ふたりの旅路

三矢由巳

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第二章 

壱 喜びと悲しみと(R15)

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 志緒は母の喜びと悲しみをわずか一か月の間に知った。




 源之輔と志緒の生活は思いのほか順調だった。
 昼間はあまり饒舌ではない源之輔だったが、ねやでは饒舌だった。口だけでなく、手も足も何もかもが志緒を愛おしんだ。
 こんなことに慣れるのだろうかと思っていた志緒だったが、意外なほど早く順応してしまった。
 一か月もすると祝言の前の生活が嘘のように思われた。閨での睦み合いが特別なことではなく生活の一部になっていた。しかも日ごとに深みが増していった。床の中で志緒は源之輔の新たな面を知った。また源之輔も志緒自身も知らぬ志緒を発見していた。

「あなたは口吸いをすると、すぐに気をやってしまう」

 事後に源之輔にそんなことを囁かれれば、志緒は赤面するしかなかった。その様子を見て源之輔はさらに志緒をかき抱いた。
 養父母の甚太夫と津奈にも二人の睦まじさは察せられた。これで一安心、子を授かるのも時間の問題と喜んでいた。
 だが、年が明けると厄介な問題が駒井家に降りかかった。
 源之輔に江戸勤番が命じられたのである。
 例年、勤番は前年の十一月頃に発表される。その時には源之輔の名はなかった。だが、年が明け十一日の具足開きの翌日に、馬廻組頭の遠藤弥兵衛が源之輔を呼び出し江戸勤番に命じられたと告げた。
 甚太夫が弥兵衛から聞いた話では、十一月に命じられた馬廻組の者が病を得たので、その代わりということらしかった。
 祝言を挙げて一年もたたぬのに勤番とはと甚太夫は愚痴をこぼしたが、源之輔は代わりなら一年で終わるはずと逆に義父を慰めた。
 御家のためなら仕方ないと志緒は己を納得させたが、やはり心の底では源之輔のいない生活に耐えられるか不安だった。
 義妹の佐江は怒っていた。

「ひどいわ。ああ、御家老様になんとかしてもらえたら。寛次郎さんがやめろって言うからできないのが、口惜しい」
「江戸にはいつかは行かなければいけないことだもの」
「だけど山中の家にいる時も二年以上、江戸に行ってるんでしょ。ひどいわ。きっと、お姉さまたちが仲がいいのを妬んでいる人たちが決めたんだわ」
 
 佐江は昨年暮れに家老の岡本寛右衛門の次男寛次郎に嫁いでいた。本来次男は兄に万が一のことがあった場合の備えであり、部屋住みとして嫁を迎えることはできない。
 だが、父の寛右衛門は敢えて次男を分家させた。長男の寛兵衛もそれなりに優秀だが、寛次郎は学問に秀でており部屋住みにするには惜しいと皆が口をそろえて言うほどであった。ならばと一家を構えさせることにしたのだった。
 縁組相手は寛兵衛の妻の実家より家格は低いが、それなりの家柄の者ということで馬廻組の駒井家の佐江が選ばれたのである。家老からの話だったので駒井家は断れなかった。幸之助の一周忌と志緒の嫁入りが終わるまでは公表しないと取り決め、それは守られた。
 公表後は分家とはいえ家老の岡本家と縁戚になるということで、駒井家に祝いに来る客が多かった。
 勘定方に育った志緒は慣れぬ来客の多さに最初はとまどったが、慣れてくれば応対も楽しかった。
 こうして佐江は年の瀬に岡本寛次郎に嫁いだ。明るい佐江が嫁ぎしばらくは駒井家も静かになると思ったが、嫁いだ翌日だけでなく、その翌日も佐江は寛次郎とともに駒井家を訪ねて来た。寛次郎は源之輔と話が合い、二人は頻繁に交流するようになった。そうなると佐江も実家に一緒に出入りし、駒井家は賑やかになった。
 津奈はたまには御家老様のところに顔を出すように言ったが、佐江ははいはいと言うばかりであった。
 正月は家老の家に挨拶に行ったようだが、それも一日だけで三日に一度は佐江は実家に顔を見せた。
 この日佐江は一人で実家に来ていた。

