生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

文字の大きさ
上 下
107 / 128
第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

50 産声の響き

しおりを挟む
 八月になってすぐに、乳母となる堀内権蔵の妻ゑ以えいが出産した。
 生まれたのは女児だった。安産で、子どもも健康、ゑ以も余るほど乳を出した。
 幸先のよいことと沢井家の人々は喜び、ゑ以もまた身に余る栄誉な役をこれで勤められると安堵した。
 一番喜んだのは夫の権蔵だった。
 昔、石合戦で脛に石を打ちつけられた恨みは、今やそういう御縁があったという自慢話になっていた。
 女児は佐栄さえと名付けられ、将来は乳兄弟としてお仕えするのだと父親が耳元で語るのを丸い目をくりくりさせてじっと聞いていた。
 満津は沢井家に住み始めたゑ以と佐栄のもとを朝夕訪ねては赤ん坊の世話をするのを見ていた。
 実際の世話はゑ以や世話役の奥女中がするのだが、ある程度のことは知っておきたかった。
 佐栄を抱かせてもらったりもした。乳の匂いのする赤ん坊は大人しく抱かれていた。岡部家でも赤ん坊の小治郎の世話を手伝ったけれど、男の赤ん坊と比べ女児の泣き声は小さかった。





 産み月近くなっていよいよ腹がせりあがった。
 腰が痛いが、それでも満津は歩いた。
 寿姫と隆成の四十九日も終わってすぐ始まった産屋の作事も八月中に終わり、お産を待つだけとなった。
 皮肉なことに、城内の隠居所改装も同じ頃に再開されたが、九月に入っての長雨で工事が進まず、いつになったらできるのやらと人々は噂した。
 そうこうするうちに啓悌院様の御命日となった。
 お城の上役の方々は皆玄龍寺に参詣された。
 中老の沢井甚太夫もまた雨の中、玄龍寺に向かった。
 沢井家でも慎みの日ということで、仏間で女達は朝いつもより長くお参りをしたのだった。
 朝食を食べ終えた頃、満津は腹に痛みを覚えた。
 御不浄に行ったらすぐ収まったので大したことはあるまいと思いそのままにした。
 いつもの日課で廊下を歩き始めるとまた痛む。だがすぐ収まる。
 その繰り返しに不審を感じ、昼前に須万に告げると、それはお産が近いということだと言う。
 すぐではないから、今のうちに身支度をと下女に命じ、食事の後で身体を拭かれ、着替えをした。その間も時々痛みが起きては止みで、満津は一体、いつこれが終わるのかと不安だった。
 ゑ以も部屋に来て、痛みの間隔を数えてくれた。

「これくらいだったらまだだよ。この分だと夜になりそうだね」

 夜までこれが続くのかとため息が出そうになった。

「うちの姉さんは痛みだしてから生まれるまで二日かかったからね。だけどたいていはそこまではいかないから」

 こんな状態が二日も続くなんて考えたくもなかった。
 そうこうするうちに甚太夫が帰宅し、須万からお産が近いことを知らされた。

「それは一大事、早く産婆を」
「大丈夫です。今すぐというわけではありませんから」
「ならば、御祈祷を。わしは八幡様に行ってくる

 そう言うと裃を着けたまま、屋敷を出て八幡様へ走った。お供は帰宅して足を洗っていたところだったが、また草鞋を履いて慌てて追いかけた。
 慌てる甚太夫を見た近所の家の者がお供に尋ねた。

「御方様がどうやら産気づいたみたいで」

 さあ、それを聞いた近所の者が大騒ぎ、辰巳の町内にあっという間に広まった。
 ちょうど雨がやんだので沢井家に顔を出そうとしていた勢以の耳にも入った。
 勢以はいったん家に戻り、お産があるかもしれないと思い小治郎に帰りが遅くなるかもしれぬから先に夕飯を食べるように告げて沢井家に向かった。
 沢井家に勢以が着くと、ちょっとした騒ぎになっていた。
 どうやら破水したらしい。
 下女が産婆を呼びに行くところだった。
 満津は須万に付き添われ、産屋に移っていた。勢以はそこへ顔を出した。
 満津の顔に浮かぶ不安の表情を勢以は初めて見るような気がした。思えば、満津には血のつながった身内はいない。勢以はそばに来て、その手を握った。

