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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

46 大岡の推理

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「そのことで、もう一つ困ったことになっております」

 ついでにと隆礼は自分にかかった毒殺疑惑のことを話した。
 これには大岡が目を輝かせた。

「なるほど、饅頭を食べてからお茶を飲んだ後に御戻しになったのですか。味見の小姓も飛騨守様も菓子を食べて何の異常もなかったと」
「はい。竹之助兄上は御身体が弱いので、普通は食べても何ともないものでも戻したり下したりするのです」

 加納は言った。

「それでは、世継ぎは無理だな。登城して、腹など下したら洒落にならぬ。飛騨守がそなたを世継ぎにしたのは当然だ」

 長裃を付けての登城だから、その姿で厠に行くのは大仕事である。脱ぐのも着るのも一人ではできない。そもそも城のどこに厠があるのか、隆礼も知らない。
 大岡は何やら考えているようだった。

「このようなことを申し上げるのは畏れ多いことなのですが、竹之助様は誰か、それもごく身近な者に憎まれるようなことはございませんか」
「それは、あるかもしれません」

 そんなことはないと断言できなかった。

「少々、お気が強いところがありますゆえ」

 癇癪持ちの竹之助は沢井清兵衛にも湯呑を投げつけている。そばにいる小姓にも、同じようなことをしている恐れはあった。
 大岡は声を低めた。

「単なる腹の不調ではなく、饅頭に誰かが薬を盛ったのではありませんか。その者が頭が良ければ、若君の持ってきた菓子に薬を盛り、若君を下手人にすることを考えるかもしれません。そうすれば、自分には疑いはかかりません。あるいは、お茶に何か入れたか。お茶に何かを混ぜたとしたら、小姓や飛騨守様が菓子を食べても異常がないのは当然のこと」

 大岡の推理は恐ろし過ぎた。噂を広げる人間だけでなく、竹之助を殺したいほど憎む人間も上屋敷にいるということになる。

「忠右衛門、そなた、考え過ぎではないか」
「加納様、そういうこともあるかもしれないという話です。万が一ということもあります。今後も竹之助様についてはよくよく身を守ることを考えたほうがよろしいかと存じます」

 確かにその恐れは否定できなかった。

「飛騨守様に相談してみます。もし、何かあったら取り返しがつきません」
「そのほうがよろしいかと存じます」

 大岡はそう言った後で、加納を見た。

「それにしても毒殺の噂とは穏やかではありませんな。とんだ濡れ衣」

 加納はふっと息を吐いた。ため息のようにも聞こえた。

「身内に不幸が続くと、そういう勘ぐりをする者はどこにでもいるもの。わしも、兄と父が死んだ時はおかしな噂をする者がいた」
「加納様もそうだったのですか」

 そういえば、栗林の隠居の屋敷に行った時、加部源三郎が加納の家族のことを話していたと思い出した。

「ああ。くだらん話だ。父は高齢であったし、兄はもともと身体が強くはなかった。次兄も父が病に倒れたことを知り、無理をして江戸から国許に帰り、それで身体を壊したのだ。それなのに、わしが殺しただの何だの」

 憤懣やる方ないという言葉そのままの顔で加納は言った。
 加納も自分と同じように悩んだことがあったのだと隆礼には心強く感じられた。
 だが、その後で加納が言ったことは思いもよらぬことだった。

「だがな、そのような噂が立つということは、そなたにとっては良いことかもしれぬ」

 とても良いことには思えなかった。自分はもちろん、近しい者達も苦しんでいるのだ。口には出さないが、彼らの顔色に疲れだけではない苦渋の色が見えることがあった。

「どこが良いのですか。もし大目付様の耳に入ったら」

 大岡が言った。

「大目付様も忙しいのです。そんな噂にいちいち掛り合っていては仕事になりません。それに今は大名の監視どころでは」

 大岡は言いかけて止めた。加納はその後を継ぐように言った。

「ないくらい忙しいのだ」
「忙しいからといって目こぼししてくださるものでもないと思います」
「家を取り潰して浪人を増やせば、世が乱れる。恐らくは、この先、大名の改易は少なくなるであろうな」
「さようなのですか」

 加納の言葉は驚きだった。

「潰せば赤穂の浪人の起こしたような騒ぎがまた起きないとも限らぬ」

 赤穂の浪人が吉良邸を襲った話は国許にも届いていた。隆礼にとっては、遠い世界の話だった。
 城のような緊張する場所で脇差を振りかざして他人に襲いかかるなど、自分には到底できないと思う。

「ならば、大目付様に罰せられることはないのですね」
「確たる証もないのに、できるものではありません」

 大岡は言った。
 隆礼はほっとした。だが、加納が言う「良いこと」とはどういうことなのか。

「加納様、どうして噂が立つことが良いことなのですか」
「わからぬか」
「はい」
「そなた、正直者だな」
「畏れ入ります」
「褒めているわけではない」

 加納の言葉はまたも隆礼の考えも及ばぬものであった。
 とまどう隆礼に加納は言った。

「そなたは、まだ子どもだ。それゆえに、外の者だけでなく、家中の者にも侮られる」
「子ども」
「そうだ。素直で疑うことを知らぬ。わしが先ほど、わしにかかった兄殺し親殺しの疑いについて語ったこと、まことのことと信じておるのか」

