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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

16 徘徊する隠居

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 沢井家からの帰り道、勢以は八幡様に寄った。
 ここを通るたびにいつも手を合わせていた。
 どうか、満津の方が無事に御子を産みますように、どうか、若君が江戸で息災でありますように。惣左衛門が無事にお勤めできますように。
 八幡様は武運の神。家中の者を皆守ってくださるはずと勢以は信じ祈っている。
 ただ、江戸の卯女とかいう女中のことまでは祈らなかった。

「母上」

 八幡様の鳥居を出たところで、小治郎の声がした。駆け寄って来た小治郎は勢以の袖にすがった。
 兄二人が江戸に行ってから、小治郎は少し甘えるようになった。
 寂しいのだろうと思う。

「見苦しいから離れなさい」

 本当は抱きしめてやりたいが、もう八つだからそういうわけにはいかない。
 小治郎ははいと言って離れた。いじらしくて抱きしめたい気持ちをぐっと堪えた。
 家に着くと、作造が御帰りなさいませと出迎えた。
 沢井家から遣わされた下女のともも出迎えた。勢以はともに沢井家からいただいた菓子を渡した。

「お茶にいたしましょう」
「はい」

 ともは元気よく台所に向かった。
 お茶と聞いて小治郎は顔をほころばせた。
 岡部家では、これまでお茶を飲むことなどついぞなかった。
 だが、わずかだが加増があり、数日に一度は茶を飲むことができるようになった。といってもお客があった時や頂き物の菓子がある時だけであるが。
 惣右衛門の仕事は変わらぬが、若君の守役としての功が認められてのことである。
 惣右衛門は相変わらず、図面を睨んでは現場に行き、あれこれ動きまわっている。上役からは役所内だけの仕事にしてはと言われるようだが、現場を見ないとわからぬからと、以前と同様に外を回っていた。
 今日も朝から、先だっての大雨で戌亥町の崖が崩れたというので、それを検分しに行っている。





 ともと作造にも菓子を出して、お茶を飲んでいると、門の方で声が聞こえたような気がした。

「なんでしょう。見て参ります」

 ともはさっと立ち上がり、表へ駆けた。
 すぐに戻って来たともは、奥様、おかしな方がいますと言う。
 作造が見て参りますと言って出て行った。
 ともの話では着流しの老人で、腰のものをきちんと差しているものの、髷が乱れており、今帰った、なぜ迎えに出ぬと言っていると言う。

「なんだか、恐ろしうて」

 ともは怖がっていた。勢以は気になり、小治郎を見ておいておくれと言って門へ向かった。
 作造の声が聞こえてきた。

「ここは岡部じゃ」
「何を申す。村瀬じゃ。わしを村瀬喜兵衛と知ってのことか」

 勢以はえっと驚いた。村瀬喜兵衛は隣家の前の住人である。
 勢以が岡部に嫁に来てすぐに、屋敷替えで隣の村瀬家は戌亥町のこれより広い家に引っ越した。喜兵衛の息子は戌亥町の小ヶ田道場で師範代を務めるほどの腕であったから、近いところに引っ越せたと老人は喜んでいたものだった。
 その後、隣家は空き家になり、十年ほど前の大風で崩れたので、門から何から新しく作られ、別の家族が暮らしていた。
 それがなぜ今頃になって。確か喜兵衛の名は息子に譲り隠居されたはずである。
 勢以は門を出た。
 刀に手をかけて今にも抜きそうな老人は髪がすっかり白くなっているが、確かに村瀬喜兵衛だった。

「作造、そのお方は戌亥町の村瀬殿じゃ」
「奥様、あぶのうございます」
「大丈夫。作造、少し下がれ」

 勢以はそう言うと、老人の前に静かに進んだ。

「御帰りなさいませ、旦那様」

 できるだけ穏やかに言った。老人は刀から手を離した。

「出迎えが遅い。何をしておった」

 あたかも自分の妻女に言うかのような老人の口振りであった。

「お客様がおいででしたので」
「そうであったか」
「お客様がお菓子をお持ちです。お召し上がりになりますか」
「うむ」

 老人はそう言うと勢以の後を大人しくついていく。
 作造はほおと狐に抓まれたような顔である。
 勢以は玄関から老人を座敷に通した。もちろん、老人の刀は預かった。
 ともに茶と菓子を運ばせた。老人は座敷の上座で大人しく菓子を食べている。
 その間に勢以は作造に戌亥町の村瀬殿の宅に行って、御隠居様がいることを伝えてくれと言った。
 作造はへいと言うと、走って行った。
 恐らく家族も心配しているはずだった。年をとると、こういうことがあるのだと勢以は聞いたことがあった。
 父も昨年の病以来、調子が悪いと、おかしなことを口走ることがあった。見舞いに来た勢以を見て、勢以の母の名を呼んだりすることもあった。継母が同席している時など、申し訳なかった。
 そういう時に違いますと言うと、父は不機嫌になった。だから、勢以は、はいそうですと言うことにした。そうすれば、父は機嫌がいいのだった。
 恐らく村瀬老人もそうなのだろう。だから勢以は老人の奥方のふりをしてみたのだった。
 とはいえ、四六時中、こんな調子であれば、村瀬家の人々は大変なのではなかろうか。
 村瀬家には老人の妻と息子がいたはずである。息子はやはり惣右衛門と前後して結婚していた。ここ数年大坂、江戸詰めということで顔を見たことはないが、三年前に大坂から戻って来た妻には会ったことがあった。四人子どもがいるから、大変であろうことは想像がついた。
 座敷に戻ると、小治郎と村瀬老人が笑っていた。