「大丈夫。ちゃんと生まれるように人の身体はできておる。満津様は毎日歩いて身体を鍛錬したのですから、無事に御子は産まれます」

 そう言われるとそんな気持ちになるから不思議だった。満津は勢以の言葉で安心したのか、ほほ笑んだ。
 だが、すぐに痛みがきて、そのほほ笑みは苦痛の表情に変わった。

「痛むのは子が出てきたいと思っておるからじゃ。辛抱ぞ」

 産屋に入って来た産婆が言う。
 産屋の外には猪川道庵も待機している。警護も城から差し回されている。
 また領内の寺や神社に安産祈願の祈祷をするように城から使者が遣わされたと言う。
 普通の妊婦には望めない恵まれた態勢だった。
 勢以は外に出て手を合わせた。どうか満津が無事に御子を産めますように。御子がお元気でありますように。
 一刻ほどして産屋から元気な泣き声が聞こえた。

「大きな声じゃ」

 八幡様から戻って来た甚太夫は期待をもってそう言った。
 産屋から出て来た産婆は外で待機している人々に厳かに告げた。

「たいそうお元気な姫君様にございます」

 甚太夫は一瞬残念という顔になったが、すぐに笑顔になった。

「めでたいこと」

 だが勢以は「かわいらしい」ではなく「お元気な」という言葉が気になった。
 後産が済み、落ち着いたところで勢以は産屋に入った。
 赤子は満津の横ですやすやと眠っていた。確かにかわいらしい赤子ではなかった。まるで男子のような顔をした赤子だと思った。

「卯之助に似ておる」

 勢以は言った。満津は疲れているようだったが、ほほ笑んだ。

「私もそう思います」

 もしかすると、新右衛門に会えない満津に同情して神仏がそっくりの子を授けたのではあるまいかと勢以は思った。
 ちなみに初産にしてはあまりに早い出産だったため、生まれた時に寺社の中にはまだ祈祷を始めていないところも多かったと伝えられている。





 姫様誕生の報はすぐさま江戸表に伝えられた。届いたのは十月初めのことである。
 同じ十月の半ば、城下で異変があった。
 江戸詰めになっていた者が数名、何の前触れもなく帰国してきたかと思うと、帰国した者のうち一名が寺の預かりになり、その家が閉門となった。また一人は家の座敷牢に入れられた。
 さらに小田切の次男が江戸で病死したとの知らせも同時期に入って来た。
 家老の小田切仁右衛門が隠居するらしいとの噂も耳に入った。
 詳しい話は家老までしか知らされなかった。
 そうこうするうちに小田切家までも閉門になってしまった。
 沢井甚太夫は江戸の息子からの文で江戸で起きたことの概要を知った。
 だが、妻や満津の耳には入れなかった。
 穏やかな幸せに水を差したくはなかった。
 ほどなく城下は姫様の五十日の祝いの話題で持ち切りとなった。
 名づけを江戸の殿様の御正室様がするということで、皆あれこれ噂をするのであった。





 明けて正徳四年(1714年)三月三日。姫君の初節句が城内奥御殿で行われた。
 改装した隠居所ではなく、奥御殿の大広間に十日ほど前に国許に届いた雛人形が飾られた。
 江戸の飛騨守御正室眞里姫が姫誕生を知るとすぐに京の職人に注文したものであった。
 姫にとってはおばば様からの贈り物であった。
 上段には本物の金箔が張られた金屏風があり、その前には宮中の衣装を身に着けた男雛と女雛が据えられている。
 人形の衣装は西陣の織物である。
 一緒に贈られた下段の雛遊びの道具類は黒漆塗りに金の蒔絵で山置家の家紋「三つ違い山形」が描かれていた。
 まだ現在のような三人官女や五人囃子等の人形の飾られた段飾りではないが、一流の職人の技が駆使された人形や道具類は、この数十年国許で姫が生まれていなかったため、皆初めて見るものであった。
 御分家にも三人の娘がいるが、これほどの雛人形は飾られていなかった。
 生まれて六か月にもならない姫は乳母に抱かれてその人形をぱっちりとした目で見つめていた。
 その傍らで満津は姫が山置家の娘と認められたことに安堵していた。
 お仙の方は奥の女達を代表して下座で口上を述べた。

