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第二章
捌 津奈と津根
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志緒の母津根と幸之助の母津奈は名まえは似ているが姉妹でも親戚でもない。二人はたまたま同じ手習いに通い同い年で名まえが似ていることから親しくなったのだった。津根の父は城の御文庫の役人、津奈の父は評定所勤めの役人で仕事は違うが、家禄がほぼ同じだったこともあり暮らし向きも似ていた。
やがて年頃になり、二人は一緒に城の奥勤めをした。嫁入り前の箔付けの意味もあり短い期間だったが、二人の絆は深まった。
二人は約束した。嫁入りし子どもが生まれたら、子ども同士も親しくさせようと。
先に嫁入りしたのは津根だった。相手は三代前に勘定方の役人として取り立てられた村田家の長男だった。姑はいないが厳格と評判の義父がいる家で津奈は心配していた。翌年には長女の佐登、その三年後には次女の美初良が生まれたもののなかなか男子が生まれなかった。
津奈は津根に遅れること二年後に馬廻役の駒井家に嫁いだ。なかなか子に恵まれなかったがやっと懐妊した。喜びもつかの間、流産した津奈は離縁を考えた。が、姑は津奈を引き留めた。男子が生まれなければ養子をとればいいと。それで気が楽になったわけではないが、津奈は懐妊、幸之助が生まれた。
同じ年、津根にも男子が生まれた。辰之助である。
津奈は津根に同い年の男子が生まれたことを喜び、大きくなったら一緒に遊ばせましょうと文を送った。
だが、津根は遠慮させて欲しいと伝えた。家格が違うからという理由だった。
馬廻組の駒井家は、三河の一大名家でしかなかった頃の東照大権現様(徳川家康)に仕えていた殿様の御先祖様にその頃から仕えていた家中でも古さでは五本の指に入る家だった。
一方、村田家は三代前に勘定方として取り立てられた家である。駒井家に比べ家格が低過ぎた。
だが、津奈は気に掛けなかった。子どもに家柄は関係ないと。どちらの家も殿様にお仕えするのは同じだからと。
ちょうど駒井家では舅と姑が相次いで亡くなったこともあり、家柄をうるさく言う者がいなくなっていた。
また村田家でも厳格な舅が亡くなっていた。
駒井甚太夫は江戸勤番、村田重兵衛は多忙と、父親たちは母親に子どもの教育を任せていた。
結局、津根が折れた。
津根と津奈は折に触れ、子どもを一緒に遊ばせ、七つになると同じ手習い、道場に通わせたのだった。
母親二人には幸之助と辰之助は仲良く学び遊んでいるように見えた。だが、辰之助が手習いに行くのを渋るようになった。津根は辰之助が少し他の子よりも覚えが悪いことに気付いていた。九九を覚え銭の計算もできるのだが、論語の訓読が苦手だったのだ。武家の子が通う手習いで銭の計算を教えるはずもなく、辰之助は手習いでは出来の悪い子だど思われていたのだった。いくら幸之助が一緒とはいえ、できないことが多いのは楽しくないに違いなかった。
津根は津奈に手習いを変えたいと言った。夫が子どもの頃に通った私塾なら辰之助の得意な算学の勉強ができるのだ。だが、津奈はそれを遠慮だと解した。二人の子どもが通う手習いは家格の高い家の子どもが多かったから、津根は家格の低さを恥じているのだと思ったのである。
ここで津奈は大きな間違いを犯した。津根に遠慮はいらないと言い、息子の幸之助に成績の良くない辰之助の勉強を助けるように言ったのである。
子どもの幸之助がそれをどう思ったのかはわからない。
後になって知ったのだが、その頃から幸之助は辰之助に冷たく当たるようになった。遊ぶ約束をして、その場所に行ったら誰もいなかったとか、勉強を教える時に汚い言葉で罵ったとか、親たちの知らないところで幸之助は辰之助を苛めた。さらには幸之助の友人たちまでもが、辰之助を邪険に扱った。
だが、辰之助は我慢した。母親同士の仲の良さを知っていたので子どもなりに気を使い母に何も言えなかったのだ。
津奈はここまで語り、志緒を見た。