「妬むなんて、そんな卑しい人がいるわけないでしょ」
「それがいるんだって。この前、岡本の家に年始の挨拶に行ったのだけれど、寛次郎さんをやっかむ親戚がいてね。嫌味ったらしいったらありゃしない」

 よほど嫌な思いをしたらしく、佐江は顔をしかめた。

「お姉さまもこれからは気を付けてね。源之輔お兄さまが出世したら必ず嫌なことを言う人が出てくるから」
「出世って馬廻組なのに」
「殿様の側用人そばようにんになることだってあるのよ。遠藤様のおじいさまが側用人だったんですって」
「いくらなんでもそんなこと」

 ふだん口数がさほど多くない源之輔が側用人になるとは思えなかった。
 昔は馬廻組は文字通り馬に乗って殿様の側近く仕えていたというが、合戦のない今の世は外出する殿様やその一族の警備をするのが主な仕事になっていた。だからこそ北辰一刀流の道場に行っていた源之輔が駒井家の養子になったのである。側用人という殿様と家臣の間をとりもつような難しい役目を源之輔がするとは思えない。
 その夜、佐江の言ったことを話すと源之輔は意外にも側用人にならなくともそういうことはありえると言った。

「私が養子になった時でさえ、いろいろ言う人がいたものだ」

 ふと山中杉のことを思い出した。図々しい頼み事の中に三男のことがあったのを思い出した。三男を勤番に連れて行って欲しいと津奈に頼み断られていたことを。彼女が生さぬ仲の源之輔が駒井家の養子になると知った時、恐らく何故三男ではないのかと思ったのではないか。彼女なら源之輔に嫌味の一つくらい言ってもおかしくない。

「でも、気にすることはない。上役の方が決めたことだ。それよりも」

 源之輔は小さな声で囁いた。

「出立する前に子ができるように、もう少し頑張ろう」
「頑張るって、これ以上は」
「子がいると思えば江戸で頑張れると思うのだ」
「私だけでは駄目ですか」
「そんなことはないが、あなたと子どもが二人で国で待っていると思えば二倍、三倍の力が出せると思う」

 そんなやり取りをした二カ月後、志緒の懐妊が明らかになった。
 米を炊く匂いで吐いたのを見て津奈が医者を呼ぶと、診察の後、月のものがここ数か月ないと聞き懐妊だと診断した。
 出立を五日後に控えた源之輔が喜んだのは言うまでもなかった。甚太夫も津奈もそのありさまには驚いた。源之輔がこれほど喜ぶとは思ってもいなかったのだ。

「よくやった。志緒が無事に元気な子を生むように早速八幡様にお参りしてこよう。いや、愛宕様か。戌の日はいつかな」

 帯祝いにはまだ早いと津奈も呆れるほどだった。
 志緒が食事ができないのを見ると、蜜柑ならいいだろうと言って実父の伝手を頼って近郊の百姓から蜜柑を手に入れた。
 志緒は気分は悪かったが、源之輔の喜びようを見ればなんとか我慢はできた。蜜柑もおいしく食べられた。
 蜜柑を食べた翌日、源之輔は他の藩士とともに江戸へ旅立った。志緒はむかつきを我慢して見送った。源之輔の姿が見えなくなると、すぐに井戸端に行き朝食べたものを吐いた。
 その日以降、志緒は悪阻つわりで寝付いた。少しでも気分がよくなると握り飯を食べたが、すぐに吐くという繰り返しだった。それでも次第に食べられるようになった。
 見舞いに来た村田の母はこれくらいの悪阻ならまだ軽い方だと言った。佐登の時は水を飲んでも吐いていたと。そんな悪阻があるのかと志緒は恐ろしくなった。
 
