生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

50 産声の響き

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 八月になってすぐに、乳母となる堀内権蔵の妻ゑ以えいが出産した。
 生まれたのは女児だった。安産で、子どもも健康、ゑ以も余るほど乳を出した。
 幸先のよいことと沢井家の人々は喜び、ゑ以もまた身に余る栄誉な役をこれで勤められると安堵した。
 一番喜んだのは夫の権蔵だった。
 昔、石合戦で脛に石を打ちつけられた恨みは、今やそういう御縁があったという自慢話になっていた。
 女児は佐栄さえと名付けられ、将来は乳兄弟としてお仕えするのだと父親が耳元で語るのを丸い目をくりくりさせてじっと聞いていた。
 満津は沢井家に住み始めたゑ以と佐栄のもとを朝夕訪ねては赤ん坊の世話をするのを見ていた。
 実際の世話はゑ以や世話役の奥女中がするのだが、ある程度のことは知っておきたかった。
 佐栄を抱かせてもらったりもした。乳の匂いのする赤ん坊は大人しく抱かれていた。岡部家でも赤ん坊の小治郎の世話を手伝ったけれど、男の赤ん坊と比べ女児の泣き声は小さかった。





 産み月近くなっていよいよ腹がせりあがった。
 腰が痛いが、それでも満津は歩いた。
 寿姫と隆成の四十九日も終わってすぐ始まった産屋の作事も八月中に終わり、お産を待つだけとなった。
 皮肉なことに、城内の隠居所改装も同じ頃に再開されたが、九月に入っての長雨で工事が進まず、いつになったらできるのやらと人々は噂した。
 そうこうするうちに啓悌院様の御命日となった。
 お城の上役の方々は皆玄龍寺に参詣された。
 中老の沢井甚太夫もまた雨の中、玄龍寺に向かった。
 沢井家でも慎みの日ということで、仏間で女達は朝いつもより長くお参りをしたのだった。
 朝食を食べ終えた頃、満津は腹に痛みを覚えた。
 御不浄に行ったらすぐ収まったので大したことはあるまいと思いそのままにした。
 いつもの日課で廊下を歩き始めるとまた痛む。だがすぐ収まる。
 その繰り返しに不審を感じ、昼前に須万に告げると、それはお産が近いということだと言う。
 すぐではないから、今のうちに身支度をと下女に命じ、食事の後で身体を拭かれ、着替えをした。その間も時々痛みが起きては止みで、満津は一体、いつこれが終わるのかと不安だった。
 ゑ以も部屋に来て、痛みの間隔を数えてくれた。

「これくらいだったらまだだよ。この分だと夜になりそうだね」

 夜までこれが続くのかとため息が出そうになった。

「うちの姉さんは痛みだしてから生まれるまで二日かかったからね。だけどたいていはそこまではいかないから」

 こんな状態が二日も続くなんて考えたくもなかった。
 そうこうするうちに甚太夫が帰宅し、須万からお産が近いことを知らされた。

「それは一大事、早く産婆を」
「大丈夫です。今すぐというわけではありませんから」
「ならば、御祈祷を。わしは八幡様に行ってくる

 そう言うと裃を着けたまま、屋敷を出て八幡様へ走った。お供は帰宅して足を洗っていたところだったが、また草鞋を履いて慌てて追いかけた。
 慌てる甚太夫を見た近所の家の者がお供に尋ねた。

「御方様がどうやら産気づいたみたいで」

 さあ、それを聞いた近所の者が大騒ぎ、辰巳の町内にあっという間に広まった。
 ちょうど雨がやんだので沢井家に顔を出そうとしていた勢以の耳にも入った。
 勢以はいったん家に戻り、お産があるかもしれないと思い小治郎に帰りが遅くなるかもしれぬから先に夕飯を食べるように告げて沢井家に向かった。
 沢井家に勢以が着くと、ちょっとした騒ぎになっていた。
 どうやら破水したらしい。
 下女が産婆を呼びに行くところだった。
 満津は須万に付き添われ、産屋に移っていた。勢以はそこへ顔を出した。
 満津の顔に浮かぶ不安の表情を勢以は初めて見るような気がした。思えば、満津には血のつながった身内はいない。勢以はそばに来て、その手を握った。

