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第一章 ハロウィン禁止命令‐偏狭な辺境伯は仮装を許さない‐
8 疑惑の女
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「まだ見つからぬのか!」
ロバートは衛兵隊長と騎士団長の報告に激怒した。
ここは領主の執務室。騎士団長の部屋の壁にも武器が掛けられていたが、ここは机の背後とロバートから見て右側の壁に槍、弓矢、剣、斧、銃等がぎっしりと隙間なく掛けられていて、さながら武器庫のようであった。勿論、手入れはされているので、今すぐ使用することができる。
そんな危険極まりない部屋の主は今、怒りに震えていた。
午後になってもまだ曲者は捕まっていないのだ。
ロバートを狙撃した者を追った衛兵達によると、黒いコートに山高帽の男が銃を右手に握ったまま、事件の起きた二階の廊下を走って行ったと言う。廊下の突き当り、左は三階への階段、右は広間へと分かれるところで、あと数歩のところまで追いついた。男は左に曲がったので、皆三階への階段に殺到した。男が階段を駆け上がる姿が見えた。衛兵達も三階に上がった。三階に上がったところで、左右前後見回したが男の姿はない。階段は行き止まりで、四階に上がる階段は三階の廊下の奥にあり、そちらに向かえば廊下を走る後ろ姿が見えるはずだが、誰もいない。三階にある部屋のドアを片っ端から開けて調べたがどれももぬけの殻だった。
母のグレイスの部屋には男の兵士は入れぬので、侍女に誰か怪しい者が来なかったかドアの前で尋ねた。侍女は誰も来ていないと答えた。
その後、昼食後にロバートが来た時もグレイスの部屋にはまったく異状はなかった。
母もいつもと同じだった。相変わらず暢気で、亡き父はよく我慢できたものだと思う。あのベイカーの生意気な菓子職人を連れて来いと駄々をこねるのを見ると、母も年をとったものだと思う。もしかするとあの我儘は老人特有の病かもしれぬ。まださほど年をとってはいないが、医者に診せる必要があるかもしれぬと、ロバートは思った。
それはともかく、午後になっても見つからぬとは。
騎士団長も子どもの使いではないから、いろいろと調べてはいた。
「衛兵や侍女の勤務表を確認しましたが、今日出勤の者は全員出仕しています。三階を重点的に監視し、侍女が大奥様の部屋から出入りするたびに衛兵をつけていますが、そちらも異状はありません」
「して、見失ったままか」
「現在、衛兵と騎士、侍従、小者らで城中を手分けして探しております。三階の廊下には窓があります。そこから飛び降りた恐れもあります」
「代官達の連れは調べたか」
代官は一人ではなく、秘書等お供を連れていた。城の馬小屋には代官の乗って来た馬車を引いた馬も繋がれている。御者たちは馬小屋の近くの宿舎で休んでいる。
「はい。全員、控室から出ておりません。現在、二階の客室に全員入れております。御者も宿舎から出ておりません」
「あれから何時間たったと思っている」
ロバートは懐中時計を上着のポケットから取り出した。近衛騎士時代に競技大会で個人総合一位をとった際に国王から下賜されたものである。
「発砲が起きたのが、10時38分。あの小娘と話をした後、この部屋に入ったのが11時15分。そなたらの報告を待ちながら執務。昼食の後、母の部屋へ行ったのが、12時45分。再び、ここに戻ったのが1時25分。そして今は3時38分。何時間たっている? 騎士団長、何時間だ!」
「5時間です」
騎士団長は苦々し気に答えた。
「いくら、城が広いといっても、衛兵と騎士を合わせれば六十名はいる。他にも侍従や小物もいる。百人以上の男がいて、5時間、いや時計が進んだから5時間1分たっても、曲者が捕まらぬとはどういうことだ!」
ロバートは家訓を思い出す。平時の油断は命取り。皆平和が続いて弛んでいるのだ。母といい、領民といい。騎士団までも。
「殿、ワーレンから報告があります」
騎士団長の声と同時に後方に控えていた金色の巻き毛の騎士が前に進み出た。いつもは快活に笑っている顔がどんよりと曇っている。
