生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

15 手遅れの文

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「御方様」

 須万は慌てて駆け寄った。

「大丈夫、大丈夫です」

 そうは言っても明らかに満津は動揺していた。冷たい指先に気づいた須万は部屋へ戻りましょうと満津を背後から抱えるように台所を出た。





 満津が聞いたのは多米の話の最後のほうである。それも断片的にしか聞こえなかった。

『江戸の上屋敷の奥女中に手を出したと』
『御正室の飼い犬の世話をしている女中だとか。犬の世話掛から若君の世話掛に鞍替えしたのかと』

 だが、それだけでもわかった。
 新右衛門は江戸上屋敷の御正室の飼い犬の世話掛の女中に手を出した。
 そういうことなのだと。
 気が付くと、床に横にされていた。
 須万が不安気な顔で見つめている。いけない。余計な心配をかけるわけにはいかない。満津は笑おうとした。が、顔が動かなかった。

「何かの間違いですよ。江戸は遠い。ささいな話が大げさになるのはよくあること」

 そうかもしれない。けれど、話はさほど大げさではない。若君が女中に手を出した。それだけのことなのだ。

「そのうち、江戸から寂しいとお手紙が届きますよ。まだ若君は子どもも同然」

 須万はそう言ったものの、若君と満津の夜は結構激しいと聞いている。若君はそちらのほうは大人かもしれないのだ。

「大丈夫です」

 明らかに満津は無理をしていると須万にはわかった。

「とにかく、御方様にはもう御子がおいでなのです。何があっても、その御子が御方様を守ってくださいます。気を強くお持ちください」
「ありがとうございます。一人になりとうございます」

 満津はそれだけははっきりと言った。

「御用があったらすぐにお呼びください」

 そう言うと須万は部屋を出た。すぐに気の利いた下女を呼び、御方様の部屋の前の廊下に控えているように命じた。もしほんのわずかでも不審な物音がしたら、断りを入れずに部屋に入ってよいとも言っておいた。
 それから台所に行き、飴湯を作った。少しでも満津に元気をつけてやりたかった。腹の中に何か入っていれば、人間少しは気持ちが落ち着くのだ。
 そこへ裁縫の師匠のところから戻った実乃が入って来た。
 生姜の匂いに実乃は気づいた。井戸の水をためた盥の中で小鍋が冷やされているのを見つけた。

「母上、飴湯ですか」
「まだですよ。御方様が先です」

 実乃は不安げに母を見上げた。

「母上、今日、御師匠様のところに来た方が、江戸の話をなさっていました」

 須万はぎょっとした。

「若様は何か悪いことをなさったのですか」

 幼い子どももいる場所でするような話ではないと須万は腹立たしかった。

「若様の話など畏れ多いこと。そのような話を聞いても話してもいけません。人の噂話をするのは品の悪いことです」
「悪いことをされたのではないのですね」
「悪いことなどなさるはずがありません。御方様にもそのような話をしてはなりませんよ」
「はい」

 実乃は返事をしたものの、大人たちの態度に不可解なものを感じていた。
 秘密めいた話を楽しげにしているように見えた。品の悪い噂話だというのに。





 満津は須万の飴湯を飲んだ。けれど、新右衛門のことは何一つ口にしなかった。
 夕刻甚太夫が戻ると、須万は満津が知ってしまったことを話した。

「仕方あるまい。いずれはわかること。御身体はどうだ。医師を呼んだほうがいいか」
「それは心配ありません。この時期に悪阻があるというのは子が育っているということ」
「そうだな」

 甚太夫はそう言った後、今日江戸から届いた文だと言って満津宛ての封書を見せた。

「昨日これが先に届いておればよかったのだが」

 内容はわからぬが、江戸表からの文が先に届いていれば、満津の気持ちも少しは違っていたかもしれないと須万は思った。

「これを渡していいものでしょうか」
「何もないよりはいいのではないか。言い訳があるだけましだ。もう一通旅の途上で書いた文も遅れて届いた」

 須万は二通の手紙を満津に渡した。
 床から起き上がった満津は押し戴くようにそれを受け取った。





 半刻後、満津は布団を頭からかぶり泣いていた。
 ばか。
 新右衛門のばか。
 本当にばか過ぎる。
 してはならないと言われたことをうっかりしてしまうなんて、ばかにもほどがある。
 こんなばかが父親になるなんて。
 腹の子がかわいそう過ぎる。
 いや、ばかという言葉に申し訳ない。
 ばかなどという言葉を使うのも勿体ない。
 ばかよりひどい。
 なんと言えばいいのか。
 阿呆、れ者、烏滸おこ、愚か者、たわけ者、頓馬、だら……
 満津は知る限りの言葉で罵った。






