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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

34 加部家訪問

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 御目見えを終えると、またいつものように勉学と武芸の修練が始まった。
 けれど、それは以前とは少し違っていた。
 農学の勉強の時間が増えた。また算術の勉強を始めた。
 算術書の「塵劫記じんこうき」は子どもの頃、岡部惣右衛門から手ほどきを受けていたが、他の習い事が増えて全部勉強していなかった。
 再度、関派の和算家に教えを受けて、改めて自分が知らないことが多いのに驚いた。九九もうろ覚えだったので、もう一度正確に覚えた。
 下屋敷に行き、馬場で馬に乗ることも増えた。
 そうなると隆成と会うことも多く、娘手習い所の授業のことで話をすることもあった。
 隆礼は西国の地理や産物の話を語った。京や大坂の華やかな話はできないが、珍しい火を噴く阿蘇の山の話、参勤途中で見た瀬戸内の島々の風景などを語ると、隆成は次の授業で話そうと書き留めるのだった。
 けれど、それがいつになるのか、わからない体調だった。
 太っていると見えた隆成の顔は浮腫むくみであった。 
 江戸患いが近頃とみに重くなっているのだった。
 精がつくと鰻を持って行っても、生臭いものは食べる気がせぬと口にしなかった。
 平太は、江戸患いには白米がいけないのだ、麦飯か玄米にすればよくなるのだと言う。
 だが、それを勧めても下屋敷の寿姫が許さなかった。

「大名家の子息にさような物を食べさせるとは、なんたること」

 そう言う寿姫も近頃は身体の調子が悪く、夕姫が見舞いに来ることも増えていた。
 下屋敷で夕姫と顔を合わせることも増えた。

「ほんにそなたは、父上そっくりにおなりになった」

 初めて会った時は、なんだか嫌な雰囲気の人だなと思っていたが、この人も眞里姫のように奥を守ってきたのなら仕方ないのかもしれないと思えた。

「されど、父上と同じではなりませんよ。あの方はまつりごとを人任せにしておった。飛騨守様も今それで苦労されておる」

 岡目八目というのか、婚家から見れば実家のことがよく見えるものらしかった。
 隠居の夕姫の夫にも会った。夫婦二人で隆成の見舞いに来たのだ。
 夕姫より年下の隠居は穏やかな顔の老人だった。
 御目見えの時の話をすると、余もそうであった、まだ八つの時のことと語ってくれた。
 夕姫はそんな夫を穏やかに見つめていた。
 今の藩主は側室の子であるというが、正室の夕姫との仲は悪くもないようだった。
 自分も祝姫とこういう夫婦になるのだろうかと思うと、妙な気がした。
 満津のことは好きなのだが、祝姫もそんなに嫌いではない。
 他愛ない文が送られてくるのが、近頃は楽しみにもなっていた。
 満津からの文は御目見えの一か月後に届いた。
 御目見えを祝う手紙だった。卯女のことは一言も書いていなかった。恨み言めいた文句があるのではないかと恐れていた隆礼は拍子抜けした。だからといって、満津が彼女のことを意識していないはずはないのだが。
 彼女のことを書かないということは隆礼を許したということだろうか。それとも、喜乃のように隆礼への恨みを心の奥深く隠しているのか。
 あれこれ考えると返事の文面が浮かばない。
 とりあえず、祝いの礼に添えて前よりも文字が美しくなったと書き添えておいた。
 実際、満津の文字はずいぶんと上手になっていた。
 そのことを話すと惣佐衛門は言った。

「殿様や奥方様方の手紙というのはもらったほうは反古にすることはできません。後々まで残るもの。ですから御方様は、後の世に残ることを思い字の修練をなさったのでしょう。御身体が普通の状態でないのに、そのような努力をなさったこと、並の方ではございません」

