江戸から来た花婿

三矢由巳

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第二章 天狗騒動

23 誰も不幸せにならぬやり方

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 俺のしたことは何だったのだ。無駄足だったということか。源三郎は落ち込んでいた。
 貞蓮院と赤子が山置に向かったのではないかと思われたのに、捜索は打ち切りということになってしまった。
 何より弾正のだまらっしゃいの一言は衝撃だった。
 有無を言わせぬ迫力は年下とは思えなかった。源三郎はそれで意気をくじかれてしまった。
 壱子の顔でも見て気分を変えようと思っていたら、部屋の前で白川から障りですのでご面会はなりませんと言われてしまった。

「障りとは何だ」
「月のものです」

 聞いたことはある。色道の指南書にも月のもの、月の障り、月経と呼ばれるものが女性には月に数日あり、その間は男女の交接はすべきでないと書かれていた。また、懐妊すると月経が起きないとも。つまり、壱子は懐妊しなかったということだ。少々残念だが、仕方ない。次の機会はあるのだから。だが、顔も見られないとは指南書には書いていなかった。

「なぜ、会えないのだ」
「そういうことになっております。当家では月の障りの時は女人は別室に籠もり、父や夫といえども顔を合わせることはできないのです」

 実家の加部家では男性の中で暮らしていたので、源三郎は女性の身体にまつわるならわしをほとんど知らなかった。父の正室に挨拶する時、たまに病で会えないと言われたことがあったが、その中にはこういうこともあったのかもしれなかった。
 肩を落とす源三郎に白川は告げた。

「かような時こそ、歌をやりとりするものでございます」
「書いたら取り次いでもらえるのか」
「はい」

 というわけで 歌を作ろうとするのだが、なかなか出てこない。逢いたいという気持ちだけを詠むのも物足りない。かといって月の障りを歌に詠んでいいものかどうか。
 ちょうど城での仕事を終えた千崎弥右衛門が挨拶に来たので、尋ねてみた。

「月の障りの歌ですか」

 男性の弥右衛門には月の障りの歌はすぐには思い出せなかったが、記憶の底にあった古事記の話を語った。

いにしえの歴史を書いた古事記では倭建命やまとたけるのみことが月の障りが始まった美夜受比売みやづひめと歌を贈答しています」
「そんな話があるのか」
「はい。その後に命は比売と交接しています」
「していいのか」
「古の人々は細かいことは気にしなかったのでしょう」

 本当にそんなことがあるのか、源三郎は不思議で仕方なかった。
 弥右衛門はいったん家に戻り他に歌がないか確認してくると言って出て行った。
 残された源三郎は紙を前にうなるばかりであった。
 そうこうしているうちに、夕餉ですと呼ばれた。
 あの義父とまた黙って飯を食うのかと思うと、食欲も失せそうだったが、腹の虫は鳴いている。源三郎は食事の間へ向かった。



 考えようによっては食事の間は無言なので、あれこれと説教されることはない。源三郎は我慢、忍耐という言葉を胸に飯をゆっくりと口に運んだ。
 食事の後、挨拶して部屋に引き上げようと思っていると、こちらへと部屋に呼ばれた。