「私は本当に愚かだった。その頃に、あなたの姉の美園さま、まだ奥勤めをする前だったけれど、たまたまお使いにうちに来た時に、何かの話のついでに私に言ったの。『幸之助さんと辰之助が本当に仲がいいとお思いですか』と。何を言っているのだろうと思ったけれど、同じ子どもにはわかっていたのね」
姉はその頃まだ十一くらいだったはずである。手習いも遊びも男女別だから、弟の交友関係にさほど詳しいとは思えない。それなのに弟と幸之助の関係に異変があったのに気づくとは。やはり多くの女性のいる奥向きで出世するだけあると思えた。
一方、子どもの言葉だからと深く考えずに幸之助の変化に気付けなかった津奈が愚かだとは志緒には思えなかった。志緒も含めて大抵の大人は子どもの言葉を深く考えたりはしないのだ。誰が親であっても、気付けなかったのではないか。
何より幸之助は賢かった。他の子を黙らせるほどに。親を欺けるほどに。
「母上でなくともわかりますまい」
「母親だからこそわからねばならなかった。津根さんのほうがよほど子のことがわかっていた」
すでに女の子二人を育てていた母と比べても仕方ないような気がした志緒だった。
それは秋に入ったとはいえまだ昼間の暑さの厳しい頃だった。
一か月前に勤番から帰って来た甚太夫は連日馬場に行き馬を責めていた。
幸之助はいつも通り帰宅するとすぐに手習いの復習を始めた。
甚太夫が帰って来るとすぐに夕餉となった。その後は家族の団欒だった。幸之助は手習いで教わった論語を暗誦し甚太夫は馬の話をした。
楽しい時間の後、津奈が台所で湯呑を洗っていると「奥様大変です」と湯屋から帰って来たいよが駆け込んできた。何を慌ててと言う声も聞かずにいよはまくし立てた。
「村田の辰之助坊ちゃんが亡くなられたそうです」
その後は慌ただしかった。津奈は夫に幸之助を頼むと言って村田家へ走った。村田家に近づくと津根の号泣が聞こえた。一番上の佐登は台所で下女らに指示を出し、二番目の美初良は幼い志緒を抱き、父の重兵衛は訃報を知った人々に対応していた。津根は辰之助の眠る床の傍で泣き崩れるばかりであった。
気をしっかりなどと言葉を掛けることもできず、津奈は重兵衛に悔やみの言葉しか言えなかった。
重兵衛は訥々と語り出した。元気に帰って来ていつものように夕食だと呼んだら、頭が痛いと言い何か悪い病ではないかと床を敷いて寝かせたらすぐに息をしなくなった、医者を呼んだがすでに手の施しようがなかった、それがつい一時(約二時間)前のことだと。
突然降りかかった不幸に村田家の人々は打ちひしがれていた。津奈はそれ以上どうすることもできずに駒井家に帰った。
母を待っていた幸之助に津奈は辰之助が亡くなったことを告げた。頭が痛いと言っていたと言った時、幸之助の表情が一瞬こわばったように見えた。
「落馬した者が頭を打ってその時はよくとも後で突然死ぬことはあるが、どこかで頭でも打ったのであろうか」
甚太夫の何気ない言葉に幸之助は目を伏せた。津奈は悲しみを堪えているのだと思い休むように言った。幸之助ははいと言って自室に行った。
翌日、元気のない幸之助を連れて津奈は村田家に弔問に行った。子どもであっても、きちんと別れをさせなければけじめはつかないと甚太夫が言ったのである。
村田家には手習いの友人や師匠、道場の仲間、道場主も来ており辰之助に別れを告げた。
津根は昨夜のように泣いてはいなかったが、無表情で息子の入った棺のそばに座っていた。
「津根さん」
声を掛けたが、心はここにないかのようだった。
やがて棺のふたが閉じられ釘が打たれた。突然、津根は嗚咽の声を漏らした。それにつられ佐登が抱いていた志緒が火のついたように泣きだした。もらい泣きの声があちこちから聞こえた。津奈も泣いた。もし幸之助が同じことになったらと思うと平静ではいられなかった。
野辺の送りを終え帰宅した母子は口数が少なかった。
「母上」
不意に幸之助が何か言いたげに津奈を見た。
「どうしたの」
津奈の問いかけに幸之助は何でもないと言って自室に行ってしまった。
事が起きたのは翌日の夕刻だった。村田重兵衛が突然訪ねて来た。津奈はその顔つきが弔いの時とは全く違うことに驚いた。紅潮した顔、大きく見開かれた目、明らかに怒りを含んだ口調。温厚な彼に何があったのか、津奈にも甚太夫にもわからなかった。
