ふたりの旅路

三矢由巳

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第一章

参 一周忌と明鏡止水

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 翌日母津根は一人で山中家に御礼に行った。
 帰って来た母は志緒に子息は留守だったので母親に礼を言ったたとだけ伝えた。志緒はそういうこともあるだろうと床に入った。前日まくわ瓜を食べてから、志緒は眠くてたまらず布団の中でうとうとしていた。家族はこれまでの疲れが出たのだろうと志緒を無理に起こさなかった。
 津根は志緒が眠ったのを見計らい、佐登の部屋に行った。佐登は縁側近くで繕い物をしていた。母に気付くと顔を上げた。

「山中はいかがでしたか」
「なんというか。噂には聞いていたけれど」
「やはり、噂通りの?」
「ええ。志緒を背負って来たのは御次男だったようね」
「あら、それじゃ」
「木で鼻を括るという言葉通り」
「でしょうねえ」
「いくら妾腹でも、あれでは」

 山中家の次男は主藤兵衛の妾腹の息子だという噂があった。普請作事という仕事柄、藤兵衛は家を空けて領内各地で土木建設工事の現場に立ち会うことが多いため、現場近くの出湯いでゆの里の飯盛り女と懇ろになって生まれたのが次男だと言われていた。そのため、藤兵衛の妻は次男を邪険にあしらっているとも言われていた。
 津根はそれは噂だけだろうと思っていたのだが、山中藤兵衛の妻は噂に違わぬ女だった。

「御礼にまくわ瓜を差し上げたら、部屋住みの身には勿体ないと言うのですよ」

 確かに次男は妻帯せず部屋住みの身となることが多い。だが、母親が部屋住み呼ばわりというのは、いくら生さぬ仲とはいえ聞いていて気分のいいものではない。

「うわっ、瓜がまわればいいけど」
「いくらなんでもそんなことは」

 ないと言いたかったが、津根には自信がなかった。昨日志緒を背負ってきた青年は痩せていた。駒井幸之助と比べるのも申し訳ないが、身体に厚みがなかった。十分に食事をとっていないのではなかろうか。三男だった婿の誠之助と比べてもお世辞にも立派な体格とは言えなかった。まくわ瓜が彼の口に入る可能性は限りなく少ないように思われた。

「いい養子先があればいいのにね」

 佐登の言葉に、津根は頷くしかなかった。





 志緒が布団から出たのは幸之助の一周忌の前日の朝だった。不思議なことに志緒を目覚めさせたのは幸之助の夢ではなく、スズメの声だった。
 いつもの朝と同じように身だしなみを整えて台所に行った。

「おはようございます」
「おはよう。畑からねぎ取って来て」

 いつもと同じ調子の母の声を背に志緒は畑に向かった。明け初めた空に向かって伸びるねぎを抜き土を払った。折れたねぎの茎からつんと鼻を突く匂いがした。志緒の好きな匂いだった。
 なんだかずいぶん長い間かいでいなかったような気がした。ねぎは何度もこうやって抜いて食べていたはずなのに。
 井戸端でねぎを洗うと冷たい水が手に心地よかった。
 台所の戸口から漏れてくる焼いた干物の匂いが志緒の鼻孔をくすぐった。
 ああ、おいしそう、おなかがすいた。そう思った時、それが約一年ぶりの感覚だと気付いた。夢ではないうつつの中に志緒はいた。
 井戸から汲んだ水を水甕に移し終わった佐登は、戸口にねぎを手にしたまま立つ妹がいることに気付いた。

「志緒?」
「あ、佐登姉さま、おはようございます」

 佐登は妹の目に生気を見た。けれどあえていつもと同じ顔で挨拶した。

「おはよう」
「今日も暑くなりそうね」

 母親は志緒からねぎを受け取ると手際よく小口に切っていく。ねぎの香りが再び立ち上がってきた。
 志緒はこれは夢ではない、うつつだと思った。





 幸之助の一周忌は身内とごく親しい者だけで営まれた。志緒は母とともに列席した。
 法要の後の精進落としで志緒は出された膳のものをすべて食べることができた。つい一か月ほど前だったらほんの少ししか食べられなかっただろう。母は娘の食欲の回復に安堵し、はしたないという言葉を呑み込んだ。
  
「この前よりずいぶんと志緒さん、お顔の色がよくなられましたね」

 帰り際に津奈は津根に言った。

「御心配をお掛けして申し訳ありません」

 志緒が道でめまいを起こし動けなくなって通りすがりの山中家の次男に背負われて帰って来たことは、いつの間にか近所に広まっていた。津奈はすぐに見舞いに来た。その時に、甚太夫と志緒のやり取りを聞かされ津根は驚いた。主人は怒るどころか志緒の幸之助に対する気持ちがひとかたならぬことに感心していると津奈は言っていたものの、この先の志緒のことを思うと手放しで喜べなかった。休んでいた志緒には津奈が見舞いに来たことは言ったが、津奈の言葉は伝えなかった。駒井家の人々が感心しているなどと言ったら、ますます志緒は幸之助に囚われるように思われたのだ。
 そんな津根の思いを知ってか知らずか、津奈はこれからも志緒さんを家によこしてくださいと念を押すように言った。





