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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)
40 師匠と少女たち
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寿姫は享年四十九であった。
思いのほかに若いので、隆礼は驚いた。
十三の年に隆朝に後室として嫁ぎ、年の近い夕姫と朝姫を嫁に出し、血のつながらぬ隆迪を世継ぎとして育て、隆成を産み、部屋子の産んだ隆真を育て養子にやりと子育てをやり遂げ、隠居の隆節(夫の祖父)を看取り、夫に先立たれと、大名の正室としての喜びや悲しみを味わい尽くした生涯だった。
なんとなく冷たい感じがして、隆礼は親しく話すこともなかったが、この人が義父の飛騨守を育ててくれたからこそ、自分がここにいるのだと思うと、頭を垂れずにはいられなかった。
菩提寺での葬儀には親戚も来て盛大なものとなった。
だが、実の息子の隆成は寺にも行けなかった。
母親の寿姫が亡くなった夜からめまいや動悸といった脚気の症状が重くなって、病床から起き上がれなくなっていた。
「手習い所をどうしよう」
葬儀の後、隆礼が病室を訪れると、そのことばかりを言う。
「御病気がよくなったら一緒に考えましょう」
「よくならないよ」
隆成は苦しいはずなのにほほ笑んだ。
「誰か任せられる方はいないのですか」
「尼寺の庵主あたりがいいのだが、この辺には適当な者がいないのだ。私は尼であっても妙齢の女子が苦手でな」
これだけのことを息を切らしながら、ゆっくりとしか言えない隆成だった。
「動けるうちに先のことをやっておけばよかった。動けなくなったら、もう駄目だな」
隆成は目に涙を浮かべていた。
隆礼にはその姿がただ哀れでしかなかった。
「もう、子らには会えないんだろうな。死ぬ前に会いたいな」
「気の弱いことを」
そう言ったものの、隆成がこの先よくなるようにも思えなかった。
下屋敷からの帰り道、駕籠に乗って門を出たところで、子どもの声が聞こえた。
「若様」
「お師匠様は生きてんの」
「これ、脇に寄らぬか」
警護の近習の厳しい声が聞こえた。
「止めよ」
隆礼の声で行列は止まった。駕籠の小窓を開けると、町人らしい女児が三人ほどこちらを見ている。
隆成の教え子のようだった。
乗り物の戸を開けさせた。
「あ、お師匠様の弟君だ」
三人の中で一番年少らしい少女が駆け寄ろうとして止められた。
「構わぬ」
近習はさっと脇に寄った。少女達は駕籠の近くまで来た。
「御屋敷で御弔いが出たから、お師匠様に何かあったのかと皆心配してる」
「師匠様の母上様が亡くなられたのだ」
少女たちがはっと顔色を変えた。
「お師匠様、おかわいそう」
「お師匠様は元気なのですか」
「元気ではない」
病気とまでは言えなかった。だが、少女たちは察したようだった。
「お見舞いしたいけど、お屋敷には入れないよね」
さすがに大名屋敷という場所が特別な場所であることは少女たちも知っていた。
「草履を」
隆礼の声とほぼ同時に駕籠の前に草履がすっと飛んできた。もちろん、すぐにそのまま履くことができる角度で駕籠の真横にきれいにそろえられている。平太の得意技である。
少女達は驚いて、顔を見合わせた。
隆礼は駕籠を下りた。
「待っておいてくれ」
駕籠かきの六尺らにそう言うと隆礼は少女たちについてくるように言った。
その声を聞きつけて辺りにいた少女たちがぞろぞろ集まってきた。
「そなたらは手習いの」
一番年かさの少女が言った。
「どうしてもお師匠様に礼が言いたくて。あたし、なつって言うんだけど、明日から奉公に出るんだ」
少女達はうつむいた。
