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第二章 辺境伯家の家訓‐宣戦布告と愛の言葉は堂々と‐
10 菓子と拳銃
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銃声がした後、伯爵の姿が机の向こうから消えた。近づいてみると、伯爵は机の陰にうずくまり呻いていた。彼の右腕からは血が流れていた。足元にはさっきまで構えていた拳銃が落ちていた。
ワーレンとグレアムが部屋の中に駆け込んだ。
「貫通はしていません」
背後の壁に銃弾がめり込んでいるのをワーレンが発見した。
「アデル……大丈夫か」
拳銃を構えたままのアデルにロバートは駆け寄った。アデルはつぶやいた。
「命中させるって難しい」
「早業だったな」
ロバートは見ていた。長いスカートを大胆にも素早く捲り上げ、太腿のホルスターから拳銃を抜くや伯爵の腕目がけて引き金を引くアデルを。
伯爵は引き金を引く暇もなく、アデルの撃った弾が彼の右腕の肉を抉った衝撃で拳銃を落としていた。
ロバートはアデルを抱き寄せようとしたが、あちこちにスパイクが付いている甲冑姿のままでは傷をつけることになる。立ちすくんだ彼の目に、捲れたスカートから垣間見える足の白さが飛び込んで来た。何と美しいことか。アデルはゆっくりと拳銃をホルスターに収めると一部捲れ上がったスカートを元に戻したのでロバートの至福の時は数秒に過ぎなかったが、それは永遠にも思われた。
気を取り直しアデルの顔を見れば、顔色が心なしか青く見えた。自分の咄嗟の行為の結果に衝撃を受けているようにロバートには見えた。無理もない。相手は標的ではなく、人なのだ。人を武器で傷つければ理由の如何を問わず、傷つけた者も平気ではいられない。ロバートは己の経験でそう解釈した。
机の向こうではグレアムから止血の布を巻かれた伯爵が立ち上がっていた。拳銃はワーレンが持っていた。もう抵抗する気力はないようだった。
ワーレンとグレアムは伯爵をロバートの前に引き出した。
伯爵は吐き捨てるように言った。
「殺せ、おぬしの大事な娘を狙っていた私を」
ロバートの胸に怒りが込み上げてきた。こいつは甲冑も何も付けていないアデルを狙っていたのかと。てっきり背中を向けていた自分を狙っていたのだと思っていた。
「アデル、そうなのか」
「ええ。人の背中を狙わなかったのはさすがに元騎士」
そう言うとアデルは伯爵を見つめた。
「おとなしく裁判所に出頭したほうが、家名を守ることになります。もし出頭しなければギルモア伯爵家もイーグルの名もなくなります。そうなったらユーニスの眠る墓地の管理は誰がするのですか? 近頃教会は墓地が不足していると聞いています。管理者のいない墓地はすぐに別の死者に明け渡されるとか」
伯爵にとって愛娘の永遠の眠りを妨げられるのは耐えがたいことだった。
「わかった。召喚に従おう」
伯爵は力なくうなだれた。
ロバートはアデルに外に出るように言った。アデルはロバートの気配に剣呑なものを感じたが、無茶はしないだろうと思い、ワーレンに付き添われて外に出た。
アデルの足音が聞こえなくなったのを確認したロバートは伯爵の顔を見据えた。
「出頭前に一ついいか」
「なんだ」
「殴らせろ。マカダム家の家訓には愛する者の名誉を汚した者を決して許してはならないとある。それに未来の妻に銃口を向けた者を許せるほど俺は寛大ではない」
アデルの気持ちは済んだかもしれないが、ロバートの気持ちは収まっていなかった。
伯爵は肩をすくめた。
「おぬしの親父もやたらと家訓と言っていたな」
ロバートは右手のガントレットと呼ばれる五本指の籠手を外し素手になった。ガントレットには敵を傷つけるために拳に金属のスパイクがついており、必要以上に伯爵を負傷させる恐れがあった。
