生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

38 紅

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 隆礼への文を書いた前日の夜のこと、祝姫の部屋では姉が癇癪を爆発させていた。

「祝、そなた、わらわの紅を使ったであろう」
「ごめんなさい。少しだけだからいいと思って」

 姉上の癇癪には慣れているものの、やはり怖い。目がいつもの優しい姉上の目ではなくなるし、声も甲高くなって別人のようなのだ。
 母親である正室譲りの端正な顔が悪鬼のように豹変するさまは、奥女中達をも怯えさせるほどだった。
 先だっての山置家の奥で乱心した奥女中に踏まれた時のほうがまだ怖くなかった。あの時は茜丸を守りたい一心だったから、怖いとか感じる暇もなかった。それに後でおじじ様に褒められた。でも、今日は悪いのは自分自身だ。

「姫様、祝姫様が謝っておいでなのですから、お許しくださいませ」

 祝姫の乳母が二人の間に割って入った。
 だが、姉姫は聞いてはいない。

「少しだけとは。あれは、京の土産に叔父上がくださったものぞ。その辺の安い紅とはわけが違う」

 そう言うと、姉姫は妹の手をつかむと、持っていた扇の要で勢いよく打ち据えた。
 姫の手の甲が真っ赤になった。けれど、姫は堪えた。
 悪いのは自分なのだから、打たれても仕方ないと思っていた。
 貸してと言っても貸してくれるはずがないと思い黙って使った自分が悪いのだ。

「おやめください」

 姉姫付きの小姓も止めに入った。

「ええい、どけ。この色気付きおって。あのような不埒な山猿に口を吸われたくらいで調子に乗って。あの山猿は、国許の女に子を孕ませておるのだぞ。大方、上屋敷の女子にも手を出しておるはず。今宵も一人で寝るものか」

 姫君とも思えぬ暴言だが、この姫は癇癪を起すととんでもないことを口走るのだった。

「そなたなど、閨の相手になどなるものか。いつまでも口吸いだけであろうよ」

 捨て台詞を言って姉姫は部屋を出て行った。

「姫様、お可哀想に」

 乳母がその手をとった。

「大丈夫です。わらわが悪いのです。姉上に黙って借りたから」

 すぐに塗り薬を小姓が持って来たので、乳母はそれを姫の手の甲に塗りながらこぼした。

「ほんにたか姫様にも困ったもの」

 乳母は姉の貴姫の機嫌の悪さの理由に薄々気づいていた。
 貴姫の許婚いいなずけは最初、大大名の御世継の若君だった。年は十歳上でなかなかの美男子と評判だった。
 正室の実子同士の縁組ということで、父の掃部助も祖父の豊後守もよい縁組と喜んだ。
 ところが若君は御公儀に届けを出す直前に急な病で亡くなった。それではと、新たに世継ぎとなった弟君と縁組をと決まったのだが、なんと今度は姫よりも五歳下であった。
 貴姫は今年十五歳である。新しい許婚は十歳。
 とはいえ、そういうことは大名家の結婚ではよくある話で、貴姫は特に文句も言わなかった。五歳差などまだいいほうである。
 それに三十万石の大名である。加部家より石高は高い。それなりにいい生活ができることは約束されているようなものだった。
 貴姫は納得したように見えた。
 御公儀に届けたその直後、山置家の殿様の弟が江戸に着いた。
 祖父の豊後守と飛騨守の話し合いで、十五歳の若君と残った祝姫九歳との縁組が決まった。
 年齢から言えば、貴姫と釣り合いのとれる隆礼が祝姫と婚約したということが、貴姫には相当衝撃的なことだったらしい。
 だが、貴姫の縁組はすでに御公儀のお許しも得て、結納も終えた。
 今更、年齢が釣り合わないので婚約破棄したいというわけにはいかない。
 祝姫と入れ替わってというわけにもいかない。田舎の大名の子女なら顔を知られていないこともあるが、生まれてからずっと江戸育ちの姫君たちにはそれぞれ顔なじみの姫君がたくさんいた。親戚も多い。
 それに貴姫の顔を相手の大名家の正室は知っていた。掃部助の正室の叔母に当たるのだ。
 とうてい、ごまかしは利かない。そんなことをしたら大目付に目を付けられるというのは、姫君たちも知っている。
 そういうわけで、貴姫には不満がくすぶっているようだった。
 子どもの許婚なんか嫌だと、時々部屋でわめいているのを乳母たちも耳にしていた。
 三十万石の若君に御輿入れなどめったにできるものではありませんと周囲に窘められてやっとおとなしくなるのだった。
 それでも、虫の居所が悪いと、貴姫は祝姫に当たり散らすことがあった。
 さらに先日の若君と祝姫の口吸いが貴姫の逆鱗に触れた。
 自分はいまだ許婚に会っていないのに、妹は会って、しかも熱烈に愛されているとは。
 礼儀知らずの行いだが、貴姫は、それは自分が相手だったのかもしれないと思うと心穏やかではいられなかった。
 正室は絶対に子どもらに我儘は許さなかった。
 実子の貴姫にはなおさら厳しかった。癇癪を目の前で起こすと、納戸に閉じ込められることもあった。
 そういうわけで、貴姫の癇癪はもっぱら妹の祝姫を相手に爆発することになった。