「奉公に出たら白いおまんまが食えるんだ。おとっつぁんが死んでからずっと白いおまんま食べてないんだ」
おなつはにっこり笑ってそう言った。
正門から入るわけにはいかないので、通用門に行くと、門番が仰天した。
「わ、若君様、いかなる御用で」
「見舞いだ。兄上の部屋にこの娘らを」
門番の困惑した表情に隆礼は責任は自分がとるからと言って、娘たちを入れさせた。
人目の多い玄関から入るわけにはいかず、庭から回って、隆成の部屋の外まで来た。
警護の者達は来客があらかた帰ったので休憩をしているようで誰にも見咎められなかった。
隆礼は娘たちをそこに待たせて、障子をとんとんと叩いた。
「誰ぞ」
その声にしまったと思った。飛騨守の声だった。
障子を開けたのも飛騨守だった。
「そなた、何を」
弔問客の相手を終え、隆成を見舞っていた飛騨守は隆礼と娘たちの姿に驚いた。
背後では、隆成が気配を感じ、床から身を起こそうとしていた。
「兄上、手習い所の娘たちが見舞いに参りました」
隆礼の声に隆成が応じた。
「わかった」
飛騨守は振り返ってぎょっとした。寝たきりで息も絶え絶えの弟が立ち上がろうと床に手をついていた。
「何をしておる、萬福丸」
思わず幼名を呼んでいた。
「兄上、お願いです。私を障子のところまで連れて行ってくだされ」
隆礼は草履を脱ぎ、部屋に上がった。
「兄上、お手伝いします」
そう言うと隆礼は布団を障子のそばまで引き寄せようとした。隆迪もそれを見て一緒に引いた。
少女たちは息を呑んだ。お師匠様は自分で布団から立ち上がることもできぬのかと。
隆礼は隆成の上体をゆっくり起こすと、そばにあった脇息を背中にあててもたれさせた。
隆迪は自分の羽織を弟の肩にそっと掛けた。
おなつが一歩前に出た。
「お師匠様、母上様がお亡くなりになってさぞお寂しいかと思いますが、早う元気になってください。皆、お師匠様のお話を聞きたがっております」
「おなつか。割り算九九は覚えたか。算盤を覚えて商いで儲けておっかさんを楽にさせねばな。七一」
先ほどまでの声とは違い、はっきりした隆成の声に隆迪は驚いた。
「加下三、七二加下六」
おなつの声はわずかに湿り気を帯びていた。
「よう覚えたな」
「八百屋のおかみさんにも教わったんだ」
「そうか。おかみさんによろしくな。おさん、文字をもう少し丁寧に書けよ。恋文でふられてしまっては元も子もないからな」
「はい」
「おとみ、あしひきの何だったかな」
「山です。山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を一人かもねむ」
「覚えたか、よし。おかん、おちほ、姉妹仲良くな」
「もっと近くへ」
隆成の声に少女たちは部屋のすぐそばにまで近づいた。
隆礼にはわかった。もう大きな声を出し続けるのがつらいのだと。
「おみの、おきん、喧嘩をするな。おため、なぜ泣くのだ。泣き虫では奉公先ではやっていけぬぞ。おしの、いつもしかめっ面をしてはならぬぞ。笑え。おとよ、あの弥助とかいう男はやめておけ。それよりも、金太のほうがよいぞ。金太は顔が悪いがまじめだ」
「お師匠様、金太のことどうして知ってんの」
「金太は寺の仕事もしておる。院主様が金太の仕事を褒めておった」
少女たち一人ひとりに声をかけ終わると、隆成はほほ笑んだ。
「手習い所はしばらく休むが、皆、勉強はするのだぞ」
「はい」
少女たちの元気な声が庭に響いた。
最後におなつが言った。
「お師匠様、ありがとうございました。奉公に行っても勉強を続けます」
「そうか、奉公に行くのか、息災でな」
息がつらそうだったので、隆礼は言った。
「そろそろ戻らねば、家の者が案ずる」
「そうだな、皆、息災でな」
隆成がそう言ったのを合図にしたかのように、少女たちは頭をそれぞれに下げた。
隆礼は庭に降りると、名残り惜しそうな娘たちを通用口まで案内した。
