生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

25 乱心

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 その半刻前。
 女中用の御不浄までは遠かったが、こみ上げる吐き気を耐えて卯女は中庭に面した幅一間(約一・八メートル)の廊下を歩いていた。
 来るはずの月の物がまだ来ていないことと関わりがあるのだろうかと、卯女は少しばかり不安になっていた。望んでいたことであっても、未知のことは恐ろしいものだった。

「もう少しです」

 喜乃の声が聞こえた。ほっとしたものの、茜丸様のお世話はどうしたのだろうと気になった。
 卯女付きの女中の利根とねは先に立ち、廊下の突当りの御不浄の引き戸を開けた。
 もうすぐと思った時だった。
 背中をどんと押された。
 痛みを感じるよりもまず身体の均衡が崩れたのがわかった。卯女はとっさに受け身をとった。頭は打たなかったが、右肩から二の腕までがじんと痛んだ。
 利根が叫んだ。

「喜乃、何を」 

 利根は御不浄の入口から駆け戻り卯女をかばうように喜乃の前に立ちはだかった。
 卯女は自分を押したのが喜乃だったとのかと気づき、混乱した。なぜ喜乃がそんなことを。
 顔を上げると利根の背中と帯しか見えない。その向こうに喜乃の振り上げられた袖が見えた。袖の先から光って見えるのは、懐剣。

「きゃあああああああ」

 卯女は叫んでいた。叫び終わらぬうちに、喜乃の懐剣は利根の肩先を切り裂いた。噴き出した血が卯女の打掛の裾を濡らした。
 利根は声も立てずにその場に倒れた。
 悲鳴を聞いて駆けてきた庭先の下働きの女中達がそれを見てひえええと叫んで助けを求めるため、表に通じる木戸へ走った。

「き、喜乃、どうして」

 倒れた利根の向こうに立つ喜乃の目つきは尋常なものではなかった。
 じりじりと懐剣をふりかざす喜乃が近づいてきた。卯女は動こうとしたが、足がすくんでいた。
 警護の女中らが薙刀を持って駆けてきた。

「何事ぞ」

 助けが来てくれた。卯女はほっとした。足のすくみが取れた気がした。動く。
 卯女は立ち上がった。そして御不浄に向かって後ずさった。入れば中から閂を掛けられる。

「卯女、逃げるのか」

 喜乃の声が卯女に突き刺さるように響いた。けれど足をなんとか動かした。
 警護の女中が喜乃に薙刀を背後から突きつけた。助かった。卯女は思った。
 だが、次の瞬間、喜乃は振り返り、薙刀を持つ女中に向けてどこから出したのか、手裏剣を投げた。それは腕に命中し、薙刀は廊下に落ちた。女中はそのまま崩れ落ちた。他の女中達に投げつけられた手裏剣もそれぞれ肩や手に当たり、女達はその場に倒れた。手裏剣には意識を失わせる毒が少量塗布されていたのだ。

「逃さぬ」

 喜乃は卯女を追った。
 御不浄まであと三歩、喜乃の手から放たれた手裏剣が卯女の打掛の裾を床に止めつけた。
 動けない。卯女は背筋を流れる汗に寒気を覚えた。

「ど、どうして、喜乃。なぜ、わらわを」
「そなたが諸悪の根源だからじゃ」

 そう言う表情には素直な年下の少女の面影はなかった。茜丸を可愛がり、今日の祝姫様のご訪問を楽しみにしていたはずだったのに。

「しょあくのこんげんとはどういうことじゃ」

 喜乃は笑った。

「何をしらばっくれておる。そなたという女子は」





 その時だった。騒ぎに気付いた人々の足音が聞こえて来た。

「卯女」

 隆礼の声に、卯女は涙が出そうになった。

「そなたの悪行を皆にさらすにはちょうどよいな」

 喜乃の言葉に卯女は寒気を覚えた。もしや村瀬の事を知っているのか。

「喜乃、もしや」

 隆礼や他の女中の姿が見えた。なんと眞里姫までもが血相を変えてこちらへやって来るではないか。

「喜乃、何をしておるのだ」

 眞里姫の声が廊下に響き渡った。女中達が初めて聞く凛とした声である。
 眞里姫のそばにいた登志が倒れている利根に駆け寄った。

「しっかりせい、利根」

 利根は意識はあるようだが深手を負っていた。大柄な女中が二人がかりで利根を引きずって行った。

「医者を」

 女達の声がした。
 喜乃は振り返った。

「奥方様、喜乃はここにおる不義者を成敗いたします」
「何を言うておる」

 眞里姫の声は厳しかった。けれど、喜乃はそれに構わず、目をぎらつかせていた。

「ここにおる卯女なる女子は、今でこそ若君様の寵愛を受け、栄華を誇っておりまするが、その前には、広敷の用人と不義密通をしておりましたのですぞ」

 卯女は立っていられそうもなかった。足ががくがくと震えた。
 隆礼は知っている者が奥にいたのかと衝撃を受けていた。
 眞里姫には、あまりに荒唐無稽な話に思えた。

「何を世迷言を言うておる。喜乃、その刀を捨てよ。今ならまだ国許の家族にまでは罪は及ばぬ」

 眞里姫の言葉は力強かった。けれど喜乃には通じなかった。

「奥方様、御存じなのですか。この卯女と若君様の閨を検分した者は皆、その激しさに言葉を失っておるとか。卯女が生娘ならば、最初から激しいわけがございません。卯女は用人との情事で、あらゆることを仕込まれております」

 あまりのことに眞里姫は言葉を失った。御年寄は卯女がお召しになった翌朝のことは、ただ無事に事成りましたと報告するだけだった。
 卯女もまた、自分の不義密通や閨のことを女主人や同僚に晒され、その場から消えてしまいたかった。
 大体、喜乃がそれをなぜ知っていたのか。

