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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

31 惣左衛門の妻(R15)

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 長男が江戸で嫁をもらう。
 江戸から帰って来た村瀬喜兵衛が預かってきた息子の手紙を読んだ岡部夫妻は狐に抓まれたような心持ちになった。
 留守居役の養女を嫁をもらうとしか書かれていないのだ。
 だがすぐに、二人はこれは何か事情があるに違いないと察した。
 二人は何も言わず、江戸に祝いの手紙を送った。事情がどうであれ、めでたいことには違いなかった。





 国許からの祝いの手紙が届く前に、岡部惣左衛門は江戸上屋敷内の留守居役村越むらこし仁左衛門にざえもんの役宅で祝言を挙げた。
 年上の花嫁の美祢みねの養父母の留守居役夫妻、小姓の小ヶ田与五郎だけが立ち会うというひっそりとした祝言であった。
 祝言の後、二人は上屋敷内の所帯持ち用の長屋に入った。
 江戸で勤める者はほとんど国許から単身で来ているが、留守居役や家老のように江戸常勤の者もいて、彼らは上屋敷の中の所帯持ち用の役宅に住んでいる。
 家族の多い者は上屋敷の外に住まいを持っている。
 というわけで、惣左衛門は上屋敷の中の所帯持ち用の長屋に住むことになった。
 長屋といっても、一部屋に二人三人が住む単身者用と違い、戸建てになっていて、台所も厠も別なのはありがたかった。
 また単身者用の長屋から建物も井戸も離れた場所にあって、単身者と接触することもない。
 二人の住まいは留守居役の住まいの西隣で、もう一軒隣は空き家であった。元は留守居役宅の奉公人の住まいであったという。
 寝室と書院と居間と台所だけの住まいだが、二人で暮らすには十分な広さだった。
 すでに夜更けており、寝室には殿様から贈られた祝いの布団が敷かれていた。
 美祢と差し向かいになった惣左衛門は一体どう言葉をかけていいものか、迷っていた。
 なにしろ、今日の祝言まで、まともに二人で話したことがないのだ。
 留守居役夫妻同席で顔を合わせをした時も挨拶以外の言葉をほとんど交わしていない。





 美祢もまた自分から話しかけていいものか迷っていた。
 年上の自分が引っ張ってやる必要があるとは思うのだが、年下でも惣左衛門は男である。その気持ちを思うと自分からというのは申し訳ない気がする。
 それに祝言をすることになったいきさつを思うと、自分が先に出るのは控えたほうがよいように思える。
 あの日、喜乃に刃を突きつけられた時、このまま死ねば、楽かもしれぬと一瞬思った。奥方様や御年寄の前で不義の事実を晒されてしまったのだから。
 けれど、村瀬喜兵衛は喜乃の言葉を否定した。
 初めて卯女は喜兵衛の心に気づいた。おのれは何と愚かであったのかということにも。
 喜兵衛は卯女のためを思い、徐々に卯女から離れていったのだと。そして、今も卯女を思うがゆえに、裏切ったにも拘わらず卯女の不義を否定したのだと。
 喜兵衛はおのれの保身のために否定したのかもしれないとも思った。けれど、秘剣橋姫で喜乃の右腕を落とした後、小さな声で卯女に言ったのだ。

「生きてくだされ」

 たったそれだけの言葉で、卯女は御年寄や中老の詮議に耐えた。
 不義はしておりませんと言い続けた。
 喜兵衛の嘘を貫かねば申し訳ない。
 たとえ若君が自分を嘘つきと言ったとしても。
 喜兵衛の言葉が卯女を支えた。
 夜になって奥から出され駕籠に乗せられた時、きっとこれは殺されるに違いないと思った。
 不義の疑いをかけられた自分は殺されるのだと。
 若君は自分の不義を知っているのだから。
 殺されても仕方ない。
 自分は愚かだったのだから。
 愚かゆえに喜兵衛の心も知らず、若君に夢中になった自分は、殺されても仕方ない。
 だが、駕籠はあちこち移動した後、結局屋敷の北側の通用口の前で止まった。連れて行かれたのは留守居役の役宅だった。
 それから数日、役宅の奥の部屋で過ごした。
 食事がきちんと出て着替えもできたので、殺されることはないのだろうと思ったが、喜兵衛がどうなったかそれだけが気がかりだった。
 三日前の夜、その部屋に若君が突然訪れた。
 最初に言われた言葉に卯女は驚かなかった。