気が付くと、警護の者達が庭にいたが、皆見ないふりをして彼女たちを通した。
門番は娘たちを黙って通した。
「すまぬ。面倒をかけた」
隆礼の言葉に門番は頭を深々と下げた。
少女たちの後ろ姿を見送った隆成は言った。
「兄上、ありがとうございます」
「そなたのしておったことを、余は何も知らなんだ。ただの遊びかと思っておった」
隆迪は弟が少女を好むがために、娘手習い所をやっているのだとばかり思っていた。だが、遊びでやれることではないと少女たちとのやり取りを見て思った。
「いえ、ただの遊びです」
隆成は言った。
「楽しかった、まことに」
そう言うと、隆成は脇息にもたれかけさせていた身体をゆっくりと横たえた。
もう自力で起き上がれないであろうと隆成は感じていた。身体が重い。
瞼を閉じると、少女たちの笑いさざめく声が聞こえてくる。
唄う声、本を読む声、泣き声、囁く声、様々な声に交じり、お師匠様と呼ぶ声も聞こえた。
ありがとう、みんな、私は幸せだった。
みんな、しあわせになるんだ。
ずっといのってる、いつまでも、いつまでも……
来客に疲れたのか寝息をたてて眠る弟の部屋から出た飛騨守は、障子を閉めて廊下に出た。
控えていた世話役の小姓は頭を下げ、飛騨守を見送った後、部屋に入った。
床の位置を直し、掻巻を掛け直す。
穏やかな寝息を聞き、世話役は安堵した。
このところ、足が腫れて痛くて眠れぬようだったが、今日は少しお楽になったようだ。
暑い今の時期をなんとか乗り越えてくれと、屋敷の皆が望んでいた。
だからこそ、少女たちが屋敷に見舞いに来たのも皆黙認したのだ。少しでもお元気になってくださればと。
平太は少女たちが家々に向かって帰って行くのを見つめた。
おなつを中心に少女たちはお師匠様に会えてよかったと口々に言った。
だが、おなつに年の近い少女たちは泣いていた。
平太には聞こえた。
「吉原に行く前に会えてよかったね」
「どうしても行かなきゃいけないのかい」
「ぜげんなんて、いなきゃいいのにさ」
少女たちや近所のおかみさんの話によれば、おなつの家は父の死後、母と再婚した男が博打狂いで、その借金を高利貸しに借りたため、一両の借金が十両に膨れ上がり、おなつはそのかたに吉原に売られることになったのだった。
おまけに母親も再婚した男との間に子どもを産んでからは身体の具合が悪く、働きにも行けないありさまだった。
近所の八百屋を手伝っているおなつの給金の他に、八百屋のおかみさんが売れ残りだからと分けてくれる野菜のおかげで家族は生きているようなものだった。
それでも義父の博打狂いはやまず長屋の店賃にも事欠くありさまになってしまった。
そこへ高利貸しから話を聞きつけた女衒が義父に話をもってきたのだった。
母と赤ん坊の弟を路頭に迷わせるわけにはいかないと、おなつは決意した。
吉原は苦界である。
男には極楽だが、そこに生きる女は皆それぞれの事情を抱え、決して心から望んで行くわけではない。
おなつもそうだ。
ただ、おなつは読み書きができた。算盤もある程度できる。
それだけを武器におなつは吉原で生きていかねばならぬ。
もし、隆礼に話せば、助けてやりたいと言うだろう。
だが、中途半端な情けは仇になる。
おなつの急場は一時的にしのげても、また義父が博打に負けて金を借りれば、同じことになる。たとえ男がいなくなっても、母親がまた別の男と親しくなるかもしれない。おなつの先々をずっと守ってやることはできないのだ。
そして、それは他の隆成の教え子たちにも言えることだった。
もし若君が本気でおなつを助けたくば、それこそ、側室にでもするしかない。
それは到底無理な話である。
おなつは自分で道を切り開かねばならない。
吉原に行こうが、大店に奉公に行こうが、本人の才覚があればそれなりのことができる。本人に才覚がなければ、どこに行っても通用せぬ。
