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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)
14 国許、噂の花が咲く
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「まあ、これを御覧なさいませ。この襁褓は大久間の出湯の旅籠の主人たちからじゃ。旅籠の女将や働く女子達が縫ったということじゃが、何枚あるのやら」
沢井須万はそう言って、畳紙の包の中から晒しの布で作られたそれを一枚手に取って、満津に見せた。
ここは満津が住む沢井家の座敷である。
満津の懐妊が判明してから、まだ城からの発表もないのに、あちこちから献上品が沢井家に運びこまれて来た。
座敷に運びこんだものの、あまりの量に別室にまで置くようになってしまった。
本来なら城に運び入れるべきなのだが、御隠居所の改装はいまだ手つかず。満津の居場所も献上品の置き場所も城内にはなかったのである。
今日は悪阻も軽く、須万が気分のいい今のうちにと献上品を見せてまわった。
「御礼状はいかがいたしましょうか」
「今手分けして書かせております」
「申し訳ありませぬ。このような身でなければ」
満津は沢井家の人々に迷惑をかけているようで情けなかった。
「悪阻は仕方ないこと。私などほとんど動けませんでしたから」
須万はおっとりとした顔で言う。須万自身は、当時健在だった姑にずいぶんと嫌味を言われ肩身の狭い思いをしたものだった。だからこそ、満津には気兼ねなく過ごして欲しかった。
「少し御歩きになって疲れたでしょう。瓜がありますゆえ、一休みいたしましょう」
満津は別に疲れてはいなかったがうなずいた。疲れているのは満津の世話やこうした品々の管理をしなければならない須万のほうであろうと思ってのことである。
沢井家は中老を代々言いつかっている家である。小田切家も中老の家柄だが、今は於絹の方の出た家ということで国許の家老を務めていた。
それだけに、養女の満津の懐妊は喜ばしいことであった。沢井家の将来が広がると甚太夫はじめ皆、満津の幸いを寿いだ。
満津は人々の期待を受け、喜び以上に責任の重さを感じていた。
小座敷に行くと、すぐに女中が煎茶を運んできた。瓜はマクワウリだった。現代のメロンに比べれば甘味は強くないが、甘い食品の少ない当時では貴重な甘味だった。
「この瓜は山置の郡奉行様からです」
岡部勢以の実家である。
「勿体ないことです」
みずみずしい果実は食欲のあまりなかった満津の喉を潤していく。
「しばしの辛抱です。悪阻は必ず終わります」
須万はほほ笑んだ。
廊下をぱたぱたと歩く音が聞こえた。
「実乃、もそっと静かに歩きなされ」
薙刀の師匠のところから帰ってくると実乃の足音はなんとなく騒がしくなるようであった。
「母上、ただいま帰りました」
実乃が部屋の前の廊下に座って言った。
「御帰りなさい。今日はどうでしたか」
「いつものごとく、無事に終わりました」
そう言った後、実乃は御分家の壱姫様と奈加姫様がおいでになったことを伝えた。
「珍しいこと、奈加姫様がおいでとは」
「はい。それで終わった後に、御分家様より皆お菓子を賜りました」
そう言うと実乃は紙に包んだ菓子を差し出した。
「まあ、これはふくれ菓子じゃな」
「満津様もどうぞ」
実乃は差し出した。
「ありがとう」
受け取ろうとした満津に須万は鋭い目を向けた。
この目を沢井家に来てから何度も満津は見ていた。献上品の中で菓子や酒など味が甘すぎたり濃すぎたりするものには特に気を付けるようにと梅芳院からも言われていた。
中に何が入っているかわからぬからと。
「お気持ちだけいただきます」
満津はほほ笑んで、手を引っ込めた。
「いっつもお気持ちだけ」
実乃は頬をふくらませた。
「せっかく、御分家様から殿様のお話も伺ったのに」
「どういうお話ですか」
満津の問いに実乃は得意げに言った。
「皆さま、江戸に無事到着されたそうです」