「奥女中の卯女という女子はもうどこにもおらん。そなたは留守居役の養女美祢だ」

 そうか、そういうことになったのかと思った。
 国許の親にも卯女はもう戻らぬと伝えていると言う。
 一度でも不義を疑われれば、殺されてもおかしくない。その前に身の潔白を証明するため、自害してもいいくらいだ。
 けれど卯女は死ねなかった。喜兵衛の言葉を無駄にはできない。
 だから、こういう形で卯女をこの世から消さねば、不義の女を抱いたという若君の不名誉はそそがれないのだろう。

「身体は大丈夫か」

 言われてから、この数日朝吐き気に襲われていることを思い出した。
 それで、昨日は留守居役の妻は医者を呼んでいた。

「まだ身ごもっているかは判断できないと医師も言っている。もし身ごもっておっても、わしの子にはできない。許してくれ」

 初めて聞く優しい声だった。閨ではこんなに優しくなかったと卯女は思いだす。
 年下のくせに、女の身体を翻弄する技を知っていた。

「それで、そなたの身柄だが、信頼できる者に預けることになった」

 その意味するところを卯女は知っていた。御拝領。刀のように自分も誰かの妻になるのだろう。

「そなたをわしのそばに置くわけにはいかないのだ」

 わかっている。卯女という女はもういないのだから。

「わしの乳兄弟で岡部惣左衛門という男だ。まことのある男ゆえ、そなたを不幸にすることはないと思う。両親は国許にいて、父親は普請作事掛、母親は情に厚い。そなたのことも大事にしてくれるはずだ」

 話を聞いているうちに、心の中にまだわずかに残っていた熾火が冷めていくような心持になっていた。憑りついていたものが離れていくようだった。

「すまぬ。勝手にそなたのことを決めてしまって。思えば、最初もそうだったな。わしがそなたの名など訊くから。そなたはいやと言えぬのに」

 それはあなたも同じであっただろうと、卯女は思う。名前を尋ねてしまったことに気づいた時の表情は今も思い出せる。奥の掟に振り回されたのは自分も若君も同じこと。
 若君を恨む気にはなれなかった。
 むしろ、おのれの愚かさが恥ずかしい。
 なぜ喜兵衛の心がわからなかったのか。そればかりが悔やまれる。

「申し訳ありません」

 卯女は、いや美祢はそれしか言わなかった。
 すべては愚かな自分のせいだ。
 妻子ある喜兵衛を好きになり、自分を思い離れていこうとした喜兵衛を恨み、たまたまお召しを受けた若君に溺れた。
 喜乃の心の奥に潜むものに気付けず、奥で思うがままに振る舞ったおのれを思うと、恐ろしさよりも愚かしさしか感じない。
 部屋の外にいるらしい小姓が咳払いをするのが聞こえた。

「すまぬ。時がきた。そなたを抱きたかった」

 正直な若君だと美祢は思った。

「だが、そういうわけにはいかぬな。惣左衛門のものだからな、そなたは」

 自嘲するような笑みを浮かべた若君を見て美祢もほほ笑んだ。

「さらばだ」

 若君は立ち上がり、部屋を出て行った。遠ざかる足音を聞きながら、美祢は目を閉じた。
 まぶたの裏に浮かぶのは、村瀬喜兵衛の優しげなまなざしだった。





「お疲れでしょう、休みませんか」

 惣左衛門が先に口を開いた。

「はい」

 美祢はうなずいた。
 寝室の床の横で惣左衛門の裃を脱ぐのを手伝おうとした。

「すみません。自分でできますので、あなたはお着替えを」

 惣左衛門は美祢の横に座って言った。

「ですが、これは妻の仕事ゆえ」
「一人暮らしで慣れております」

 そう言うと、出してあった寝間着を渡した。

「ここでは恥ずかしいでしょうから、隣で着替えてください」

 美祢は居間に行った。あかりのない薄暗い部屋で、花嫁衣裳の黒い振袖を脱ぐ。さすがに五月の末も近いから、汗でじっとりと湿っていた。
 台所に行き、水甕の水をたらいに汲み、手ぬぐいを濡らし、身体を拭いてから木綿の寝間着を着た。
 心なしか、乳房の先に手ぬぐいが触れると痛かった。母が妹を身ごもった時に乳房に触れると痛いと言っていたことを思い出した。
 寝室に行くと、行灯の光を受けて床の脇で惣左衛門が正座していた。
 美祢もその前に座った。

