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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)
42 あらぬ噂
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続く不幸に下屋敷は静まりかえっていた。
飛騨守と隆礼は隆成の物言わぬ身体に対面したが、眠っているようだった。
本当に苦しみはなかったようで、世話役が気づかなかったのも無理はないと思えた。
世話役は自分が気付かなかったからおひとりで死なせてしまった、死んでお詫びをすると騒いだらしいが、同僚たちによって勝手なことをせぬように見張られているということだった。
殉死は御法度。殿様本人ではなく弟であってもそれは同じである。
飛騨守は世話役のいる部屋に行き、世話になった、今後も当家のために働くように、決して殉死をしてはならぬと直々に声をかけた。
寿姫に仕えていた女達は若様もいなくなりこれからどうすればいいのかと途方に暮れていた。
飛騨守は先々のことは心配しないように老女たちに声をかけた。
隆礼は、このうちの何人かは中屋敷に来てもらうことになるのかもしれぬと思った。
とりあえず葬送の日程が決まり、屋敷に戻った隆礼は屋敷が騒然としていることに気付いた。朝のざわめきとは違っていた。
飛騨守も不審を感じた。
出迎えた側用人が飛騨守に耳打ちした。
飛騨守は隆礼に部屋にいるように、自分が呼ぶまで出てはならぬと命じた。
何事かと思ったが、なんとなく気疲れもあり、少し休もうと小姓達と部屋に向かった。
部屋の前にはひどく緊張した顔の惣左衛門が控えていた。
小さな声で惣左衛門は言った。
「一大事です」
惣左衛門も中に入れた。小姓はぴしゃりと襖を立てた。
刀を預けた小姓の顔もいつになく硬いように見えた。
「何があったのだ。まさか、奥女中が狆に噛みついたか」
「それどころではありません」
畳の上に腰を下ろした隆礼の耳に飛び込んだ言葉は想像もせぬものだった。
「竹之助様がお菓子を召しあがって吐いたのです。そのお菓子は若様が竹之助様に差し上げた物。竹之助様もお小姓達もお付きの女中も皆、若様が毒を盛ったのだと言いだし、さらには下屋敷の方々にも若様が毒を盛ったのではないかと騒ぎだしております」
一体どこの家中の話かと、隆礼は耳を疑った。
小姓が畏れながらと言った。
「最近、姿を見かけなくなった奥の御方やお女中達も、若様が毒を盛ったのではないかと言う者達がおります。口封じで女中が入れ替わったのではないかとも」
卯女やあの事件で入れ替わった女中達のことを言っているらしい。だが、喜乃を除いて皆生きている。
わけがわからず、隆礼は惣左衛門を見た。
「それがしにもわけがわかりません。平太や与五郎が噂の出どころを探っておりますが、皆、少しここ数日のことで、気持ちが高ぶっているようで」
あまりのことに、隆成の死を悲しむどころではなくなった。
飛騨守は側用人からの報告を聞き、あきれ返った。
「竹之助は医者に見せたのだろう。医者は何と申しておる」
「夏風邪で腹を壊したとのことです。御毒見をした小姓は誰も異常を訴えておりません。竹之助様は御身体が弱っておいでですので、普通の方が食べて大丈夫なものでも、おなかを壊すことがこれまでも幾度かございました。残っていた饅頭を調べましたが、毒は入っておりませんでした」
「ならばどうして毒などと騒ぐのだ」
「竹之助様の小姓達は若君様をあまりよく思っておいでではないのです」
それは飛騨守にもわかっていた。
ただ、今になってそういう噂になってしまうというのは、なんともおかしな話だった。
さてさて、これはどうしたものか。
このまま噂が広がったら一体どうなることか。
不穏な噂を流さぬようにと家臣を一喝すれば表立っておかしなことを言う者はいなくなるだろう。だが、今度は陰で様々な話になって広がるかもしれぬ。
隆礼について、御世継として問題ありと大目付に告げる者も出るかもしれぬ。
「竹之助の部屋に行く」
とりあえず、飛騨守は自分で確認することにした。
小姓達は元々聡い者を選んでいる。理を尽くして話せばわからぬわけはないのだ。
飛騨守の懸念通り、噂は上屋敷中に広まり、若君様は本当は恐ろしい方、そのうち殿様までも害するのではないかなどという者までいた。