 一周忌の翌日から長雨が降り出した。いつもの年に比べ雨の降る時が長く、川は上流の山で降った雨を集めて水嵩を増した。領内ではがけ崩れや川の氾濫で多くの人々が家を失った。難を逃れた人々のために家老は城下の大商人にお救い小屋を作り炊き出しをするよう命じた。藩の蔵から米と金も提供された。
 志緒の父や義兄は勘定方としてそのやり繰りに追われた。
 雨の時期が終わると暑い日々が続いた。
 少ない家禄を補うため、城下の武家は皆自宅の畑を耕し、内職にいそしんだ。
 村田家でも女たちは家の裏の畑の草取りに精を出した。また母がよそから頼まれた仕立物を娘たちも手伝った。
 志緒はその合間に休んでいた小太刀の道場に行った。他の弟子が帰った後の静かな道場で、砂村雲斎は何も言わず、志緒の練習の相手をした。

「元の調子に戻るには時間がかかる。焦るでないぞ」

 焦ってはいないと志緒は思っていたが、無意識の焦りを師は見抜いていた。
 
「人は己のことは己が一番よく知っていると思っている。だが、そうではないのだ。そなたには己の背中は見えるか?」
「いいえ」
「そうだ。わしも己の背中は見えぬ。体をひねっても見えぬ。それどころか筋を痛めてしまう。己に見える己の姿は一部でしかないのだ。頭のてっぺんも背中も見ることはできぬ。鏡に映る姿も左と右が反対だ。身体の中はなおさら見えぬ。心も同じことが言える。己の心をすべて知ることはできぬのだ。焦りがあってもそれと気づくのは難しいのだ」
「どうすれば己の心がわかるのですか」
「わしもそれを知りたい」

 志緒は拍子抜けした。

「お師匠様にもわからないことが私にわかるでしょうか」
「わからないが、努力する方法はある」
「どうすればよいのですか」
「明鏡止水」
「めいきょうしすい……」
「くもりの無い鏡と静かで止まっているように見える水のことだ。転じてわだかまりなく澄み切った心のこと。明鏡止水の境地を目指すのだ。そうすればおのずと己の心のくもりが見えてくる」
「お師匠様には私の心のくもりが見えるのですね」
「見えるのではなく感じるのだ。わしも若い頃はそれと気付かずに焦っていたことがある。その時と同じものをそなたに感じたまでのこと」

 志緒にはよくわからないが、鏡のように磨き澄み切った心を目指し修行せよという意味だと受け取った。

「ありがとうございます。明鏡止水の境地に至るように努めます」

 それは終わりのない修行だと師は知っていた。




 明鏡止水の境地を目指すといっても何をすべきかわからないが、善行を積めば澄み切った心になるのではないかと志緒は考えた。といっても、善行をするのはたやすくはなかった。水害の被害を受けた人々に役に立つことをと思ったが、すでに城下のお救い小屋は片付けられ人々は元いた村に戻り生活の再建にとりかかっていた。志緒にできることはなかった。
 ふと駒井家に行ったらどうかと思い浮かんだ。
 前にまくわ瓜を持って行った時、いよは嬉しそうだった。幸之助が死に友人が訪ねて来なくなって駒井夫妻は寂しいかもしれない。
 まくわ瓜がないので何か持って行くものがないか、母に聞いた。

「そういう時は何も持って行かなくてもいいのですよ。急に思い立ったからと言ってね。あなたの元気な顔が土産なのですから」

 そういうものかと思ったが、何もないのは不作法に思えた。
 庭に仏壇に供えるための菊が植えてあったので持って行っていいかと母に尋ねると、それはいい考えだと言ったので、花の咲いているのを二本切った。
 お供のきんと駒井家を訪れたのは少し日が傾き始めた頃だった。暑気あたりの心配はないとはいえ、前回のようなことがあってはいけないと、きんは駒井家の勝手口のそばの小部屋に控えた。
 甚太夫は城に出仕していたので座敷で津奈に対面した。

「よく来てくださいました」
「皆様がお元気か気になって」
「菊は仏壇に後で仏壇に供えましょう」

 出された茶と菓子を志緒は以前と同じように飲み食べた。 
 津奈は微笑んでその姿を見ていた。幸之助さまと同じだと志緒は思った。涙が出そうになった。

「少し庭を見てもいいですか」

 そう言ったのは涙を見られたくなかったからである。

「ゆっくり御覧になって」

 志緒は庭に面した外廊下に出た。馬廻組の駒井家には狭いながらも植え込みと石を配した美しい庭があった。外廊下を歩きながらツツジの植え込みのある場所に向かった。夢で幸之助が立っていた場所だった。彼がいるはずもないのにおかしなことをと思いながらも志緒は植え込みのよく見えるところまで歩いた。ちょうど幸之助の部屋の手前だった。

「え!?」

 植え込みの前に人影が見えた。

「幸之助さま……まさか」

 志緒の声が聞こえたのか、その人はゆっくりと振り返った。

 



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