「不束者ですので至らぬところはお許しください」

 そう言って頭を下げると惣左衛門はふうと息をした。

「先に言われてしまいました」
「え」
「私のほうが不束者なのに。これだから、不束者なのです」
「これは決まり文句というものですから」

 美祢は顔を上げて言った。惣左衛門は少し俯き加減であった。まだ少年なのだ。

「男の方は自分を不束者などと言わずともよろしいかと」
「そうなのですか」

 まるで姉を見る弟のようなまなざしが美祢を見つめていた。
 これが普通なのだと思う。若君のように、自分を女として見るまなざしはこの年頃には珍しいものだったのかもしれない。
 ならば、姉のように接すればいいのかもしれない。故郷にいる弟と同じように思えば、身内として愛しく思えるようになるかもしれない。
 冬の寒い夜、きょうだい皆で身を寄せ合って眠った時のように眠ればいいのかもしれない。今はもう夏だが。

「そろそろ休みましょう」

 美祢の言葉をしおに二枚並んだ布団にそれぞれ入った。
 ちらと隣に横になった惣左衛門を見た。惣左衛門も自分を見つめていた。

「もし御気分が悪くなったら遠慮なさらぬように」

 優しい弟だと思った。

「ありがとうございます」

 その言葉が終わらぬうちに、掻巻布団を捲り上げて、惣左衛門が美祢の布団に入って来た。
 あまりの素早さに美祢は声も出せなかった。

「申し訳ありません」

 惣左衛門はそう言うと美祢を抱きしめた。きょうだいではない。荒々しい男の力で美祢は抱きしめられていた。美祢にとって、それは予想もできないことだった。心の準備も何もできていない。

「惣左衛門殿、今宵はまだ」
「どうか、今宵だけ」

 耳元で囁かれた。

「我らが夫婦の交わりをまことにしたか、探っている者がおりますゆえ。子は我らの子でなければならぬのです」

 背筋がぞくりとした。この長屋が何者かに見張られているのか。
 何者かに自分たちの交わりをしていることを知らせねばならぬとは。
 結局、名を変えても、若君の御手付きであった事実は変わらないのだ。
 愚かなおのれゆえに、さような仕儀になってしまったのだ。ならば、仕方ない。
 まだいるのかどうかわからないが、子のために耐えよう。
 不義の疑いをかけられた御手付き女中の子どもとして生まれるよりも、慎ましく生きる家臣夫婦の子として生まれたほうが、子には幸せのはずである。
 美祢は夫の胸に顔を埋めた。

「顔を上げて」

 緊張した声に従うと、唇に唇を重ねられた。
 少し唇を開けると、舌がためらいがちに入って来た。美祢はその舌に舌を絡めた。

「御加減が悪くなったら言ってください」

 惣左衛門は囁いた。
 美祢はうなずき、惣左衛門を抱き締めた。
 もっと優しく穏やかにと思っていた惣左衛門の目論見はもろくも崩れ去った。美祢の欲望の深さに驚愕しながらも、それを受け入れている自分もまた罪深く思われた。
 美祢の腹の中には隆礼の子がいるかもしれぬのだ。それなのに、こんなに激しく身体を交えたら、何か障りがあるやもしれぬ。それがわかっているはずなのに、美祢が望むからと、止めることもせずに、欲望のままに交わっている。不忠者ではないかと、惣左衛門の中の分別が囁く。
 だが、別の惣左衛門が囁く。幼い頃から、あやつの勝手に振り回され、嫁取りまであやつの尻拭いではないか、これくらいの楽しみくらいよいではないかと。それであやつの子がどうなっても、知ったことか。かえって生まれぬほうが先々の面倒がなくてよいではないかと。
 あまりに不忠な囁きに、惣左衛門は戦慄した。

「旦那様」

 美祢の甘い声が聞こえたかと思うと切なげな吐息が漏れた。

「痛くはないか」
「いえ、今は」

 この女子がいけないのだと思いながら、惣左衛門は美祢に夢中になっていた。
 満足して自分の横で眠る美祢を見ながら、惣左衛門は村瀬喜兵衛も隆礼も、こうやってこの女に溺れたのだろうと思った。
 自分は逃れられるのだろうか。どす黒い隆礼への感情も思い出し、不安が惣左衛門の胸に渦巻いた。
 けれど、等しく眠りは誰にも訪れる。
 惣左衛門もまた疲れ果て深い眠りに落ちていった。





 味噌の匂いで目が覚めた。
 ここは国許ではないはずなのに、母の味噌汁と同じ香りがした。
 床から起き上がった。隣にあった布団はすでに片付けられていた。
 襖を開けると、居間の向こう側に見える台所で前垂れをかけた小袖の女が、かいがいしく動いていた。
「おはようございます」
 惣左衛門に気付いた美祢が振り返った。

