生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

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第四章 紅葉(享保元年~享保三年)

03 佐登から浮橋へ

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 この年九月の二十六日に霧島の山が火を噴き、火口から軽石や灰が周辺に飛んだ。
 香田角の人々も霧島から飛来する灰に悩まされた。軽石こそ飛ばなかったが灰が降り、田畑を灰色に覆った。
 しかも噴火は何度も繰り返され、領内の作物が枯れたり、生育が止まったりした。
 城下では野菜の値が上がった。
 ちなみにこの時噴火したのは新燃岳で、山の周辺では火災や火砕流、泥流などの被害があり、灰は八丈島まで飛んでいる。
 年が明けて享保二年(一七一七年)。
 ようやく降灰は収まったものの、世情はいまだ落ち着かなかった。





 佐登さとがお褥滑りの三十にもならぬのに、お暇を頂きたいと言ったのはこの年の初めであった。
 何かあったのかと尋ねてもはっきり言わない。よもや子ができぬことで小島から何か言われたのかと問えばそんなことはないと言う。
 閨でどうにか聞きだしたのは、この先のり姫様が月の物が始まり殿と名実ともに夫婦になった時に、心穏やかでいられる自信がないということだった。
 嫉妬に身もだえるくらいなら、殿のいる上屋敷を出て出家するか、上屋敷ではないところに仕えるかしたほうがいいのではないかと考えていたのだ。
 そう言われると、隆礼もそんなことはないと言えない。
 祝姫はまだ月の物は始まっていないが、日に日に女らしい身体つきになっていた。
 一昨年の末の頃から、床に入って口吸いだけでなく、互いの身体に触れるようになって、そのまま朝まで一緒に床に入っていることも増えた。
 佐登は恐らくそういうことに気付いているのであろう。自分の出番がいずれはなくなり、御手付きの中老として上屋敷で祝姫に仕える日々を不安に感じているらしかった。
 そんな時、満津から国許の御年寄が近々引退するので、今後の姫の教育のために江戸表からしっかりした奥女中を送ってもらえないかという文が届いた。
 真っ先に思い浮かんだのは佐登だった。佐登は御年寄の仕事もよく手伝っていた。
 佐登本人にどうかと尋ねると、二つ返事で承知した。御年寄は驚いたが、今奥にいる女で一番しっかりしているのは佐登であったから、結局話はすぐにまとまった。
 加部家にも許しを得て、佐登はすぐに警護の藩士や供の女中一人とともに香田角へ旅立ったのだった。
 旅立つ前日、閨をともにしたが、佐登は感傷的なありさまにもならず、抱かれた後はこれまでお世話になりましたと閨を一人で出て行った。
 あっけない別れだったが、別れを惜しんで明け方までいれば旅立ちにも差し支えると、隆礼もそれを見送った。





 国許に到着した佐登は浮橋うきはしと名を変えた。 
 まず彼女は奥向きのあまりののどかさ、言い換えると緊張感の無さに呆れた。
 皆動きが遅かった。返事も遅かった。また衣装や化粧も野暮ったかった。姫の教育以前に奉公人達を教育する必要があった。
 幸いにも若い満津の方は江戸から来た浮橋を尊重してくれたので、そのやり方に従ってくれた。
 一か月もすると女達はきびきびと動き始めた。化粧も奥向きらしくなった。
 また、奥向きのことを家族にペラペラとしゃべる女がいたので、すぐに辞めさせた。これで皆口が堅くなった。
 満津の方の香姫への接し方も変えさせた。姫は殿様の家族だが、生母は家族ではなく奉公人だった。それは満津もわかっていた。だが、姫が甘えてくればつい抱き締めていた。

「姫様はあなたの腹から生まれましたが、あなたの子ではないと思し召しください。姫様は江戸の奥方様の御子にございます。雛飾りが貞眞院様から送られたということは、そういうことでございます。武家の女子として加部家の血を引く者として、育てなければならないのです」

 満津の方はかしこまりましたと従った。実際、以後は姫を甘やかすことはなくなった。姫もまた幼いながら、厳しい浮橋の言葉に従った。
 だが、浮橋にも変えられないことがあった。
 満津の方の質素な暮らしぶりである。化粧を江戸風に変えても、衣装を衣替えごとに作るようなことはしなかった。打掛の袖口に継が当てられていることに気付き、傍の者にいつ作った打掛か尋ねると、梅芳院様から譲られたものだと言う。先代の殿浄文院の生母の名を聞いた浮橋はあまりのことに絶句した。
 せめて殿がお国入りするまでには新調しなければなりませんと言われやっと満津の方はわかりましたと頷いた。
 けれど、満津の方の暮らしはそう簡単には変わらなかった。自ら姫の寝間着を仕立てたり、女達とともに城内に植えられた梅の木の実を採り梅干しを作ったり、青菜を漬物にしたりと、まるで家臣の妻女のようであった。
 確かに江戸屋敷でも殿様は質素倹約を奨励している。とはいえ、かように所帯じみていては殿様が帰国された時にどう思われることかと浮橋は心配になった。そこで大名の奥向きに奉公する者にはそれなりの教養が必要だと言い、領内に住む漢学者や歌人を城内に講師として迎え満津の方や若い奥女中に学ばせた。無論、それ以前も学者を招いていたが、月に一度程度では少な過ぎた。
 意外なことに満津の方は覚えが良かった。城の文庫にある書物を自ら読み学者にわからぬことを尋ねることもあった。歌を詠ませればただの田舎の下女上がりとは思えない品もあった。
 もし彼女が江戸で生まれ育っていたらと浮橋は想像した。商家に奉公したら、あるいは武家に奉公したら。
 隆礼が彼女を愛した理由がなんとなくわかったような気がした。





