85 / 128
第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)
28 死よりも重い
しおりを挟む
七つ時(午後五時頃)を過ぎて、家老が関係者の取り調べの結果を殿様に伝えた。
朝、茜丸の世話掛の喜乃は表使いから広敷の茜丸様の御用を勤める用人が変わることを知らされたという。その後、表使いが喜乃の様子が少しいつもと違っていることに気づいたが、祝姫様ご訪問の準備で忙しく気に留める暇もなかった。
他の女達も喜乃の異常に気づいていなかった。喜乃はいつものように狆の茜丸の世話をしていたからである。
村瀬のほうは、不義の事実はないと言っている。村瀬の同僚たちもそれはありえないと言っていた。
ただ、二年ほど前、非番の日に卯女と一緒の姿を見ている者がいたが、休みが同じ日でたまたま町で会ったということだった。
一昨年江戸に出て来た長男の勘六も休みが重なればいつも父と一緒に釣りをしたり江戸を見物したりしており、他の女性がいるとは思えないと話している。
卯女も泣きながら不義はしておりませんと言っている。
「村瀬を慕う喜乃が、若君様の御寵愛を受ける卯女を逆恨みしたのではないかと、松橋殿も申しておりました。卯女も同じ狆の世話掛であったそうですから」
取り調べをした目付の言葉に殿様はうなずいた。
「そうか。村瀬はいかにしておる」
「広敷近くの小座敷におります」
「ではそこへ案内せよ」
目付は思わずえっと小さく叫んでいた。
「しかし」
「何かあるのか。余はただ、秘剣の話を聞きたいだけだ」
殿様も村瀬喜兵衛の秘剣橋姫のことを聞いていた。だからそれを聞きたいというのはわかるが、何も今でなくともと目付は思った。
「早う。余もこの後まだ予定があるのだ」
「はっ」
せかされて、目付はその部屋に殿様を案内した。廊下を歩く役人達は驚き、脇に寄った。
目付が襖を開けると、すぐに殿様は六畳の部屋に上がり込んだ
村瀬は頭を下げた。殿様は目付に外で待つように言うと、襖を立てた。
「面を上げよ」
殿様は村瀬の前に座り、言った。村瀬は顔を上げた。ひげや月代の毛が伸びていても、その顔つきは端正なものだった。
「申し訳ございません。奥を血で汚してしまい」
「一つ聞きたい」
「はっ」
「小ケ田道場の秘剣橋姫、いかにして修練した」
「修練は秘法にて申し上げられませぬ」
「他に誰が秘剣を継承しておるのだ」
「それは、師の小ヶ田頼母しか存ぜぬことでございます。ただ、それがしは師から、秘剣を次に伝えよと命ぜられております」
「して、伝えたのか」
「いえ、江戸には秘剣を受け継ぐにふさわしい者がおりませぬ」
「ならば、国許で必ずや、秘剣を次の者に伝えよ」
「はっ」
ただそれだけのやりとりをして殿様は部屋を出た。
遠ざかる足音を聞きながら村瀬喜兵衛は思った。
殿は恐らく気づいている。自分が不義を犯したことを。
自分が偽りを言っていることも。
卯女を救いたくて言った偽りであった。
国に残る妻や病の両親のためにも生きて帰りたかった。
武士としては、見苦しい振舞であると自分でもわかっている。
死を以て償えと命じられても当然だった。
だから、殿が部屋に入って来た時、覚悟していた。
だが、死よりも重い役目を殿は命じられた。
死ではなく、秘剣を伝えることで償えと。
死ぬことはとはその後でもできる。
村瀬喜兵衛は覚悟を決めた。
秘剣十帖、必ずや伝えんと。
それが成った時、己の命は殿に捧げようと。
その年の閏五月の末、村瀬喜兵衛は戌亥町の我が家の門をくぐった。江戸を出てから三十日余りの旅だった。
門の前に立つ喜兵衛を最初に見つけたのは庭掃除をしていた五つになる末娘のまつだった。
「母上様、見たことのない男の方が門の前においでです」
怯えたように台所に駆け込んだまつの言葉に、母親はぎょっとして箒を手にして庭に出た。
開いた門の前で編笠を外す喜兵衛の姿を見た妻は声も出せなかった。
「ただいま帰った。梅、息災であったか」
声を聞くなり、梅は箒をその場に落として少女のように駆けだしていた。
朝、茜丸の世話掛の喜乃は表使いから広敷の茜丸様の御用を勤める用人が変わることを知らされたという。その後、表使いが喜乃の様子が少しいつもと違っていることに気づいたが、祝姫様ご訪問の準備で忙しく気に留める暇もなかった。
他の女達も喜乃の異常に気づいていなかった。喜乃はいつものように狆の茜丸の世話をしていたからである。
村瀬のほうは、不義の事実はないと言っている。村瀬の同僚たちもそれはありえないと言っていた。
ただ、二年ほど前、非番の日に卯女と一緒の姿を見ている者がいたが、休みが同じ日でたまたま町で会ったということだった。
一昨年江戸に出て来た長男の勘六も休みが重なればいつも父と一緒に釣りをしたり江戸を見物したりしており、他の女性がいるとは思えないと話している。
卯女も泣きながら不義はしておりませんと言っている。
「村瀬を慕う喜乃が、若君様の御寵愛を受ける卯女を逆恨みしたのではないかと、松橋殿も申しておりました。卯女も同じ狆の世話掛であったそうですから」
取り調べをした目付の言葉に殿様はうなずいた。
「そうか。村瀬はいかにしておる」
「広敷近くの小座敷におります」
「ではそこへ案内せよ」
目付は思わずえっと小さく叫んでいた。
「しかし」