「おはよう」
「旦那様こそ、少しお早いのでは。もう少しお休みになれば」
「いや」

 美祢の顔がまぶしくて、惣左衛門は視線を鍋のほうにそらした。

「顔を洗ってくる」
「水は汲んでおります」
「かたじけない」

 昨夜、互いに何もかもさらけ出したようなことをしておきながら、ぎこちなく言葉を交わしている。
 そんな自分たちの有様が何やら妙なものに思われた惣左衛門であった。
 朝食は留守居役からいただいた干鯛ひだいを焼いたものがあるからふだんよりは豪華だった。
 美祢の作る味噌汁は少し薄いように思った。上屋敷の中で使う味噌は上屋敷の台所掛の味噌役達がすべて国の豆を使い国と同じ製法で作っているので、国許とほぼ同じ味になる。

「夏は少し濃くしてくれぬか。汗をかくゆえ」

 そう言うとはいと美祢は言った。
 素直だなと惣左衛門は思った。それゆえに、喜兵衛にも隆礼にも染められたのだろう。だとすると、自分はこの女をどのように染め替えることができるのだろうか。 
 美祢もまた奥とは違う味噌の濃さを望む夫の言葉に、新しい生活の始まりを感じていた。この人と同じ味噌汁を食べて生きていく。





 この日は午後からの勤めであったので、昼飯を食べてから若君の御座の間に御挨拶に伺った。

「昨日、お陰様をもちまして、恙なく婚礼の儀あいすませました」

 堅苦しいことを言うなと言われるかと思ったが、隆礼はめでたいと堅苦しく返礼した。

「で、首尾は」

 何のと尋ねるほど惣左衛門も初心ではない。

「無事に」
「そうか」

 もっと何か言うかと思ったら、それだけだった。
 だが、その後、隆礼は言った。

「わしの勝手で、いつもそなたは貧乏くじだな」

 突然、昨夜のどす黒い不忠な感情が甦った。

「そうでもございません。昨夜は堪能いたしましたゆえ」

 その瞬間の隆礼の表情を、惣左衛門は忘れないだろうと思った。
 何とも惜しいことをしたと言いたそうな。
 それを見ただけで、黒いものは消え失せた。同時に言い過ぎたかなとも思った。

「大事にしますゆえ、ご安心ください」
「当たり前だ。尼のような生活はさせるなよ」
「はっ」

 あの日、与五郎は寺にやるか家臣に下げ渡しにするかという提案をしたのだった。
 尼になって寺に行くことは生きながらの死を意味するようなものだった。それに、もし子を孕んでいたら、自分で育てることもかなわぬかもしれない。現に隆礼自身がそうだった。母と引き離され、会えたのは死の前だった。もし梅芳院の配慮がなければ会えないままだっただろう。
 それならば家臣にとなると、誰がいいのか。
 今回の件で一番の功があったのは村瀬喜兵衛だが、彼は妻帯者である。しかも不義の相手と喜乃に名指しされてしまった。となると、他に誰がいるかとなれば、与五郎が惣左衛門だと言った。

「私は戸口に立っていただけ。惣左衛門殿は卯女の方を助けだしたのですから」

 平太もうなずいた。

「わしは家柄が低過ぎる。それに、かような美人を娶るわけにはいかぬ」

 与五郎が不審げな顔をした。

「うちは代々、嫁は並かそれ以下と決められておる。妾もそうじゃ。美男美女が生まれては目立ってしまうのだ」
「お可哀想に」

 与五郎の同情めいた声を平太は一笑に付した。

「そなたの妻になる女よりは幸いだと思うぞ」

 与五郎はむっとして黙ってしまった。
 それはともかく、惣左衛門は何の条件も出さずに引き受けた。
 これまで特にこの女がいいと思ったこともないし、恐らく結婚相手は親の勧める相手になるだろうと予想していたから、相手に望むものはあまりなかった。
 自分がぼんやり考えていたよりもずっと早い結婚だが、いずれはしなければならぬのなら、別に今でも構わないだろう。
 それに、隆礼が気に入るような女子なら、そう悪い女子ではないだろう。
 ほとんど何の考えもなく話を引き受けた。
 隆礼はいいのかと何度も念を押した。
 惣左衛門はいいから引き受けたのだと言って、話はそれで決まった。
 決まれば後は早かった。殿のお許しはすぐに出た。
 留守居役の役宅で留守居役夫妻が立ち会って一度顔を合わせた。
 その二日後の祝言である。





 数年後、長男が江戸から連れて来た子の顔を見て、岡部惣右衛門・勢以夫妻は一切の事情を悟ることになるのだが、それはまた後の話である。




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