騎士団にいた経歴のある伯爵には殴られる際の心得はわかっていた。机の前に進み出て両足を肩幅に広げ、歯を噛みしめた。
ロバートは渾身の力を込めて伯爵の左の頬を拳で殴った。勢いよく倒れた伯爵の身体は背後の机がしっかりと受け止めた。
口の端から血を流しながら伯爵は言った。
「まったくこれだから辺境伯という連中は」
「あと一発だ」
今度は右の頬を殴った。二発目の後はさすがの伯爵も身体をふらつかせていた。
グレアムが捕縛用の縄をかけようとすると伯爵は断った。
「縄などなくても逃げはせん」
こうして作戦開始から一時間足らずでギルモア伯爵ダンカン・イーグルは貴族裁判所に連行された。ギルモア騎士団は団長以下全員負傷したが、死者はいなかった。抵抗する使用人はいなかった。
伯爵夫人は実家に戻されており咎めはなかった。跡継ぎの長男一家は屋敷の物置に隠れていた。発見後、抵抗せず兵士らに従った。
伯爵は一か月余りの取り調べと貴族裁判所の審議により外患誘致等の罪により終身刑となった。収監されたグワトキン監獄は国内一の山岳地帯の断崖絶壁の上に建てられた城で、過去二百年の間に脱走を試みて成功した囚人は皆無であった。
ギルモア伯爵領は没収され王家直轄領となった。家督相続を許された長男は旧領の一部の三つの村の領有権だけを認められた。村の一つには一族の墓所のある教会があり、墓所は破壊を免れた。
謹慎した三家も貴族裁判所で裁かれた後、所領没収、称号剥奪等の処分を受けた。イーストン子爵は外患誘致には関わっていなかったと認められ、所領を一部没収され子爵号を自ら返上、一家は残った領地の村に引き上げた。彼らが王都の社交界に姿を見せることは二度となかった。
愛馬アイアンブラッドに跨ったロバートは白馬シルバーに乗ったアデルを送るためにまずバートリイハウスに向かった。ちょうど人々が仕事に出かける時間帯だったため、二人の姿は注目を浴びた。古めかしい黒い甲冑姿の騎士と最新のデザインの緋色の乗馬服の貴婦人という取り合わせは物珍しかった。それに二人に従う騎士団の行列も骨董品のような甲冑を身に着けており、なかなかの見物だった。
ロバートはシルバーの速度に合わせてアイアンブラッドをゆっくりと進めた。
「まるでハロウィンの仮装ね、こんな古い甲冑の行列なんて」
アデルの声は落ち着いていた。発砲後の動揺は収まったらしい。
「何故、伯爵邸に来た」
「私が何も知らないと思ってらっしゃるのね」
大方父親にでも話を聞いたのだろうとロバートは思った。
「拳銃まで用意していたとはな」
「バートリイに戻ってから練習しました。サリーのような女性が扱えるなら私にもできるだろうと思って。護身用のナイフと違って離れていても攻撃できますから」
「だが、扱いに気を付けないと怪我をする。生兵法はなんとやらというからな」
「パトリック兄さんもそう言ってます。手入れはきちんと自分でしろって」
拳銃の師匠はパトリックらしい。意外な特技があるものである。
「一矢報いると言っていたが、あれで満足か。もし不満なら貴族裁判所に極刑を請願するという手もある」
「これ以上、何をしろと? 貴族裁判所が後は裁くのでしょ。傷付いたけだものを嬲るような悪趣味なことはしたくありません。ところで、連行される伯爵を見たら頬が右も左も腫れていましたけれど、あれはあなたの仕業?」
「手加減はした。スパイク付のガントレットは外した」
アデルは絶句した。スパイク付のガントレット? そんなものを今どき付けて戦う騎士はいない。が、よく見れば確かにロバートの甲冑にはあちこちにスパイクが付いていた。こんな騎士と格闘など誰もできまい。
「これは先祖伝来の甲冑なのだ。マカダムの男たるもの、近頃はやりの軽い甲冑など着られようか」
「先祖伝来って、いつのものですか」
「辺境伯初代アルバートのものだ」
博物館に飾られてもおかしくない年代物である。
「これは重くて丈夫だ。伯爵の部屋の扉も体当たりで壊れたほどだ」
「体当たり……」