須万もまだ聞いていない話だった。恐らく今朝早飛脚で城に伝えられたのだろう。
甚太夫が帰宅したら報告するに違いなかった。
「よかった」
満津は安堵した。佐賀の関と大坂から送られた文は読んでいる。
汐待でなかなか船が出なかったので魚を釣ったとか、大坂見物ができずつまらなかったとか、書かれた文や同封された瀬戸内の島々の絵など、もう何度も見ていた。
一体海とはどんなものなのだろうかと満津は毎晩想像していた。
体調がいい時に文を書いて送っているが、江戸に届いたであろうか。
何はともあれ無事の到着はめでたかった。
「それでね、御師匠様に若君様におかれましてはごきげんうるわしうとか御分家様がおっしゃってたのだけれど、よくわからなかったの」
実乃の言葉に満津は何かひっかかりを覚えた。
須万も何のことかという顔である。
「お師匠様にって、実乃、そなた立ち聞きでもしたのではないでしょうね」
「ちょうど、道場を出る時に、後ろから聞こえたのです」
「そういうのも立ち聞きと言うのですよ」
「申し訳ありませぬ」
「次からさようなことはしてなりませぬよ」
「はい」
「さ、あなたもお茶をお飲みなさい」
「はい」
実乃は大人しく湯呑を取り、茶を飲んだ。ふくれ菓子も一口ずつ食べた。
その様子を須万はじっと見つめていた。二口三口、実乃はおいしいと言って食べた。
食べ終わっても、須万は何も言わず見つめた。
「満津様も早く召し上がれるようになれたらよいですね」
そう言ってほほ笑んだ実乃だった。
須万はほっと息を吐いた。どうやら大丈夫だったようである。
須万は満津への献上品や沢井家への贈答品で少しでも不審に思われる物があれば、女中や実乃に先に食べさせるようにしていた。要するに毒見である。
満津もそのことに気づいていた。だが、それを咎めるわけにはいかなかった。
満津の身体は満津だけのものではなくなっていた。満津の身体、いやその中の赤子は、家中の運命を背負っているのだ。
万が一にも、食べ物に毒物が入っていたら、それは満津だけでなく、赤子にも害となる。
須万は強い覚悟で養女の実乃に毒見の役をさせていた。子どもの小さい身体であれば、毒がすぐに回る。毒見の結果はすぐに判明する。
何も知らない実乃は満津様のおかげでおいしいものが食べられると喜んでいるのだった。
沢井家の人々の献身を思うと、小田切家が殿様から丁重に扱われている事情も今の満津には分かる。彼らもまた於絹の方と赤子を守ったのだ。
子どもは母親一人で生めるものではない。こうして大勢の人に助けられているのだと満津は思う。
だからこそ、無事に子を産んで、その子が人々の役立つように育てなければならないのだと満津は強く思うのだった。
その日帰宅した沢井甚太夫は参勤の行列が四月初旬、無事に江戸上屋敷に御到着したと告げた。
須万も実乃もめでたいことと言う。満津もまた喜んだ。
夕餉の後、満津と実乃が部屋に下がると、甚太夫は須万を小座敷に呼んだ。
「実は江戸表からもう一通早飛脚が届けた文がある」
そう言うと、甚太夫は須万に若君が江戸上屋敷に入った当日の夜、お女中を召したことを告げた。
須万は耳を疑った。
「この話、すでにどこからか漏れておるようでな、下士達の間で噂になっておる。使用人たちには決して満津の方様の耳に入れぬようにと」
「承りました、早速」
すぐに須万は台所に女中や下女、中間、下男らを集めた。
江戸表の話が様々囁かれておるが、決して満津の方様の御耳には入れぬようにと命ずると、幾人かの下女は心当たりがあるような顔で返事をしたのだった。
屋敷の内ではたとえ満津の方様が来ないと思われる場所であっても油断なく話をせぬようにと厳しく言った須万の対応は正しかった。
だが、それは沢井家の屋敷内の人間への命令である。
沢井家の外の人間には通じない話だった。
翌日、評定所留役の作田文左衛門の奥方多米が沢井家を訪れた。岡部勢以とも馴染みの夫人である。
須万とは若い頃薙刀を競い合った仲である。今もお茶等を通じて交流があった。
この日多米は端午の節句に作る灰汁巻用の竹の皮を持って来た。多米の実家には竹林があり、須万は毎年それを融通してもらっていた。その代わり、灰汁を多米に分けることにしていた。
今年もどっさり竹の皮を持って来た多米と台所の傍らでともに茶を飲みながら互いの近況を話すのは、須万にとっては忙しい家事の間の息抜きだった。
ただ満津がいるので、こちらの近況を詳しく話すわけにはいかない。
そのあたりの事情は多米も分かっているようで、しつこく尋ねることはない。
だが、下女が台所から出ると、不意に多米は声を低めた。
「江戸の奥女中の件、お聞きになりましたか」
須万はまずいと思った。
「その件は控えてもらえませぬか」
「まさか、御方様は御存知ないのですか」
多米は細い目を丸くした。
「いずれは知れることではありませんか」
「今は大事な時期ゆえ」
「それはそうですけれど、どうなさるおつもりです。もし、あちらに御子ができたりしたら」
「今はまださようなことは」
須万は多米の口をふさぐ方法はなかろうかと思った。小柄を突きつけようかとも思ったが、そこまで大袈裟なことはできなかった。
「多米様、とにかく屋敷の内ではその件は語らぬように家の者にも言うておるのです」
須万は必死だった。なんとか多米の口をふさがねば。
「でも、いずれお城に入れば嫌でもそのお話は入ってくるのですよ」
「まだお城に参るのは先のこと。御隠居所の作事は進んでおらぬのですから」
「あ、その件ですけれど」
どうやら話題が変わりそうだと須万は安堵した。
「お仙の方様よりも御年寄たちがいろいろ騒いでおいでのようですね。殿様の弟君の分際で先に御子を成すとは不敬と」
その批判は須万も覚悟している。
「その上、江戸の上屋敷の奥女中に手を出したということで、城の奥の皆様はもう蜂の巣を突いたようだとか。なんでも御正室の飼い犬の世話をしている女中だとか。犬の世話掛から若君の世話掛に鞍替えしたのかと、もうそれはそれは」
結局、話題はそれだった。
「多米様、もうお引き取りください。うちには幼い娘もおります。さような話は耳に入れるわけには参りません」
さすがに須万も堪忍袋の緒が切れた。多米は須万がいったん怒るとなかなか機嫌を直さぬことを知っていた。
「申し訳ございません。御免なさいませ」
「灰汁は、後でうちの下女をそちらにやりますゆえ」
多米を追い出すように台所の戸口から追い立てた。
戸を立てた須万は気配に振り返った。
水を飲みに台所に来たらしい満津がまるで幽霊のように青白い顔で立っていた。
沢井須万はそう言って、畳紙の包の中から晒しの布で作られたそれを一枚手に取って、満津に見せた。
ここは満津が住む沢井家の座敷である。
満津の懐妊が判明してから、まだ城からの発表もないのに、あちこちから献上品が沢井家に運びこまれて来た。
座敷に運びこんだものの、あまりの量に別室にまで置くようになってしまった。
本来なら城に運び入れるべきなのだが、御隠居所の改装はいまだ手つかず。満津の居場所も献上品の置き場所も城内にはなかったのである。
今日は悪阻も軽く、須万が気分のいい今のうちにと献上品を見せてまわった。
「御礼状はいかがいたしましょうか」
「今手分けして書かせております」
「申し訳ありませぬ。このような身でなければ」
満津は沢井家の人々に迷惑をかけているようで情けなかった。
「悪阻は仕方ないこと。私などほとんど動けませんでしたから」
須万はおっとりとした顔で言う。須万自身は、当時健在だった姑にずいぶんと嫌味を言われ肩身の狭い思いをしたものだった。だからこそ、満津には気兼ねなく過ごして欲しかった。
「少し御歩きになって疲れたでしょう。瓜がありますゆえ、一休みいたしましょう」
満津は別に疲れてはいなかったがうなずいた。疲れているのは満津の世話やこうした品々の管理をしなければならない須万のほうであろうと思ってのことである。
沢井家は中老を代々言いつかっている家である。小田切家も中老の家柄だが、今は於絹の方の出た家ということで国許の家老を務めていた。
それだけに、養女の満津の懐妊は喜ばしいことであった。沢井家の将来が広がると甚太夫はじめ皆、満津の幸いを寿いだ。
満津は人々の期待を受け、喜び以上に責任の重さを感じていた。
小座敷に行くと、すぐに女中が煎茶を運んできた。瓜はマクワウリだった。現代のメロンに比べれば甘味は強くないが、甘い食品の少ない当時では貴重な甘味だった。
「この瓜は山置の郡奉行様からです」
岡部勢以の実家である。
「勿体ないことです」
みずみずしい果実は食欲のあまりなかった満津の喉を潤していく。
「しばしの辛抱です。悪阻は必ず終わります」
須万はほほ笑んだ。
廊下をぱたぱたと歩く音が聞こえた。
「実乃、もそっと静かに歩きなされ」
薙刀の師匠のところから帰ってくると実乃の足音はなんとなく騒がしくなるようであった。
「母上、ただいま帰りました」
実乃が部屋の前の廊下に座って言った。
「御帰りなさい。今日はどうでしたか」
「いつものごとく、無事に終わりました」
そう言った後、実乃は御分家の壱姫様と奈加姫様がおいでになったことを伝えた。
「珍しいこと、奈加姫様がおいでとは」
「はい。それで終わった後に、御分家様より皆お菓子を賜りました」
そう言うと実乃は紙に包んだ菓子を差し出した。
「まあ、これはふくれ菓子じゃな」
「満津様もどうぞ」
実乃は差し出した。
「ありがとう」
受け取ろうとした満津に須万は鋭い目を向けた。
この目を沢井家に来てから何度も満津は見ていた。献上品の中で菓子や酒など味が甘すぎたり濃すぎたりするものには特に気を付けるようにと梅芳院からも言われていた。
中に何が入っているかわからぬからと。
「お気持ちだけいただきます」
満津はほほ笑んで、手を引っ込めた。
「いっつもお気持ちだけ」
実乃は頬をふくらませた。
「せっかく、御分家様から殿様のお話も伺ったのに」
「どういうお話ですか」
満津の問いに実乃は得意げに言った。
「皆さま、江戸に無事到着されたそうです」
須万もまだ聞いていない話だった。恐らく今朝早飛脚で城に伝えられたのだろう。
甚太夫が帰宅したら報告するに違いなかった。
「よかった」
満津は安堵した。佐賀の関と大坂から送られた文は読んでいる。
汐待でなかなか船が出なかったので魚を釣ったとか、大坂見物ができずつまらなかったとか、書かれた文や同封された瀬戸内の島々の絵など、もう何度も見ていた。
一体海とはどんなものなのだろうかと満津は毎晩想像していた。
体調がいい時に文を書いて送っているが、江戸に届いたであろうか。
何はともあれ無事の到着はめでたかった。
「それでね、御師匠様に若君様におかれましてはごきげんうるわしうとか御分家様がおっしゃってたのだけれど、よくわからなかったの」
実乃の言葉に満津は何かひっかかりを覚えた。
須万も何のことかという顔である。
「お師匠様にって、実乃、そなた立ち聞きでもしたのではないでしょうね」
「ちょうど、道場を出る時に、後ろから聞こえたのです」
「そういうのも立ち聞きと言うのですよ」
「申し訳ありませぬ」
「次からさようなことはしてなりませぬよ」
「はい」
「さ、あなたもお茶をお飲みなさい」
「はい」
実乃は大人しく湯呑を取り、茶を飲んだ。ふくれ菓子も一口ずつ食べた。
その様子を須万はじっと見つめていた。二口三口、実乃はおいしいと言って食べた。
食べ終わっても、須万は何も言わず見つめた。
「満津様も早く召し上がれるようになれたらよいですね」
そう言ってほほ笑んだ実乃だった。
須万はほっと息を吐いた。どうやら大丈夫だったようである。
須万は満津への献上品や沢井家への贈答品で少しでも不審に思われる物があれば、女中や実乃に先に食べさせるようにしていた。要するに毒見である。
満津もそのことに気づいていた。だが、それを咎めるわけにはいかなかった。
満津の身体は満津だけのものではなくなっていた。満津の身体、いやその中の赤子は、家中の運命を背負っているのだ。
万が一にも、食べ物に毒物が入っていたら、それは満津だけでなく、赤子にも害となる。
須万は強い覚悟で養女の実乃に毒見の役をさせていた。子どもの小さい身体であれば、毒がすぐに回る。毒見の結果はすぐに判明する。