 背筋に冷たいものが走った。あれが偽りだと言うのか。まさか、本当に。

「加納様、少しそれは言い過ぎです」

 大岡がたしなめた。

「まあ、真偽のほどはともかく、そなたは人の言葉をそのまま信じ過ぎる。それはいいことかもしれぬ。だがな、藩主となった時には役に立たぬ。人の言葉の裏まで読まねば、人の上に立つことはできぬ。人の言うことをそのまま信じるのは美しいかもしれぬ、だが、それでは済まぬのだ。信じたがために判断を誤れば、大勢の者を路頭に迷わせることになる。改易は少なくなるかもしれぬが、なくなることはないのだからな」

 加納の話はわからないでもなかった。
 だが、それと噂がどう関係するのか。

「恐らく、そなたの心根は素直なものだろうから、この先大きく変わることはあるまい。だが、そのままでは家臣どもに侮られるぞ。家臣も人の子。くみしやすしと見れば、相手があるじであっても自分の要求を強く突きつけてくる。最初は小さなことだが、次第にそれが大きくなってくる。そうなれば家臣を御することはできぬ。言いなりになるだけだ。家臣が賢い者ばかりなら、それもよかろう。だが、そういう家中は少ない。愚かな者に操られる主は愚かと言っていい。素直などと褒めらるものではない」

 恐ろしい話だった。家臣との関係を正直そこまで考えたことはなかった。

「だが、此度のこの噂はそなたにとっては良いものだ。なぜなら、そなたは子どもの癖に何を考えておるかわからぬと思われているのだからな。場合によっては人の命を奪うのも厭わぬとな。そういう主であれば、家臣も騙そうなどとは思うまい。油断すれば何をされるかわからぬのだからな。
 先の水戸の中納言様を知っておるか」

 御三家の一つ水戸徳川家の前の殿様のことらしい。隆礼はほとんど知らなかった。

「あまり存じません」
「であろうな。もう亡くなられて十年以上たつからな」
「どのような方なのですか」
「大変に学識の深い方だ。多くの書籍を編纂させた。歴史書の編纂が今も水戸で続けられておる」
「凄い方なんですね」
「だがな、この方は決してそれだけの人ではなかった。晩年に自分に仕えていた者を殺したのだ。そればかりではない。若い頃は放蕩無頼の限りを尽くし、辻斬りのようなことをしたこともあると言う」

 俄かには信じられない話であった。御三家の方がそのような振る舞いをするとは。
 そんなことを知っている加納は何者なのであろうか。もしかすると水戸の徳川家と縁のある方なのかもしれないと隆礼は思った。

「無頼の生活をやめた後は学問を熱心にされるようになった。だが荒ぶる心を持つ方であることは皆知っておったから、家臣らは常に気を張り詰めていたであろうな」

 考えもしないことだった。家臣らとの気の張り詰めた関係など想像できなかった。惣左衛門や与五郎とそういう関係になったらどうなることか。

「それはいいことなのでしょうか」
「何事にも良い面と悪い面がある。だが、主と家臣はある程度の緊張関係が必要なものであろうな。あまりに緊張が強過ぎれば、お互いよくないが、ほどほどには必要だろう。馴れ合いが一番よくない。主の過ちを正すことも、家臣の過ちを罰することもできなくなる」

 加納の言葉は兄の言葉とは違う厳しさがあった。
 最初から跡継ぎと決まっていなかった加納は恐らく、そういう家臣との関わりを自分で模索してきたのだろう。
 それは隆礼にとっても考えるべき問題だった。

「まあ、わしが思うことであって、そなたはまた別の考えがあってもよいと思う。わしがすべて正しいわけではないのだから」
「いえ、確かに加納様のおっしゃることは正しいと思います。ただ、そうなると、主である自分というのはずいぶんと寂しいものなのですね」
「ああ、そうだ。主というのは孤独なものなのだ。いや、人というのは皆そうかもしれぬ。繋がっているように見えても、生まれた時も死ぬ時も一人」

 それまで黙っていた大岡が口を開いた。

「されど、その一人一人が家中のため、御公儀のため、互いに力を合わせるからこそ、この世はよきものになるのではありませぬか。火事が起きれば、助け合って火を消す者達がいる。そうやってこの世は続いてきたのです。主たる者は、民が力を合わせていけるように策を講じなければなりません。さすれば世は落ち着き、民も安んじて暮らすことができるのです」

 現代で言えば高級官僚に当たる大岡の言葉は山田奉行として伊勢の人々と接してきた実感だった。
 山田奉行の職務の一つに伊勢神宮の式年遷宮を取り仕切る仕事がある。式年遷宮こそ、多くの人々が長い年月手を取り合って携わってきた大事業であった。





 性質たちの悪い噂だが、家臣との緊張関係を考えればそう悪いことではないのかもしれない。
 加納と大岡が帰った後、隆礼は一人部屋で考えた。
 隆礼は手紙を書いた。大岡の推理を伝え竹之助の周囲に気を配ること、例の書画は提出はあったのか等々を書き、上屋敷の飛騨守に届けさせた。
 ついでに祝姫にも手紙を書いた。
 中屋敷に引っ越したこと、鶏がいること、畑があること、他愛もないことである。





 そんな隆礼は沢井清兵衛の混乱に気付いていない。
 清兵衛は赤坂に江戸屋敷を持つ大名の中の一人の噂を思い出していた。
 身の丈六尺、替紋は蔦、いつも木綿を身に着けており、食事は一汁一菜で質素倹約を旨とする。
 噂の大名と加納の重なる部分に気付き、清兵衛は震えてしまった。
 ありえない。
 もしそうだとしたら、あまりに畏れおおいことであった。




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