「城には城主夫人用の甲冑もある。新しいものを近々注文するつもりだ」
そんなものは不要だと言いたかった。それよりも厨房の竈の扉にガラスを付けてもらいたかった。
「私が甲冑を身に付けなければならないような世の中をお望みなのですか」
「アデル……」
ロバートは伯爵に向かって言った言葉を思い出す。血にまみれた歴史を変えるはずではなかったのか。
「わかった。アデルが甲冑を身に付ける必要のない世を作らねばな。ユーニス嬢が愛したこの国、この世界が穏やかであるように」
アデルは思う。
ギルモア伯爵の美しい娘ユーニスのことを。美しく聡明だったユーニス。彼女の死を知ったのはベイカーの店で働き始めて一年後のこと。父からの帰宅を促す手紙に短く触れられていた。あまり親しくはなかったけれど、王都に行った時に伯爵夫妻に連れられた彼女に会ったことがあった。アデルの知らない本を読んでいてすごいなと思ったことがある。父は彼女のような立ち居振る舞いができなければと言っていた。だが体格からして違うアデルには妖精のような彼女の動作は不可能だった。
父の手紙でその死を知った時、驚き悲しんだが、彼女は妖精の世界に帰ってしまったのかもしれないとも思った。そういえばお茶会でもお菓子に手をつけず、ハチミツ入りのお茶を優雅に口にしていた。彼女の話をすると兄のナサニエルはいつも微笑みながら黙って聞いていたものだった。彼女は誰からも愛されていたのだ。
そんな愛しい娘の死に心を乱され国を売るような行為に走ったギルモア伯爵は愚かだが、他人事ではなかった。アデルとて一度は深い絶望を知った身である。もし、あの時祖母が厨房に連れて行ってくれなかったらと思うとぞっとする。あの時祖母の愛を知り、食べ物の力、炎の力を知ったからこそ、今がある。ロバートとも出会えた。
先ほど撃った銃弾は伯爵の腕を狙ったものだった。命中しなかったが、伯爵には相当の衝撃を与えたはずである。撃ったアデル本人もまた音と威力に驚いたのだから。ロバートを狙撃した後逃げたサリーの胆力はやはり間諜だからだろう。だが、彼女にもまた伯爵のようなつらい過去があったのではないかと思う。よほどのことがない限り、人は人を傷つけることを躊躇するものだ。だからといって彼女のことを許せるかどうかは別問題であるが。
やがてバートリイハウスの門が見えてきた。
バートリイハウスの前でロバートは下馬して公爵に挨拶しようと思ったが、公爵はすでに宮殿に出仕した後だった。代わりに公爵夫人に挨拶した。夫人はすさまじい汗の臭いに耐えながらも、娘を送り届けた辺境伯に礼を言った。
辺境伯一行が出て行った後、「アデル、あなたは大丈夫だったの? ああ、もう耐えられない」と夫人は言うなり倒れてしまい、ひと騒ぎになった。
汗の臭いは仕事をしていれば当然のものだとアデルは思っている。確かに古い甲冑は汗の臭いを濃く煮詰めたものに時間という名の香料を加えたような臭いがしたが耐えられないほどではなかった。それに甲冑は着ている本人のほうが大変なはずである。臭いだけでなく重いのだから。
こうして朝の一仕事を終えたロバートが騎士らを引き連れてランバートハウスに戻ると母と姉が呆れ顔で出迎えた。
「御先祖様の甲冑を城から持ち出してたなんて!」
「まあ、なんて臭いなの! すぐ風呂に入って! 最終の打ち合わせがあるのに。食事? そんなことより急いで! 司祭様に失礼があっては大変!」
自分はアデルの名誉を汚した者を捕まえに行っただけだと言おうとしたが、姉の剣幕には逆らえなかった。
騎士らには風呂と食事と黒ビールを、馬には水と上等のまぐさを用意するように指示し、ロバートはバスルームに直行し汗を流した。
風呂から出て装束を整えた後、大聖堂へ向かった。馬車の中で塩漬け肉を挟んだパンを齧り腹を満たした。
大聖堂には宮殿を一時抜け出したバートリイ公爵も来ていた。アデルは今日の打ち合わせには来ないことになっているので姿はない。
