生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

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第四章 紅葉(享保元年~享保三年)

06 お仙という女 弐(R15)

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 その少年を初めて見たのは次に殿様が帰っておいでになった年の紅葉の宴での能舞台であった。最後の演目「岩船」のシテ龍神の面を取って挨拶した顔は思いがけないほどに幼かった。
 次に会ったのは奥であった。
 仏間の隣の部屋で、お仙の部屋子たちを前にした少年は驚いて俯いてしまった。
 その初心うぶなありさまにお仙は「おかわいい」と笑ってしまった。
 だが、少年がさほど初心ではないことは時を経ずしてお仙の耳にも入った。
 すでに懇ろな仲の女子がおり、懐妊してもおかしくないことを耳にした時には、他の部屋子たちも目を丸くしていた。
 その娘をおしのは知っていた。

「岡部の家の下女でございます。よく働く娘で、仕立て物も岡部の妻女から習っていて、なかなかの腕前とか」
「下女風情が若君の側女とは」

 おくまがせせら笑った。

「おくま、笑ってはなりません。若君がいずれは殿の後を継ぐやもしれませぬ」

 お仙の戒めにおくまはおし黙った。
 実際、その少年が竹之助に代わって殿の後を継ぐことに決まったのだった。





 少年が城に入ってから、殿様は変わった。生活に張りが出たのだとお仙は思った。
 夜も変わった。
 沢井家での月見の宴の夜、お仙は初めて殿様とときめくような夜を過ごした。
 その結果、お仙は懐妊した。
 十年かかってのことだった。
 お仙以上に仕えているおくまやおしの、御年寄らは喜んだ。
 秋葉の伯父や伯母もあれこれと支度を始めた。
 けれど、喜びの時は短かった。
 出血に気付き、医師を呼んだ時はもう手遅れだった。

「流れやすいのは血筋かねえ」

 見舞いに来た伯母の何気ない一言にお仙は胸をえぐられるような痛みを覚えた。
 血の海の中に倒れた姉。
 姉は死に、自分は生きている。
 子を流してしまった悲しみに姉が苦しんだ時はさほど長くはなかった。けれど、自分はずっとこの悲しみを抱いて生きねばならない。
 殿様の慰めの言葉を聞きながら、お仙はなぜ自分だけ生き残ってしまったのだろうかと思うばかりだった。
 傷ついた身体と心を癒す間もなく、公方様の訃報で止まっていた御隠居所の作事が再開された。満津が移るための準備である。
 満津は月のものが始まり、近頃とみに女らしくなったと奥の女達が囁き始めていた。
 御年寄は体調のよくないお仙を案じて作事の中止を求め、それは受け入れられた。
 お仙はやりすぎではないかと思ったものの、自分を案じる御年寄や女中達を止めることはできなかった。
 それにお仙の中に満津への嫉妬の気持ちがなかったとも言えない。特別美しくもないのに若君に愛される少女というのがなんとなく許せないような気がした。
 姉のような美しい娘なら、いやもし姉が生きていたら、そう思うとお仙は心が荒ぶってくるのを抑えられなかった。
 姉なら殿様との間に子を生して、幸せになれたかもしれぬ。お仙はこうして城の奥で悲しみを堪えて生きることもなかったはずである。
 卑怯な秋葉源五さえいなければ。
 やがて殿様と若君が江戸に立つ日が来た。
 また来年、殿様にお会いする日までには元気にならなければとお仙はほほ笑んで殿様を見送った。
 それが永の別れになろうとは思いもしなかった。





 殿が江戸にたってすぐに、満津の懐妊が判明した。祖母のきよを亡くしたばかりで満津は喜びをあらわにしなかった。けれど周囲の人々の喜びは明らかだった。
 江戸へ出た若君は公方様に御目見えし、正式に御世継と認めらた。沢井家に住む満津の元には各所から様々な祝いの品が届けられた。
 お仙の周囲ではできるだけそういった話を耳に入れないようにしていた。
 けれども、時たま奥に顔を見せる秋葉の伯母にはそんな配慮などまったくなかった。むしろ、お仙が世間知らずにならぬようにと気を利かせているつもりらしかった。

「沢井の座敷には襁褓が山のようにあるそうですよ。あれを使いきるには双子や三つ子を産んでも足りないんじゃないかって」

 もし子が流れなければ、そんなことを思ってしまう自分が情けなかった。
 そうこうするうちに御隠居所の作事も再開された。
 だが、すぐに江戸の寿姫様と隆成様のご逝去の知らせがあり、またも作事は中断した。
 さすがにこれ以上遅くなってはと早くに作事は始まったが、結局満津の出産には間に合わなかった。
 沢井家で満津が女児を産んだと聞いたのは翌朝のことだった。
 お仙は祝いの品をすぐに贈った。
 正直、男児ではなくてよかったとお仙は思った。来年殿が帰って来たら、自分ではなくおしのに夜伽をさせようと思った。
 おしのなら子が流れることはないかもしれぬ。
 もし男児が生まれたら、殿の世継ぎになれるかもしれぬ。殿の弟が中継ぎになってその後殿の男児が後を継ぐということも世間にはあるのだ。
 あの美しくもないやせっぽちの少女がお腹様と大事にされることなど耐えられなかった。
 姉のほうがよほど美しく、側室にもふさわしかったのだから。





