生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

51 カステイラの罠

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 国許で満津が陣痛で苦しんでいる頃、山置飛騨守と隆礼は江戸での菩提寺になっている高輪の寺での啓悌院の法事と下屋敷での親族との精進落としを終え、上屋敷に向かっていた。
 上屋敷で、寿姫と隆成追悼の書画の優秀作の発表をするためである。
 どの作品も追悼の気持ちのあるものだから優劣を競うのは趣旨から外れるが、それでも人というのは他人よりよりよい物を出そうという競争心がある。それを刺激すれば、皆熱中し、おかしな噂など語っている暇はなくなる。作品を出さなかった者も誰が殿様のおほめにあずかるか興味を持って論ずるから、噂どころではない。
 渡り中間などは賭けをしているらしいが、それについては仕事に支障の出ない程度なら見て見ぬふりをするように留守居役と目付に指示している。
 竹之助嘔吐事件の噂を下火にするには恰好の催しであった。
 おまけに隆礼は中屋敷に屋移りした。上屋敷は人が減り、以前に戻った。人員が増えたせいで増えた気苦労もかなり少なくなった。
 まるで集団ヒステリーのような、根も葉もない噂の広がりはすっかり抑えられてしまった。
 とはいえ、噂の元になった件については白黒はっきりつけなければならなかった。
 果たして竹之助の体調不良なのか、それとも故意に起こされたものなのか。
 故意のものなら、誰が何のためにしたのか。行なった者を厳正に罰し、今後の防止策を検討せねばならなかった。
 隆礼から大岡能登守忠相の推理を手紙で知らされて以来、飛騨守は密かに竹之助の周辺を探らせていた。
 大岡忠相といえば、山田奉行を務める旗本で将来はさらに上の地位に昇るであろうことを噂されている。そのような人物が、山置の家中の事件に興味を持っているということは、飛騨守にとっては強い圧力であった。
 解決できなければ、家中の揉め事も収められぬ者と見られかねないのだ。
 それに小事を疎かにすれば、やがてはそれが大事を引き起こすことにもなりかねない。
 そういうわけで、飛騨守は今日のこの日に決着をつけようと決めたのだった。





 飛騨守は上屋敷に帰るとすぐに隆礼を御座の間に呼んだ。書画の最終審査だからと小姓達を皆大広間に手伝いにやらせたので、二人きりである。

「例の件だが」

 数日前に飛騨守からの書面である程度調査の結果は知らされていた。
 隆礼は今日の決着となることを予想していた。

「審査の結果を発表した後、そなたはあの時と同じように竹之助を訪ねるのだ」
「菓子は準備しております。うちの台所方で作ったもの」

 中屋敷の鶏の卵で作ったカステイラという南蛮菓子風の蒸し菓子を持参していた。台所方の下働きの者が以前平戸の殿様のお屋敷で奉公していた時に食べたことがあるということで、その者の言葉を参考に小麦粉と砂糖と玉子を使って作ったのである。
 幾度か試作品を作り、やっと水あめを加えることでしっとりした柔らかい物ができたので、それを土産に持って来たのだった。
 目の前にそれを差し出した。一切れずつに切ったものを隆礼は自分で食べた後、もう一切れを差し出した。
 飛騨守は躊躇なく口にした。本来なら味見役に食べさせねばならないのだが、その必要はなかった。

「これは、うまい。今度、同じものを奥に持って行きたいが、よいか」
「はい。実は中屋敷の奥にも先日これを持っていきましたところ、皆様、大変お気に召したようで。御年寄の小島も、加部家の習わしではかようなものは食べないが、これならよかろうと」
「御年寄を舌で篭絡したか」

 飛騨守は笑った。

「篭絡とは人聞きの悪い」

 そう言ったものの、まんざらではない隆礼だった。
 カステイラだけでなく、珍しい菓子を台所方に作らせて、奥へせっせと持っていくようにしてからは、御年寄の機嫌がよくなったような気がする。
 もちろん、佐登もそれを食べているようで、以前よりも身体が丸みを帯びたように見えた。胸や腰の触り心地がますます良くなった。

「これと同じものを先ほど竹之助様の小姓の石田彦十郎に渡しました」
「そして今日の茶の番はあの時と同じ坂下兵伍ひょうごか」

 江戸屋敷目付の森左源太は極秘の探索の結果、当日の菓子を出した小姓と茶を出した小姓を調べ上げていた。二人がともに竹之助の癇癪のとばっちりを受けてそれぞれ怪我をしたり詰られていたことも。
 石田彦十郎は出した菓子がまずかったからと八つ当たりされ、茶をかけられていた。味見を経た茶は冷めていたからよかったものの、止める者がなければ彦十郎は竹之助に襲い掛かっていたかもしれないと言う。
 坂下兵伍は茶がまずいと言われた。彼は茶の湯の免状をいただいており、自分の立てる茶には自信をもっていたので、いたく傷ついたらしい。
 さらに、二人の親戚には竹之助の生母の同僚がいた。二人の奥女中もまた美しく殿様の寵を受けてもおかしくないほどだったらしい。もし竹之助の生母がいなければ、彼らの親戚の女性が寵を受ける機会があったのではないかとも言われている。
 彼らの実家は岡部家同様、中流の武家であった。竹之助の生母は貧しい家の出で身内もほとんどいない状況だったが、もし身内がいれば、相応の出世をしたはずだった。
 彼らももし親戚の奥女中が寵を受け、子を産めば、それなりの出世ができるはずだった。
 竹之助に対する恨みは親の代から続いたものを引き継いでいるような面もあったのだ。
 同情したいところだが、それでも人を傷つける行為は許されないものだった。ましてや自分が仕える主である。もし、彼らが菓子や茶に何かを混ぜたとしたら、それだけでも死罪は免れなかった。
 今回は同じような状況を作り、二人が不審な行為をしないか確かめ、もし不審な行いがあったら事情を聞き、以前のことも取り調べるという手筈になっていた。
 おとり捜査と言っていい。
 平太が自分の配下を二人にそれぞれ付けており、彼らの行動はすべて筒抜けになっている。
 隆礼と飛騨守はこの後のことを確認した後、近習の小田切次右衛門じえもんを呼んだ。次右衛門は国家老小田切仁右衛門の次男である。祐筆をしており、その書は一目置かれていた。今回は出品していない。
 次右衛門は飛騨守の命令で今日の審査結果を紙に書き上げていた。