座敷に通された途端、重兵衛の口から出た言葉に甚太夫も津奈も耳を疑った。
「辰之助は柿の木から落ちて頭を打ったと聞いた。柿の木に登って青い柿を取れと言うたのは、幸之助だそうだな」
伝え聞きに過ぎない話ではないかと否定しようにも重兵衛の剣幕はただ事ではなかった。
「一緒にいた子どもにも聞いた。幸之助はいつも辰之助をなぶり者にしていたと」
あり得ないと津奈は思った。が、一昨日の幸之助の態度を思い出した。明らかに息子は動揺していた。
重兵衛は袂から青い柿を出し床に置いた。
「幸之助はこれを辰之助から受け取った後、他の子どもにやったそうだな。青い柿は毒がある故、その子は食わずにおいたそうじゃ」
甚太夫は津奈に幸之助を呼んで来いと言った。津奈は何かに追い立てられるように座敷を出て息子の部屋に向かった。明かり障子の外から座敷に来なさいと言うと、はいと返事があって息子は出て来た。
座敷に入った幸之助はうつむいていた。重兵衛に気付くと、頭を深く下げた。
甚太夫は近くに寄れと言い、辰之助に青い柿を取れと言ったのはまことかと尋ねた。怒気を含んだ重兵衛の言葉とは違い穏やかに聞こえたが、津奈は知っていた。これは深く怒っている時の声だと。
幸之助ははいと小さく答えた。
「村田様、この不届者をいかようにも御成敗くだされ」
甚太夫はそう言って深々と頭を下げた。津奈もそれに続いた。幸之助は青い柿を見つけて叫んだ。
「ごめんなさい。私がわるうございました。柿の実を取るように言うたのは私です」
息子は取り返しのつかないことをしてしまったのだと津奈は身を震わせた。
「成敗しても辰之助は生き返らぬ」
重兵衛は怒りに任せて乱暴なことをする男ではなかった。だが怒りをたやすく忘れる男でもない。ましてや只一人の息子である。
これから詫びに伺うと甚太夫が言うと、妻はとても人に会わせられる状態ではないのでしばらくお二人とも来ないで欲しいと言われた。
重兵衛が帰った後、甚太夫は青い柿の実を息子の目の前に差し出した。
「この柿は辰之助が命を懸けておまえのために取った柿だ。わかるな。どうすべきか」
津奈はやめてと叫んだ。だが、幸之助は青い実を手に取るとそのまま、ガリっと噛んだ。そのまま二口、三口と黙って実を齧り続けた。津奈は嗚咽するしかなかった。
やがて年頃になり、二人は一緒に城の奥勤めをした。嫁入り前の箔付けの意味もあり短い期間だったが、二人の絆は深まった。
二人は約束した。嫁入りし子どもが生まれたら、子ども同士も親しくさせようと。
先に嫁入りしたのは津根だった。相手は三代前に勘定方の役人として取り立てられた村田家の長男だった。姑はいないが厳格と評判の義父がいる家で津奈は心配していた。翌年には長女の佐登、その三年後には次女の美初良が生まれたもののなかなか男子が生まれなかった。
津奈は津根に遅れること二年後に馬廻役の駒井家に嫁いだ。なかなか子に恵まれなかったがやっと懐妊した。喜びもつかの間、流産した津奈は離縁を考えた。が、姑は津奈を引き留めた。男子が生まれなければ養子をとればいいと。それで気が楽になったわけではないが、津奈は懐妊、幸之助が生まれた。
同じ年、津根にも男子が生まれた。辰之助である。
津奈は津根に同い年の男子が生まれたことを喜び、大きくなったら一緒に遊ばせましょうと文を送った。
だが、津根は遠慮させて欲しいと伝えた。家格が違うからという理由だった。
馬廻組の駒井家は、三河の一大名家でしかなかった頃の東照大権現様(徳川家康)に仕えていた殿様の御先祖様にその頃から仕えていた家中でも古さでは五本の指に入る家だった。
一方、村田家は三代前に勘定方として取り立てられた家である。駒井家に比べ家格が低過ぎた。
だが、津奈は気に掛けなかった。子どもに家柄は関係ないと。どちらの家も殿様にお仕えするのは同じだからと。
ちょうど駒井家では舅と姑が相次いで亡くなったこともあり、家柄をうるさく言う者がいなくなっていた。
また村田家でも厳格な舅が亡くなっていた。
駒井甚太夫は江戸勤番、村田重兵衛は多忙と、父親たちは母親に子どもの教育を任せていた。
結局、津根が折れた。
