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第二章
伍 囮
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村田家の三姉妹は元来勝気である。末っ子の志緒は子を失い身体は健康を取り戻していたが、心は回復する途上にあった。
それでも、甥の怯えた顔、家族の怒り、嘆き、悲しみ、悔いを想像しただけで生来の勝気さが甦った。
「参ります」
「いけません、志緒さん」
津奈は志緒に取りすがらんばかりだった。
「吉之進は志緒さまを連れて来いと言っております」
遠藤の三男に怒ったのは甚太夫だった。
「何を申すか! 志緒は我が息子源之輔の妻ぞ。何故、吉之進がかようなことを」
甚太夫の剣幕に少年は後ずさった。
「でも、柴田様や父が志緒さまをお連れしろと」
「参ります。あやつと刺し違えてやります」
志緒は本気でそう思っていた。少年は仰天した。
「刺し違えるって……。志緒さまは囮です。気を取られている隙に捕らえるということで」
そういう策だというのは志緒にもわかる。だが、刺し違える覚悟でなければ、吉之進はすぐに囮と見破るだろう。
「父上、母上、行って参ります。心配しないでください。柴田様は悪いようになさらないはず」
吉之進の立場でよくよく考えてみればわかることだった。山中家から駒井家に来る途中には大勢の捕り手たちが吉之進を待ち構えている。ならばそれよりも近いところに逃げ込むのが得策だろう。志緒の実家村田家なら駒井家よりも近いし、警備も手薄だと吉之進は考えたのだろう。
それに目付の柴田らが気づかなかったのは致し方ない。めったにない火事が起きた上に、座敷牢にいたはずの罪人が二親を斬るという前代未聞の事件が起きたのだ。凶悪な事件に慣れていない善人に悪人の心理がたやすくわかろうはずもない。
だが、柴田とて目付である。吉之進を捕らえるために最善を尽くすはずだった。これ以上の犠牲者を出さないためにも。
「志緒、行ってはならぬ」
甚太夫は立ち上がり陣笠をかぶった。
「わしが参る。馬を引け」
「父上、此度のこと、源之輔さまの妻として私が行かねばならないのです。吉之進は以前私を足蹴にした時に、源之輔さまの奥方かと確かめておりました。幸之助さまのいいなずけだったのに、後釜に乗り換えたとも言っていました。よほど、あの方は源之輔さまを憎んでいるのでしょう。だから妻の私のことも罵ったのでしょう。吉之進に常人の理屈は通りません。父上はどうか、ここでお待ちください」
「なれど……源之輔を養子にし、そなたを嫁にすると決めたのはわし。わしに責任がある」
「責任があるとすれば、吉之進の親御なのではありませんか。父上には何の罪科もありません」
「ならぬ、行ってはならぬ」
「私が参るのは甥のためであり、流れた子のためです」
志緒はそう言うと、甚太夫を振り切って座敷から足袋裸足で庭へ降りそのまま門へ駆けだした。その後を火事装束の遠藤の三男が追いかける。
「ま、待ってください。速い、速過ぎる」
それでもなんとか追いついた。
「急がなくてもいいのです。その間に囲みを増やします」
志緒は走るのをやめ歩きだした。
「それを早く言ってください。遠藤……」
「遠藤弥三郎です」
「弥三郎殿、柴田様達はどちらに」
「向かい側の吉田様の屋敷です」
村田家を見張るのにちょうどいい場所に吉田家はあった。庭には塀よりも高い欅の木があり、そこから村田家を覗けるはずである。三姉妹は子どもの頃、吉田家の子ども達と遊んでいてよく欅に登って自宅を見たものだった。吉田家では子ども達に登ることを禁じていた。他家を覗くなど無礼にもほどがあるという理由である。
「よい場所を選びましたね。欅の木から覗けます」
「でも障子を閉めたらわかりません」