 年が明けた。
 殿様は江戸で若君の婚礼を終えた後、国許に戻ることになっていた。
 お仙はその日を指折り数えて待った。
 二月の初め、満津の方が姫君とともに城の隠居所に入った。
 それからやや遅れた二月の下旬、奥に京から荷物が届いた。江戸の殿様と御正室の眞里姫様からの姫君の初節句の祝いの雛人形だった。
 殿様からということで隠居所の狭い座敷に飾るわけにはいかなかった。
 雛人形は奥の座敷に他の節句の祝いの品とともに飾られた。
 人形の見事さに女達は息を呑んだ。衣装は西陣の織物、背後の屏風には本物の金箔が貼られ、雛道具は黒漆に金蒔絵が施されていた。
 極め付けは江戸の御正室様、つまり姫にとっては義理の祖母に当たる眞里姫様が姫の名付けをしたという事実だった。
 眞里姫の実家は譜代の名門加部家である。その方が祖母であるという事実は重かった。
 節句の日、お仙は奥を代表して祝いの言葉を述べた。
 その時は何も思うことはなかった。
 けれど、祝いの宴の席で、姫の乳母の堀内ゑ以がなにげなく満津に言った言葉がお仙を打ちのめした。

「姫様はこれで老中の加部豊後守様のひ孫と認められたも同じ。将来は大大名の奥方様になられて御世継をお生みになるやもしれません。そうなれば、御方様は姫様の母上様なれば、大大名の御世継のおばばさまになられましょう」

 満津はそんな畏れ多いことを言うものではないと言ったが、それは決してありえない話ではなかった。
 お仙はまたも姉のことを思った。姉が生きていれば。子を産んでいれば。





 梅芳院はその前年の十月半ばから寺に籠りきりだった。
 梅芳院の従兄である小田切仁右衛門が江戸の次男の不祥事で隠居、小田切家も閉門となったことが関係していると、お仙は御年寄から聞いていた。
 恩人である梅芳院に何かできることはないかと考えたもののお仙には何もできなかった。
 殿の御怒りに触れるようなことが小田切の家にあったとなれば、そこに関係する梅芳院の元へなど行けないとお仙は遠慮したつもりだった。
 だが、桃の節句からしばらくしたある日、満津が奥に訪ねて来た。

「先日、照妙寺に参りまして、梅芳院様からお手紙を預かって参りました」

 しれっとした顔で言った満津に、お仙は驚きを隠せなかった。

「照妙寺へ、なぜ」
「節句のお祝いのお礼です」

 満津はごく当たり前のように言った。

「梅芳院様から姫に天児あまがつをいただきましたので。それにお風邪を召しているようでしたので見舞いを」
「お風邪を」
「はい。咳がひどいとのこと。幸い、医者がよい薬を出してくれたようで収まっておりました」

 梅芳院の風邪のことなど知らなかった。それよりも天児を満津の生んだ女児に贈ったということがお仙にはこたえた。
 満津が退出した後、梅芳院の文を読んだお仙は確信した。
 梅芳院はもうお仙に子を産むことなど望んではいないと。

  満津と手をたずさへて奥を盛り立てむことを願ひさふらふ

 満津と手をたずさえて。
 お仙は自分はすでに奥の主人ではないのだと気づいた。子を産んだ満津に梅芳院はすべてをゆだねようとしている。
 さらに数日後、お仙は殿様が江戸で病に倒れ帰国できなくなったことを知った。
 城下の寺社では病気平癒の祈祷が連日行われた。
 お仙は城内の社でお百度を踏んだ。満津もまたそれに従った。
 あっという間に七月になった。江戸に行っていた竹之助が帰って来た。
 江戸からの人事異動の者達とともに城に入ったのは竹之助だけではなかった。
 鶏が城で飼われるようになった。卵を産ませるためということであった。
 城の庭の一角に大きな鶏小屋が作られ、そこに入れられた鶏は朝暗いうちから鳴いた。
 お仙はその声を聞くたびに江戸の殿様もこれを聞いていたのかとなんとなく嬉しく思ったものだった。
 だが、鶏を国許にやったのが若君と知るとなぜだか疎ましい気分になった。
 あの若君が城に入ってから殿は変わられたけれど、同時になにやら不吉なものも城に呼び込んだように思われた。
 鶏もまた新たな不吉のしるしのように思えた。
 そのうち、病の重い殿様は隠居をなさったと江戸から文が届いた。
 数か月前に知らされていたものの、正式に決まるとお仙の周囲は慌ただしくなった。
 梅芳院の一言で御隠居所への家移りが決まった。
 おくまは最後まで不満を隠さなかった。

「この御隠居所は鶏小屋からも近くて、うるさくてかないませんのに。まったく満津の方様も御方様に遠慮されればよいのに」
「御方様が決められたことにあれこれ言うのはどうかと思います」

 同僚のおしのにたしなめられ、おくまはやっと口を閉じた。
 江戸で大殿様が亡くなられたという知らせを受けたのは、御隠居所での暮らしに慣れた一月の末のことであった。




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