「実は、今朝、ベイカー菓子店の見習い職人のアデルが団長に届け物があると言って、入城しました」
騎士団長は言った。
「私は菓子を注文していません。部下も注文していません」
ロバート始め、周囲の男達は目の色を変えた。
「前の配達の時と同じ配達用の蓋付きのバスケットを持っていましたので、電信で確認せずに通してしまった私の過ちです。申し訳ありません。どうか処罰を」
ワーレンの謝罪と罰よりもバスケットのことがロバートは気になった。もし、その中に拳銃が入っていたとしたら。拳銃はここ数年国内でも普及しているが、軍人や貴族、郵便配達人、富裕な商人以外の領民で持っている者は少ない。
ロバートの脳裏にある仮定が閃いた。もしやアデルは隣国の間諜ではないか。危険極まりない仮装を含むハロウィンの祭を商店街で行なうように店主を唆したのではないか。領民が浮かれている隙に侵略する積もりに違いない。まずは手始めに領主の自分を暗殺するために、城内の誰かに拳銃を渡したのではないか。城内の者が領主を狙う等あってはならぬことだが、4時間探しても見つからぬとあれば内部の者の犯行であってもおかしくない。そうだ。アデルは衛兵達にも顔を知られている。彼らの誰かを色香で籠絡したのではないか。ロバートは上腕の筋肉以外、さほど心動かされなかったが、人によっては色香を感じるかもしれない。蓼食う虫も好き好きと言うではないか。衛兵であれば、城の内部を熟知している。狙撃した後、失敗しても衛兵に紛れこめば逃げおおせるのではないか。
ロバートはこの場にいる衛兵、今探索中の衛兵の顔を思い浮かべた。彼らの中で裏切りそうな者、色香に迷いそうな者は誰だ。
「バスケットの中身を確認しなかったのだな」
「はい。アデルはいつもと同じ様子でした。いつも重い荷物を持っていても平然としています」
「変だと思ったのだ。殿の通る廊下にあの娘がいたのは。あの時、しょっぴいて取り調べるべきであった。もしかすると、狙撃犯の協力者かもしれぬ」
騎士団長の疑いはもっともであった。
いくら、領主であるロバートにお触れを撤回するように直訴するにしても、嘘を言って城に入って来るとは。それに、拳銃の筒を見て、危ないと叫んだが、普通庶民は筒だけ見てすぐ拳銃と気づくわけがないのだ。肩を弾がかすめたのに、平然としていたのも怪しい。
「しばしお待ちを」
それまで黙っていたクレイが声を上げた。
「狙撃犯の協力者なら危ないなどとあの場で申すでしょうか。殿を弑するのが目的なら、黙っているはず。失敗した後にナイフで切り付けてもおかしくありませんぞ。だが、あの娘はしなかった。殿にお触れの撤回を直訴したいがために嘘を言って城に入っただけなのではありませんか」
「だが、それにしても、あの娘は妙だ。菓子職人見習いにしては、堂々とし過ぎている」
騎士団長の言う通りだとロバートは思う。
「クレイ、そなたの言うことももっともだが、あの娘がもし隣国の凄腕の間諜だとしたら、いかがする? わざと暗殺者に失敗させ、我らに味方と信用させてこの城の奥深くに潜入し、内部から破壊工作をしようとしていたとしたら? すでに、あの娘は母の部屋に入り込んでいる。母の信用を得て、悪事を企んでいるのかもしれぬ」
ロバートの言葉で部屋の温度が一挙に下がったようだった。
「アデルが間諜……そんな……」
ワーレンは呟いた。
「すでに衛兵の多くがあの女の作る菓子に魅了されている。団長室でも、衛兵はあの女を捕えようとしなかった。まことに凄腕の間諜やもしれぬ」
ロバートはそう言うと、騎士団長に命じた。
「今すぐ母上の部屋に行きあの女を捕えよ。母上の身が危ない」
団長が返事をしようとした時だった。机の上の無線装置から声が聞こえた。
『こちらは正門横の詰め所のスミス。先ほどから商店街の者達と教会の大司教の使いが……あ、おい、やめろ、やめ!』
一瞬声が途切れた後、装置が壊れそうな大声が部屋に響いた。
『殿様、お願いです。アデルを、アデルを帰してください。あの娘は、私の大恩人のお嬢さんなんです』
『辺境伯殿、大司教様の命令じゃ。触れを撤回せよ』
『アデルを帰してください。あの娘は、公爵、ちょっと何すんの!』
しばしの静寂の後、スミスの声が聞こえた。ぜえぜえという荒い息も聞こえた。