「お産はもっと大変よ。悪阻とはまた違う。だから、悪阻が軽くなってきたら、身体を動かすようになさいね。御不浄の掃除をすると可愛い子が生まれるというし」

 津根は山中藤兵衛から預かった蜜柑も持ってきていた。志緒は山中藤兵衛によろしく伝えて欲しいと言った。
 津根は志緒の寝所から出ると津奈の元へ向かった。
 蜜柑の出どころのが山中家であると聞くと津奈は不安そうな顔で尋ねた。

「山中の家のことで妙な噂を聞きませんでしたか」

 津根は頷いた。

「ええ。志緒には言わないでくださいね。吉之進殿が近頃悪所に通っているとか。先日も酔って町をうろついていたと。横目が吉之進殿を監視しているらしいと夫が申しておりました」
「横目が」

 横目は武家を監視する目付の配下である。素行の悪い子弟も監視の対象になることがあった。もし吉之進が決定的な悪事を働けば横目に摘発され、吉之進は廃嫡、悪くすれば山中家は謹慎になりかねない。
 二人は山中家の今後を憂い、巻き込まれぬようにせねばと策をめぐらすのだった。





 江戸に無事に着いたという源之輔の文が届いた頃から三食食べられるようになった。
 志緒は起き上がり身体を動かすようになった。さすがに小太刀はできなかったが、掃除をしたり台所の手伝いはできた。米を炊く匂いは駄目だったので、出来ることは限られていたが。
 それでも志緒は幸せを感じられた。源之輔の帰りを自分と我が子で迎える。それを想像するだけで幸せだった。
 そんなある日、姉の美初良みそらが訪ねて来た。亀の方の許しを得て見舞いに来たのだった。
 見舞いの品は城の厨で作られたカステイラや干菓子だった。

「亀の方様が持って行くようにと仰せで」

 同席した津奈は勿体ないと言うことしきりだった。志緒もめったに見たことのないカステイラに驚くばかりだった。
 中臈というのは本当に大したものだと津奈も志緒も感じ入った。
 城には門限があるので、まださほど日は傾いていないのに美初良は駒井家を辞した。
 志緒と津奈は美初良の乗った駕籠を門前まで見送った。
 警護の侍とお供の奥女中らを引き連れた駕籠の行列は近辺では珍しかった。
 遠ざかる姿に志緒は姉上は姉上の幸せを見つけたのだと思った。自分のように結婚して子どもを産むのも幸せだが、奥で出世するのもまた幸せの形なのかもしれなかった。

「中に入りましょうか」

 津奈に促されて戻ろうとした時だった。

「おい、源之輔の奥方だな」

 だみ声に志緒は振り返った。覚えのない顔だった。
 津奈ははっとして志緒と男の間に割って入った。男はまだ日が出ているのに、明らかに酔っていた。山中吉之進に違いなかった。

「志緒さん、中へ」
「どけ、ばばあ!」

 男は津奈を片手で振り払った。津奈はよろけてその場に尻餅を突いた。

「お母さま!」

 志緒は津奈を立たせようと腕をつかんだ。この男は危険だ。相手にしてはならない。
 が、男の動きは酔っているくせに速かった。低い姿勢になっていた志緒を足蹴にしたのだ。

「きゃっ」

 志緒は地面に転がされた。

「けっ、幸之助のいいなずけだったくせに、後釜にさっさと乗り換えやがって」

 男の言葉は毒針のように志緒に刺さった。

「この狼藉者が」

 女たちの声に気付いて隣の屋敷の下男が飛び出して来たかと思うと、酔っ払いを後ろから蹴り飛ばした。
 
「この野郎」

 酔っ払いは起き上がろうとした。が、他の屋敷から出て来た人々に取り押さえられた。
 志緒は安堵した。が、起き上がれなかった。

「志緒さん、志緒さん」

 起き上がった津奈の問いかけに志緒は呻くことしかできなかった。

「うう、腹が……」

 近所の人々の助けで屋敷に運ばれた志緒は出血していた。
 医師は残念ながら御子は流れましたと告げた。
 わずか一か月の喜びは長い悲しみにとって代わった。





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