司教が来る前に公爵は今朝の件の労をねぎらった。
「今朝はマカダムの男として当然のことをしたまでです」
「ユーニス嬢のことを聞いた」
すでに取り調べの一部は公爵の耳にも伝えられているようだった。
「私も覚えている。美しい令嬢であった。私はアデルに言ったものだ。ギルモア伯爵令嬢を見ろと。身のこなしが優美で聡明、あのようにならねばと。ダンが期待をかけるほどの娘だったのだ。だが、まさか彼女の死がダンに道を誤らせるとは。ところで、怪我はないか」
「少しかすり傷のようなものができましたが、傷のうちには入りません。それよりもアデルはなぜ伯爵邸に? 伯爵のしたことも知っているようでしたが」
公爵が話したのだろうと思い尋ねたロバートに対する公爵の答えは意外なものだった。
「どうも娘はなかなかの策謀家のようだ。ランバート辺境騎士団はすっかり菓子で籠絡されているぞ」
戻ったらワーレン達に事情を聞かねばなるまい。菓子ごときで籠絡されるとは弛んでいる。
ふとロバートは先ほどから自分達二人を見ながらデッサンをしている若い男に気付いた。公爵は紹介しようと言った。
「三男のナサニエルだ。アデルとは美的感覚が一致するようだ」
長い金色の髪を首の後ろで結わえた若者は木炭を持ったまま立ち上がった。ひょろりと痩せていてアデルなら彼を簡単に持ち上げるのではないかと思われた。
「初めまして。ナサニエル・モーリス・オーガスト・ホークです。昨日、旅から戻って来ました。妹をよろしく」
体格の割によく通る声だった。
「初めまして、ロバート・アルバート・マカダムと申します。今後ともよろしく」
「ナサニエルは画家、といってもまだ駆け出しだが、この半年ほど各国を周遊していた」
公爵の言葉が終わると、ナサニエルは再びデッサンに没頭し始めた。
そこへ司教が来たので、明日の打ち合わせとなった。
手順を確認し実際にバージンロードを歩いた。司教はもう少しゆっくりでいいとロバートに言った。
「男性、とりわけ騎士の皆様は足が速い。花嫁は慣れぬ靴や長いドレスでゆっくりと歩くので、ご配慮を願います」
そう言われてうなずいたロバートだったが実際当日できるか自信はない。公爵も、私も先代の司教に同じことを言われたと後で苦笑いを浮かべていた。
そんなやりとりを傍で聞きながら、ナサニエルはデッサンを続けていた。
彼がギルモア伯爵令嬢に想いを寄せていた過去があることを父親は知らなかった。令嬢が妹とともに社交界にデビューしたら、ダンスを申し込んで想いを伝えようと密かに思っていたことも。彼女を忘れるために諸国を旅したが、その面影は彼の心を離れることはなかった。
三十年余り後にグワトキンの監獄で亡くなったダンカン・イーグルの数少ない所持品の中に花嫁衣裳と思しき白いベールをつけた少女の小さな肖像画があった。後の調査でナサニエル・ホークの署名が発見されている。その肖像画が終身刑の囚人の元に送られた経緯は一切不明である。
打ち合わせ後、大聖堂の前で公爵は見送るロバートににこやかに語りかけた。
「打ち合わせも疲れるものだな。貴殿もこの後はゆっくり休みたまえ」
「そうしたいのは山々ですが、近衛騎士団と陸軍司令部に顔を出して今朝の報告をしなければなりません。許可なく出陣したと、陸軍大臣あたりが何か言ってきそうですので。たとえ始末書で徹夜になっても大丈夫です。御心配なく」
「式や披露宴の後にこそ、花婿には大切な仕事があるのだから、提出を待ってもらうように計らおう。元はと言えば、私が君に今朝の作戦を話したからだ」
公爵の心配は花嫁の父としては当然のことであろう。ロバートはきっぱりと言った。
「御安心を。食後の菓子と花嫁は別腹です」
ワーレンとグレアムが部屋の中に駆け込んだ。
「貫通はしていません」
背後の壁に銃弾がめり込んでいるのをワーレンが発見した。
「アデル……大丈夫か」
拳銃を構えたままのアデルにロバートは駆け寄った。アデルはつぶやいた。