「かような女子が若君に侍っておるのですよ。しかも若君を誑かして、不義の相手の用人を国許に御帰しになるとは」

 それは違うと隆礼は言いたかった。村瀬は父の病気のために帰国するのだと。が、それを言うと不義の相手が村瀬だとわかってしまう。

「お可哀想な村瀬様」

 喜乃の言葉に卯女も隆礼も叫びそうになった。





「狼藉者はどこぞ」

 男の声がした。足音からして少なからぬ数だった。だが、その声に卯女は来ないでとつぶやいていた。

「ここか」
「御女中方、御下がりを」

 惣左衛門の声だった。
 隆礼は庭先を振り返り、その姿を認めた。
 惣左衛門と見知らぬ武士がまず目に入った。その後ろには豊後守の家中の侍がいた。
 男達はどかどかと土足のまま庭から廊下に上がった。

「危のうございます」

 眞里姫の手を中老がつかんで、引き下がらせた。他の女達も後退し、男達の後ろに回った。
 隆礼は自分の刀を取ってきていたので、それを抜こうとすると、惣左衛門が待てと言った。

「若君自ら成敗するっていうのはまずい」
「刀は」
「詰所に置いたままだ」

 隆礼は自分の刀を渡した。

「使え」
「すまん」

 すでにもう一人の武士は刀の鯉口を切っていた。

「若君様、御下がりを」

 武士はそう言うと前に出た。

「御女中、刀を捨てよ」
「村瀬様」

 喜乃の声に隆礼ははっとした。この男が村瀬だったのかと。
 三十八にしてはすっきりした顔をしていた。歯も黄ばんでおらず、髷もきちんとしていた。卯女が惚れるはずだった。

「村瀬様、卯女を御成敗ください。あなた様を裏切った姦婦ですぞ」

 喜乃の声はどこか嬉しそうだった。

「そなた、何を言っておる。御方様を汚すようなことを言うとは」

 村瀬の堂々たる声が廊下から庭にまでこだました。喜乃の目が吊り上がった。

「村瀬様、あなたという方は。卯女をかばうのですか」
「かばうも何も、偽りを申すな」

 村瀬はそのまま、喜乃に向かって突進した。凄まじい殺気に惣左衛門は村瀬は只者ではないと感じた。
 喜乃はひょいと後ろに下がって村瀬をよけると、卯女の背後に回って、その身体を左の腕で抱き込み、右の手の懐剣を首筋にあてた。

「寄るな。寄れば、この女子の命はないぞ」
「ひいいいい」

 卯女はその刃の光にがくがく震えた。
 よもや、こんな目に遭うとは思いもしなかった。吐き気など忘れていた。
 惣左衛門はこれでは手出しできないと思った。
 隆礼は何もできぬのがもどかしかった。
 村瀬は刀を構えたまま、動かなかった。
 豊後守家中の侍もまた人質にされた女子が若君の御手付きと女中に知らされ手出しをしかねていた。
 そこへ、捕り物道具を持った侍達も来た。だが、卯女が喜乃に懐剣を突きつけられているのを見れば、どうにも動きようがない。
 膠着状態に陥るかに見えたその時だった。
 白い塊が廊下を駆け抜けた。

「ん、何だ」

 塊は卯女と喜乃の足元の間に入り込んだ。錦の肩掛けをした茜丸だった。

「茜丸、戻れ」

 追ってきた祝姫が叫んだ。
 茜丸は卯女の打掛の裾にちょこんと乗った。
 卯女は自分と喜乃を見て走って来た無邪気な茜丸を見て気持ちが落ち着いてきた。茜丸を見れば喜乃も正気に戻るはずと思った。

「何のつもりぞ」

 喜乃は吐き捨てるように言った。

「どけ」

 喜乃は裾から出した足の先で、茜丸を蹴った。
 きゃいんと悲しげな声を上げて茜丸はその場に倒れた。

「なんと」

 卯女は恐ろしくなった。喜乃はそんな娘ではなかったはず。
 眞里姫は目を覆いたかった。

「かような弱き生き物をいたぶるとは」

 だが茜丸はむくりと起き上がった。新しい遊びと思ったのか、また喜乃に向かっていく。
 喜乃の目に狂気の光が見えた。

「いやあ、やめてええ」

 祝姫はそう言うのと同時に勢いよく駆け出した。誰もその動きに気づけなかった。気づいた時には祝姫は茜丸の上におおいかぶさっていた。その背後には卯女と喜乃がいる。

「姫様」

 豊後守家中の警護はしまったと思った。姫様を捕まえておくべきだったと。
 隆礼は脇差の鯉口を切った。もし祝姫に何かあったらただでは済まさぬ。
 眞里姫は男達の前に進んだ。

「喜乃、刃物を捨てるのじゃ。逃げられぬのだぞ」
「奥方様には、わかりますまい」

 そう言うと、喜乃は茜丸をかばう祝姫の背に片足を乗せた。

「いたい」

 いたいけな少女の悲鳴に、皆、息を呑んだ。

「騒げば、そなたの背骨をへし折るぞ」

 豊後守の孫娘の背中を踏んだ。その事実だけで豊後守家中の侍達はこの女子は万死に値すると判断した。

「こやつ、いい気になりおって」

 三人の警護のうち一人が斬りかかろうと走って来た。だが、またも喜乃は手裏剣を放った。
 侍の右腕に刺さり、刀が落ちた。

「こやつ、影衆か」
 
 侍はそれだけ言うと、その場にくずおれた。
 豊後守家中には精鋭の忍びの一族がいる。姫たちの嫁ぎ先にも必ず数名入り込んでいた。影衆のくノ一は並の男では太刀打ちできない。




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