「後で弥右衛門が参ることになっております」
「岳父と家臣、どちらを優先するのだ」

 相も変わらぬ有無を言わせぬ口調だった。源三郎はとぼとぼと啓哲の後に従った。

「そなた、少しばかり時をかけ過ぎではないのか」

 本が山と置かれた書斎に入り座った途端に、これだった。時をかけ過ぎとはいかなる意味かわからなかった。

「何のお話でしょうか。歌ですか」

 歌を作るのに時がかかるという意味ではないかと思った。
 啓哲は小さくため息をついた。

「歌ではない。昨夜言おうと思ったが、久しぶりのお壱との逢瀬故無粋かもしれぬと思って言わなんだ。だが、白川から今朝話を聞き、これは是非とも言わねばと思ってな」

 白川から一体何の話を聞いたのだろうか。白川は昨夜、離れの一階に控えていた。もしやと嫌な予感を覚えた。だが、ありえない。義父がそのようなことを口にするとは。

「祝言を挙げたばかりで、まだ頭に血が上っておるかもしれぬが、そなたの役目の第一は当家の跡継ぎを儲けること。時をかければよいというものではない」

 嫌な予感が大当たりだった。源三郎は厳粛な顔で話す義父を見つめた。まさか、そんなことを言われるとは。

「よいか、子を生すのに、明け方まで行う必要はないのだぞ。女色に溺れてはよき子は生まれぬ」

 女色に溺れようが溺れまいが、子どもはできるようになっているのだがと源三郎は思う。

「夫婦仲が良過ぎて子ができぬこともあると聞く。何事もほどほどがよいのだ」
「ほどほどとはどれくらいなのでしょうか」

 馬鹿馬鹿しいが、尋ねてみた。

「一刻もいらぬ。線香一本消える間でも子は生せる」

 線香一本。もしや、啓哲の三人の娘はそれだけでできてしまったのだろうか。源三郎には想像できない。
 それはともかく、源三郎にとっては無理な話だった。子種を放つまでの時が長いのだ。それ以前にまだ若い壱子の身体をほぐすのに線香一本ではとても足りない。
 だが、ここでそういう言い訳をしても、啓哲は受け入れそうにも思えなかった。それに、自分の生理的な事情を啓哲に話したくはなかった。吉原の女郎屋の女達に嫌がられた記憶がよみがえってきそうだった。
 何より相手のある話なのだ。源三郎の気持ちだけでどうこうできる話ではない。

「此度、お壱に子ができずに月のものを迎えたのも、そなたが時をかけ過ぎたせいぞ。くれぐれも次からはいつまでもだらだらと為すことなきように」
「さように努めます」

 努めることしかできないのだ。そうしますとは言えなかった。

「女人でも三年子無きは去れという。そなたも子ができぬようなら……。覚悟はよいな」

 言いたいだけ言って啓哲は下がれと言った。
 源三郎はどうしようもないことをどうすればいいのかと思いながらも、自室に下がった。 



 それにしても義父とはいえ、夫婦の営みに介入してくるというのはやりきれない話だった。白川は仕事だから啓哲に報告するのだろう。白川に余計なことは言うなと言えば、また義父に報告がいくはずである。結婚とはかように面倒なものなのだろうか。
 確かに養子だから、次の世代を生むのが重要な役割であることはわかっている。だが、その目的がかなうなら手段はどうでもいいように思うのだが。
 考えれば考えるほど、気持ちが落ち込んで腐ってしまいそうだった。
 恐らく三人の家臣には面倒なことを言ってくる親戚はおるまいと思う。気楽なことだと思うものの、妻に子ができなければ、妻はそれぞれにつらい思いをするのかもしれなかった。
 ふと、りつのことを思い出した。りつには子がいないと親は言っていた。離縁の話も出たと言う。
 もし、たつと赤子が城から消えた貞蓮院母子だとしたら、りつはどんな思いで赤子を抱いていたのだろうか。たつもまたどんな気持ちでりつに赤子を抱かせたのか。
 源三郎にはどうにもわかりかねた。
 そんなことを思っていると、弥右衛門が徳兵衛、平四郎とともに訪ねて来た。まさか三人がそろって来るとは思わず、源三郎は慌てて台所に酒を用意するよう命じた。
 まず、弥右衛門が徳兵衛から話を聞いたと切り出した。 

「玄蕃様、これは大変な手柄ではございませんか。すぐにも大番組の沢井様に訴え出るべきです。領内での捜索は打ち切られるようですが、まだ間に合います」
「さよう。我らはたばかられたのです、これは訴え出ねば」