「大丈夫。ちゃんと生まれるように人の身体はできておる。満津様は毎日歩いて身体を鍛錬したのですから、無事に御子は産まれます」

 そう言われるとそんな気持ちになるから不思議だった。満津は勢以の言葉で安心したのか、ほほ笑んだ。
 だが、すぐに痛みがきて、そのほほ笑みは苦痛の表情に変わった。

「痛むのは子が出てきたいと思っておるからじゃ。辛抱ぞ」

 産屋に入って来た産婆が言う。
 産屋の外には猪川道庵も待機している。警護も城から差し回されている。
 また領内の寺や神社に安産祈願の祈祷をするように城から使者が遣わされたと言う。
 普通の妊婦には望めない恵まれた態勢だった。
 勢以は外に出て手を合わせた。どうか満津が無事に御子を産めますように。御子がお元気でありますように。
 一刻ほどして産屋から元気な泣き声が聞こえた。

「大きな声じゃ」

 八幡様から戻って来た甚太夫は期待をもってそう言った。
 産屋から出て来た産婆は外で待機している人々に厳かに告げた。

「たいそうお元気な姫君様にございます」

 甚太夫は一瞬残念という顔になったが、すぐに笑顔になった。

「めでたいこと」

 だが勢以は「かわいらしい」ではなく「お元気な」という言葉が気になった。
 後産が済み、落ち着いたところで勢以は産屋に入った。
 赤子は満津の横ですやすやと眠っていた。確かにかわいらしい赤子ではなかった。まるで男子のような顔をした赤子だと思った。

「卯之助に似ておる」

 勢以は言った。満津は疲れているようだったが、ほほ笑んだ。

「私もそう思います」

 もしかすると、新右衛門に会えない満津に同情して神仏がそっくりの子を授けたのではあるまいかと勢以は思った。
 ちなみに初産にしてはあまりに早い出産だったため、生まれた時に寺社の中にはまだ祈祷を始めていないところも多かったと伝えられている。





 姫様誕生の報はすぐさま江戸表に伝えられた。届いたのは十月初めのことである。
 同じ十月の半ば、城下で異変があった。
 江戸詰めになっていた者が数名、何の前触れもなく帰国してきたかと思うと、帰国した者のうち一名が寺の預かりになり、その家が閉門となった。また一人は家の座敷牢に入れられた。
 さらに小田切の次男が江戸で病死したとの知らせも同時期に入って来た。
 家老の小田切仁右衛門が隠居するらしいとの噂も耳に入った。
 詳しい話は家老までしか知らされなかった。
 そうこうするうちに小田切家までも閉門になってしまった。
 沢井甚太夫は江戸の息子からの文で江戸で起きたことの概要を知った。
 だが、妻や満津の耳には入れなかった。
 穏やかな幸せに水を差したくはなかった。
 ほどなく城下は姫様の五十日の祝いの話題で持ち切りとなった。
 名づけを江戸の殿様の御正室様がするということで、皆あれこれ噂をするのであった。





 明けて正徳四年(1714年)三月三日。姫君の初節句が城内奥御殿で行われた。
 改装した隠居所ではなく、奥御殿の大広間に十日ほど前に国許に届いた雛人形が飾られた。
 江戸の飛騨守御正室眞里姫が姫誕生を知るとすぐに京の職人に注文したものであった。
 姫にとってはおばば様からの贈り物であった。
 上段には本物の金箔が張られた金屏風があり、その前には宮中の衣装を身に着けた男雛と女雛が据えられている。
 人形の衣装は西陣の織物である。
 一緒に贈られた下段の雛遊びの道具類は黒漆塗りに金の蒔絵で山置家の家紋「三つ違い山形」が描かれていた。
 まだ現在のような三人官女や五人囃子等の人形の飾られた段飾りではないが、一流の職人の技が駆使された人形や道具類は、この数十年国許で姫が生まれていなかったため、皆初めて見るものであった。
 御分家にも三人の娘がいるが、これほどの雛人形は飾られていなかった。
 生まれて六か月にもならない姫は乳母に抱かれてその人形をぱっちりとした目で見つめていた。
 その傍らで満津は姫が山置家の娘と認められたことに安堵していた。
 お仙の方は奥の女達を代表して下座で口上を述べた。

こう姫様、初節句おめでとうございます」
「かたじけのうございます」

 満津は微笑んだ。
 他の奥女中たちとともにお仙の方は頭を下げた。
 この日を境に、城の奥は香姫様とご生母満津の方を中心に回るようになっていく。
 殿様の御正室様から贈られたのは名前と雛人形だけではなかった。眞里姫が認めたことによって、実家加部家の権威が香姫を守ることになったのである。
 さらには数日後、江戸で行われる隆礼と祝姫の婚儀によって、加部家の権威が増すことになる。
 将来、香姫は祝姫の娘となり加部家の孫として扱われることも既定のことであった。
 満津の方はその生母として、国許の奥を代表する立場となった。
 




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