「何かあるのか。余はただ、秘剣の話を聞きたいだけだ」
殿様も村瀬喜兵衛の秘剣橋姫のことを聞いていた。だからそれを聞きたいというのはわかるが、何も今でなくともと目付は思った。
「早う。余もこの後まだ予定があるのだ」
「はっ」
せかされて、目付はその部屋に殿様を案内した。廊下を歩く役人達は驚き、脇に寄った。
目付が襖を開けると、すぐに殿様は六畳の部屋に上がり込んだ
村瀬は頭を下げた。殿様は目付に外で待つように言うと、襖を立てた。
「面を上げよ」
殿様は村瀬の前に座り、言った。村瀬は顔を上げた。ひげや月代の毛が伸びていても、その顔つきは端正なものだった。
「申し訳ございません。奥を血で汚してしまい」
「一つ聞きたい」
「はっ」
「小ケ田道場の秘剣橋姫、いかにして修練した」
「修練は秘法にて申し上げられませぬ」
「他に誰が秘剣を継承しておるのだ」
「それは、師の小ヶ田頼母しか存ぜぬことでございます。ただ、それがしは師から、秘剣を次に伝えよと命ぜられております」
「して、伝えたのか」
「いえ、江戸には秘剣を受け継ぐにふさわしい者がおりませぬ」
「ならば、国許で必ずや、秘剣を次の者に伝えよ」
「はっ」
ただそれだけのやりとりをして殿様は部屋を出た。
遠ざかる足音を聞きながら村瀬喜兵衛は思った。
殿は恐らく気づいている。自分が不義を犯したことを。
自分が偽りを言っていることも。
卯女を救いたくて言った偽りであった。
国に残る妻や病の両親のためにも生きて帰りたかった。
武士としては、見苦しい振舞であると自分でもわかっている。
死を以て償えと命じられても当然だった。
だから、殿が部屋に入って来た時、覚悟していた。
だが、死よりも重い役目を殿は命じられた。
死ではなく、秘剣を伝えることで償えと。
死ぬことはとはその後でもできる。
村瀬喜兵衛は覚悟を決めた。
秘剣十帖、必ずや伝えんと。
それが成った時、己の命は殿に捧げようと。
その年の閏五月の末、村瀬喜兵衛は戌亥町の我が家の門をくぐった。江戸を出てから三十日余りの旅だった。
門の前に立つ喜兵衛を最初に見つけたのは庭掃除をしていた五つになる末娘のまつだった。
「母上様、見たことのない男の方が門の前においでです」
怯えたように台所に駆け込んだまつの言葉に、母親はぎょっとして箒を手にして庭に出た。
開いた門の前で編笠を外す喜兵衛の姿を見た妻は声も出せなかった。
「ただいま帰った。梅、息災であったか」
声を聞くなり、梅は箒をその場に落として少女のように駆けだしていた。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説

ふたりの旅路
三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。
志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。
無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
誰一人帰らない『奈落』に落とされたおっさん、うっかり暗号を解読したら、未知の遺物の使い手になりました!
ミポリオン
ファンタジー
旧題:巻き込まれ召喚されたおっさん、無能で誰一人帰らない場所に追放されるも、超古代文明の暗号を解いて力を手にいれ、楽しく生きていく
高校生達が勇者として召喚される中、1人のただのサラリーマンのおっさんである福菅健吾が巻き込まれて異世界に召喚された。
高校生達は強力なステータスとスキルを獲得したが、おっさんは一般人未満のステータスしかない上に、異世界人の誰もが持っている言語理解しかなかったため、転移装置で誰一人帰ってこない『奈落』に追放されてしまう。
しかし、そこに刻まれた見たこともない文字を、健吾には全て理解する事ができ、強大な超古代文明のアイテムを手に入れる。
召喚者達は気づかなかった。健吾以外の高校生達の通常スキル欄に言語スキルがあり、健吾だけは固有スキルの欄に言語スキルがあった事を。そしてそのスキルが恐るべき力を秘めていることを。
※カクヨムでも連載しています

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
枢軸国
よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年
第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。
主人公はソフィア シュナイダー
彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。
生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う
偉大なる第三帝国に栄光あれ!
Sieg Heil(勝利万歳!)
江戸の櫛
春想亭 桜木春緒
歴史・時代
奥村仁一郎は、殺された父の仇を討つこととなった。目指す仇は幼なじみの高野孝輔。孝輔の妻は、密かに想いを寄せていた静代だった。(舞台は架空の土地)短編。完結済。第8回歴史・時代小説大賞奨励賞。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる