを考えたこともなかった。
湯呑が空になった。
「そろそろ参ろうか。暗くならぬうちに宿場に入らねば」
源之輔の言葉で離れた場所で茶を飲んでいた佐助が立ち上がった。
峠道は両脇に植えられた杉の木のために暗かったが前後に旅人が数組おり心細くは感じられなかった。
時折峠を下って来る旅人や村人は源之輔の姿を見ると脇に寄った。
「さあ、もう一息だ」
源之輔がそう言った時、杉木立の間から光が漏れた。志緒は重くなっていた足取りが軽くなったように思われた。
「気分のよい木漏れ日ですね」
そう言った志緒を源之輔が振り返った。
「あなたは面白いことを言う」
「面白い、ですか。杉の枝の間から差す木漏れ日を見るとなんだか心も足も軽くなったようでしたので」
志緒にとっては意外な源之輔の言葉であった。
「私は木漏れ日を見てもそんなことを考えたこともなかった。だから面白いと思ったのです」
「私もいつもはそのように思わないのですが、今日はなぜかわかりませんがそう感じたのです」
「なるほど。それは旅の効用かもしれない」
「旅の効用ですか」
「はい。古の歌人や今の俳人が歌枕を訪ねて旅をして歌や句を詠むのは、いつも見ているものが旅の空では違って感じられるからかもしれませんね」
志緒は言葉にならない感情で胸がいっぱいになった。
「私達も古の人たちと同じことをしていると」
本当はもっと言いたいことがあるはずなのにうまく言葉にできないのがもどかしかった。
「そうですね。でも志緒さんは心細くすずろなるめを見た業平と違って暗く細い道でも木漏れ日を見て元気になる」
源之輔は笑った。伊勢物語の東下りだと思い出し、志緒も微笑んだ。
「富士の高嶺には雪が降り積もっているのでしょうか」
そう言った時だった。前を歩く二人連れの男のうち背の高い方の声が聞こえた。
「もうすぐ峠のてっぺんだ」
源之輔は言った。
「晴れた日はこの峠から富士の峰が見えるそうですよ。私はまだ見たことがないのですが」
「きっと見られます。今日は雲一つなかったのですから」
志緒は疲れも忘れ足を速めた。
まず、生まれ育った地はあまりにも恵まれていた。関所を過ぎて隣の領国に入った途端に歩きにくいでこぼこ道になった。志緒の知る限り、城下の武家の住まいのある辺りは石畳が敷かれ風があっても土埃が舞うことはほとんどなかった。町人地の道も出来る限りまっすぐ敷き均され歩きやすかった。
道だけではない。人の性格も故郷は温厚だった。が、二里ばかり歩いたところで小さな村を通りかかると旅人目当ての茶屋の客引きが袖をつかまんばかりに志緒を呼び止めようとした。源之輔が間に合っておると言うと、客引きは舌打ちした。驚く志緒に源之輔はこれがよそでは普通なのだと言った。
「それでは御城下は普通ではないのですか」
その問いに源之輔は頷いた。
「御城下は恵まれている。けれどそうではない土地のほうが世間には多い」
「殿様の御蔭でしょうか」
「それもあるが、人の気質というものだろう。御城下は温厚な者が多い」
人の気質。志緒はこれまで出会った人々のことを思い出す。確かにそうかもしれない。けれど、温厚ではない者もいた。少ないけれど。だから皆温厚だと源之輔は言わなかったのだろう。
「旦那様、そろそろ三軒茶屋です」
供の佐助の声で源之輔は足の動きを緩めた。
「そうであった。そこで一休みするとしよう」
「まだ早いのでは」
志緒はまだ歩けると思っている。あと二里は大丈夫だろう。
「明日も明後日も歩くのだ。今日疲れてしまったら明日は歩けなくなる」
それはそうだがと言おうと思ってやめた。荷物を担いでいる佐助の疲れを思えばここらで休んだほうがいいかもしれない。源之輔の母津奈の実家の奉公人で江戸に行った経験のある佐助は頑健な身体つきをしていても父たちと同年代なのだ。
三人が休息したのは峠の手前にある三軒の茶屋の一つだった。地名も三軒茶屋と言う。客引きなど一切しないが峠を越える旅人たちや越えて来た旅人たちで盛況だった。彼らは伊勢参りだとか大坂からの帰りだとか話しながら団子を食べ茶を飲んだ。
だが武家の源之輔と志緒に親し気に話しかける者はいない。当然と言えば当然のことである。お武家様に町人から話しかけるなど簡単にできることではない。舌打ちをした客引きのほうがおかしいのである。
だが、源之輔に声を掛ける者がいた。