津根と津奈は折に触れ、子どもを一緒に遊ばせ、七つになると同じ手習い、道場に通わせたのだった。
母親二人には幸之助と辰之助は仲良く学び遊んでいるように見えた。だが、辰之助が手習いに行くのを渋るようになった。津根は辰之助が少し他の子よりも覚えが悪いことに気付いていた。九九を覚え銭の計算もできるのだが、論語の訓読が苦手だったのだ。武家の子が通う手習いで銭の計算を教えるはずもなく、辰之助は手習いでは出来の悪い子だど思われていたのだった。いくら幸之助が一緒とはいえ、できないことが多いのは楽しくないに違いなかった。
津根は津奈に手習いを変えたいと言った。夫が子どもの頃に通った私塾なら辰之助の得意な算学の勉強ができるのだ。だが、津奈はそれを遠慮だと解した。二人の子どもが通う手習いは家格の高い家の子どもが多かったから、津根は家格の低さを恥じているのだと思ったのである。
ここで津奈は大きな間違いを犯した。津根に遠慮はいらないと言い、息子の幸之助に成績の良くない辰之助の勉強を助けるように言ったのである。
子どもの幸之助がそれをどう思ったのかはわからない。
後になって知ったのだが、その頃から幸之助は辰之助に冷たく当たるようになった。遊ぶ約束をして、その場所に行ったら誰もいなかったとか、勉強を教える時に汚い言葉で罵ったとか、親たちの知らないところで幸之助は辰之助を苛めた。さらには幸之助の友人たちまでもが、辰之助を邪険に扱った。
だが、辰之助は我慢した。母親同士の仲の良さを知っていたので子どもなりに気を使い母に何も言えなかったのだ。
津奈はここまで語り、志緒を見た。
「私は本当に愚かだった。その頃に、あなたの姉の美園さま、まだ奥勤めをする前だったけれど、たまたまお使いにうちに来た時に、何かの話のついでに私に言ったの。『幸之助さんと辰之助が本当に仲がいいとお思いですか』と。何を言っているのだろうと思ったけれど、同じ子どもにはわかっていたのね」
姉はその頃まだ十一くらいだったはずである。手習いも遊びも男女別だから、弟の交友関係にさほど詳しいとは思えない。それなのに弟と幸之助の関係に異変があったのに気づくとは。やはり多くの女性のいる奥向きで出世するだけあると思えた。
一方、子どもの言葉だからと深く考えずに幸之助の変化に気付けなかった津奈が愚かだとは志緒には思えなかった。志緒も含めて大抵の大人は子どもの言葉を深く考えたりはしないのだ。誰が親であっても、気付けなかったのではないか。
何より幸之助は賢かった。他の子を黙らせるほどに。親を欺けるほどに。
「母上でなくともわかりますまい」
「母親だからこそわからねばならなかった。津根さんのほうがよほど子のことがわかっていた」
すでに女の子二人を育てていた母と比べても仕方ないような気がした志緒だった。
それは秋に入ったとはいえまだ昼間の暑さの厳しい頃だった。
一か月前に勤番から帰って来た甚太夫は連日馬場に行き馬を責めていた。
幸之助はいつも通り帰宅するとすぐに手習いの復習を始めた。
甚太夫が帰って来るとすぐに夕餉となった。その後は家族の団欒だった。幸之助は手習いで教わった論語を暗誦し甚太夫は馬の話をした。
楽しい時間の後、津奈が台所で湯呑を洗っていると「奥様大変です」と湯屋から帰って来たいよが駆け込んできた。何を慌ててと言う声も聞かずにいよはまくし立てた。
「村田の辰之助坊ちゃんが亡くなられたそうです」
その後は慌ただしかった。津奈は夫に幸之助を頼むと言って村田家へ走った。村田家に近づくと津根の号泣が聞こえた。一番上の佐登は台所で下女らに指示を出し、二番目の美初良は幼い志緒を抱き、父の重兵衛は訃報を知った人々に対応していた。津根は辰之助の眠る床の傍で泣き崩れるばかりであった。
気をしっかりなどと言葉を掛けることもできず、津奈は重兵衛に悔やみの言葉しか言えなかった。
重兵衛は訥々と語り出した。元気に帰って来ていつものように夕食だと呼んだら、頭が痛いと言い何か悪い病ではないかと床を敷いて寝かせたらすぐに息をしなくなった、医者を呼んだがすでに手の施しようがなかった、それがつい一時(約二時間)前のことだと。