運の良し悪しもあるが、いい運を引き寄せるのも本人次第。
この先はおなつ次第。
何より、おなつも他の娘たちも吉原のことは一言も口にしなかった。
殿様やその弟ならば助けてくれるかもしれないと思う気持ちがあってもおかしくないのに。
病の師匠に心配をかけたくないという気持ちはもちろんあるだろう。
だが、何より、町方の人間がお武家に何の見返りもなしに助けてもらおうなんておこがましいという彼女たちの意地のようなものを平太は強く感じていた。
それは平太の胸の底にいつもある忍びの矜持と似ていた。
主君のために働いてはいるが、自分たちは武家とは違う、武家が持たぬ力で彼らを助けているだけであると。
知られたら不逞の輩と思われることは間違いなかった。
だが、それがあるおかげで、忍びは自分たちに向けられる残忍・卑怯といった武士らの侮りにも似たまなざしに耐えることができた。
残忍、卑怯な行いを武家らに代わって忍びがやっているだけのこと。残忍、卑怯なのは実は自分たちにそれを命じる武家なのだという意識が平太のどこかにあった。
万が一、徳川の世が終わるようなことがあれば、自分たちは武家の縛りから解き放たれ、自由に力を使えるようになるかもしれぬ、そんなことも平太は想像することがあった。
決して隆礼にも惣左衛門にも言えぬことだが。
平太は少女たちの潔さにも似た沈黙を尊いものと思い、おなつのことは心一つに納めて、隆礼の駕籠とともに下屋敷を後にした。
思いのほかに若いので、隆礼は驚いた。
十三の年に隆朝に後室として嫁ぎ、年の近い夕姫と朝姫を嫁に出し、血のつながらぬ隆迪を世継ぎとして育て、隆成を産み、部屋子の産んだ隆真を育て養子にやりと子育てをやり遂げ、隠居の隆節(夫の祖父)を看取り、夫に先立たれと、大名の正室としての喜びや悲しみを味わい尽くした生涯だった。
なんとなく冷たい感じがして、隆礼は親しく話すこともなかったが、この人が義父の飛騨守を育ててくれたからこそ、自分がここにいるのだと思うと、頭を垂れずにはいられなかった。
菩提寺での葬儀には親戚も来て盛大なものとなった。
だが、実の息子の隆成は寺にも行けなかった。
母親の寿姫が亡くなった夜からめまいや動悸といった脚気の症状が重くなって、病床から起き上がれなくなっていた。
「手習い所をどうしよう」
葬儀の後、隆礼が病室を訪れると、そのことばかりを言う。
「御病気がよくなったら一緒に考えましょう」
「よくならないよ」
隆成は苦しいはずなのにほほ笑んだ。
「誰か任せられる方はいないのですか」
「尼寺の庵主あたりがいいのだが、この辺には適当な者がいないのだ。私は尼であっても妙齢の女子が苦手でな」
これだけのことを息を切らしながら、ゆっくりとしか言えない隆成だった。
「動けるうちに先のことをやっておけばよかった。動けなくなったら、もう駄目だな」
隆成は目に涙を浮かべていた。
隆礼にはその姿がただ哀れでしかなかった。
「もう、子らには会えないんだろうな。死ぬ前に会いたいな」
「気の弱いことを」
そう言ったものの、隆成がこの先よくなるようにも思えなかった。
下屋敷からの帰り道、駕籠に乗って門を出たところで、子どもの声が聞こえた。
「若様」
「お師匠様は生きてんの」
「これ、脇に寄らぬか」
警護の近習の厳しい声が聞こえた。
「止めよ」
隆礼の声で行列は止まった。駕籠の小窓を開けると、町人らしい女児が三人ほどこちらを見ている。
隆成の教え子のようだった。
乗り物の戸を開けさせた。
「あ、お師匠様の弟君だ」
三人の中で一番年少らしい少女が駆け寄ろうとして止められた。
「構わぬ」
近習はさっと脇に寄った。少女達は駕籠の近くまで来た。
「御屋敷で御弔いが出たから、お師匠様に何かあったのかと皆心配してる」
「師匠様の母上様が亡くなられたのだ」
少女たちがはっと顔色を変えた。
