生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

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第四章 紅葉(享保元年~享保三年)

01 代替わり

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「これまでの御無礼の段、お許しください」

 ここは江戸は千代田のお城の表御殿の先にある中奥の一室。
 山置やまおく飛騨守ひだのかみ隆礼たかゆき十八歳は、見知っていたその人の真の姿を知り、動揺していた。
 合手礼の形で頭を下げようとすると、その人は溌剌とした声を発した。

「おい、おい、堅苦しいことは抜きだ。でないと、そなたをここに呼んだ意味がない」

 加納、いや公方様の言いたいことはわかった。隆礼は顔を上げた。





 正徳四年(一七一四年)、国許に戻るはずだった兄隆迪たかみちが病を得て、帰国を中止した後、隠居、山置家の家督を譲られた隆礼は十六歳。参勤交代は慣習上、十七歳になるまでは猶予されたので、主となってすぐの帰国はできない。
 翌正徳五年には隠居の隆迪が亡くなった。この年は江戸在府の年であるため、十七になったとはいえ帰国できなかった。
 翌正徳六年は、いよいよお暇をもらい国へと思っていたところ、八歳の将軍家継が三月の頃病に倒れ、お暇の御挨拶もできぬうちに、四月三十日に亡くなった。
 そのため葬儀やら何やらに出ることになり、結局帰国できなかった。
 そして、享保と年号も改まったその年の八月。紀州家の徳川吉宗侯が徳川家の第八代征夷大将軍となった。
 それから一カ月後の月次つきなみ登城の日の思いがけない再会であった。





 月次の御礼の登城は毎月一日と十五日と二十八日である。
 表坊主の案内で控えの間になっている柳の間に行くと、同じような五位の外様大名、無冠の大名、交代寄合、表高家、並の寄合衆が詰めている。
 席順も決まっており、山置家は末席に近い場所である。
 近くの席の大名や旗本に時候の挨拶程度の話はするが、それ以上のことは話すこともなく、お呼びがかかるまでは大人しく待っていなければならない。
 座布団もない場所でじっと座っていなければならないのだから、皆辛抱強いものだと隆礼はここに座るたびに思う。
 他の控えの間も似たようなものだと、引請ひきうけをしてくれた夕姫の息子が言っていたから、どこでも皆じっとしているのだろうと想像すると変な気分がしてくる。
 加納様もこの城内のどこかでじっとしているのかもしれないと思ったが、想像できなかった。たぶん不機嫌そうな顔で座っているのだろう。
 御目見えは他の外様大名と一緒である。白書院の次の間の障子際に並んで合手礼というのは、初めての御目見えの時と一緒だった。
 はるか彼方の御簾の向こうの公方様の顔など見ることもなく、控えの間に戻った。思えば将軍宣下の時も碌に顔も見ていない。恐らく御三家や老中、若年寄くらいしか公方様の顔を知らないのではないだろうか。
 飛騨守様と呼ぶ声がするので、見れば懇意の表坊主である。

「こちらへ」

 休憩するつもりはなかった。昼飯の準備もないから城を出て挨拶まわりをして帰るつもりだった。

「何かありましたか」
「お呼びでございます」

 まさか大目付だろうかと、隆礼は背筋がひやりとしてきた。まずいことをしたという覚えはない。それに鶏を飼っている中屋敷の近くには老中や大目付の屋敷はない。それとも誰か鶏の鳴き声が迷惑だと大目付に訴えたのだろうか。だが、そんなことのないように折々に卵を近所の屋敷に配っているのだが。

「飛騨守様、早くしてくださいませ、お気が短い方ゆえ」

 気が短い。まさか舅の隠岐守だろうか。祝姫も癇癪持ちの父上とよく言っている。隆礼はいつも気を付けて応対しているつもりなのだが。そういえば、この前挨拶にカステイラを持っていかなかった。あれで不機嫌になられたのだろうか。

「どなたなのですか」

 坊主は何も言わぬまま、どんどん城の奥へ歩いてゆく。置いていかれたら、広大な城の中で迷子になってしまう。
 転ばぬように、必死の顔で隆礼はついていった。
 気が付くと、ずいぶん奥に入っていた。
 こんな奥には普通の大名は入れない。老中、若年寄、大目付、側用人くらいではないかと思った。

「こちらへ」

 廊下に沿った小座敷に案内された。誰もいないそこに入って、とりあえず下座に座った。
 坊主が去った後、入れ替わるように半裃の中年男が入って来た。

「山置飛騨守様、突然お呼び立てして申し訳ありません。主の命によってお迎えに参りました」

 西国の訛りがあった。

「あの、あなた様は」
「御用掛の加納と申します」
「加納様ですか」

 もしや加納様の縁者ではないかと尋ねようと思ったが、加納はこちらへと奥の襖を開けて、さらに奥へ案内する。
 尋ねる暇もなく、隆礼は加納を追った。ここで迷子になったら大変である。
 いくつかの襖を開けてとうとう広い座敷に出た。

