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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

36 口吸いの代償

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 興奮した姉姫は奥女中達に奥の居室まで連れて行かれた。
 祝姫は奥の自室に戻されている。

「さて、どうしたものかの」

 別式女によって奥の御年寄の部屋に連行された隆礼はそこで掃部助の御正室の尋問を受けた。
 祝姫には似ていない。義理の母親である。しかし、赤ん坊の頃から育てているから、我が子も同然であった。明らかに隆礼を上座から不審の目で見ている。
 さらに隆礼の背後には中老らが並んでいる。周囲を女達に囲まれ逃げることなど不可能だった。

「申し訳ありません」

 まずは謝罪からである。言い訳をしても聞いてもらえそうな雰囲気ではない。 

「謝ってすむ話ではございません」

 御正室の隣にいる御年寄が目を三角にして言った。
 御年寄というのは役職の名前で別に年齢は関係ないのだが、この御年寄は文字通りの御年寄だった。

「浦野、落ち着きなさい」

 御正室は御年寄をたしなめた後、隆礼をちらりと見た。

「悪いことをしたと思っておいでなのですね」
「まだ御幼少の姫には早かったかと。ただ、あまりに姫が愛らしく」

 こうでも言わないと納得してくれまい。

「姫様がお可哀想です。まだ何も知らないのに、あのような無体な真似をされては」

 中老の一人がわめいた。

「して、姫に何をしたのですか」

 御正室には三番目の姫が興奮し過ぎていることがわかっていた。裾が、襟がと大騒ぎしているが、どう見ても騒ぎ過ぎである。父親の癇癪を知っている御正室には、腑に落ちないようだった。

「その、口吸いを」

 まあという声が背後に広がった。

「口吸いだけですか」

 正直に言わないと後で祝姫の言っていることと違うと言われたら大変である。

「はい」
「裾から手を入れたなどということはあるまいな」

 さっきの中老とは別の中老が興奮したように言う。

「さようなことはしておりません」
「もうよい、わかった」

 御正室が止めた。中老たちはそれ以上立ち入った質問をしてはならないと判断し沈黙した。

「姫は嫌がったのではないですか」

 御正室は落ち着いた声で尋ねた。

「夫婦になる前の修礼と申しました」
「それでは、姫も納得ずくのことと」
「はい」

 もし姫が違うと言ったらおしまいである。

「姫はまだ幼少。もそっと配慮してもらえませぬか」

 母親としてはもっともな話である。

「はい」
「こちらにも不手際はあったことゆえ、此度は許しますが、以後、邸内でさようなことがあったら、姫との話はなかったことにいたします」

 不手際とは利根付きの女中がいなかったことである。
 蘇芳丸が庭に逃げ出したので、女中はそれを追って広大な庭園を駆けずりまわっていたのである。
 姫君を来客と二人きりにするなど、あってはならないことであった。

「かような温情をいただき、まことにかたじけのう存じます」

 頭を下げた隆礼だった。

「温情ではない」

 御正室の声の冷たい響きに、隆礼は驚いた。

「縁組の届けは御公儀に出しましたが、まだ裁可を得ておりません。先走った振る舞いをしたとわかったら、御公儀は何と思われるか。大目付などに知られたらどうなるか。御家のため、此度のことは、奥だけで収めますが、次に同じことがあれば、豊後守様から成敗されてもおかしくないのですよ」

 縁組の許しを得ないうちの隆礼の行為は御公儀への不義ととられても仕方のないものなのだった。

「輿入れしてもまだ姫は幼いゆえ、我慢ができないかもしれぬが、どうか堪えてくだされ」

 御正室の言葉の後、御年寄がそれに付け加えた。

「それまでの間、当家から女中を差し向けたいと存じます」

 出た。いい加減にしてくれと言いたかった。

「その段はひらにご容赦を」

 そう言うと御正室は尋ねた。

「では、もうすでに屋敷に手つきの者がおいでなのですか」
「いえ、その、今はそういう気持ちには」

 御正室はうなずいた。うなずいていながら、言った。

「そうでございましょう。ならば、その気にさせるような女子をそちらに差し向けましょうぞ」
「姫様をないがしろにはできません」
「でも、姫様に今日のようなことがまたあっては困ります」

 御年寄は大真面目に言う。つい口に出してしまった。

「私が信じられないのですか」

 言ってはならないことを言ってしまったような気がした。

「信じる、信じないという話ではありません」

 御正室は言った。

「掃部助様も豊後守様も、わらわの父も祖父も、皆そうであった。飛騨守様もそうであろう」

 御正室の経験から導き出された結論だった。男は皆、妻一人では満足できない。それに妻だけでは世継ぎの男子に恵まれないこともある。
 ならば、娘が成人するまでの間は娘のお付きの女性と親しくなってもらうほうが得策だった。