「確かに。でも、見るだけでいろいろなことがわかるものです。それに、もし吉之進が出て来たら、弓で射殺すこともできます」
「射殺す……」
少年は志緒の口から出た言葉にまたも仰天した。
「そうだわ、柴田様はうちの後ろ側の佐伯様のほうにも人を置いているのかしら。うちと佐伯様の家の間の塀は低いからそちらから逃げられるかもしれない」
少年は小走りになっていた。志緒の足が速いからである。
明るくなったせいか、通りに人が増えてきた。中には騒ぎを知って勘定方の住む町の方へ向かう物見高い者たちもいた。
だが、町人は武家地の入り口近くで役人達に止められた。武家の者も勘定方の関係者以外は入れなかった。
遠藤弥三郎は駆け出し、役人に志緒が来たことを知らせた。
役人の一人には見覚えがあった。横目の家に養子に入った吉田家の次男坊だった。
「志緒さま、こちらへ」
次男坊は志緒を村田家のある通りへと案内した。志緒にとっては通り慣れた道に大勢の捕り方たちが緊張した面持ちで武器を手に等間隔に立っていた。通りを志緒が歩く姿のほうが異様に思われた。
吉田家に入ると柴田儀兵衛が自ら出迎えた。わずかに白髪の混じった頭の柴田は志緒の父よりも年長だが、目つきは鋭かった。
汚れた足袋を脱いで、玄関の隣の小部屋に入った。
「よくぞ、お越しくださった」
柴田は娘ほどの年の志緒に対して丁重に頭を下げた。
「柴田様、新之助は無事なのですか」
「先ほど庭の欅から見たが、わからぬ。戸をすべて締め切っておるのだ。御家族はこちらにおる。姉上が吉之進と小競り合いになって腕を少し切られたが無事だ」
姉にまで怪我をさせるとは、ますます吉之進を許せない志緒だった。
「佐伯様の家にも捕り方はいるのですか」
「うむ。奉行所の者らがそちらにおる。事と場合によってはそちらから村田家に入って吉之進を捕らえる」
「それはまだお待ちください。私を囮にされるのでしょう」
「よろしいのか」
柴田の鋭い目が光ったように見えた。
「はい。刺し違える覚悟で参りました」
志緒の小脇差を柴田は見た。
「くれぐれもそれは抜かれぬように。吉之進の心は普通ではない。刃を見れば獣になるやもしれぬ」
「刃を見ずとも獣と同じ振舞はすでにしております」
柴田は志緒の受けた仕打ちを思い出した。
「命大事に。あなたには大勢の家族がいる。源之輔殿を悲しませてはならぬ」
「はい。なれど、すでに山中吉之進は夫を悲しませ苦しませております」
志緒は子を失って二十日後に来た源之輔からの文を思い出していた。兄吉之進のせいで志緒が苦しんでいることを詫びる言葉が連ねられていた。遠く離れた志緒の悲しみを思う源之輔の筆の運びはひどく乱れていた。志緒は自分よりもずっと源之輔が苦しいのだと感じた。
「だがそれを抜くのは最後の手段。荒事は我らの方が慣れておる」
柴田は志緒に手筈を話した。志緒が一人で村田家に行く。その間に村田家を取り囲む捕り方を増やす。庭におびき出した吉之進を塀の上から弓で射るという策であった。弓を射るのは城下の弓道場の師範である。
もし外に出ようとしなかった場合のことを志緒は尋ねた。柴田は四半刻(約三十分)たっても庭に出てこなかった場合、佐伯家側の床下から押し入ると言った。
確かに床下からなら各部屋の下に移動できた。
「その際も新之助の命は必ず助ける。だから、その脇差は使ってはならぬ」
柴田は志緒にあくまでも人を傷つけさせたくないようであった。気遣いは無用だと志緒は思う。脇差は道具に過ぎない。道具を使わずとも、人を傷つけるのはたやすい。現に志緒は吉之進の言葉に傷付いていた。子の流れた直後はそのことで頭がいっぱいだったが、身体が回復するにつれ、言葉の刃が志緒の心を責め苛んだ。吉之進の言ったことだから気にする必要はないのだと頭ではわかっていても容易に心の傷は消えるものではなかった。