ことに普段、隆礼にじかに接することのない足軽、中間らがあれこれ勝手に想像を膨らませていた。
「あのお年で国許で御手付きを孕ませたような方だから、悪知恵もまわるのではないか」
詰所ではそう言ったことが堂々と語られていた。
特に渡り中間といって、領内出身ではない江戸の口入屋を通じて期限付きで雇われている者達は他の家中で起きた事件などを仲間からの聞きかじりで訳知り顔に語った。
「そういやあ、紀州の殿様のとこでもな、太守様、その父上、新たに太守になった次男様が半年もたたないうちに次々に亡くなったことがあったらしいぜ。で、その後を継いだのが本当なら御世継になれないような身分の低い母親から生まれた四男坊。こいつが頭がよくまわる男でな」
「あ、知ってるぞ。身の丈六尺で、相撲取りを投げ飛ばしたそうだぞ」
「紀州の亡くなった次男様なんぞまだ三十にもならなかったそうだから、死ぬのはおかしいよな」
「そういやあ、下屋敷の方もまだ三十半ば。こいつは怪しいな」
彼らは中間長屋に住んでいるが、期限が終われば条件次第でよその家中に行く。そこでまた面白おかしく前の家の出来事を語ることは容易に想像できた。
しかも、彼らの話はめぐりめぐって、屋敷の役人の耳にまで入ってくる。
役人達はありえないことと思うものの、中間たちとはまた別の情報を持っているから始末が悪かった。
若君様が贔屓にしている草履取りは守倉衆らしいと、彼らは気付いていた。
若君様の行く先にいつでもついていく平太は特に目立つわけではないが、よく気が利きあれこれと動いて皆重宝に使っていた。
その器用さが守倉衆ゆえのものであるなら、若君様が利用しても不思議ではない。
守倉衆の中には薬の調合に長じた者がいるという話は昔から語られていた。それを利用しないはずはないと、役人は役人で、噂を単なる噂と思えなくなっていた。
彼らは大っぴらに口にしないが、長屋の中で声を低めて同輩と語り合うのだった。
また、どういうわけか奥にまで話が伝わり、最近新たに奉公を始めた女中達は、前の女中と交代することになったのはもしやと、想像を逞しくするのだった。
「前にいた御手付きの方が夜中に屋敷から連れ出され、国許にも豊後守様の屋敷にも戻ってらっしゃらないとか」
「不義密通をして、若君様に殺されたとかいう話だけど」
「そういえば、御殿の作事をしているけれど、それって、もしかして」
「まさか、血まみれになった廊下や壁を作り直すとか」
「いやあ、怖い」
女達の空想の翼はどこまでも飛んでいく。しかも、一部当たっているから性質が悪い。
隆礼の部屋には惣左衛門だけでなく与五郎と平太もやって来た。
噂の出どころは竹之助の小姓達だったが、噂に油を注いだのはあろうことか隆礼の小姓だった。
村瀬勘六のように元は竹之助付きだった小姓もいるので、つい今の竹之助付きの小姓と話が合ってしまうのだった。
「人をなんだと思ってるんだ。これではわしは鬼か何かではないか」
怒りを通り越してあきれるばかりである。
「噂とはさようなもの。本人を離れ一人歩きするものです」
与五郎はそう言った後、平太を見た。
「やはり、平太殿と親しくなさっておいでだから、疑われるのではありませんか」
平太は与五郎をじろりと見た。
「わしはそんなに大勢殺すほど薬は持たぬぞ。自裁用くらいじゃ」
自害のための毒薬を持っていること自体普通ではないのだが。
「守倉衆はそういう薬を作るのか」
惣左衛門の問いに、平太はうなずいた。
「一族にはそういう者もいる。だが、わしは作らん。わしは使うだけだ。それに毒薬は作るのも手間じゃ。自分がやられることもあるからな。ふだんは陀羅尼助を作るくらいだ。ほれ、国許のどこの家にもあるであろう」
岡部家にも万能薬として陀羅尼助はあった。惣左衛門も江戸行きにあたって持たされている。
禄高の低い守倉家の隠れた収入源なのだった。
「さて、どうしたものか」
惣左衛門は慎重だった。
「殿様がまずは何か対処されるはず。へたに動かぬほうがよいと存じます」
「だが、こういうのは厄介だぞ」
平太は腕組みをしていた。
「人というのは、大勢になると、とんでもないことをしたりするものじゃ。恐らく、屋敷の者達は恐ろしく心が疲れているのではないか」
「心が疲れているとは、いかなる意味ですか」
与五郎の問いに平太は説明を始めた。
