生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

37 紀州の噂

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 平太は話を変えた。

「それよりも、面白い話を耳にしました」
「なんだ」
「なぜ祝姫様を若君に御輿入れさせることになったのか、理由がわかりました」
「理由があるのか」
「はい。豊後守様の御意志もさることながら掃部助様の御正室様のお考えがあったようです」

 隆礼はあのしつこいおばさんの顔を思い出す。うるさい姑になりそうだ。

「元はと言えば紀州様です」
「紀州様か」

 先日の梅干しのことを思い出した。御三家の一つの紀州徳川家は尾張の徳川家とともに、公方様の跡継ぎの候補と言われている。
 紀伊の太守として、財政を立て直したという話は隆礼の耳にも入っていた。
 そのような方がなぜ祝姫との縁組に関わりがあるのか。

「紀州様は御簾中様、御三家の御正室様をそう呼ぶのですが、その方をお産で亡くされておいでで、次の御簾中をお探しとか。御三家の御正室様は公家の姫君が多いのですが、もしや大名家の姫君を公家の養女として後添いにされるのではと心配なさり、そのため、祝姫様の縁談を急がれたという話を耳にしました」
「紀州様では何かまずいのか。御三家の御正室というのは、たいそうなものなのだろう。確か、前の前の紀州様の御正室は公方様の姫君だったはず」
「はい、普通ならそうです。しかし、今の紀州様の御評判がちと。なにしろ、兄上方を毒殺したのではないかという噂があるのです」

 それが本当なら大変なことである。隆礼は声を低めた。

「まことか。さような恐ろしい話があるとは聞いたことがない」
「噂でございます。今の太守様に代替わりして、人事を一新されたそうですから、それまで羽振りが良かった者がやっかんで流した噂かもしれません」
「そうか。しかし、毒殺など」
「たまたま、不幸が重なったのです。宝永二年といいますから、今から八年前のこと。まず五月に兄上の綱教つなのり様が亡くなられ、八月に父の光貞様が亡くなられ、後を継いだ兄の頼職よりもと様が九月に亡くなられたのです。高齢の父親はともかく、兄二人は四十一と二十六、あまりにも若いので不審に思われたのでしょう」

 五か月足らずの間に、父と兄二人が死ぬとは、大変な事態である。

「本来なら太守となるはずはなかったのですが、跡継ぎはもうこの方しかいないということで吉宗様が太守となったのです。他の兄上方と違い、国許で御育ちになったとかで、たいそう気性が激しく、御女中方にも見境なく手を出していたという評判がありますので、あまり奥向きではよい話を聞きません。千代田のお城の大奥でも、尾張様を御養子にと言う女達が多いようでございます」
「大奥でも、さような話があるのか」
「はい。大奥には今の公方様のご生母月光院様と前の公方様の御正室天英院様のお二人がおいでです。お二人はともに公方様第一にお勤めのようですが、それぞれのまわりのお女中達がいけません。張り合ったり、牽制したり、おかしな噂を流したり。月光院様と側用人様が親しいとか」

 以前、加納に聞いた大奥女中の芝居見物の話を思い出した。

「まことであれば、大奥の風紀はどうなっているのだ」
「噂というのは面白おかしい方に流れるもの。話半分にしておいたほうがよろしい。しかし、さような噂を流す人間がいるということは、頭に入れておかれたほうがよいかと。各家中の方々も、大奥の件と公方様の御養子の件について、注目しておられるようです。天英院様は紀州に、月光院様は尾張に、それぞれ肩入れされているという話も漏れ伺っています。そういうわけですから、厄介なことにならぬうちに、豊後守様も掃部助様の御正室様も姫様を早く縁組させたほうがよいと判断されたのでしょう」

 めったに他家の噂などしない兄飛騨守の口からは絶対に聞けないような話だった。

「それにしても紀州様というのは、どんな方なのだろう。身内を毒殺したと噂され、大奥の女達からは嫌われておるとは。だが公家の出の天英院様が肩入れしているなら、さほどおかしなお方ではないと思うのだが」





 隆礼の疑問に平太は答えなかった。
 その代り、話を元に戻した。

「それから利根様のこと、調べました。男の影は一切ありません。実家には兄が二人おります。十五の時から奉公一筋、真面目な女子です。同僚からも信頼されています。歌が上手で、二年ほど前、奥方様付きの他の女中らと歌合せをしています。側室としては申し分のない方かと」
「ほんとに男はいないのか」

 隆礼は念を押した。

「はい。きれいなものです。それに、卯女様よりも胸や腰の肉付きがよろしいかと」

 見て来たように言う平太だった。いや、本当に見て来たのかもしれない。

「そうか、すまない」
「それがしも同じ失敗を繰り返すわけにはいきませぬから。それよりも、どうか、こたびは波風の立たぬように」
「わかってる。わしも同じ過ちはせぬ」

 過ちと認めたくはなかった。祝姫に対する気持ちをできる限り伝えようとしての行為だったのだから。
 だが、祝姫の周囲の人々はそうは思っていないようだった。
 御公儀への謀反とも言いだしかねない雰囲気があった。
 幸い、掃部助の御正室は掃部助や豊後守、飛騨守には今回の件は黙っておこうと言った。ただし、利根の奥入りが条件である。
 もし、また同じようなことがあったら破談にする、奥に入った利根をないがしろにするようならば、祝姫の離縁もありうるとまで言われてしまった。
 一介の奥女中の扱いとしては破格のものだったが、御正室は、喜乃の件で傷つけられた利根にとってはそれくらいは当然のことと思っているようだった。
 三十になってお褥すべりとなった後も、御手付きの中老としてそれなりの地位があるし、もし御子が生まれれば、両家にとってこれほど結構なこともないというわけなのだろう。
 奥の女達の圧力を受けて、結局条件を受け入れてしまった。万が一にも不義をしているならば断れると平太に調べさせたが、結局はそれもなかった。
 隆礼は逃れられなかった。
 それにしても気になるのは祝姫だった。あれから顔を合わせぬまま、中屋敷を出た。
 姉の姫に苛められるということはないと思うが、乳母らに責められたのではないかと心配になってきた。
 平太が部屋から消えた後、一筆ご機嫌はいかがとしたためた。
 そのあと、何と書こうかと迷ったが、何を書いても言い訳にしかならないような気がした。





 三日後、祝姫の返事を与五郎が持って来た。
 掃部助の奥に仕える御端おはしたの女中が宿下がりのついでにと足軽長屋の平太にこっそり持って来たのだという。御端はどうも平太の配下らしかった。
 二人の文のやりとりは周囲の女中達に内容まで監視されているらしく、思ったことを素直に伝えるには小姓や表使いを通じた文のやりとりをするわけにはいかないようだった。
 短い文には「大丈夫」とあり、紙の一番下には、なんと紅を小さな唇に付けて押し付けた痕があった。
 思わず、それに唇を寄せてしまった。
 なんと可愛いことをするのか。
 愛おしい。
 満津に感じた感情とはまた違う愛おしさが隆礼の胸を満たしていった。
 この少女を手に入れるためなら、多少の忍耐は仕方あるまい。
 だが、利根はどうしたものか。
 利根を抱かねば、祝姫を手に入れられぬのだろうか。




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