もしまた吉之進が新之助を傷つけようとしたり志緒に心無い言葉を投げたりするようなことがあったら、脇差を使うのを躊躇うまい。志緒は柴田に頷きながらも心の中で静かに誓っていた。
それでも、甥の怯えた顔、家族の怒り、嘆き、悲しみ、悔いを想像しただけで生来の勝気さが甦った。
「参ります」
「いけません、志緒さん」
津奈は志緒に取りすがらんばかりだった。
「吉之進は志緒さまを連れて来いと言っております」
遠藤の三男に怒ったのは甚太夫だった。
「何を申すか! 志緒は我が息子源之輔の妻ぞ。何故、吉之進がかようなことを」
甚太夫の剣幕に少年は後ずさった。
「でも、柴田様や父が志緒さまをお連れしろと」
「参ります。あやつと刺し違えてやります」
志緒は本気でそう思っていた。少年は仰天した。
「刺し違えるって……。志緒さまは囮です。気を取られている隙に捕らえるということで」
そういう策だというのは志緒にもわかる。だが、刺し違える覚悟でなければ、吉之進はすぐに囮と見破るだろう。
「父上、母上、行って参ります。心配しないでください。柴田様は悪いようになさらないはず」
吉之進の立場でよくよく考えてみればわかることだった。山中家から駒井家に来る途中には大勢の捕り手たちが吉之進を待ち構えている。ならばそれよりも近いところに逃げ込むのが得策だろう。志緒の実家村田家なら駒井家よりも近いし、警備も手薄だと吉之進は考えたのだろう。
それに目付の柴田らが気づかなかったのは致し方ない。めったにない火事が起きた上に、座敷牢にいたはずの罪人が二親を斬るという前代未聞の事件が起きたのだ。凶悪な事件に慣れていない善人に悪人の心理がたやすくわかろうはずもない。
だが、柴田とて目付である。吉之進を捕らえるために最善を尽くすはずだった。これ以上の犠牲者を出さないためにも。
「志緒、行ってはならぬ」
甚太夫は立ち上がり陣笠をかぶった。
「わしが参る。馬を引け」
「父上、此度のこと、源之輔さまの妻として私が行かねばならないのです。吉之進は以前私を足蹴にした時に、源之輔さまの奥方かと確かめておりました。幸之助さまのいいなずけだったのに、後釜に乗り換えたとも言っていました。よほど、あの方は源之輔さまを憎んでいるのでしょう。だから妻の私のことも罵ったのでしょう。吉之進に常人の理屈は通りません。父上はどうか、ここでお待ちください」
「なれど……源之輔を養子にし、そなたを嫁にすると決めたのはわし。わしに責任がある」
「責任があるとすれば、吉之進の親御なのではありませんか。父上には何の罪科もありません」
「ならぬ、行ってはならぬ」
「私が参るのは甥のためであり、流れた子のためです」
志緒はそう言うと、甚太夫を振り切って座敷から足袋裸足で庭へ降りそのまま門へ駆けだした。その後を火事装束の遠藤の三男が追いかける。
「ま、待ってください。速い、速過ぎる」
それでもなんとか追いついた。
「急がなくてもいいのです。その間に囲みを増やします」
志緒は走るのをやめ歩きだした。
「それを早く言ってください。遠藤……」
「遠藤弥三郎です」
「弥三郎殿、柴田様達はどちらに」
「向かい側の吉田様の屋敷です」
村田家を見張るのにちょうどいい場所に吉田家はあった。庭には塀よりも高い欅の木があり、そこから村田家を覗けるはずである。三姉妹は子どもの頃、吉田家の子ども達と遊んでいてよく欅に登って自宅を見たものだった。吉田家では子ども達に登ることを禁じていた。他家を覗くなど無礼にもほどがあるという理由である。
「よい場所を選びましたね。欅の木から覗けます」
「でも障子を閉めたらわかりません」
「確かに。でも、見るだけでいろいろなことがわかるものです。それに、もし吉之進が出て来たら、弓で射殺すこともできます」