「我ら、国許では、広い家で江戸よりものんびりと暮らしていた。だが、江戸に来ると、住む部屋は狭く、昼も夜も同輩と一緒じゃ。おまけに殿様の登城やら外出やら、実に刻限を気にする暮らしをしておる。国許も刻限は決まっておったが、江戸ほどうるさくはなかったからな。寺の鐘など、いい加減なものであった。江戸では屋敷から外に出れば、今度は慣れぬ言葉を聞き、国の言葉を話すわけにもいかぬ。団子一つ買うのも大勢の人混みに分け入らねばならぬ。とにかく国にいる頃より、心が疲れるもの」
「確かにそうだ」
隆礼もうなずいた。
「そこへもってきて、下屋敷の方々の御不幸が続いた。弔いという物は案外疲れるもの。弔問客に気を遣い、坊主にも相応の謝礼を渡さねばならぬ。勘定方などやりくりに大変なのではないか。おまけに、喪のために元気のいい若い者も大人しくしておらねばならぬ。いろいろと皆それぞれ心を疲れさせておる。そんな時に、今度は竹之助様が菓子を吐いた。心が疲れているところに、またも新たな悩みが増えれば、正しい判断ができなくなる。それでありもしない毒殺などと騒ぎ立てておるのではないのか」
「さようなことがあるのか」
「ああ。人ではないが、生き物にも時々あるそうじゃ。異国には増え過ぎたねずみを退治するために、笛を吹いて川におびき寄せる名人がいるそうだ。名人が笛を吹くと、町中の家家からねずみが出て来て、笛吹きの名人の後をついて行くのだ。それこそ何千という数じゃ。
名人は川のほとりまでねずみの群れを誘い出し、そこで笛を吹くとねずみは次から次へと川に飛び込んでいく。先頭のねずみが川に入って溺れてるというのに、後ろのねずみはそれを見て危ないとわからぬままついていってしまい、とうとうねずみは皆溺れ死んでしまうそうじゃ。
ねずみというのは賢い生き物で人がねずみと言うただけで、天井裏で暴れていたのが、なりを潜めるもの。その賢いねずみが大群になると、まるで阿保のようになってしまう。
この話には続きがあってな、ねずみを退治した謝礼を町名主が名人にケチって渡さなかったので、怒った名人が今度は笛を吹いて、町の子どもを呼び寄せた。子どもらは、笛の音に誘われて名人の後について山へ向かって行き、誰も帰ってこなかったそうじゃ」
「なんと恐ろしい」
皆、異国の笛吹き名人の恐ろしい話に震えあがった。
飛騨守と隆礼は隆成の物言わぬ身体に対面したが、眠っているようだった。
本当に苦しみはなかったようで、世話役が気づかなかったのも無理はないと思えた。
世話役は自分が気付かなかったからおひとりで死なせてしまった、死んでお詫びをすると騒いだらしいが、同僚たちによって勝手なことをせぬように見張られているということだった。
殉死は御法度。殿様本人ではなく弟であってもそれは同じである。
飛騨守は世話役のいる部屋に行き、世話になった、今後も当家のために働くように、決して殉死をしてはならぬと直々に声をかけた。
寿姫に仕えていた女達は若様もいなくなりこれからどうすればいいのかと途方に暮れていた。
飛騨守は先々のことは心配しないように老女たちに声をかけた。
隆礼は、このうちの何人かは中屋敷に来てもらうことになるのかもしれぬと思った。
とりあえず葬送の日程が決まり、屋敷に戻った隆礼は屋敷が騒然としていることに気付いた。朝のざわめきとは違っていた。
飛騨守も不審を感じた。
出迎えた側用人が飛騨守に耳打ちした。
飛騨守は隆礼に部屋にいるように、自分が呼ぶまで出てはならぬと命じた。
何事かと思ったが、なんとなく気疲れもあり、少し休もうと小姓達と部屋に向かった。
部屋の前にはひどく緊張した顔の惣左衛門が控えていた。
小さな声で惣左衛門は言った。
「一大事です」
惣左衛門も中に入れた。小姓はぴしゃりと襖を立てた。
刀を預けた小姓の顔もいつになく硬いように見えた。
「何があったのだ。まさか、奥女中が狆に噛みついたか」
「それどころではありません」
畳の上に腰を下ろした隆礼の耳に飛び込んだ言葉は想像もせぬものだった。
「竹之助様がお菓子を召しあがって吐いたのです。そのお菓子は若様が竹之助様に差し上げた物。竹之助様もお小姓達もお付きの女中も皆、若様が毒を盛ったのだと言いだし、さらには下屋敷の方々にも若様が毒を盛ったのではないかと騒ぎだしております」
一体どこの家中の話かと、隆礼は耳を疑った。