 着任して三カ月ほどたった頃、家老の沢井甚太夫から広敷においでくださるようにと伝えられ、浮橋はすぐに向かった。

「実は貞蓮院様のことで相談に参りました」
「貞蓮院というと、浄文院様お手付きの方ですね」

 浮橋は過去の奥を構成していた女達の名も把握していた。

「さようでございます。浄文院様亡き後照妙寺に入っておりまして」

 浮橋は奥女中の一人から先日妙な噂を耳にしたと聞いていたので、もしやそれかと思った。彼女の話では照妙寺の者が肉食をしているということだった。
 だが、まずは家老の話を虚心坦懐に聞かねばならない。




 二年余り前、照妙寺では主の梅芳院が亡くなり、江戸では前の殿隆迪も身まかり、その側室であったお仙の方は他の御手付きの女中とともに出家し、照妙寺に入った。
 そこまでは主を失った側室の型通りの行動である。
 山置家からの扶持と人々の寄進で寺の財政は賄われている。中で暮らす尼たちは慎ましく暮らしていた。少なくとも梅芳院はそうだった。いくらかのゆとりで、身よりのない女人や捨て子を預かり暮らしの手立てができるように教育し、一人立ちさせるという事業を行い、梅芳院は城下の人々から崇敬のまなざしを向けられていた。
 最近では一人立ちして働けるようになった人々からの寄進もあり、寺の財政は潤っていた。
 出家したお仙、今は貞蓮院は最初のうちは梅芳院の方針を受け継いで質素な暮らしをしていた。
 事業のほうは貞蓮院があれこれしなくとも軌道に乗っていた。
 元ここで教育された女性らが入所者を指導する体制まで梅芳院は作っていたのだ。
 事業の資金についても寺社奉行で管理されていて、毎月必要な金子が奉行名で寺に支払われていた。
 というわけで、貞蓮院には特にすることはない。仏道三昧の日々のはずだった。
 ところが、そばに仕える若い尼僧にとっては、寺の生活は退屈極まりなかった。梅芳院なら、そんな尼僧に気付いたら厳しく戒め、場合によっては悪影響を与えるとして、座敷牢に入れたであろう。
 だが、貞蓮院は甘かった。いや、緩かった。妙琴という尼僧にそそのかされ、最初は夜の寝酒程度であったのが、次第に調子に乗って、昼から酒を飲んだり、贅沢なものを食べるようになったのだった。
 もちろん、その元手は寺社奉行から寺に支払われた金子である。
 ともに出家した女中の一人英琴尼はこれはいけないと思った。
 彼女は遠縁の者に密告の手紙を託した。手紙はすぐに寺社奉行に渡ったが、それを見てすぐには動けなかった。なぜならお仙の方には母方の親戚に寺社奉行の配下の役人がいたからである。
 とはいえ見て見ぬふりはできぬ。極秘に寺を探らせた。
 探らせてみると、酒や食事だけではない事態が判明した。貞蓮院他数名の尼僧が安寧寺の僧や寺男と密通していることまでわかったのだ。しかも近隣の住民にも不審に思われているようだった。
 密告した英琴尼に至っては寺での秘密の宴に参加しなかったということで、梅芳院に仕えていた老尼らとともに寺の中の座敷牢に入れられていた。
 こうなると寺社奉行だけの問題では済まない。英琴尼の遠縁には城代家老の妻がいた。老尼の一人も御分家の遠縁だった。
 寺社奉行は家中の目付や家老らにこの件を報告し、対処を相談した。
 城代家老は江戸の次男から江島生島事件のことを聞いていたので、それに準じてはと提案した。
 だが、目付はあれは月光院に仕えていた御年寄の話、こちらは亡くなられた殿の側室のこと、罰もおのずと重くなるのではないかと言いだした。
 それに対して死罪は重いと寺社奉行が言い、話はまとまらない。
 奥に相談すべきではと言ったのは小田切家老の隠居の後、家老になった沢井甚太夫であった。

「奥には江戸からおいでになった御年寄の浮橋様がおる。浮橋様ならよい御処置を考えてくださるに違いない。それに御方様にも報告せねば」

 確かに奥を無視するわけにはいかない。

「浮橋様は当地に係累がおらぬゆえ、公正な処置ができよう」

 目付も納得し、その日のうちに沢井甚太夫は奥の浮橋を広敷に呼び、事の次第を伝えたのだった。





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