「お師匠様、おかわいそう」
「お師匠様は元気なのですか」
「元気ではない」
病気とまでは言えなかった。だが、少女たちは察したようだった。
「お見舞いしたいけど、お屋敷には入れないよね」
さすがに大名屋敷という場所が特別な場所であることは少女たちも知っていた。
「草履を」
隆礼の声とほぼ同時に駕籠の前に草履がすっと飛んできた。もちろん、すぐにそのまま履くことができる角度で駕籠の真横にきれいにそろえられている。平太の得意技である。
少女達は驚いて、顔を見合わせた。
隆礼は駕籠を下りた。
「待っておいてくれ」
駕籠かきの六尺らにそう言うと隆礼は少女たちについてくるように言った。
その声を聞きつけて辺りにいた少女たちがぞろぞろ集まってきた。
「そなたらは手習いの」
一番年かさの少女が言った。
「どうしてもお師匠様に礼が言いたくて。あたし、なつって言うんだけど、明日から奉公に出るんだ」
少女達はうつむいた。
「奉公に出たら白いおまんまが食えるんだ。おとっつぁんが死んでからずっと白いおまんま食べてないんだ」
おなつはにっこり笑ってそう言った。
正門から入るわけにはいかないので、通用門に行くと、門番が仰天した。
「わ、若君様、いかなる御用で」
「見舞いだ。兄上の部屋にこの娘らを」
門番の困惑した表情に隆礼は責任は自分がとるからと言って、娘たちを入れさせた。
人目の多い玄関から入るわけにはいかず、庭から回って、隆成の部屋の外まで来た。
警護の者達は来客があらかた帰ったので休憩をしているようで誰にも見咎められなかった。
隆礼は娘たちをそこに待たせて、障子をとんとんと叩いた。
「誰ぞ」
その声にしまったと思った。飛騨守の声だった。
障子を開けたのも飛騨守だった。
「そなた、何を」
弔問客の相手を終え、隆成を見舞っていた飛騨守は隆礼と娘たちの姿に驚いた。
背後では、隆成が気配を感じ、床から身を起こそうとしていた。
「兄上、手習い所の娘たちが見舞いに参りました」
隆礼の声に隆成が応じた。
「わかった」
飛騨守は振り返ってぎょっとした。寝たきりで息も絶え絶えの弟が立ち上がろうと床に手をついていた。
「何をしておる、萬福丸」
思わず幼名を呼んでいた。
「兄上、お願いです。私を障子のところまで連れて行ってくだされ」
隆礼は草履を脱ぎ、部屋に上がった。
「兄上、お手伝いします」
そう言うと隆礼は布団を障子のそばまで引き寄せようとした。隆迪もそれを見て一緒に引いた。
少女たちは息を呑んだ。お師匠様は自分で布団から立ち上がることもできぬのかと。
隆礼は隆成の上体をゆっくり起こすと、そばにあった脇息を背中にあててもたれさせた。
隆迪は自分の羽織を弟の肩にそっと掛けた。
おなつが一歩前に出た。
「お師匠様、母上様がお亡くなりになってさぞお寂しいかと思いますが、早う元気になってください。皆、お師匠様のお話を聞きたがっております」
「おなつか。割り算九九は覚えたか。算盤を覚えて商いで儲けておっかさんを楽にさせねばな。七一」
先ほどまでの声とは違い、はっきりした隆成の声に隆迪は驚いた。
「加下三、七二加下六」
おなつの声はわずかに湿り気を帯びていた。
「よう覚えたな」
「八百屋のおかみさんにも教わったんだ」
「そうか。おかみさんによろしくな。おさん、文字をもう少し丁寧に書けよ。恋文でふられてしまっては元も子もないからな」
「はい」
「おとみ、あしひきの何だったかな」
「山です。山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を一人かもねむ」
「覚えたか、よし。おかん、おちほ、姉妹仲良くな」
「もっと近くへ」
隆成の声に少女たちは部屋のすぐそばにまで近づいた。
隆礼にはわかった。もう大きな声を出し続けるのがつらいのだと。
