ふたりの旅路

三矢由巳

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第一章

拾 初めての夜(R15)

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 祝言は無事に終わった。来客たちは皆若い花婿と花嫁を心から祝った。酔い潰れるほど飲んだ山中吉之進を近所に住む者が連れ帰ったのを潮に、客達は引き上げて行った。
 後に残った村田家の両親、義兄、姉、甥も花婿と花嫁に見送られ帰宅した。
 志緒は先に津奈に寝所に案内された。
 座敷に誰もいなくなったのを見計らい甚太夫は下戸の源之輔と茶を酌み交わした。

「本当にそなたがうちに来てくれてありがたい。志緒さんと二人で駒井家をよろしく頼む」
「おそれいります。私こそ、父上や母上のひとかたならぬ御心に感謝しております」
「藤兵衛殿から事情は聞いた。もしこの家を出なければならなくなったら、志緒さんも連れて行ってくれ」
「さようなことはあり得ません。私は駒井家の者になったのですから」
「わしもそんなことはないと思いたい。だが、この世は何が起きるかわからぬ。幸之助のようなこともある」
「父上……」
「藤兵衛殿からわしは役目を引き継いだのだ。御家のために」

 甚太夫の声には並々ならぬ張りがあった。

「さて、年寄りの話はこの辺にしておこう。そろそろ支度も整ったはず。よいか、焦るな。花嫁は初めてのことゆえ身も心も硬くなっている。それを軟らかくするのが腕の見せ所」
「お言葉肝に銘じます」
「頼むぞ、息子よ」

 自信はないがやれるだけのことをやる。源之輔は己がこれまでやって来たようにやるしかないと覚悟を決めた。





 志緒は津奈の手伝いで白無垢を脱ぎ、寝間着に着替えた。高島田に結った髪は解いた。明日の朝には丸髷に結うのだ。

「お母さまやお姉さまから話は聞いていると思うけれど、何があっても驚かないように。それから、たぶん殿方の望むままにするように、逆らってはいけないと言われているかもしれないけれど、嫌なことは嫌と言っていい。たぶん、源之輔はそれくらいのことであなたを嫌うはずないと思う」
「わかるのですか」
「なんとなくね」

 津奈の勘だった。長年の結婚生活で、閨のことは人の本性が出るものだと津奈は感じていた。いつも朗らかで明るい夫が閨で津奈に見せる顔は誰も知らぬ彼の本性だった。だが、津奈はそれも含めて夫を受け入れた。津奈が受け入れられる限度の内にあったからである。
 源之輔の本性は正直わからない。だが彼が志緒を嫌っていない、いやそれどころか好意を抱いていることを隠そうとしても津奈にははっきりとわかった。彼が志緒を閨で粗略に扱うはずはないと思えた。
 志緒のほうは源之輔ほど強い思いはまだないように思われた。幸之助のことがあるから致し方ない。長い間いいなずけだった相手のことを簡単に忘れるほうがおかしいのだ。だが、源之輔は遠からず志緒の幸之助への思いを薄めてしまうだろう。それでいいのだと津奈は思う。去る者は日日に疎しだ。思い出になった人は美しい。幸之助の美しい思い出だけを心に秘めておいてくれればいい。

「失礼します」

 源之輔の声が聞こえた。

「それでは、私はこれで」

 襖を開けて津奈は出て行った。入れ替わりに寝間着に着替えた源之輔が入って来た。
 床の前で志緒は姿勢を正した。
 源之輔は志緒の前に正座した。志緒の胸の鼓動は一気に早くなった。

「志緒さん、疲れていませんか」

 予想もしなかった問いに志緒は意表を突かれた。

「いいえ。疲れてはいません」

 本当は志緒は疲れていた。源之輔に気を使わせてはいけないような気がしたのだ。

「よかった。男の私でも少し気疲れしたので、あなたはどうかと心配で」

 源之輔も疲れていたのかと志緒は安堵すると同時に、正直な人だと思った。

「本当は私も少し疲れています。だって、朝からいろいろふだんと違うことばかりで」

 源之輔は頷いた。

「私もです。でも、今日だけです。こんな日が毎日続いたら大変です」
「まあ」

 志緒は思わず笑ってしまった。祝言は一回だけ。二回はないのだ。
 源之輔も微笑んだ。幸之助の人懐こい笑みとは違う。けれど志緒を安堵させるような笑みだった。こんな顔もするのかと志緒は不思議な気がした。

「少し横になりませんか。この姿勢で話すと疲れるでしょう」
「はい」

 源之輔は床に掛けられた夜着をそっと取り、先に横になった。志緒もそれに続いた。身体が触れないように少し間を空け夜着を掛けた。
 横に目を向けると枕元に置かれた有明ありあけ行灯あんどんの光がほのかに源之輔の横顔を照らした。