「そろそろ大広間に参ろう」

 次右衛門が紙を持ち、飛騨守の後ろに続いた。隆礼はやや離れて後ろを歩いた。





 大広間には留守居役や家老等の役職にある者達が集まっていた。また下座や廊下には今回作品を出品した者で都合のつく者達が殿様のお出ましを待って控えていた。

「殿様のお出まし」

 小姓が声を上げた。皆一斉に頭を下げた。
 大広間の最上段にしつらえられた座に就くと、殿様は面を上げよと言い、皆一斉に顔を上げた。無論、殿様の顔をまじまじと見るような不心得者はいない。
 殿様から少し離れて小田切次右衛門が紙を広げるために立っていた。隆礼はそのやや後ろに座った。
 家老が此度の書画の提出に当たり、優れた者をこれより発表すると言った。その声が終わると次右衛門が巻紙をするすると横に広げた。
 おおっと声が上がった。
 飛騨守が口を開くと声が静まった。

「最も優れたるものは、下屋敷用人戸川庄右衛門の画『涅槃圖ねはんず』」

 戸川庄右衛門は下屋敷で隆成の世話をしていた者である。今日は下屋敷での御用のため、この場にはいない。
 彼の絵は釈迦の涅槃を描いたものであるが、釈迦の顔は若く隆成の面影を宿していた。周囲には僧侶や動物の外に尼僧や少女も描かれ、皆釈迦の入滅を嘆き悲しんでいた。
 皆納得の最優秀作品であった。

「戸川には後日、褒美を与える。他の者達もいずれも優劣つけがたいものであった。よって出品した者全員に後日、些少であるが、礼の品をとらせる」

 飛騨守はそう言うと大広間を出て行った。
 家老は残った者達に告げた。

「殿様の格別のご配慮により、暮れ六つまで広間の書画を見ることを許す。また今宵は酒と肴を台所で振る舞う。くれぐれも見苦しい真似をさらさぬように。中屋敷、下屋敷でも同じく酒肴の振舞がある」

 大広間の緊張は緩み、皆幸せそうな顔になっていた。
 隆礼はそれを確かめると、大広間を出て竹之助のいる離れに向かった。





 竹之助は嘔吐以来、隆礼に会おうとしなかったが、さすがに飛騨守も臨席すると言われれば、会わざるを得なかった。
 表御殿の喧騒が嘘のような静けさに包まれた離れの中の座敷に通された二人を竹之助は下座で迎えた。

「今日はさように肩肘張らぬともよい」

 飛騨守はそう言い、竹之助が出品した歌の話を始めた。

「さすがは御分家の教えを受けただけある。寿姫様も草場の陰で喜んでおいでであろう」
「畏れ入ります」

 竹之助は今日は調子がいいらしく、顔のむくみもさほど目立たない。
 隆礼はもっぱら聞き役に徹して、周囲に気を配った。今のところ小姓達に不審な動きはない。この後、茶と菓子が出る。その時、果たしてどうなるか。

「そういえば、新右衛門殿は何を出したのかな」

 竹之助の問いに、何の用意もなかった隆礼は慌てた。

「あ、はい。歌を。といっても兄上の物にはとても及びません」
「たらちねのだな」

 飛騨守はほほ笑んだ。
 隆礼は恥ずかしくなった。寿姫は父の正室だから母ということになると、「たらちねの」で始まる歌を数首考え、そのうち一首を短冊に書いて出したのだった。

「余は母上に耳を掃除されたことがないゆえ、ああいう歌は思いつかなかった」

 飛騨守はしみじみと言った。

「岡部の母が耳をよく掃除してくれたのです」
「耳掃除なら、於絹いえ梅芳院にしてもろうたことがあります」

 竹之助の言葉に飛騨守はうなずいた。

「来年四月に参ろうぞ。今少し待て」

 竹之助はこの九月に国許に帰れるかと思われたが、まだめまいなどがあって出発ができそうになかった。
 そこへ小姓らが菓子と茶を持って来た。
 石田彦十郎と坂下兵伍もその中にいた。彼らは菓子を配り終えると隣の部屋に控えた。

「今日は中屋敷の鶏の卵で作ったカステイラを持って参りました」

 淡い黄色のふっくらとした菓子は蒸されたもので、現代のように茶色く焦げた部分はない。それでもその色だけで十分に食欲を掻き立てた。

「うまそうじゃ」

 竹之助はそう言ったが、すぐには手が出ないようだった。味見役が食べて異常がなかったのだから安心と言いたいが、先の嘔吐事件のこともあった。

「では、余が先にいただこう」

 飛騨守は自分の皿の上のカステイラを一切れ手に取った。
 上品に小さく口を開いた飛騨守は一寸四方にも満たない大きさのかけらを齧り取った。そしてよく噛んで呑み込んだ。

「これは美味だ。竹之助、食べてみよ。精がつくぞ」

 竹之助も手を伸ばした。
 その時だった。
 飛騨守が口元を押さえた。前かがみになり背中を丸めた。


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