 翌朝、満津は赤い目をして朝食の席に座った。
 大人たちは皆不安そうに満津を見るが、満津はもう平気だった。
 昨夜、さんざん泣いた後、ふと思った。
 なんで、自分はバカな男のために泣いているのだろうか。
 泣いたって、この泣き声は江戸に届かないのだ。手紙が書かれてすでに二十日近くたっている。
 もしかしたら今だって、新右衛門はその女と抱き合っているかもしれない。いや、他の女とかもしれない。
 江戸のことを国許にいる満津がどうこうできないことは明らかだった。
 満津の涙はそこで止まった。泣いても無駄だと気づいたのだ。
 そうなると、頭の中が妙に冴えてきた。
 まず、考えた。犬の世話係の女中が寵を受けたところで一時のことだろう。自分と新右衛門の間には長い時間をかけて培った絆がある。
 それに子どもがいる。ここで落ち込んで食事もしないでいたら子に障る。子どもさえいれば、自分はその女中よりも立場は強いはずだ。
 女中が子どもを産めば別だが、まだそんなことはわからない。わからないことを悩むのもバカらしかった。
 確かなことは今ここに子を孕んだ自分がいること。そして、文で新右衛門が幾度も謝っていること。戌の日の安産祈願のことも書いてあったこと。
 彼は自分のしたことが満津に申し訳ないことだとわかっている。子どものことも大切に思ってくれている。それならば、許すしかない。怒っていても、その相手が目の前にいないのだ。見えない相手に怒っても、どうしようもない。
 怒るのは新右衛門が香田角に帰って来てからでも遅くはない。
 いつになるかはわからない。
 帰ってくるのは殿様になってからの話だろう。
 殿様という立場になれば逃げも隠れもできないはずである。
 それまで、怒りはひとまず心の中の箪笥にしまっておくことにした。
 心穏やかにとはいかないが、無用の怒りに心をかき乱さず、子どもを守っていこうと満津は決めた。
 だから、朝餉を少しでも食べておきたかった。食べねば力は出ないのだから。





 朝餉の後、お城のお仙の方様のお使いがご機嫌伺いに来た。
 今まで来たことがなかったのに、こんな時に来るとはずいぶんと意地の悪いことと、取り次いだ須万は腹立たしさを覚えた。
 満津は落ち込んだ顔を見せたくなかったので、腫れたまぶたが目立たぬように化粧して挨拶に出た。
 使いはひどく驚いていた。
 大方、江戸の件で落ち込んでいると思っていたのだろうと、満津は思う。
 けれど、そんな顔は意地でも見せたくなかった。

「それにしても、こうしてお城の外までおいでくださるとは。御隠居所の作事が終われば、わざわざ外までおいでにならなくともよくなりますのにね」

 ついでに嫌味も言っておいた。お仙の方の周囲の女達が作事に反対しているおかげで、満津はいつまでも大量の献上品とともに沢井家の世話にならねばならぬのだから。
 自分の身はともかく、なんとかしないと、献上品でそのうち座敷の床が抜けるのではないか。
 使いの中老は恐れ入りますとしか答えなかった。





 午後には岡部勢以が顔を出した。
 勢以は赤子の産着を作ったのでと言い、産着の入った包を渡した。

「冬に生まれるゆえ、汗はさほどかかぬかもしれませんが」

 そう言った後、乳母をそろそろと同席した須万に話した。
 須万も心当たりを探っているようだった。

「勢以様のご実家の方はどなたか、おられませんか」
「弟の嫁が秋に子を産みますが、弟の役目柄、家を離れるわけにはいきません。病人もおりますし」

 勢以の父は卒中の後、身体が元に戻らず、隠居して息子に家督を譲ったのだった。
 郡奉行に任ぜられた弟はまだ仕事に慣れていない。義妹は自分の身体のことだけでなく、舅の介護や代替わりで忙しくなった家のあれこれで目が回るほど忙しいようだった。

「口の堅い女子を探さねばなりませんね」

 満津は言った。須万はその強い口調に驚いた。
 これまで、あまり意見めいたことを言わず、大人しかった満津が自分の意見を言うとは。
 勢以は言った。

「さようですね。丑寅あたりのほうも探してみましょう」
「守倉の家の者なら、つてがあるかもしれません」

 満津は平太の母を思い出していた。彼女なら、いい乳母を探してくるように思えた。




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