「おみの、おきん、喧嘩をするな。おため、なぜ泣くのだ。泣き虫では奉公先ではやっていけぬぞ。おしの、いつもしかめっ面をしてはならぬぞ。笑え。おとよ、あの弥助とかいう男はやめておけ。それよりも、金太のほうがよいぞ。金太は顔が悪いがまじめだ」
「お師匠様、金太のことどうして知ってんの」
「金太は寺の仕事もしておる。院主様が金太の仕事を褒めておった」
少女たち一人ひとりに声をかけ終わると、隆成はほほ笑んだ。
「手習い所はしばらく休むが、皆、勉強はするのだぞ」
「はい」
少女たちの元気な声が庭に響いた。
最後におなつが言った。
「お師匠様、ありがとうございました。奉公に行っても勉強を続けます」
「そうか、奉公に行くのか、息災でな」
息がつらそうだったので、隆礼は言った。
「そろそろ戻らねば、家の者が案ずる」
「そうだな、皆、息災でな」
隆成がそう言ったのを合図にしたかのように、少女たちは頭をそれぞれに下げた。
隆礼は庭に降りると、名残り惜しそうな娘たちを通用口まで案内した。
気が付くと、警護の者達が庭にいたが、皆見ないふりをして彼女たちを通した。
門番は娘たちを黙って通した。
「すまぬ。面倒をかけた」
隆礼の言葉に門番は頭を深々と下げた。
少女たちの後ろ姿を見送った隆成は言った。
「兄上、ありがとうございます」
「そなたのしておったことを、余は何も知らなんだ。ただの遊びかと思っておった」
隆迪は弟が少女を好むがために、娘手習い所をやっているのだとばかり思っていた。だが、遊びでやれることではないと少女たちとのやり取りを見て思った。
「いえ、ただの遊びです」
隆成は言った。
「楽しかった、まことに」
そう言うと、隆成は脇息にもたれかけさせていた身体をゆっくりと横たえた。
もう自力で起き上がれないであろうと隆成は感じていた。身体が重い。
瞼を閉じると、少女たちの笑いさざめく声が聞こえてくる。
唄う声、本を読む声、泣き声、囁く声、様々な声に交じり、お師匠様と呼ぶ声も聞こえた。
ありがとう、みんな、私は幸せだった。
みんな、しあわせになるんだ。
ずっといのってる、いつまでも、いつまでも……
来客に疲れたのか寝息をたてて眠る弟の部屋から出た飛騨守は、障子を閉めて廊下に出た。
控えていた世話役の小姓は頭を下げ、飛騨守を見送った後、部屋に入った。
床の位置を直し、掻巻を掛け直す。
穏やかな寝息を聞き、世話役は安堵した。
このところ、足が腫れて痛くて眠れぬようだったが、今日は少しお楽になったようだ。
暑い今の時期をなんとか乗り越えてくれと、屋敷の皆が望んでいた。
だからこそ、少女たちが屋敷に見舞いに来たのも皆黙認したのだ。少しでもお元気になってくださればと。
平太は少女たちが家々に向かって帰って行くのを見つめた。
おなつを中心に少女たちはお師匠様に会えてよかったと口々に言った。
だが、おなつに年の近い少女たちは泣いていた。
平太には聞こえた。
「吉原に行く前に会えてよかったね」
「どうしても行かなきゃいけないのかい」
「ぜげんなんて、いなきゃいいのにさ」
少女たちや近所のおかみさんの話によれば、おなつの家は父の死後、母と再婚した男が博打狂いで、その借金を高利貸しに借りたため、一両の借金が十両に膨れ上がり、おなつはそのかたに吉原に売られることになったのだった。
おまけに母親も再婚した男との間に子どもを産んでからは身体の具合が悪く、働きにも行けないありさまだった。
近所の八百屋を手伝っているおなつの給金の他に、八百屋のおかみさんが売れ残りだからと分けてくれる野菜のおかげで家族は生きているようなものだった。
それでも義父の博打狂いはやまず長屋の店賃にも事欠くありさまになってしまった。
そこへ高利貸しから話を聞きつけた女衒が義父に話をもってきたのだった。
母と赤ん坊の弟を路頭に迷わせるわけにはいかないと、おなつは決意した。