「命中させるって難しい」
「早業だったな」
ロバートは見ていた。長いスカートを大胆にも素早く捲り上げ、太腿のホルスターから拳銃を抜くや伯爵の腕目がけて引き金を引くアデルを。
伯爵は引き金を引く暇もなく、アデルの撃った弾が彼の右腕の肉を抉った衝撃で拳銃を落としていた。
ロバートはアデルを抱き寄せようとしたが、あちこちにスパイクが付いている甲冑姿のままでは傷をつけることになる。立ちすくんだ彼の目に、捲れたスカートから垣間見える足の白さが飛び込んで来た。何と美しいことか。アデルはゆっくりと拳銃をホルスターに収めると一部捲れ上がったスカートを元に戻したのでロバートの至福の時は数秒に過ぎなかったが、それは永遠にも思われた。
気を取り直しアデルの顔を見れば、顔色が心なしか青く見えた。自分の咄嗟の行為の結果に衝撃を受けているようにロバートには見えた。無理もない。相手は標的ではなく、人なのだ。人を武器で傷つければ理由の如何を問わず、傷つけた者も平気ではいられない。ロバートは己の経験でそう解釈した。
机の向こうではグレアムから止血の布を巻かれた伯爵が立ち上がっていた。拳銃はワーレンが持っていた。もう抵抗する気力はないようだった。
ワーレンとグレアムは伯爵をロバートの前に引き出した。
伯爵は吐き捨てるように言った。
「殺せ、おぬしの大事な娘を狙っていた私を」
ロバートの胸に怒りが込み上げてきた。こいつは甲冑も何も付けていないアデルを狙っていたのかと。てっきり背中を向けていた自分を狙っていたのだと思っていた。
「アデル、そうなのか」
「ええ。人の背中を狙わなかったのはさすがに元騎士」
そう言うとアデルは伯爵を見つめた。
「おとなしく裁判所に出頭したほうが、家名を守ることになります。もし出頭しなければギルモア伯爵家もイーグルの名もなくなります。そうなったらユーニスの眠る墓地の管理は誰がするのですか? 近頃教会は墓地が不足していると聞いています。管理者のいない墓地はすぐに別の死者に明け渡されるとか」
伯爵にとって愛娘の永遠の眠りを妨げられるのは耐えがたいことだった。
「わかった。召喚に従おう」
伯爵は力なくうなだれた。
ロバートはアデルに外に出るように言った。アデルはロバートの気配に剣呑なものを感じたが、無茶はしないだろうと思い、ワーレンに付き添われて外に出た。
アデルの足音が聞こえなくなったのを確認したロバートは伯爵の顔を見据えた。
「出頭前に一ついいか」
「なんだ」
「殴らせろ。マカダム家の家訓には愛する者の名誉を汚した者を決して許してはならないとある。それに未来の妻に銃口を向けた者を許せるほど俺は寛大ではない」
アデルの気持ちは済んだかもしれないが、ロバートの気持ちは収まっていなかった。
伯爵は肩をすくめた。
「おぬしの親父もやたらと家訓と言っていたな」
ロバートは右手のガントレットと呼ばれる五本指の籠手を外し素手になった。ガントレットには敵を傷つけるために拳に金属のスパイクがついており、必要以上に伯爵を負傷させる恐れがあった。
騎士団にいた経歴のある伯爵には殴られる際の心得はわかっていた。机の前に進み出て両足を肩幅に広げ、歯を噛みしめた。
ロバートは渾身の力を込めて伯爵の左の頬を拳で殴った。勢いよく倒れた伯爵の身体は背後の机がしっかりと受け止めた。
口の端から血を流しながら伯爵は言った。
「まったくこれだから辺境伯という連中は」
「あと一発だ」
今度は右の頬を殴った。二発目の後はさすがの伯爵も身体をふらつかせていた。
グレアムが捕縛用の縄をかけようとすると伯爵は断った。
「縄などなくても逃げはせん」
こうして作戦開始から一時間足らずでギルモア伯爵ダンカン・イーグルは貴族裁判所に連行された。ギルモア騎士団は団長以下全員負傷したが、死者はいなかった。抵抗する使用人はいなかった。