「おそれいりますが、馬廻組の駒井様でございますか」
腰の低いさまは商人のようであった。年の頃は三十かそこらというところであろうか。
「お初にお目にかかります。手前は三方屋の手代で弥之助と申します」
三方屋といえば米屋と両替商を営む城下でも屈指の商家である。志緒も幾度かその名を耳にしたことがある。
「いかにも、駒井家の者である」
源之輔の答えに弥之助はにっこりと笑った。
「手前は江戸に参るところですが、駒井様も江戸へおいででございますか」
「いかにも。三方屋は江戸に出店はないはずだが」
「はい。主の使いでございます。江戸では日本橋の旅籠西国屋におりますので御用の節はなんなりとお申しつけくださいまし」
それではお先にと弥之助は茶屋を出た。しっかりとした足取りで歩く振り分け荷物を負った後ろ姿は旅慣れた者のように思われた。
「一体江戸にどのような用件があるのでしょうか」
志緒には商人の行動の理由がまるでわからなかった。三方屋は米を売り買いし両替ということをするのだとしか知らなかった。
「私にもわからない。だが主の使いなら商いの話であろう」
「では関わりのないことですね。それなのに、旦那様に御用の節はと申すのは何故なのでしょうか」
「関わりがないことでもない。三方屋は城下の武家にとってはなくてはならないものなのだ」
また私の知らないことがと志緒は驚きかつ無知な己に呆れていた。三方屋が商人であると知っていても武家にとってなくてはならないとは知らなかった。
「山中の家では扶持米をいただくと家族の糧食分以外は三方屋に買ってもらい銭にしていました。三方屋に銭を借りる家もあります」
「三方屋は銭を貸すのですか」
知らないことばかりだった。源之輔はうなずいた。
「扶持米を担保にするのです。村田様は銭を借りることはなかったのでしょう。あなたが知らないのも無理はない」
山中家は借りていたから源之輔は知っていたのかもしれないと志緒は思った。
「たんぽとは何でしょうか」
「銭が返せなかった時に代わりに差し出すものです」
「つまり銭を返せなかったら扶持米を三方屋に渡すということですか」
「そうです」
藩から支給される扶持米を渡したら食べるものがなくなるのではないか。志緒はそんな恐ろしいことを考えたこともなかった。
湯呑が空になった。
「そろそろ参ろうか。暗くならぬうちに宿場に入らねば」
源之輔の言葉で離れた場所で茶を飲んでいた佐助が立ち上がった。
峠道は両脇に植えられた杉の木のために暗かったが前後に旅人が数組おり心細くは感じられなかった。
時折峠を下って来る旅人や村人は源之輔の姿を見ると脇に寄った。
「さあ、もう一息だ」
源之輔がそう言った時、杉木立の間から光が漏れた。志緒は重くなっていた足取りが軽くなったように思われた。
「気分のよい木漏れ日ですね」
そう言った志緒を源之輔が振り返った。
「あなたは面白いことを言う」
「面白い、ですか。杉の枝の間から差す木漏れ日を見るとなんだか心も足も軽くなったようでしたので」
志緒にとっては意外な源之輔の言葉であった。
「私は木漏れ日を見てもそんなことを考えたこともなかった。だから面白いと思ったのです」
「私もいつもはそのように思わないのですが、今日はなぜかわかりませんがそう感じたのです」
「なるほど。それは旅の効用かもしれない」
「旅の効用ですか」
「はい。古の歌人や今の俳人が歌枕を訪ねて旅をして歌や句を詠むのは、いつも見ているものが旅の空では違って感じられるからかもしれませんね」
志緒は言葉にならない感情で胸がいっぱいになった。
「私達も古の人たちと同じことをしていると」
本当はもっと言いたいことがあるはずなのにうまく言葉にできないのがもどかしかった。
「そうですね。でも志緒さんは心細くすずろなるめを見た業平と違って暗く細い道でも木漏れ日を見て元気になる」
源之輔は笑った。伊勢物語の東下りだと思い出し、志緒も微笑んだ。
「富士の高嶺には雪が降り積もっているのでしょうか」
そう言った時だった。前を歩く二人連れの男のうち背の高い方の声が聞こえた。
「もうすぐ峠のてっぺんだ」
源之輔は言った。
「晴れた日はこの峠から富士の峰が見えるそうですよ。私はまだ見たことがないのですが」
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