「こちらでお待ちを」

 加納はそう言うと別の襖を開けて出て行った。
 真新しい畳、恐らく狩野派と思われる絵師の筆になるものであろう鷹の描かれた襖絵など、とても普通の人の来る場所とは思えない。一体誰が出て来るのか。老中か、若年寄か、はたまた大目付か。
 どんどんという足音が近づいて来た。障子が開かれた。

「済まぬ、待たせた」

 その声は知っていた。だが、その姿に隆礼は仰天した。黒い木綿の紋付袴姿は知っている。その紋所は三つ葉葵。蔦ではない。

「か、加納様」

 何と呼べばいいかわからなかった。
 その人はにっこり笑った。

「加納はここでは孫市のことだ」
「孫市」
「御用取次だ。わしと老中らとの連絡掛だ。さて、さっそくだが本題に」

 隆礼はやっと事態が飲み込めた。ここは城の中奥。ここの主は公方様。つまり公方様は加納様。いや加納と名乗っていた男。

「これまでの御無礼の段、お許しください」

 隆礼は合手礼の形で頭を下げようとした。

「おい、おい、堅苦しいことは抜きだ。でないと、そなたをここに呼んだ意味がない」

 隆礼は顔を上げた。

「すまなんだ。素性を偽っておったのは、面倒くさいのが苦手なものでな。栗林の隠居や浅田董伯や加部源三郎はわしが江戸の部屋住みの頃からの知り合いであったから気を遣わんでもよかったしな」

 困ったような顔で加納、いや吉宗は言った。まるで悪戯がばれてしまった子どものようだった。
 まさか、公方様に謝られるとは思わず、隆礼はどう言えばいいものか迷った。

「畏れ入ります。もし、紀州のお殿様だとわかっていたら、いろいろなことを打ち解けてお話できなかったと思います」
「そうか、そう思ってくれるのならよいのだが」

 吉宗は一間(約1・8メートル)も離れていない場所に胡坐をかいた。将軍としてありえない姿だった。

「実は、今日そなたを呼んだのは、話を聞きたくてな。わしは部屋住みの時期があったとはいえ、紀州藩主になってからは、紀州のことしか知らぬ。小さな家中の事情などわからぬ。そこで、そなたにいろいろ尋ねてみたいと思ったのだ。先の飛騨守もずいぶんと苦労しておったようだが、家中の懐具合というのはどうなのだ」

 これは正直に話さねばならぬと隆礼は思った。偽りは言えない。

「恐れながら、正直、苦しうございます。家中に倹約を命じておりますが、江戸に長くいると、金がかかってたまりません」
「やはり、そうか。確かに江戸は物入り。奥にも金がかかる」
「ですが、参勤の旅がここ数年ないので、なんとか前の殿達の供養もできました。やはり参勤には金がかかります」
「そうだろうな。いくら人を減らせといっても減らせるものではない」

 吉宗も行列の人数を減らすのは難しいことを知っていた。大名家の体面を維持するだけでなく、先行する者達や沿道の家中への挨拶をする使者等、減らせぬ人員も多いのだ。

「それがしの官位も金がかかっていたのには驚きました」

 従五位下という位は朝廷から頂くのだが、禁裏への礼として十両を献上、官金として四十両、江戸で高家から書類を受け取るのに十両、合せて最低でも六十両かかる。
 それだけでなく、烏帽子が落ちないようにする紫色の懸緒の紐を付ける免許料を免許権を持つ飛鳥井家に支払わねばならない。
 さらには京都所司代、奥祐筆組頭、老中など手続きに関係した方々にもお礼をしなければならない。
 とにかく物入りなのだ。
 吉宗はうなずいた。

「確かにそうだ。わしなど一体いくらかかったことか」

 朝廷から正二位征夷大将軍、内大臣兼右近衛大将の官位を授けられた吉宗にまずいことを言ってしまったかもしれないと思った。

「出過ぎたことを申しました」
「いやよい。禁裏や公家というのは、そういうものでやっと生きているようなものなのだ。それに値切ったら、後が怖い」

 吉宗が怖いと言うのがなんだかおかしかった。加納と名乗っていた時は怖いものなど何もないような顔をしていたのに。

「武家の体面と公家の生活のためには、仕方のないこと。だが、江戸の生活と参勤の旅が物入りというのはどこも同じというわけか」

 吉宗は胸の前で腕を組んだ。





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