こう姫様、初節句おめでとうございます」
「かたじけのうございます」

 満津は微笑んだ。
 他の奥女中たちとともにお仙の方は頭を下げた。
 この日を境に、城の奥は香姫様とご生母満津の方を中心に回るようになっていく。
 殿様の御正室様から贈られたのは名前と雛人形だけではなかった。眞里姫が認めたことによって、実家加部家の権威が香姫を守ることになったのである。
 さらには数日後、江戸で行われる隆礼と祝姫の婚儀によって、加部家の権威が増すことになる。
 将来、香姫は祝姫の娘となり加部家の孫として扱われることも既定のことであった。
 満津の方はその生母として、国許の奥を代表する立場となった。
 




しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

ふたりの旅路

三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。 志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。 無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

【完結】月よりきれい

悠井すみれ
歴史・時代
 職人の若者・清吾は、吉原に売られた幼馴染を探している。登楼もせずに見世の内情を探ったことで袋叩きにあった彼は、美貌に加えて慈悲深いと評判の花魁・唐織に助けられる。  清吾の事情を聞いた唐織は、彼女の情人の振りをして吉原に入り込めば良い、と提案する。客の嫉妬を煽って通わせるため、形ばかりの恋人を置くのは唐織にとっても好都合なのだという。  純心な清吾にとっては、唐織の計算高さは遠い世界のもの──その、はずだった。 嘘を重ねる花魁と、幼馴染を探す一途な若者の交流と愛憎。愛よりも真実よりも美しいものとは。 第9回歴史・時代小説大賞参加作品です。楽しんでいただけましたら投票お願いいたします。 表紙画像はぱくたそ(www.pakutaso.com)より。かんたん表紙メーカー(https://sscard.monokakitools.net/covermaker.html)で作成しました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

武蔵要塞1945 ~ 戦艦武蔵あらため第34特別根拠地隊、沖縄の地で斯く戦えり

もろこし
歴史・時代
史実ではレイテ湾に向かう途上で沈んだ戦艦武蔵ですが、本作ではからくも生き残り、最終的に沖縄の海岸に座礁します。 海軍からは見捨てられた武蔵でしたが、戦力不足に悩む現地陸軍と手を握り沖縄防衛の中核となります。 無敵の要塞と化した武蔵は沖縄に来襲する連合軍を次々と撃破。その活躍は連合国の戦争計画を徐々に狂わせていきます。

いや、婿を選べって言われても。むしろ俺が立候補したいんだが。

SHO
歴史・時代
時は戦国末期。小田原北条氏が豊臣秀吉に敗れ、新たに徳川家康が関八州へ国替えとなった頃のお話。 伊豆国の離れ小島に、弥五郎という一人の身寄りのない少年がおりました。その少年は名刀ばかりを打つ事で有名な刀匠に拾われ、弟子として厳しく、それは厳しく、途轍もなく厳しく育てられました。 そんな少年も齢十五になりまして、師匠より独立するよう言い渡され、島を追い出されてしまいます。 さて、この先の少年の運命やいかに? 剣術、そして恋が融合した痛快エンタメ時代劇、今開幕にございます! *この作品に出てくる人物は、一部実在した人物やエピソードをモチーフにしていますが、モチーフにしているだけで史実とは異なります。空想時代活劇ですから! *この作品はノベルアップ+様に掲載中の、「いや、婿を選定しろって言われても。だが断る!」を改題、改稿を経たものです。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

処理中です...