 平四郎は顔を赤くしていた。無理もない。彼もりつとたつの顔を見ているのだ。二人に騙されたと怒るのは当然だろう。

「明日にでも山置に出向き、重兵衛とりつを取り調べるべきです。守倉衆のことなど気にする必要はありません。玄蕃様は御分家の婿なのですから」

 徳兵衛の言うことが実行できるなら、どんなにいいか。

「すまぬ。それはできぬのだ。義父上に言われた。私を外に出すわけにはいかぬと。この件は終わったと」

 三人は息を呑んだ。評定所後見という重職にある山置弾正の言葉の重さを彼らも理解していた。

「終わったとは……」

 徳兵衛は握りこぶしを震わせていた。彼は納得できないのだ。源三郎にもそれは理解できた。

「城から重罪人がいなくなったというのに」

 その時だった。廊下でことりと物音がした。

「誰だ」

 徳兵衛の声に答えたのは亥吉だった。亥吉は障子を開いて頭を下げた

「申し訳ありません。お酒を持って参りましたが、皆様がひどく怒ってなさるんでいつ入ればよいかと」
「すまぬ、亥吉。酒を置いてくれ」

 源三郎の言葉に亥吉はうなずき徳利と猪口を三つ載せた盆をそこに置いた。

「あの、よろしいでしょうか」

 亥吉は廊下に座ったまま、主を見た。

「どうした、亥吉」
「畏れながら、今度の一件のことですが」

 亥吉は何やらもじもじしている。言いたいことがあるらしい。

「言いたいことがあるなら言ってみよ」

 源三郎は知っていた。亥吉は学はないが、嘘偽りは言わない男だった。
 三人は何を亥吉が言うのかと注目した。

「その、逃げた方はもし逃げなかったら死罪になったのでしょう。赤子と引き離されて」
「ああ、そうだ。死罪を一等減ぜられて押し込めになったのに不義密通をしたのだからな」

 徳兵衛は許せないという顔である。

「もし逃げおおせたら、母と子二人で暮らせるのですよね」
「逃げ得というやつだな」

 徳兵衛は不快そうだった。

「不義密通をして赤子までこさえておいて、のうのうと生きるなど、婦女子のクズではないか」

 徳兵衛はよほど腹に据えかねているらしい。

「クズかもしれませぬが、母と子が一緒に暮らせるというのはたとえ野垂れ死ぬことがあっても幸せなことじゃあないでしょうか」

 徳兵衛だけでなく、弥右衛門も平四郎も目を丸くした。源三郎ははっとした。

「あたしは子どもの頃、火事で親と死に別れまして、親戚の家で世話になりましたが、二親と暮らしてた時のことを思い出せば、どんなにつらいことでも我慢できました。なんとか院は不義密通をした悪女かもしれませんが、子どもにとっちゃあ、一人しかいない母親なんですよ」
「町人はそれでいいかもしれぬが、武家ぞ」

 弥右衛門の口調は静かだった。

「へい。それはわかっております。でも、城からその方たちがいなくなって、不幸せになった方はいないんじゃありませんか」
「おい、御隠居所の警備の責任者は謹慎を命じられ降格となった。仕えていた奥女中も実家に戻されたのだぞ」

 平四郎の言葉に亥吉はうなずいた。

「それは伺っています。ですが、取り潰された家も死罪になった方もおいでではありません。前になんとか院が捕まった時は切腹になった人や取り潰された家もあったと聞いてます」

 確かにそうだった。貞蓮院の醜聞に関わった寺の者の中には死罪になった者が複数いた。貞蓮院の従兄は切腹し、その家は取り潰しとなっている。

「だが、逃げられたのは不名誉な話ではないか。末代までの恥ぞ」

 徳兵衛は不満げだった。

「なんでも寺社では天狗を祀る祈祷をなさるとか。皆、これは城から女子をさらった天狗がこれ以上の悪さをせぬように怒りを鎮めるためだと噂しております。天狗から奪われたのなら、人にはどうにもできぬこと。謹慎を命じられた方も天狗のせいなら致し方ないかと」
「そちは何を言いたいのだ」

 徳兵衛はついに怒鳴った。亥吉はそれでも平然とした顔だった。

「今度のことで、誰も不幸せになってはおりません。もし見つかったら、今度こそ母と子は引き離され、母親は死罪。子どもにとっても母にとっても不幸せなこと。それに力を貸したとされるりつと重兵衛も取り調べられ、重罪となるでしょう。ですが、見つからぬままなら、天狗がさらったということにしたら、誰も不幸せにはなりませぬ」