伯爵夫人は実家に戻されており咎めはなかった。跡継ぎの長男一家は屋敷の物置に隠れていた。発見後、抵抗せず兵士らに従った。
伯爵は一か月余りの取り調べと貴族裁判所の審議により外患誘致等の罪により終身刑となった。収監されたグワトキン監獄は国内一の山岳地帯の断崖絶壁の上に建てられた城で、過去二百年の間に脱走を試みて成功した囚人は皆無であった。
ギルモア伯爵領は没収され王家直轄領となった。家督相続を許された長男は旧領の一部の三つの村の領有権だけを認められた。村の一つには一族の墓所のある教会があり、墓所は破壊を免れた。
謹慎した三家も貴族裁判所で裁かれた後、所領没収、称号剥奪等の処分を受けた。イーストン子爵は外患誘致には関わっていなかったと認められ、所領を一部没収され子爵号を自ら返上、一家は残った領地の村に引き上げた。彼らが王都の社交界に姿を見せることは二度となかった。
愛馬アイアンブラッドに跨ったロバートは白馬シルバーに乗ったアデルを送るためにまずバートリイハウスに向かった。ちょうど人々が仕事に出かける時間帯だったため、二人の姿は注目を浴びた。古めかしい黒い甲冑姿の騎士と最新のデザインの緋色の乗馬服の貴婦人という取り合わせは物珍しかった。それに二人に従う騎士団の行列も骨董品のような甲冑を身に着けており、なかなかの見物だった。
ロバートはシルバーの速度に合わせてアイアンブラッドをゆっくりと進めた。
「まるでハロウィンの仮装ね、こんな古い甲冑の行列なんて」
アデルの声は落ち着いていた。発砲後の動揺は収まったらしい。
「何故、伯爵邸に来た」
「私が何も知らないと思ってらっしゃるのね」
大方父親にでも話を聞いたのだろうとロバートは思った。
「拳銃まで用意していたとはな」
「バートリイに戻ってから練習しました。サリーのような女性が扱えるなら私にもできるだろうと思って。護身用のナイフと違って離れていても攻撃できますから」
「だが、扱いに気を付けないと怪我をする。生兵法はなんとやらというからな」
「パトリック兄さんもそう言ってます。手入れはきちんと自分でしろって」
拳銃の師匠はパトリックらしい。意外な特技があるものである。
「一矢報いると言っていたが、あれで満足か。もし不満なら貴族裁判所に極刑を請願するという手もある」
「これ以上、何をしろと? 貴族裁判所が後は裁くのでしょ。傷付いたけだものを嬲るような悪趣味なことはしたくありません。ところで、連行される伯爵を見たら頬が右も左も腫れていましたけれど、あれはあなたの仕業?」
「手加減はした。スパイク付のガントレットは外した」
アデルは絶句した。スパイク付のガントレット? そんなものを今どき付けて戦う騎士はいない。が、よく見れば確かにロバートの甲冑にはあちこちにスパイクが付いていた。こんな騎士と格闘など誰もできまい。
「これは先祖伝来の甲冑なのだ。マカダムの男たるもの、近頃はやりの軽い甲冑など着られようか」
「先祖伝来って、いつのものですか」
「辺境伯初代アルバートのものだ」
博物館に飾られてもおかしくない年代物である。
「これは重くて丈夫だ。伯爵の部屋の扉も体当たりで壊れたほどだ」
「体当たり……」
「城には城主夫人用の甲冑もある。新しいものを近々注文するつもりだ」
そんなものは不要だと言いたかった。それよりも厨房の竈の扉にガラスを付けてもらいたかった。
「私が甲冑を身に付けなければならないような世の中をお望みなのですか」
「アデル……」
ロバートは伯爵に向かって言った言葉を思い出す。血にまみれた歴史を変えるはずではなかったのか。
「わかった。アデルが甲冑を身に付ける必要のない世を作らねばな。ユーニス嬢が愛したこの国、この世界が穏やかであるように」
アデルは思う。