吉原は苦界である。
男には極楽だが、そこに生きる女は皆それぞれの事情を抱え、決して心から望んで行くわけではない。
おなつもそうだ。
ただ、おなつは読み書きができた。算盤もある程度できる。
それだけを武器におなつは吉原で生きていかねばならぬ。
もし、隆礼に話せば、助けてやりたいと言うだろう。
だが、中途半端な情けは仇になる。
おなつの急場は一時的にしのげても、また義父が博打に負けて金を借りれば、同じことになる。たとえ男がいなくなっても、母親がまた別の男と親しくなるかもしれない。おなつの先々をずっと守ってやることはできないのだ。
そして、それは他の隆成の教え子たちにも言えることだった。
もし若君が本気でおなつを助けたくば、それこそ、側室にでもするしかない。
それは到底無理な話である。
おなつは自分で道を切り開かねばならない。
吉原に行こうが、大店に奉公に行こうが、本人の才覚があればそれなりのことができる。本人に才覚がなければ、どこに行っても通用せぬ。
運の良し悪しもあるが、いい運を引き寄せるのも本人次第。
この先はおなつ次第。
何より、おなつも他の娘たちも吉原のことは一言も口にしなかった。
殿様やその弟ならば助けてくれるかもしれないと思う気持ちがあってもおかしくないのに。
病の師匠に心配をかけたくないという気持ちはもちろんあるだろう。
だが、何より、町方の人間がお武家に何の見返りもなしに助けてもらおうなんておこがましいという彼女たちの意地のようなものを平太は強く感じていた。
それは平太の胸の底にいつもある忍びの矜持と似ていた。
主君のために働いてはいるが、自分たちは武家とは違う、武家が持たぬ力で彼らを助けているだけであると。
知られたら不逞の輩と思われることは間違いなかった。
だが、それがあるおかげで、忍びは自分たちに向けられる残忍・卑怯といった武士らの侮りにも似たまなざしに耐えることができた。
残忍、卑怯な行いを武家らに代わって忍びがやっているだけのこと。残忍、卑怯なのは実は自分たちにそれを命じる武家なのだという意識が平太のどこかにあった。
万が一、徳川の世が終わるようなことがあれば、自分たちは武家の縛りから解き放たれ、自由に力を使えるようになるかもしれぬ、そんなことも平太は想像することがあった。
決して隆礼にも惣左衛門にも言えぬことだが。
平太は少女たちの潔さにも似た沈黙を尊いものと思い、おなつのことは心一つに納めて、隆礼の駕籠とともに下屋敷を後にした。
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歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
枢軸国
よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年
第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。
主人公はソフィア シュナイダー
彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。
生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う
偉大なる第三帝国に栄光あれ!
Sieg Heil(勝利万歳!)
江戸の櫛
春想亭 桜木春緒
歴史・時代
奥村仁一郎は、殺された父の仇を討つこととなった。目指す仇は幼なじみの高野孝輔。孝輔の妻は、密かに想いを寄せていた静代だった。(舞台は架空の土地)短編。完結済。第8回歴史・時代小説大賞奨励賞。
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