「それにしても、どうして、姉上様の紅など」

 乳母の問いに姫は答えなかった。答えられなかったのだ。





 口づけされた時、姫は隆礼の目を見つめた。心を知りたかったから。
 なんとなく、自分の唇を望んでいることはわかった。
 そんなことは初めてだった。
 祝姫のまわりには祖父、父、兄ら、叔父といった男性がいるが、誰もそんな目で彼女を見なかった。
 目の前の若君だけが、わらわの唇を欲している。不思議だった。どうしてそんな場所がと思った。
 けれど、口づけされてわかった。
 唇だけではない。わらわの全部が欲しいのだと。でも一度に手に入らないから、唇から手に入れようとしているのだと。
 こんなふうに望まれていることが不思議でたまらなかった。
 でも、舌で口の中を舐められているうちに、その気持ちよさが姫の心に変化をもたらした。
 わらわも若君が欲しい。
 漠然としたものだった。どこをどうしたいという気持ちではない。
 ただ、このままずっとこうしていたいと思った。
 口の端から垂れたつばきを啜る姿を見て、こんなにも望まれているのかと知った。
 だから、自分も舌で若君の舌に触れてみた。わらわも欲しいのだと伝えたかった。
 姉上達が来なければ、若君の身体に触れていたかもしれなかった。
 引き離されて部屋に戻ってからも、舌の感触を思い出していた。
 後から母上に呼ばれて、御輿入れまで御身体に触れてはなりませんと叱られた。
 けれど、姫は後悔はしていなかった。
 翌日、若君から短い文が届いた。
 返事を書いていると、乳母にさようにあけすけに書いてはなりませんと怒られた。
 姫としては素直に書いているだけだった。
 またお会いしたい、口吸いをしたいと。
 だが、そのような文を出してはならないと言われた。
 姫は自分の気持ちがそれでは伝わらないと、筆を擱いた。
 姫は考えた。まともな方法で文を出しても届けてもらえないだろう。
 ならばと、宿下がりをするという御端おはしたの女中に託すことにした。
 ただし、言葉であれこれ書いてあると、もし女中が文を落とした時に障りがあるかもしれぬ。
 姫は思いついた。
 口に紅を付けて紙に押し付ければ、若君に気持ちがわかってもらえると。
 祝姫の持つ紅もそれなりのものだが、姉上の紅は京の紅できれいな色が出るものだった。きれいな紅なら隆礼も喜ぶに違いないと思って、こっそり姉の部屋に忍んで付けた。でも、ほんの少し減っただけなのに姉は気付いた。祝姫の口に付いた紅にも。
 というわけで、姫は姉に責められることになったのだった。

「わらわが悪いのです。姉上が怒るのも当たり前」
「それにしても」

 乳母はこのような姉姫が果たして大藩の奥方が勤まるのかと心配になってくる。年少の者の非に対してここまで悪しざまに罵るとは。もう少しよい言い方もあるのではないか。
 貴姫の許婚の若君も年下である。若君にあのような態度をとったら、夫婦の仲はどうなることか。
 けれど、もう御輿入れまでそれほど時間はない。
 今更どうこうできる段階ではない。
 それにと乳母は思う。
 もし相手を入れ替えることができたとしても、姉姫は飛騨守の弟ともうまくいくとは思えない。自分の欲望に素直な少年が姉姫の癇癪を我慢できるとも思えなかった。
 許婚の若君はまだ十歳。国許で育ったとはいえ、御殿で暮らしていたと言うからそれなりに女性へのあしらいを心得ているはずである。たとえ癇癪持ちの姫でも正室として遇してもらえるのは、十歳の若君のほうだろう。
 祝姫であれば、恐らくどちらの若君ともうまくやっていけるだろうと思うのは乳母の贔屓目かもしれないが。





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