小姓が畏れながらと言った。
「最近、姿を見かけなくなった奥の御方やお女中達も、若様が毒を盛ったのではないかと言う者達がおります。口封じで女中が入れ替わったのではないかとも」
卯女やあの事件で入れ替わった女中達のことを言っているらしい。だが、喜乃を除いて皆生きている。
わけがわからず、隆礼は惣左衛門を見た。
「それがしにもわけがわかりません。平太や与五郎が噂の出どころを探っておりますが、皆、少しここ数日のことで、気持ちが高ぶっているようで」
あまりのことに、隆成の死を悲しむどころではなくなった。
飛騨守は側用人からの報告を聞き、あきれ返った。
「竹之助は医者に見せたのだろう。医者は何と申しておる」
「夏風邪で腹を壊したとのことです。御毒見をした小姓は誰も異常を訴えておりません。竹之助様は御身体が弱っておいでですので、普通の方が食べて大丈夫なものでも、おなかを壊すことがこれまでも幾度かございました。残っていた饅頭を調べましたが、毒は入っておりませんでした」
「ならばどうして毒などと騒ぐのだ」
「竹之助様の小姓達は若君様をあまりよく思っておいでではないのです」
それは飛騨守にもわかっていた。
ただ、今になってそういう噂になってしまうというのは、なんともおかしな話だった。
さてさて、これはどうしたものか。
このまま噂が広がったら一体どうなることか。
不穏な噂を流さぬようにと家臣を一喝すれば表立っておかしなことを言う者はいなくなるだろう。だが、今度は陰で様々な話になって広がるかもしれぬ。
隆礼について、御世継として問題ありと大目付に告げる者も出るかもしれぬ。
「竹之助の部屋に行く」
とりあえず、飛騨守は自分で確認することにした。
小姓達は元々聡い者を選んでいる。理を尽くして話せばわからぬわけはないのだ。
飛騨守の懸念通り、噂は上屋敷中に広まり、若君様は本当は恐ろしい方、そのうち殿様までも害するのではないかなどという者までいた。
ことに普段、隆礼にじかに接することのない足軽、中間らがあれこれ勝手に想像を膨らませていた。
「あのお年で国許で御手付きを孕ませたような方だから、悪知恵もまわるのではないか」
詰所ではそう言ったことが堂々と語られていた。
特に渡り中間といって、領内出身ではない江戸の口入屋を通じて期限付きで雇われている者達は他の家中で起きた事件などを仲間からの聞きかじりで訳知り顔に語った。
「そういやあ、紀州の殿様のとこでもな、太守様、その父上、新たに太守になった次男様が半年もたたないうちに次々に亡くなったことがあったらしいぜ。で、その後を継いだのが本当なら御世継になれないような身分の低い母親から生まれた四男坊。こいつが頭がよくまわる男でな」
「あ、知ってるぞ。身の丈六尺で、相撲取りを投げ飛ばしたそうだぞ」
「紀州の亡くなった次男様なんぞまだ三十にもならなかったそうだから、死ぬのはおかしいよな」
「そういやあ、下屋敷の方もまだ三十半ば。こいつは怪しいな」
彼らは中間長屋に住んでいるが、期限が終われば条件次第でよその家中に行く。そこでまた面白おかしく前の家の出来事を語ることは容易に想像できた。
しかも、彼らの話はめぐりめぐって、屋敷の役人の耳にまで入ってくる。
役人達はありえないことと思うものの、中間たちとはまた別の情報を持っているから始末が悪かった。
若君様が贔屓にしている草履取りは守倉衆らしいと、彼らは気付いていた。
若君様の行く先にいつでもついていく平太は特に目立つわけではないが、よく気が利きあれこれと動いて皆重宝に使っていた。
その器用さが守倉衆ゆえのものであるなら、若君様が利用しても不思議ではない。
守倉衆の中には薬の調合に長じた者がいるという話は昔から語られていた。それを利用しないはずはないと、役人は役人で、噂を単なる噂と思えなくなっていた。
彼らは大っぴらに口にしないが、長屋の中で声を低めて同輩と語り合うのだった。
また、どういうわけか奥にまで話が伝わり、最近新たに奉公を始めた女中達は、前の女中と交代することになったのはもしやと、想像を逞しくするのだった。
「前にいた御手付きの方が夜中に屋敷から連れ出され、国許にも豊後守様の屋敷にも戻ってらっしゃらないとか」
「不義密通をして、若君様に殺されたとかいう話だけど」
「そういえば、御殿の作事をしているけれど、それって、もしかして」