突然降りかかった不幸に村田家の人々は打ちひしがれていた。津奈はそれ以上どうすることもできずに駒井家に帰った。
母を待っていた幸之助に津奈は辰之助が亡くなったことを告げた。頭が痛いと言っていたと言った時、幸之助の表情が一瞬こわばったように見えた。
「落馬した者が頭を打ってその時はよくとも後で突然死ぬことはあるが、どこかで頭でも打ったのであろうか」
甚太夫の何気ない言葉に幸之助は目を伏せた。津奈は悲しみを堪えているのだと思い休むように言った。幸之助ははいと言って自室に行った。
翌日、元気のない幸之助を連れて津奈は村田家に弔問に行った。子どもであっても、きちんと別れをさせなければけじめはつかないと甚太夫が言ったのである。
村田家には手習いの友人や師匠、道場の仲間、道場主も来ており辰之助に別れを告げた。
津根は昨夜のように泣いてはいなかったが、無表情で息子の入った棺のそばに座っていた。
「津根さん」
声を掛けたが、心はここにないかのようだった。
やがて棺のふたが閉じられ釘が打たれた。突然、津根は嗚咽の声を漏らした。それにつられ佐登が抱いていた志緒が火のついたように泣きだした。もらい泣きの声があちこちから聞こえた。津奈も泣いた。もし幸之助が同じことになったらと思うと平静ではいられなかった。
野辺の送りを終え帰宅した母子は口数が少なかった。
「母上」
不意に幸之助が何か言いたげに津奈を見た。
「どうしたの」
津奈の問いかけに幸之助は何でもないと言って自室に行ってしまった。
事が起きたのは翌日の夕刻だった。村田重兵衛が突然訪ねて来た。津奈はその顔つきが弔いの時とは全く違うことに驚いた。紅潮した顔、大きく見開かれた目、明らかに怒りを含んだ口調。温厚な彼に何があったのか、津奈にも甚太夫にもわからなかった。
座敷に通された途端、重兵衛の口から出た言葉に甚太夫も津奈も耳を疑った。
「辰之助は柿の木から落ちて頭を打ったと聞いた。柿の木に登って青い柿を取れと言うたのは、幸之助だそうだな」
伝え聞きに過ぎない話ではないかと否定しようにも重兵衛の剣幕はただ事ではなかった。
「一緒にいた子どもにも聞いた。幸之助はいつも辰之助をなぶり者にしていたと」
あり得ないと津奈は思った。が、一昨日の幸之助の態度を思い出した。明らかに息子は動揺していた。
重兵衛は袂から青い柿を出し床に置いた。
「幸之助はこれを辰之助から受け取った後、他の子どもにやったそうだな。青い柿は毒がある故、その子は食わずにおいたそうじゃ」
甚太夫は津奈に幸之助を呼んで来いと言った。津奈は何かに追い立てられるように座敷を出て息子の部屋に向かった。明かり障子の外から座敷に来なさいと言うと、はいと返事があって息子は出て来た。
座敷に入った幸之助はうつむいていた。重兵衛に気付くと、頭を深く下げた。
甚太夫は近くに寄れと言い、辰之助に青い柿を取れと言ったのはまことかと尋ねた。怒気を含んだ重兵衛の言葉とは違い穏やかに聞こえたが、津奈は知っていた。これは深く怒っている時の声だと。
幸之助ははいと小さく答えた。
「村田様、この不届者をいかようにも御成敗くだされ」
甚太夫はそう言って深々と頭を下げた。津奈もそれに続いた。幸之助は青い柿を見つけて叫んだ。
「ごめんなさい。私がわるうございました。柿の実を取るように言うたのは私です」
息子は取り返しのつかないことをしてしまったのだと津奈は身を震わせた。
「成敗しても辰之助は生き返らぬ」
重兵衛は怒りに任せて乱暴なことをする男ではなかった。だが怒りをたやすく忘れる男でもない。ましてや只一人の息子である。
これから詫びに伺うと甚太夫が言うと、妻はとても人に会わせられる状態ではないのでしばらくお二人とも来ないで欲しいと言われた。
重兵衛が帰った後、甚太夫は青い柿の実を息子の目の前に差し出した。
「この柿は辰之助が命を懸けておまえのために取った柿だ。わかるな。どうすべきか」
津奈はやめてと叫んだ。だが、幸之助は青い実を手に取るとそのまま、ガリっと噛んだ。そのまま二口、三口と黙って実を齧り続けた。津奈は嗚咽するしかなかった。
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