 部屋の中はしんと静まった。
 
「申し訳ありません。差し出がましいことを申しました」

 亥吉は深く頭を下げた。源三郎は下がれとできるだけ静かに言った。亥吉は廊下に出て障子を閉じた。

「誰も不幸せにならぬか」

 源三郎はつぶやいた。

「掟は守るべきですが、誰のための掟か、ということですね」

 弥右衛門の言葉に異議を唱えたのは徳兵衛だった。

「だが、それではまつりごとはどうなる。逃げ得がまかり通るぞ」
「考えてみれば、貞蓮院は人を殺めてはいない。浄文院様の側室としては許されぬ不義密通だが、町人なら夫亡き後、また別の家に嫁ぐというのは珍しくないな」

 山野を歩き回る平四郎は庶民の暮らしをよく知っていた。

「だが、我らは武家ぞ。武家は武家の掟を守らねばならぬ」

 徳兵衛はまだ納得していなかった。
 源三郎は亥吉の言葉の意味を考えていた。誰も不幸せにならぬ。
 もし、りつと重兵衛を取り調べたら。その結果、貞蓮院と赤子の居場所が判明してもしなくても、りつと重兵衛、西畑村の者達、郡奉行所の役人ら皆罰せられることになろう。無論貞蓮院母子が発見されれば、貞蓮院も罰せられる。
 義父の弾正は天狗ではなく人のしたことだと言っていた。恐らく、守倉衆が関わっているのだろう。義父は気付いていたのかもしれない。
 気付いていたのに、この件は終わったと言った。恐らく、義父もまた決して心の底から納得はしていないのではないか。だが、誰も不幸にならぬと気づけば終わったと言わざるを得なかったのかもしれぬ。

「徳兵衛、やはりこれは終わったことなのだ」
「弾正様に従われるのですか」
「義父上とて、まことは納得しておられぬのだ」
「なんと」

 徳兵衛だけでなく、弥右衛門も平四郎も驚いて源三郎を見つめた。

「昨日、義父上は人のしたことだと仰せであった。だが、今日は終わったことだと仰せになった。恐らく、そう言わざるを得なくなったのだ。それに、亥吉が言ったように、貞蓮院を今見つけても誰も幸せにはならぬのだ。りつが取り調べられたら、夫の重兵衛もただでは済まない。武家だけが罰せられるならともかく、重兵衛もりつも百姓。どういう理由かわからぬが、巻き込まれてしまった二人まで罰せられる」
「玄蕃様」

 徳兵衛はうめくように言った。
 平四郎はうなずいた。

「おりつさんは悪い人には見えなかったからな。今思えば赤子の抱き方があまりうまくなかったような気がするが、それでも山賊から子どもを守ろうと一生懸命だった」

 そう言った後で平四郎はあっと小さく叫んだ。

「思い出しました。加部の領内では、子どもの欲しい夫婦は知り合いから子どもを預かって一晩夫婦の間で寝かせると子ができると言われておりました。他の地にもそういう話があると聞いたことがあります。もしかすると、おりつは子が欲しくて一晩だけ赤子を預かるのを条件に、おたつと山置へ戻ったのではありませんか」
「ああ、その話は聞いたことがある」

 弥右衛門も言った。

「従兄夫婦がそれで子どもを授かったと言っていた」

 なんとも不思議な話である。まるで子どもが子どもを引き寄せるような。
 もしそういう話があるのなら、あの時りつがなぜたつと赤子とともに西畑村へ向かったのか、わかるような気がした。いくら重兵衛が別れなくともよいと言ったとしても、彼女は子どもが欲しかったのだ。露見したら重罪間違いないとわかっていても、彼女は賭けたのではないか。いや、彼女だけではない。重兵衛もだ。
 一晩赤子を挟んで寝た後、赤子とたつはどこぞへと消えたのではないか。けれど、ここまでしたのだからきっと子ができるはずと二人ははかない望みを抱いて今も西畑村で暮らしているに違いなかった。

「だが、山賊は何だったのだ」

 徳兵衛の問いが源三郎の想像を現実に引き戻した。


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