「そうか、そうか。兄上が江戸か。うちは、息子と孫が江戸に行っておる」
「江戸はどんなところなのですか」
「一度若い頃に参った。毎日が祭のようであった」
「御神輿が出るのですか」
「御神輿は神田明神のものが立派でな。祭の時は千代田のお城にまで山車や神輿が入るんじゃ」

 父と同じだと思った。過去に帰ったかと思うと、今の話もする。そして、昔の思い出話が多くなる。

「千代田のお城とは、いかなるお城ですか」
「入ったことはないが、たいそう広うてな。それはそれは大きなお城じゃ。辰巳の町がいくつも入るであろうな」

 老人は思い出の江戸の話をいつまでも続けるのであった。





 半刻ばかりして、作造が少年を連れて来た。

「村瀬喜兵衛が次男勘八と申します」

 角前髪ということは元服前のようだった。母が忙しいゆえ、祖父を迎えにきたということだった。
 勘八が庭先でおじい様帰りましょうと言うと、老人は立ち上がった。

「あいわかった」

 勢以は刀を恭しく差し出した。老人はかたじけないと受け取って玄関から孫に手を引かれて出て行った。
 勢以は子ども一人ではもし何かあったらまずかろうと、自分もついていくことにした。ついでに村瀬の細君の様子も見ておきたかった。
 ともに夕餉の支度を頼んで、戌亥町の家まで歩いた。
 日が少し陰りかけていた。勘八は時々老人を見上げる。老人は今はおとなしかった。
 その少し後ろを歩きながら勢以は思った。村瀬家ではこれが日常なのだろうと。細君だけでなく孫たちも老人の世話をしているのだ。
 戌亥町の村瀬家は通りから引っ込んだ筋にあった。
 手入れの行き届いた枝ぶりのいい松が塀の外からも見えた。

「ただいま戻りました」

 勘八の声にすぐさま出て来た村瀬の細君に、勢以ははっとした。
 やつれているのが一目でわかった。

「お父様、御帰りなさいませ」
「うむ」

 老人は孫に手を引かれて中へ入った。村瀬の細君は勢以に会釈した。
 老人の足音が遠ざかっていく。
 細君は三和土の上に降りて頭を下げた。

「御迷惑をおかけして申し訳ありません。私もすぐに気付かなくて。気づいたら、すぐに探しに出たのですが」
「困った時はお互い様です。うちの父も卒中で倒れてからは時々子どもにかえったようで」
「まあ、卒中で」

 細君の顔に驚きと同情の色が見えた。
 村瀬老人の妻の気配がないことに勢以は気付いた。

「あの、大刀自様は」
「母は病で。こちらは寝たきりで、食事も一人ではとれませぬゆえ」

 ということは、つきっきりの看護が必要らしい。恐らく下の世話もあるのだろう。とすれば、舅に目がゆかぬのは当然のことだった。

「子どもが三人家におりますので、なんとかやっております」
「村瀬様がこのように家を出ることはよくおありなのですか」
「最近、日が傾くころになると落ち着かぬようで。いつもは子どもたちが気づくのですが、今日は道場の用事で帰りがいつもより遅かったものですから。本当に申し訳ありません」
「いえいえ、構いません。年をとると、昔のことを思い出すようですから。それにしても、旦那様が江戸においででは心細いこともおありでしょう」

 その言葉に、村瀬の細君の表情が揺らいだ。

「家を守るのは妻の勤めでございますから」

 気丈な言葉とは裏腹に、細君はひどく心細げに見えた。
 今日作造と言い合いになった時、老人は刀の柄に手をかけて今にも抜きそうに見えた。
 万が一、あれを抜いたら、女子どもだけの所帯では止められぬであろう。

「腰の物の扱いだけはお気を付けを。うちの下男と言い合いになった時に、柄に手をかけておいででした。もし、これが往来やお城の近くであったら、大変なことになります」

 細君の顔色が変わった。

「さようなことが」
「はい。私の実家でも父は身体がかなわぬので、刀を持つことはできませんけれど、それでも手の届く場所に置かぬようにしております。お気を付けくださいませ」
「ありがとうございます」

 そこへ稚児髷の童女が家の中から声をかけた。

「母上、またおばば様がお茶をむせてしまいました」
「今参ります」

 細君はそれではと会釈して家に戻った。
 村瀬の細君の痩せた背中に、勢以は実家にいる義妹の苦労を思った。とてもではないが満津の子の乳母など頼めない。
 やはり守倉家の手を借りねばならぬのかもしれなかった。
 それにしても、いくら子どもや雇人がいるとはいえ、動けない病人と、何をするかわからない老人がいるというのは、細君にとってはかなりの負担のはずだった。
 勢以は村瀬家の人々に何かできることはないかと考えていた。
 そういうわけで門を出たところで声をかけられるまで、惣右衛門が立っていたのに気づかなかった。

「どうしたのだ」
「あなたこそどうして」
「ここへ入って行くのが見えたのだ。村瀬の御隠居に何かあったのか」

 惣右衛門のほうは戌亥町の崖崩れの現場を見て、周辺の者達に話を聞いてまわっていたのだと言う。

「では、まだお仕事の途中だったのですね」
「ほとんど済んだ。後は書類を作るだけだ」

 その書類作りに時間がかかるのだが、惣右衛門は事も無げに言った。



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