『商店街の者達と、大司教の使いは、追い払いました。以上』
詰め所の騒動は収まったらしい。最初の声はベイカー、次は教会の司教、最後はベイカーのおかみさんだと団長にはわかった。
「教会の大司教まで籠絡するとは、凄腕の間諜に違いない」
ロバートは眉間に皺を寄せた。
だが、騎士団長はベイカーのいつもとは違う慌てぶりが気にかかった。ベイカーはいつも上機嫌である。落ち着いてもいる。慌てた顔を見せたこともない。ベイカーのおかみさんも声を荒げることはほとんどない。その二人が必死になってアデルを帰してくれと言う。これはよほどのことだった。
しかもベイカーの大恩人の娘だと言う。大恩人とはベイカーの師匠であろうか。ベイカー夫妻は公爵領から十四年前に移住してきたと聞いている。師匠が公爵領の領民だとすると、アデルも公爵領の領民である。隣接する領地の出身者の身柄を拘束した場合、もし誤認であったら後で問題になるのではないか。
「殿、娘を捕えるのは少しお待ちになったほうがよいかと」
「何を言っている?」
ロバートは急に慎重になった騎士団長に不審を覚えた。
「ベイカーは公爵領からの移住者です。アデルは恩人の娘ということですから、公爵領の者かもしれません。ベイカーの妻も公爵と言いかけていました。もし拘束して隣国の間諜でないとわかったら、後で問題になります。以前、ランバートの者が公爵領で強盗に間違えられて逮捕されたことがありましたな」
四年前に、辺境伯領の商人がバートリイ公爵領に仕事に行った際に、公爵領で起きた強盗事件の手配書に特徴が似ていたため、誤認逮捕されたことがあった。すぐに本物の強盗が捕まったので、商人は釈放された。領地に戻った商人は公爵領で受けた取調の辱めをロバートに訴えた。ロバートはすぐさま、公爵に抗議をした。公爵は使者をよこし謝罪し、少なからぬ賠償金を商人に支払った。
「あれと逆のことになります」
それはまずいとロバートは思った。公爵家は王家との血縁がある。しかも現バートリイ公爵エイブラハム・ガブリエル・ホークは公正な人物と評判で、国王の信頼も篤い。四年前、領主になったばかりのロバートを侮ることなく、自領での誤認逮捕を謝罪したことを思えば、逆の立場になった場合、アデルの受けた損害に対し相応の謝罪と賠償を望むのは必至である。そして、恐らくその話は公爵から国王に伝えられるだろう。
領主となって五年、父に劣らぬように領内を治めてきたつもりだが、誤認逮捕をした場合、国王から領主失格と思われるのではないか、ロバートの中に不安が兆した。
そんなロバートの心中にクレイは気付いていた。
「ここは一つ様子を見ては。あの娘がもし間諜なら、曲者と連絡を取るかもしれません。城内にいる間、監視をつければよいのではありませんか。大奥様のそばにいる侍女たちも武術の心得はありますし。曲者が捕まりさえすれば何もかも明らかになりましょう。捕縛するのは曲者の取り調べの後でもできます。今は曲者を捕えるのが先決です」
ロバートはうなずいた。
「うむ。では、団長、騎士を三階の母上の部屋の周囲に増やせ。決してアデルを一人で行動させるな」
「御意」
返事をした騎士団長は不意に鼻腔に甘い匂いを感じた。それは他の者も同様だった。ロバートも気付いた。
「これはなんだ」
「大奥様が菓子を焼いているのではありませんか」
クレイの言う通りだった。
今、上の三階ではオーブンの中で、アデルとグレイス、侍女たちの作ったケーキが膨らみつつあった。
その匂いは城中に、そして風に乗って外にも広がっていった。
「この匂いは」
城の正門前に立つベンジャミン・ベイカーと妻のアンナにもその匂いが届いた。
「もしかして、これは……」
ベイカーは昔修行中に作ったことのある菓子を思い出した。ランバートに来てからは材料が手に入らないので、久しく焼いていないケーキだった。
「アデルだよ」
アンナは夫を見つめた。
「そうだな。きっとアデルだ」
ベイカー夫妻はアデルをここから一刻も早く帰さねばと決意した。騎士に追い払われたくらいで諦めるなんてできない。
「よし、決めたぞ」
ベイカーは妻に耳打ちした。
「あいよ。わかった。待ってておくれ」
アンナはさっとスカートの裾を翻して、商店街のある町へ駆け戻った。