ギルモア伯爵の美しい娘ユーニスのことを。美しく聡明だったユーニス。彼女の死を知ったのはベイカーの店で働き始めて一年後のこと。父からの帰宅を促す手紙に短く触れられていた。あまり親しくはなかったけれど、王都に行った時に伯爵夫妻に連れられた彼女に会ったことがあった。アデルの知らない本を読んでいてすごいなと思ったことがある。父は彼女のような立ち居振る舞いができなければと言っていた。だが体格からして違うアデルには妖精のような彼女の動作は不可能だった。
父の手紙でその死を知った時、驚き悲しんだが、彼女は妖精の世界に帰ってしまったのかもしれないとも思った。そういえばお茶会でもお菓子に手をつけず、ハチミツ入りのお茶を優雅に口にしていた。彼女の話をすると兄のナサニエルはいつも微笑みながら黙って聞いていたものだった。彼女は誰からも愛されていたのだ。
そんな愛しい娘の死に心を乱され国を売るような行為に走ったギルモア伯爵は愚かだが、他人事ではなかった。アデルとて一度は深い絶望を知った身である。もし、あの時祖母が厨房に連れて行ってくれなかったらと思うとぞっとする。あの時祖母の愛を知り、食べ物の力、炎の力を知ったからこそ、今がある。ロバートとも出会えた。
先ほど撃った銃弾は伯爵の腕を狙ったものだった。命中しなかったが、伯爵には相当の衝撃を与えたはずである。撃ったアデル本人もまた音と威力に驚いたのだから。ロバートを狙撃した後逃げたサリーの胆力はやはり間諜だからだろう。だが、彼女にもまた伯爵のようなつらい過去があったのではないかと思う。よほどのことがない限り、人は人を傷つけることを躊躇するものだ。だからといって彼女のことを許せるかどうかは別問題であるが。
やがてバートリイハウスの門が見えてきた。
バートリイハウスの前でロバートは下馬して公爵に挨拶しようと思ったが、公爵はすでに宮殿に出仕した後だった。代わりに公爵夫人に挨拶した。夫人はすさまじい汗の臭いに耐えながらも、娘を送り届けた辺境伯に礼を言った。
辺境伯一行が出て行った後、「アデル、あなたは大丈夫だったの? ああ、もう耐えられない」と夫人は言うなり倒れてしまい、ひと騒ぎになった。
汗の臭いは仕事をしていれば当然のものだとアデルは思っている。確かに古い甲冑は汗の臭いを濃く煮詰めたものに時間という名の香料を加えたような臭いがしたが耐えられないほどではなかった。それに甲冑は着ている本人のほうが大変なはずである。臭いだけでなく重いのだから。
こうして朝の一仕事を終えたロバートが騎士らを引き連れてランバートハウスに戻ると母と姉が呆れ顔で出迎えた。
「御先祖様の甲冑を城から持ち出してたなんて!」
「まあ、なんて臭いなの! すぐ風呂に入って! 最終の打ち合わせがあるのに。食事? そんなことより急いで! 司祭様に失礼があっては大変!」
自分はアデルの名誉を汚した者を捕まえに行っただけだと言おうとしたが、姉の剣幕には逆らえなかった。
騎士らには風呂と食事と黒ビールを、馬には水と上等のまぐさを用意するように指示し、ロバートはバスルームに直行し汗を流した。
風呂から出て装束を整えた後、大聖堂へ向かった。馬車の中で塩漬け肉を挟んだパンを齧り腹を満たした。
大聖堂には宮殿を一時抜け出したバートリイ公爵も来ていた。アデルは今日の打ち合わせには来ないことになっているので姿はない。
司教が来る前に公爵は今朝の件の労をねぎらった。
「今朝はマカダムの男として当然のことをしたまでです」
「ユーニス嬢のことを聞いた」
すでに取り調べの一部は公爵の耳にも伝えられているようだった。
「私も覚えている。美しい令嬢であった。私はアデルに言ったものだ。ギルモア伯爵令嬢を見ろと。身のこなしが優美で聡明、あのようにならねばと。ダンが期待をかけるほどの娘だったのだ。だが、まさか彼女の死がダンに道を誤らせるとは。ところで、怪我はないか」
「少しかすり傷のようなものができましたが、傷のうちには入りません。それよりもアデルはなぜ伯爵邸に? 伯爵のしたことも知っているようでしたが」
公爵が話したのだろうと思い尋ねたロバートに対する公爵の答えは意外なものだった。