 そうかもしれない。満津は隆礼と同じく国許で日々学んでいるのだろう。
 一緒に届いた沢井甚太夫からの手紙では御隠居所の作事が再開されたことが書かれていた。
 お仙の方もいつまでも音がどうこうと言っていられるものでもないのだろう。
 それはともかく、惣左衛門に新妻とはどうかと尋ねると、それなりにと答えるのでうまくいっているようだった。
 今でも卯女のことを思い出すと、何やら身体がむずむずするような気がするのだが、あの騒ぎを思い出すと、そういう気持ちにはなれなかった。
 それでも欲望はあるので、それをなんとか散らすため、騎馬の修練や剣術に隆礼は没頭した。





 奥の改装も始まっていて、あの御不浄も廊下も壊されたらしい。
 女達も入れ替わり、あの事件の話を表で口に出す者もいない。
 ただ、怪我をした女達については気がかりだった。利根は怪我が重かったので国に帰らず豊後守の中屋敷の奥で静養しているという。
 平太の遠縁に当たる貞は先日使いの者と一緒に国許へ出立した。近々交代で国から警護の女達が数名江戸に到着することになっている。
 今回の騒ぎで、眞里姫付の奥女中達に占める豊後守家中出身者の割合がかなり減っていた。
 側室は二人とも豊後守家中出身の中老で、その二人の部屋子の半分が豊後守家出身というのは変わらない。
 眞里姫付きについては十六人のうち、十四人が豊後守家中からの派遣だったのだが、騒動後は六人となった。残り十人は香田角家中である。うち二人は平太の縁者となった。
 眞里姫は寂しい思いをしているのではないかと思われたが、やはり騒動を起こしたのが豊後守家中の出であったことの衝撃が大きかったためか、致し方ないという思いもあるようだった。
 嫁いで十五年余り、眞里姫は加部家で暮らした年月よりも長く山置家で暮らしている。
 これを機会に実家からの女中を減らすのは自然の成り行きかもしれない。





 隆礼が掃部助の住む加部家中屋敷に招かれたのは六月も末の午後であった。
 以前、栗林家の中屋敷に行った時とは違い、お供の数は段違いに増えていた。警護は惣左衛門の他に三名もおり、駕籠かきも交代の者までついて八人いる。
 こんなに大袈裟にするのは、掃部助様に見くびられないためと平太は言っていたが、確かにそれだけの効果はあったようだった。
 挨拶にこれだけ大勢のお供を連れて来たということで、掃部助は満足という顔で隆礼を出迎えた。
 飛騨守から持って行くように言われた挨拶の品々を差し上げると、掃部助はますます喜んだ。
 御舅様になる方だから粗相のないようにと、菓子も有名な店のものである。隆礼はどこの菓子もうまいのにと思うのだが、店の名の書いた箱を見ただけでうまいと思う人もこの世にはいるらしく、箱を見て、掃部助は喜んでいた。

「さすがは飛騨守様は御目が高い」
「畏れ入ります」

 とにかく粗相のないように、丁寧にと隆礼は頭を下げた。
 それにしても国許の人々は江戸で自分や殿様が頭を下げ続けているのを見たら、驚くのではないかと思う。参勤の途上、江戸が近づくにつれ、殿様の食欲が減った理由がわかる気がした。
 とにかく、江戸では大名は公方様を始めとする上の方々、親戚に頭を下げて回らねばならないのだ。
 屋敷から一歩外に出たら、国許のごく普通の武家の息子よりも頭を下げる回数が多いのではないかという気がする。
 山置家が外様の中でも石高も低いこともあるのだろう。
 御目見えの時も一人ずつではなく、十把一絡げのように何人もの外様大名の世継ぎと一緒だった。
 自分たちよりも先に御目見えした少年は同じ外様でも名門の世継ぎだったと後で聞いた。
 江戸に来て三か月余りで、隆礼は自分の家の位置を改めて思い知らされたのだった。
 こういうことが繰り返されれば、殿様が食欲を失うのも当然のように思えた。
 ともあれ、掃部助は許婚の祝姫の父である。
 頭を下げねばならぬ人の筆頭であることは言うまでもない。
 丁重に相手をし、庭の池を遙かに眺めて御世辞めいたことも言った。