「射殺す……」
少年は志緒の口から出た言葉にまたも仰天した。
「そうだわ、柴田様はうちの後ろ側の佐伯様のほうにも人を置いているのかしら。うちと佐伯様の家の間の塀は低いからそちらから逃げられるかもしれない」
少年は小走りになっていた。志緒の足が速いからである。
明るくなったせいか、通りに人が増えてきた。中には騒ぎを知って勘定方の住む町の方へ向かう物見高い者たちもいた。
だが、町人は武家地の入り口近くで役人達に止められた。武家の者も勘定方の関係者以外は入れなかった。
遠藤弥三郎は駆け出し、役人に志緒が来たことを知らせた。
役人の一人には見覚えがあった。横目の家に養子に入った吉田家の次男坊だった。
「志緒さま、こちらへ」
次男坊は志緒を村田家のある通りへと案内した。志緒にとっては通り慣れた道に大勢の捕り方たちが緊張した面持ちで武器を手に等間隔に立っていた。通りを志緒が歩く姿のほうが異様に思われた。
吉田家に入ると柴田儀兵衛が自ら出迎えた。わずかに白髪の混じった頭の柴田は志緒の父よりも年長だが、目つきは鋭かった。
汚れた足袋を脱いで、玄関の隣の小部屋に入った。
「よくぞ、お越しくださった」
柴田は娘ほどの年の志緒に対して丁重に頭を下げた。
「柴田様、新之助は無事なのですか」
「先ほど庭の欅から見たが、わからぬ。戸をすべて締め切っておるのだ。御家族はこちらにおる。姉上が吉之進と小競り合いになって腕を少し切られたが無事だ」
姉にまで怪我をさせるとは、ますます吉之進を許せない志緒だった。
「佐伯様の家にも捕り方はいるのですか」
「うむ。奉行所の者らがそちらにおる。事と場合によってはそちらから村田家に入って吉之進を捕らえる」
「それはまだお待ちください。私を囮にされるのでしょう」
「よろしいのか」
柴田の鋭い目が光ったように見えた。
「はい。刺し違える覚悟で参りました」
志緒の小脇差を柴田は見た。
「くれぐれもそれは抜かれぬように。吉之進の心は普通ではない。刃を見れば獣になるやもしれぬ」
「刃を見ずとも獣と同じ振舞はすでにしております」
柴田は志緒の受けた仕打ちを思い出した。
「命大事に。あなたには大勢の家族がいる。源之輔殿を悲しませてはならぬ」
「はい。なれど、すでに山中吉之進は夫を悲しませ苦しませております」
志緒は子を失って二十日後に来た源之輔からの文を思い出していた。兄吉之進のせいで志緒が苦しんでいることを詫びる言葉が連ねられていた。遠く離れた志緒の悲しみを思う源之輔の筆の運びはひどく乱れていた。志緒は自分よりもずっと源之輔が苦しいのだと感じた。
「だがそれを抜くのは最後の手段。荒事は我らの方が慣れておる」
柴田は志緒に手筈を話した。志緒が一人で村田家に行く。その間に村田家を取り囲む捕り方を増やす。庭におびき出した吉之進を塀の上から弓で射るという策であった。弓を射るのは城下の弓道場の師範である。
もし外に出ようとしなかった場合のことを志緒は尋ねた。柴田は四半刻(約三十分)たっても庭に出てこなかった場合、佐伯家側の床下から押し入ると言った。
確かに床下からなら各部屋の下に移動できた。
「その際も新之助の命は必ず助ける。だから、その脇差は使ってはならぬ」
柴田は志緒にあくまでも人を傷つけさせたくないようであった。気遣いは無用だと志緒は思う。脇差は道具に過ぎない。道具を使わずとも、人を傷つけるのはたやすい。現に志緒は吉之進の言葉に傷付いていた。子の流れた直後はそのことで頭がいっぱいだったが、身体が回復するにつれ、言葉の刃が志緒の心を責め苛んだ。吉之進の言ったことだから気にする必要はないのだと頭ではわかっていても容易に心の傷は消えるものではなかった。
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