ロバートは衛兵隊長と騎士団長の報告に激怒した。
ここは領主の執務室。騎士団長の部屋の壁にも武器が掛けられていたが、ここは机の背後とロバートから見て右側の壁に槍、弓矢、剣、斧、銃等がぎっしりと隙間なく掛けられていて、さながら武器庫のようであった。勿論、手入れはされているので、今すぐ使用することができる。
そんな危険極まりない部屋の主は今、怒りに震えていた。
午後になってもまだ曲者は捕まっていないのだ。
ロバートを狙撃した者を追った衛兵達によると、黒いコートに山高帽の男が銃を右手に握ったまま、事件の起きた二階の廊下を走って行ったと言う。廊下の突き当り、左は三階への階段、右は広間へと分かれるところで、あと数歩のところまで追いついた。男は左に曲がったので、皆三階への階段に殺到した。男が階段を駆け上がる姿が見えた。衛兵達も三階に上がった。三階に上がったところで、左右前後見回したが男の姿はない。階段は行き止まりで、四階に上がる階段は三階の廊下の奥にあり、そちらに向かえば廊下を走る後ろ姿が見えるはずだが、誰もいない。三階にある部屋のドアを片っ端から開けて調べたがどれももぬけの殻だった。
母のグレイスの部屋には男の兵士は入れぬので、侍女に誰か怪しい者が来なかったかドアの前で尋ねた。侍女は誰も来ていないと答えた。
その後、昼食後にロバートが来た時もグレイスの部屋にはまったく異状はなかった。
母もいつもと同じだった。相変わらず暢気で、亡き父はよく我慢できたものだと思う。あのベイカーの生意気な菓子職人を連れて来いと駄々をこねるのを見ると、母も年をとったものだと思う。もしかするとあの我儘は老人特有の病かもしれぬ。まださほど年をとってはいないが、医者に診せる必要があるかもしれぬと、ロバートは思った。
それはともかく、午後になっても見つからぬとは。
騎士団長も子どもの使いではないから、いろいろと調べてはいた。
「衛兵や侍女の勤務表を確認しましたが、今日出勤の者は全員出仕しています。三階を重点的に監視し、侍女が大奥様の部屋から出入りするたびに衛兵をつけていますが、そちらも異状はありません」
「して、見失ったままか」
「現在、衛兵と騎士、侍従、小者らで城中を手分けして探しております。三階の廊下には窓があります。そこから飛び降りた恐れもあります」
「代官達の連れは調べたか」
代官は一人ではなく、秘書等お供を連れていた。城の馬小屋には代官の乗って来た馬車を引いた馬も繋がれている。御者たちは馬小屋の近くの宿舎で休んでいる。
「はい。全員、控室から出ておりません。現在、二階の客室に全員入れております。御者も宿舎から出ておりません」
「あれから何時間たったと思っている」
ロバートは懐中時計を上着のポケットから取り出した。近衛騎士時代に競技大会で個人総合一位をとった際に国王から下賜されたものである。
「発砲が起きたのが、10時38分。あの小娘と話をした後、この部屋に入ったのが11時15分。そなたらの報告を待ちながら執務。昼食の後、母の部屋へ行ったのが、12時45分。再び、ここに戻ったのが1時25分。そして今は3時38分。何時間たっている? 騎士団長、何時間だ!」
「5時間です」
騎士団長は苦々し気に答えた。
「いくら、城が広いといっても、衛兵と騎士を合わせれば六十名はいる。他にも侍従や小物もいる。百人以上の男がいて、5時間、いや時計が進んだから5時間1分たっても、曲者が捕まらぬとはどういうことだ!」
ロバートは家訓を思い出す。平時の油断は命取り。皆平和が続いて弛んでいるのだ。母といい、領民といい。騎士団までも。
「殿、ワーレンから報告があります」
騎士団長の声と同時に後方に控えていた金色の巻き毛の騎士が前に進み出た。いつもは快活に笑っている顔がどんよりと曇っている。
「実は、今朝、ベイカー菓子店の見習い職人のアデルが団長に届け物があると言って、入城しました」
騎士団長は言った。
「私は菓子を注文していません。部下も注文していません」
ロバート始め、周囲の男達は目の色を変えた。
「前の配達の時と同じ配達用の蓋付きのバスケットを持っていましたので、電信で確認せずに通してしまった私の過ちです。申し訳ありません。どうか処罰を」
