愛を食べる

三矢由巳

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04 食生活の転機

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 小学校四年生の終わりに、私の人生で最大の転機が訪れた。
 人生でというのは大袈裟だが、食生活が大きく変わる出来事が起きたのだ。
 食生活が変わるくらいで人生の転機とは大袈裟なと思われるかもしれない。でも、考えて欲しい。食事は一日三回、年に一〇九五回。一回平均二十分としても一日一時間費やすのである。人生の二十四分の一は食べることに費やしているということになる。
 それに食事で身体の調子が変わる、下手をすると生活習慣病にもなるのだから、食事は馬鹿にできない。
 それが変わったのだから人生の最大の転機というのは大袈裟な話ではない。
 具体的に何があったのかというと、父親の転勤が決定したのだ。
 前にも書いたように、ケーキ屋もない、朝刊が夕方配達されるような田舎から出ることになったのである。
 他にもどれほど田舎だったか挙げると枚挙にいとまがない。
 テレビの映りが悪く、NHKと地方のVHF局一局しかきれいに見えない。教育テレビはあまりきれいに映らない。もう一つのUHF局は映らない。
 雑誌は定価より十円高い。運賃がかかるからである。勿論、発売日より遅れて発売される。
 道路が舗装されていない。ただ、近々皇族の方が来るので道路がきれいになると噂されていた。
 町内に信号がない。交通事故がめったにないからである。交通事故を起こすのはタクシーと決まっていた。自家用車を持っている人が少ないのだ。
 道路を牛に引かれた荷車が時々通行する。当然、牛の排泄物があちこちに落ちている。
 学級PTAの名簿(昔は親の職業まで書いてあった)に電話番号の項目がない。商売をやっていない限り電話を引いている家が少なかったのだ。うちも小学校四年まで電話がなかったので、遠方の祖父母の家に電話をかける場合、家主さんの家や郵便局に夜8時以降(電話代がやすかった)電話をかけに行った。
 勿論、電話ボックスも町内にはなかった。 
 学校に給食がない。お昼は弁当持参。
 まあ、他にもいろいろあったのだが、とにかく無い物だらけだった。
 ただ、幼い頃からそういう生活だから、別になんとも思っていなかった。引っ越した後で、そういえばと気づいたのだ。
 食生活にとって最大の問題は店に置かれている食品の種類が少ないことだった。
 これも引っ越すまではそんなことは思っていなかった。むしろ三年生の時に、町内に農協の経営する店ができて、すごい、たくさんお菓子がある、安いと驚いた覚えがあるほどだった。今思えば小規模な店だったのだが。
 そういえば、遠足のお菓子は百円以内ということになっていたけれど、農協の店は定価より安く売っていたので、農協でお菓子を買ったらたくさん買えるからずるいんじゃないかと友達と遠足前に話をしたような記憶がある。
 定価で計算するのか、売値で計算するのか、結論はどうなったのか忘れてしまったけれど。




 生活の上での不便さはあったけれど、人に関しては何もなかったように思う。
 もちろん、子どもだから喧嘩したり、いじめもあった。ただ、それがエスカレートすることはなかった。
 クラスの半分くらいが日曜日に教会に行くカトリックの信徒だったためもあるかもしれない。教会で懺悔をしたという話をごく普通にしている級友もいたほどだ。
 その町を母方の祖母が一度訪れたことがあった。祖母は「ここは人情がある」と言っていた。
 祖母の住む町も田舎だから(さすがに朝刊は朝配達される)、祖母が人情があると言うのは相当なことだと思う。
 実は大人になってからその頃住んでいた借家の大家さんを訪ねたことがある。覚えていてくれて、住んでいた家の中も見せてくれた。木造の板壁の家でまだ残っていたのかと驚いた。子どもの頃大きく見えた何もかもが小さく見えて不思議な感じがした。
 何より大家さんのおばあさんが九十過ぎてお元気だったのが嬉しかった。
 
 

 子どもの私は人情のあるのが当たり前(人情がない状態とはどういう状態か想像がつかなかった)、不便な生活も不便とは思わず、父の転勤で引っ越すのも仕方のないこと受け入れていた。すでに、父と同じ職場に勤める同級生もこの数年の間に数人引っ越していた。また逆に新たに転入して来た子どももいた。自分もいずれはと思っていた。
 ただ、環境が大きく変わるということはなんとなく感じていた。自分の住んでいる場所と引っ越し先を地図で確認し遠いなあと思っていた。 
 荷造りや掃除を終え、三月末に私たち家族は長年住んだ町を離れ、父の赴任先の市に向かった。 



 新しい住まいのある場所はそれまで住んでいた町とは大違いだった。
 通学路に信号があった。
 銀行の支店があった(郵便局以外の金融機関がなかった)。
 スーパーマーケットがあった。
 そして、菓子店(和菓子と洋菓子)があった。
 寿司屋もあった。おもちゃ屋もあった。本屋には本がたくさんあった。
 国鉄の駅があった。
 住んでいた町にはなかったものばかりだった。
 学校もそうだった。田舎の小学校の倍の数の生徒がいた。
 給食があった。



 クリスマスケーキが食べられるようになったのはその給食のおかげもあると思う。
 弁当と違って給食は毎日おかずが違う。母親の作らないような料理もある。この世にはこんなに料理があるのかと驚くばかりだった。
 実は私は好き嫌いがかなり激しかったのだが、給食のおかげでかなり改善されている。嫌いだった野菜、たとえば人参、ホウレンソウ等が食べられるようになっていた。味付けや給食の雰囲気のおかげだと思う。


 
 五年生のクリスマスの前に給食で小さなケーキが出された。クリームで覆われているケーキでアラザンは飾られていなかった。皆がおいしそうに食べているのを見ているうちに、大丈夫かもしれないと口にした。
 あれ、おいしい!
 結局一人分全部食べることができた。
 帰宅後、何の体調の変化もなかった。
 以来、ケーキが平気になったどころか、大好きになってしまった。
 恐らく、成長して胃腸が丈夫になってクリームも食べられるようになったのだろう。
 思えば早生まれの私は小学一年生のクリスマス会の時はまだ七歳になっていなかった。十歳くらいになって身体もそれなりに成長したのだと思う。



 ただ、食生活の変化は体重も大いに増やした。
 それまで食べた事のないものが我が家の食卓にのるようになったのだ。
 ベーコン、ビーフン、ヨーグルト等。
 さらに、以前のように父が釣りに行く時間がなくなり、食卓に魚やイカがのることが減った。海岸が遠いので潮干狩りに行くことも減った。  
 魚介類が減り肉類が増えた。
 子どもにはまず食べさせること。これが両親の考え方だったので、食べて怒られることはなかった。むしろ食べないと怒られた。
 これでは太るのは当然だと思う。
 当時はダイエットという言葉などなかったし。
 それに父親の世代は食糧難の時代を知っている。この世代にとって食べ物を残すのは罪悪と言ってもいい。
 仕方のないことだと思う。
 子どもに好きなだけ食べさせるのが愛情だと信じていたのだから。
 ただ、母は父ほど深刻な食糧不足に陥ったことはないらしく、「腹も身の内」とよく言っていたけれど。
 腹も身の内、今思えば含蓄のある言葉だと思う。



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