「まさか、血まみれになった廊下や壁を作り直すとか」
「いやあ、怖い」
女達の空想の翼はどこまでも飛んでいく。しかも、一部当たっているから性質が悪い。
隆礼の部屋には惣左衛門だけでなく与五郎と平太もやって来た。
噂の出どころは竹之助の小姓達だったが、噂に油を注いだのはあろうことか隆礼の小姓だった。
村瀬勘六のように元は竹之助付きだった小姓もいるので、つい今の竹之助付きの小姓と話が合ってしまうのだった。
「人をなんだと思ってるんだ。これではわしは鬼か何かではないか」
怒りを通り越してあきれるばかりである。
「噂とはさようなもの。本人を離れ一人歩きするものです」
与五郎はそう言った後、平太を見た。
「やはり、平太殿と親しくなさっておいでだから、疑われるのではありませんか」
平太は与五郎をじろりと見た。
「わしはそんなに大勢殺すほど薬は持たぬぞ。自裁用くらいじゃ」
自害のための毒薬を持っていること自体普通ではないのだが。
「守倉衆はそういう薬を作るのか」
惣左衛門の問いに、平太はうなずいた。
「一族にはそういう者もいる。だが、わしは作らん。わしは使うだけだ。それに毒薬は作るのも手間じゃ。自分がやられることもあるからな。ふだんは陀羅尼助を作るくらいだ。ほれ、国許のどこの家にもあるであろう」
岡部家にも万能薬として陀羅尼助はあった。惣左衛門も江戸行きにあたって持たされている。
禄高の低い守倉家の隠れた収入源なのだった。
「さて、どうしたものか」
惣左衛門は慎重だった。
「殿様がまずは何か対処されるはず。へたに動かぬほうがよいと存じます」
「だが、こういうのは厄介だぞ」
平太は腕組みをしていた。
「人というのは、大勢になると、とんでもないことをしたりするものじゃ。恐らく、屋敷の者達は恐ろしく心が疲れているのではないか」
「心が疲れているとは、いかなる意味ですか」
与五郎の問いに平太は説明を始めた。
「我ら、国許では、広い家で江戸よりものんびりと暮らしていた。だが、江戸に来ると、住む部屋は狭く、昼も夜も同輩と一緒じゃ。おまけに殿様の登城やら外出やら、実に刻限を気にする暮らしをしておる。国許も刻限は決まっておったが、江戸ほどうるさくはなかったからな。寺の鐘など、いい加減なものであった。江戸では屋敷から外に出れば、今度は慣れぬ言葉を聞き、国の言葉を話すわけにもいかぬ。団子一つ買うのも大勢の人混みに分け入らねばならぬ。とにかく国にいる頃より、心が疲れるもの」
「確かにそうだ」
隆礼もうなずいた。
「そこへもってきて、下屋敷の方々の御不幸が続いた。弔いという物は案外疲れるもの。弔問客に気を遣い、坊主にも相応の謝礼を渡さねばならぬ。勘定方などやりくりに大変なのではないか。おまけに、喪のために元気のいい若い者も大人しくしておらねばならぬ。いろいろと皆それぞれ心を疲れさせておる。そんな時に、今度は竹之助様が菓子を吐いた。心が疲れているところに、またも新たな悩みが増えれば、正しい判断ができなくなる。それでありもしない毒殺などと騒ぎ立てておるのではないのか」
「さようなことがあるのか」
「ああ。人ではないが、生き物にも時々あるそうじゃ。異国には増え過ぎたねずみを退治するために、笛を吹いて川におびき寄せる名人がいるそうだ。名人が笛を吹くと、町中の家家からねずみが出て来て、笛吹きの名人の後をついて行くのだ。それこそ何千という数じゃ。
名人は川のほとりまでねずみの群れを誘い出し、そこで笛を吹くとねずみは次から次へと川に飛び込んでいく。先頭のねずみが川に入って溺れてるというのに、後ろのねずみはそれを見て危ないとわからぬままついていってしまい、とうとうねずみは皆溺れ死んでしまうそうじゃ。
ねずみというのは賢い生き物で人がねずみと言うただけで、天井裏で暴れていたのが、なりを潜めるもの。その賢いねずみが大群になると、まるで阿保のようになってしまう。
この話には続きがあってな、ねずみを退治した謝礼を町名主が名人にケチって渡さなかったので、怒った名人が今度は笛を吹いて、町の子どもを呼び寄せた。子どもらは、笛の音に誘われて名人の後について山へ向かって行き、誰も帰ってこなかったそうじゃ」
「なんと恐ろしい」
皆、異国の笛吹き名人の恐ろしい話に震えあがった。
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