ワーレンの謝罪と罰よりもバスケットのことがロバートは気になった。もし、その中に拳銃が入っていたとしたら。拳銃はここ数年国内でも普及しているが、軍人や貴族、郵便配達人、富裕な商人以外の領民で持っている者は少ない。
ロバートの脳裏にある仮定が閃いた。もしやアデルは隣国の間諜ではないか。危険極まりない仮装を含むハロウィンの祭を商店街で行なうように店主を唆したのではないか。領民が浮かれている隙に侵略する積もりに違いない。まずは手始めに領主の自分を暗殺するために、城内の誰かに拳銃を渡したのではないか。城内の者が領主を狙う等あってはならぬことだが、4時間探しても見つからぬとあれば内部の者の犯行であってもおかしくない。そうだ。アデルは衛兵達にも顔を知られている。彼らの誰かを色香で籠絡したのではないか。ロバートは上腕の筋肉以外、さほど心動かされなかったが、人によっては色香を感じるかもしれない。蓼食う虫も好き好きと言うではないか。衛兵であれば、城の内部を熟知している。狙撃した後、失敗しても衛兵に紛れこめば逃げおおせるのではないか。
ロバートはこの場にいる衛兵、今探索中の衛兵の顔を思い浮かべた。彼らの中で裏切りそうな者、色香に迷いそうな者は誰だ。
「バスケットの中身を確認しなかったのだな」
「はい。アデルはいつもと同じ様子でした。いつも重い荷物を持っていても平然としています」
「変だと思ったのだ。殿の通る廊下にあの娘がいたのは。あの時、しょっぴいて取り調べるべきであった。もしかすると、狙撃犯の協力者かもしれぬ」
騎士団長の疑いはもっともであった。
いくら、領主であるロバートにお触れを撤回するように直訴するにしても、嘘を言って城に入って来るとは。それに、拳銃の筒を見て、危ないと叫んだが、普通庶民は筒だけ見てすぐ拳銃と気づくわけがないのだ。肩を弾がかすめたのに、平然としていたのも怪しい。
「しばしお待ちを」
それまで黙っていたクレイが声を上げた。
「狙撃犯の協力者なら危ないなどとあの場で申すでしょうか。殿を弑するのが目的なら、黙っているはず。失敗した後にナイフで切り付けてもおかしくありませんぞ。だが、あの娘はしなかった。殿にお触れの撤回を直訴したいがために嘘を言って城に入っただけなのではありませんか」
「だが、それにしても、あの娘は妙だ。菓子職人見習いにしては、堂々とし過ぎている」
騎士団長の言う通りだとロバートは思う。
「クレイ、そなたの言うことももっともだが、あの娘がもし隣国の凄腕の間諜だとしたら、いかがする? わざと暗殺者に失敗させ、我らに味方と信用させてこの城の奥深くに潜入し、内部から破壊工作をしようとしていたとしたら? すでに、あの娘は母の部屋に入り込んでいる。母の信用を得て、悪事を企んでいるのかもしれぬ」
ロバートの言葉で部屋の温度が一挙に下がったようだった。
「アデルが間諜……そんな……」
ワーレンは呟いた。
「すでに衛兵の多くがあの女の作る菓子に魅了されている。団長室でも、衛兵はあの女を捕えようとしなかった。まことに凄腕の間諜やもしれぬ」
ロバートはそう言うと、騎士団長に命じた。
「今すぐ母上の部屋に行きあの女を捕えよ。母上の身が危ない」
団長が返事をしようとした時だった。机の上の無線装置から声が聞こえた。
『こちらは正門横の詰め所のスミス。先ほどから商店街の者達と教会の大司教の使いが……あ、おい、やめろ、やめ!』
一瞬声が途切れた後、装置が壊れそうな大声が部屋に響いた。
『殿様、お願いです。アデルを、アデルを帰してください。あの娘は、私の大恩人のお嬢さんなんです』
『辺境伯殿、大司教様の命令じゃ。触れを撤回せよ』
『アデルを帰してください。あの娘は、公爵、ちょっと何すんの!』
しばしの静寂の後、スミスの声が聞こえた。ぜえぜえという荒い息も聞こえた。
『商店街の者達と、大司教の使いは、追い払いました。以上』
詰め所の騒動は収まったらしい。最初の声はベイカー、次は教会の司教、最後はベイカーのおかみさんだと団長にはわかった。
「教会の大司教まで籠絡するとは、凄腕の間諜に違いない」
ロバートは眉間に皺を寄せた。