「幸い、利根は怪我はしたが、丈夫な女子。それに今二十五ゆえ、お褥滑りの三十になる頃には姫も大人になっておる。その後は奥で中老として働いてくれよう」

 利根の年など知らなかった。二十五だとは思ってもいなかった。

「眞里殿もきっと喜ぶであろう。利根のことを案じておったからな」

 このままでは、勝手に決められてしまう。

「さようなことをここで決められても困ります」
「ですが、今日のようなことがもし御公儀の耳に入れば、大変なことになってしまいます」

 御年寄の言葉が決定打だった。

「利根の怪我もそろそろよくなってきておる。中屋敷に御移りの際に、利根をよこしましょう」

 御正室の中ではほぼ決定事項のようだった。御年寄は言った。

「あの傷では、普通の男との縁組はかなうまい。若君様の御手付きとなれば、この上ない誉れ」

 それは残酷な言葉だった。どこが誉れなのか。利根がこの場にいたらどう思うことか、隆礼でさえ、それを想像するといたたまれなくなる。

「尼寺に入りたいと申しておりました」

 隆礼の言葉を御正室はいとも簡単にひっくり返した。

「尼寺に入るのは後でもできよう」

 恐ろしいと隆礼は思った。
 この人たちは利根の気持ちを考えているのだろうか。
 お勤めで斬られるという恐ろしい目に遭っているのだから、奥勤めをしたくないかもしれないのだ。
 そうであっても、命令されたら、絶対にそれに逆らうことはできない。

「利根の気持ちをよくよくお確かめにならなければならぬと思います」
「のう、新右衛門殿」

 御正室は隆礼を見つめた。その目の力の強さに、隆礼は目を背けることができなかった。

「女子をその気にさせるは、男の甲斐性。たとえ、利根が嫌々そばに仕えることになったとしても、その気持ちを変えることができるのは、そもじにしかできぬこと。それに、利根は忠義一途の者。元より嫌々仕えることがあると思いますか」

 建前はそうかもしれない。だが、人の心とは簡単に割り切れないもの。喜乃の件で、隆礼は人の心は得体の知れぬものと知ったのだ。
 利根が忠義一途だからといって、心の底からそう思っているとは限らない。
 だが、それを言えば、加部の家中の者を信じられぬのかと、御正室が言葉を返すに決まっている。

「私にはそのような甲斐性はありませぬ」
「甲斐性など生まれつき備わっておる者がおろうか。なれど、各々皆鍛錬して甲斐性を身に着けておられる。畏れながら飛騨守様もそうじゃ。眞里姫と縁組した頃はそなたよりもずっと弱弱しいように見えたが、今はしかと奥をまとめられておる」

 隆礼は恐ろしくて目を背けたかったが、御正室の目はそれを許さなかった。

「祝姫を愛しく思うのなら、利根のことも大事にしてもらいたい。それとも、そもじは肩に傷のある女子は嫌なのか」

 傷は関係ないと言いたかった。だが、御正室のこの物言いでは、そのまま受け入れてくれるとも思えない。





「要するに、体のいい口封じです」

 平太は隆礼が話を始める前にこう言った。
 加部家の中屋敷から戻った夜である。自室で算術の問題を解いていると、平太が現われたのだった。
 草履取りとして中屋敷についていった平太は騒動のあらましを知っていた。

「肩に傷を付けて実家に戻れば、実家に喜乃の件が知れてしまう。縁組があったとしても、相手が肩の傷を見て騒ぐのは目に見えている。かといって尼寺に入っても、若い身空で何かあったのではないかと勘ぐられる。ならば、事件の起きた山置家に引き取ってもらえばよいということです。これなら実家にも言い訳が立つ。なにしろ、若君の御手が付いたとあれば名誉な話。それに若君は事件を知っている当事者ですし。利根殿の肩の傷は限られた人間しか知らぬということになる。それに姫君をお守りすることにもなりますし」
「わしは一体何なんだ」

 隆礼はなんだか加部家にいいように扱われているような気がした。

「喜乃の件は当家の中で起きたことゆえ、仕方ありますまい。拙者も不覚のこと。とはいえ、姫君には罪作りな真似をなさいましたな。口吸いなど、御輿入れの後でもできましょう」
「なんだか、可愛くて」
「女子が可愛いのは当たり前です。満津様が聞いたら何と言うか」
「おい、まさか満津に文などは」
「やっておりません。ですが、噂は止められるものではありません。若君が加部の姫君を娶ったら、可愛がっておいでなどという話はすぐに伝わることでしょう」

 手紙を書かねばなるまいと思った。満津の耳に噂が先に入ってしまう前に。





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