「話をいざしようとすると、難しいものですね。何を話せばいいのかわからなくなる」
「江戸の話を聞かせてくださいませんか」
「つまらないですよ」
「江戸に行った人の話を聞いたことがないのです。父は話をしてくれないし、義兄は行ったことがないのです」
「わかりました」
「江戸までどのくらいかかるのですか」
「十日ほどです。でも川止めがあればもう少しかかります」
「川止めって何ですか」
「大雨が降って川の水嵩が増すと、川を渡れないのです。大きな川には橋が架かっていないので」
「橋が架かってないのですか」
「ええ」
「何故ですか」
「橋があると、江戸を攻めようとする者がすぐに江戸に行けてしまうからです」
「江戸を攻める? そんな者がいるのですか」
「今はいないはずですが、昔は戦が多かったのです。東照大権現様が江戸に城を築き大坂方を倒しても、油断できなかったのでしょう」
「では橋を架ければよいのに」
「そうですね。でも、もし橋を架けたら船頭や川越かわごし人足にんそくの仕事がなくなります。川止めのおかげで川の近くの宿屋も儲かりますし。橋を架けると宿場への影響が大きくなる」
「旅人が難儀するのに……なんだか、変な話ですね」
「ええ。そういう話はあちこちにあるんですよ」
「あ、そうだ。街道を通らずに船で江戸まで行けばいいのではありませんか。そうすれば川止めは関係ないでしょ」
「参勤では船で江戸へ行ってはならないのです」
「それはおかしいです。もし、万が一、江戸に何か起きたら船なら早く行けるんじゃありませんか。街道を使ってたら公方様を助けられないかもしれないのに」

 源之輔が何も言わないので、怒っているのかもしれないと志緒は思った。おかしいですと源之輔に対して言ってしまったのがまずかったのか。
 
「源之輔さま?」
「……あ、つい考え事をしてしまって。申し訳ありません」
「差し出がましいことを言ってしまったからですか」
「いえ。海から攻められたらと考えたものですから。もし異国が船で来たらと」
「いこく?」
「日本とは違う別の国のことです。清や朝鮮、阿蘭陀、それ以外にも多くの国があるのです」
「攻めてくるのですか」
「それはわかりません。ただ、近頃異国の船が近海に姿を見せるようになっています。彼らが何を考えているのかわからないので」
「何を考えているかわからないって恐ろしいですね」
「そうですね」

 新婚初夜の床の中の会話とは思えないことを二人は語り合っていた。
 だが、志緒は楽しかった。異国のことなど知らないけれど、源之輔が真面目に志緒の話の相手をしてくれるだけで満足だった。
 だが、源之輔はそうではなかった。男としての本能は志緒と話すだけでは満たされなかった。 

「私が今何を考えているかわかりますか」

 不意に話題が変わり、志緒は再び意表を突かれた。

「眠いのですか」

 疲れたと言っていたから眠いのだと志緒は単純に考えた。

「いえ。眠くはありません」
「お疲れでは」
「……」

 しばしの沈黙があった。志緒は再び横を見た。源之輔が顔をこちらに向けていた。その目の輝きが尋常ではないことに気付いた。決して有明行灯の光のせいではなかった。

「源之輔さ、」

 志緒の言葉と思考の速度を越えた素早さと力強さで源之輔は志緒を抱き締めていた。

「私の妻になって欲しい」

 いつもよりいっそう低い声だった。

「もう妻です」
「夫としての務めを果たさせて欲しい」

 さすがにこれでわからぬほど志緒も鈍くはなかった。

「はい、かしこまりました」

 返事が終わると同時に志緒の唇に源之輔の唇が重ねられた。志緒が驚く暇もなく、源之輔の手は志緒の寝間着の合わせから分け入った。

「驚かせて申し訳ない。痛いなら痛いと言ってくれ」

 源之輔はそう言うと、再び唇を合わせながら志緒の肌をまさぐった。
 唇を合わせたままでは痛いともなんとも言えぬと思っていると、唇が離れた。そして首筋に吸い付いたかと思うと徐々に下へと下がっていく。手は胸のふくらみに触れていた。
 痛くはなかった。けれど、手の動きにつれ、身体がゾクゾクとしてきた。寒気ではない。蛇を見た時のような怖気でもない。何か新しいことが始まるような気がした。
 肌から唇を離した瞬間、囁かれた。

「志緒、ずっとこの日を待っていた」
「え?」

 ずっと。そんなに長い月日だっただろうか。養子縁組の話が出たのは幸之助の一周忌の後、今はまだ中秋。三か月ほどである。志緒の疑問はすぐに源之輔にかき消された。源之輔はいつの間にか下帯一つになっていた。
 その姿は案山子ではなかった。着痩せして見えていただけで、胸も腹も筋肉をまとっていた。腕も太腿もがっしりとしていた。 
 志緒は帯を自ら解いた。源之輔だけが裸なのはなんとなく申し訳ない気がしたのだ。

「なんと美しい」

 面と向かって言われるとは思わず、志緒は真っ赤になった。同時に身体がひどく高ぶるのを覚えた。一体これは何だろうか。

「源之輔さま、夏でもないのに、なんだか身体が熱くなって参りました」

 その言葉が源之輔の本能をさらに燃え上がらせた。




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