「どうも娘はなかなかの策謀家のようだ。ランバート辺境騎士団はすっかり菓子で籠絡されているぞ」
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ふとロバートは先ほどから自分達二人を見ながらデッサンをしている若い男に気付いた。公爵は紹介しようと言った。
「三男のナサニエルだ。アデルとは美的感覚が一致するようだ」
長い金色の髪を首の後ろで結わえた若者は木炭を持ったまま立ち上がった。ひょろりと痩せていてアデルなら彼を簡単に持ち上げるのではないかと思われた。
「初めまして。ナサニエル・モーリス・オーガスト・ホークです。昨日、旅から戻って来ました。妹をよろしく」
体格の割によく通る声だった。
「初めまして、ロバート・アルバート・マカダムと申します。今後ともよろしく」
「ナサニエルは画家、といってもまだ駆け出しだが、この半年ほど各国を周遊していた」
公爵の言葉が終わると、ナサニエルは再びデッサンに没頭し始めた。
そこへ司教が来たので、明日の打ち合わせとなった。
手順を確認し実際にバージンロードを歩いた。司教はもう少しゆっくりでいいとロバートに言った。
「男性、とりわけ騎士の皆様は足が速い。花嫁は慣れぬ靴や長いドレスでゆっくりと歩くので、ご配慮を願います」
そう言われてうなずいたロバートだったが実際当日できるか自信はない。公爵も、私も先代の司教に同じことを言われたと後で苦笑いを浮かべていた。
そんなやりとりを傍で聞きながら、ナサニエルはデッサンを続けていた。
彼がギルモア伯爵令嬢に想いを寄せていた過去があることを父親は知らなかった。令嬢が妹とともに社交界にデビューしたら、ダンスを申し込んで想いを伝えようと密かに思っていたことも。彼女を忘れるために諸国を旅したが、その面影は彼の心を離れることはなかった。
三十年余り後にグワトキンの監獄で亡くなったダンカン・イーグルの数少ない所持品の中に花嫁衣裳と思しき白いベールをつけた少女の小さな肖像画があった。後の調査でナサニエル・ホークの署名が発見されている。その肖像画が終身刑の囚人の元に送られた経緯は一切不明である。
打ち合わせ後、大聖堂の前で公爵は見送るロバートににこやかに語りかけた。
「打ち合わせも疲れるものだな。貴殿もこの後はゆっくり休みたまえ」
「そうしたいのは山々ですが、近衛騎士団と陸軍司令部に顔を出して今朝の報告をしなければなりません。許可なく出陣したと、陸軍大臣あたりが何か言ってきそうですので。たとえ始末書で徹夜になっても大丈夫です。御心配なく」
「式や披露宴の後にこそ、花婿には大切な仕事があるのだから、提出を待ってもらうように計らおう。元はと言えば、私が君に今朝の作戦を話したからだ」
公爵の心配は花嫁の父としては当然のことであろう。ロバートはきっぱりと言った。
「御安心を。食後の菓子と花嫁は別腹です」
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光城 朱純
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表紙はPhoto AC様よりお借りしております。
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
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池で溺れて死にかけた私は意識を取り戻した時、全ての記憶を失っていた。それと同時に自分が周囲の人々から陰で悪女と呼ばれ、嫌われている事を知る。どうせ記憶喪失になったなら今から心を入れ替えて生きていこう。そして私はさらに衝撃の事実を知る事になる―。
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