だが、騎士団長はベイカーのいつもとは違う慌てぶりが気にかかった。ベイカーはいつも上機嫌である。落ち着いてもいる。慌てた顔を見せたこともない。ベイカーのおかみさんも声を荒げることはほとんどない。その二人が必死になってアデルを帰してくれと言う。これはよほどのことだった。
しかもベイカーの大恩人の娘だと言う。大恩人とはベイカーの師匠であろうか。ベイカー夫妻は公爵領から十四年前に移住してきたと聞いている。師匠が公爵領の領民だとすると、アデルも公爵領の領民である。隣接する領地の出身者の身柄を拘束した場合、もし誤認であったら後で問題になるのではないか。
「殿、娘を捕えるのは少しお待ちになったほうがよいかと」
「何を言っている?」
ロバートは急に慎重になった騎士団長に不審を覚えた。
「ベイカーは公爵領からの移住者です。アデルは恩人の娘ということですから、公爵領の者かもしれません。ベイカーの妻も公爵と言いかけていました。もし拘束して隣国の間諜でないとわかったら、後で問題になります。以前、ランバートの者が公爵領で強盗に間違えられて逮捕されたことがありましたな」
四年前に、辺境伯領の商人がバートリイ公爵領に仕事に行った際に、公爵領で起きた強盗事件の手配書に特徴が似ていたため、誤認逮捕されたことがあった。すぐに本物の強盗が捕まったので、商人は釈放された。領地に戻った商人は公爵領で受けた取調の辱めをロバートに訴えた。ロバートはすぐさま、公爵に抗議をした。公爵は使者をよこし謝罪し、少なからぬ賠償金を商人に支払った。
「あれと逆のことになります」
それはまずいとロバートは思った。公爵家は王家との血縁がある。しかも現バートリイ公爵エイブラハム・ガブリエル・ホークは公正な人物と評判で、国王の信頼も篤い。四年前、領主になったばかりのロバートを侮ることなく、自領での誤認逮捕を謝罪したことを思えば、逆の立場になった場合、アデルの受けた損害に対し相応の謝罪と賠償を望むのは必至である。そして、恐らくその話は公爵から国王に伝えられるだろう。
領主となって五年、父に劣らぬように領内を治めてきたつもりだが、誤認逮捕をした場合、国王から領主失格と思われるのではないか、ロバートの中に不安が兆した。
そんなロバートの心中にクレイは気付いていた。
「ここは一つ様子を見ては。あの娘がもし間諜なら、曲者と連絡を取るかもしれません。城内にいる間、監視をつければよいのではありませんか。大奥様のそばにいる侍女たちも武術の心得はありますし。曲者が捕まりさえすれば何もかも明らかになりましょう。捕縛するのは曲者の取り調べの後でもできます。今は曲者を捕えるのが先決です」
ロバートはうなずいた。
「うむ。では、団長、騎士を三階の母上の部屋の周囲に増やせ。決してアデルを一人で行動させるな」
「御意」
返事をした騎士団長は不意に鼻腔に甘い匂いを感じた。それは他の者も同様だった。ロバートも気付いた。
「これはなんだ」
「大奥様が菓子を焼いているのではありませんか」
クレイの言う通りだった。
今、上の三階ではオーブンの中で、アデルとグレイス、侍女たちの作ったケーキが膨らみつつあった。
その匂いは城中に、そして風に乗って外にも広がっていった。
「この匂いは」
城の正門前に立つベンジャミン・ベイカーと妻のアンナにもその匂いが届いた。
「もしかして、これは……」
ベイカーは昔修行中に作ったことのある菓子を思い出した。ランバートに来てからは材料が手に入らないので、久しく焼いていないケーキだった。
「アデルだよ」
アンナは夫を見つめた。
「そうだな。きっとアデルだ」
ベイカー夫妻はアデルをここから一刻も早く帰さねばと決意した。騎士に追い払われたくらいで諦めるなんてできない。
「よし、決めたぞ」
ベイカーは妻に耳打ちした。
「あいよ。わかった。待ってておくれ」
アンナはさっとスカートの裾を翻して、商店街のある町へ駆け戻った。
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夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
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