「庭の眺めが涼しげでいいですね」

 そんな他愛もない話をするうちに掃部助は上機嫌になっていた。
 癇癪持ちとはいえ、持ち上げられれば機嫌は嘘のようによくなるのだった。

「祝に会っていくがよい」

 奥にいる祝姫に会えとまで言ったのだった。





 会うと言っても、家の者でもないので奥で会うわけにはいかない。
 庭の中にある四阿あずまやに毛氈を敷き、茶道具をしつらえて、お側に仕える女中同席のもとでの面会である。
 隆礼が女中の案内で池のほとりの四阿に行くと、すでに祝姫がちょこんと座って待っていた。その横では女中が二人、姫を守るように畏まっていた。

「ようこそ、おいでくださいました」

 祝姫が頭を下げた。
 稚児髷ではなく吹輪ふきわに結っていた。
 池からのさわやかな風に簪の飾りがかすかに揺れていた。
 挨拶をして毛氈に座ると、祝姫はお茶を作法通りに入れた。
 なんだか少しの間に、大人になったように見えた。

「結構なお点前」

 茶を喫すると、姫はにっこり笑った。

「よかった。美味しくないと言われたらどうしようと思いました」

 そんなことを言うはずもないのだが。

「狆は元気にしていますか」

 話題が見つからないので狆のことを聞いてみた。
 姫は目を輝かせた。

「お陰様で、元気になりました。毛が長くて暑かったのですね」
「やっぱり。顔の毛は切らなかったのですか」
「なんだか、狆らしくないような気がして。でも、お隣の姫様に見せたら驚いておいででした。早速切ってみようと言っておいででした。はす向かいの方も切ったそうです」

 あの絵に描かれたような狆があちこちの大名屋敷の奥にいると思うとおかしかった。
 思わず笑ってしまった。姫の隣の女中も笑いをこらえているのがわかった。

「あの、何か面白いことがおありですか」
「い、いえ。蘇芳丸に会ってみたくなりました」
「申し訳ありません。蘇芳丸は今、貸しておりますの」
「どちらに」
「……利根という女中。あの怪我をした」

 姫の声の調子が少し低くなった。やはり、姫もあの件で衝撃を受けていたのだ。

「元気がないので。犬や猫を撫でると、心が落ち着くと聞いたことがありましたので」
「お優しいですね、姫様は」
「いえ、わらわにできることはそれくらいのことだけですから」

 やはり眞里姫の姪だけあって、心配りのできる姫らしい。
 我儘な姫のように見えて、心根は優しいようだった。

「利根を見舞ってもよろしいですか」

 思い付きで言った言葉だった。脇の女中が明らかに驚いていた。

「それはよい」

 姫もうなずいた。だが女中は顔色を変えている。
 まずいことを言ってしまったのだろうかと、隆礼は年かさに見える女中を見た。

「では、御仕度を」

 そう言うと女中は席を立った。
 残った女中は、姫様、あれをと言う。
 姫はそうであったと袱紗を出した。

「これを」

 袱紗の中には小さな赤い錦の袋が入っていた。

「守り袋です」
「ありがとうございます」
「お子様に差し上げます」
「え?」
「生まれるお子様にと、姫様が作ったのです」

 女中の説明に、隆礼は頭を抱えたくなった。
 心遣いは嬉しいけれど、これをもらって満津が喜ぶのだろうか。

「若君様のお子はわらわの子どもも同じでございます」

 こう言われれば受け取らないわけにはいかない。

「お気遣いありがとうございます」

 礼を言って守り袋を袂に納めた。

「お見舞いの準備が整いました」

 奥女中の声がした。



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