何も知らない実乃は満津様のおかげでおいしいものが食べられると喜んでいるのだった。
沢井家の人々の献身を思うと、小田切家が殿様から丁重に扱われている事情も今の満津には分かる。彼らもまた於絹の方と赤子を守ったのだ。
子どもは母親一人で生めるものではない。こうして大勢の人に助けられているのだと満津は思う。
だからこそ、無事に子を産んで、その子が人々の役立つように育てなければならないのだと満津は強く思うのだった。
その日帰宅した沢井甚太夫は参勤の行列が四月初旬、無事に江戸上屋敷に御到着したと告げた。
須万も実乃もめでたいことと言う。満津もまた喜んだ。
夕餉の後、満津と実乃が部屋に下がると、甚太夫は須万を小座敷に呼んだ。
「実は江戸表からもう一通早飛脚が届けた文がある」
そう言うと、甚太夫は須万に若君が江戸上屋敷に入った当日の夜、お女中を召したことを告げた。
須万は耳を疑った。
「この話、すでにどこからか漏れておるようでな、下士達の間で噂になっておる。使用人たちには決して満津の方様の耳に入れぬようにと」
「承りました、早速」
すぐに須万は台所に女中や下女、中間、下男らを集めた。
江戸表の話が様々囁かれておるが、決して満津の方様の御耳には入れぬようにと命ずると、幾人かの下女は心当たりがあるような顔で返事をしたのだった。
屋敷の内ではたとえ満津の方様が来ないと思われる場所であっても油断なく話をせぬようにと厳しく言った須万の対応は正しかった。
だが、それは沢井家の屋敷内の人間への命令である。
沢井家の外の人間には通じない話だった。
翌日、評定所留役の作田文左衛門の奥方多米が沢井家を訪れた。岡部勢以とも馴染みの夫人である。
須万とは若い頃薙刀を競い合った仲である。今もお茶等を通じて交流があった。
この日多米は端午の節句に作る灰汁巻用の竹の皮を持って来た。多米の実家には竹林があり、須万は毎年それを融通してもらっていた。その代わり、灰汁を多米に分けることにしていた。
今年もどっさり竹の皮を持って来た多米と台所の傍らでともに茶を飲みながら互いの近況を話すのは、須万にとっては忙しい家事の間の息抜きだった。
ただ満津がいるので、こちらの近況を詳しく話すわけにはいかない。
そのあたりの事情は多米も分かっているようで、しつこく尋ねることはない。
だが、下女が台所から出ると、不意に多米は声を低めた。
「江戸の奥女中の件、お聞きになりましたか」
須万はまずいと思った。
「その件は控えてもらえませぬか」
「まさか、御方様は御存知ないのですか」
多米は細い目を丸くした。
「いずれは知れることではありませんか」
「今は大事な時期ゆえ」
「それはそうですけれど、どうなさるおつもりです。もし、あちらに御子ができたりしたら」
「今はまださようなことは」
須万は多米の口をふさぐ方法はなかろうかと思った。小柄を突きつけようかとも思ったが、そこまで大袈裟なことはできなかった。
「多米様、とにかく屋敷の内ではその件は語らぬように家の者にも言うておるのです」
須万は必死だった。なんとか多米の口をふさがねば。
「でも、いずれお城に入れば嫌でもそのお話は入ってくるのですよ」
「まだお城に参るのは先のこと。御隠居所の作事は進んでおらぬのですから」
「あ、その件ですけれど」
どうやら話題が変わりそうだと須万は安堵した。
「お仙の方様よりも御年寄たちがいろいろ騒いでおいでのようですね。殿様の弟君の分際で先に御子を成すとは不敬と」
その批判は須万も覚悟している。
「その上、江戸の上屋敷の奥女中に手を出したということで、城の奥の皆様はもう蜂の巣を突いたようだとか。なんでも御正室の飼い犬の世話をしている女中だとか。犬の世話掛から若君の世話掛に鞍替えしたのかと、もうそれはそれは」
結局、話題はそれだった。
「多米様、もうお引き取りください。うちには幼い娘もおります。さような話は耳に入れるわけには参りません」
さすがに須万も堪忍袋の緒が切れた。多米は須万がいったん怒るとなかなか機嫌を直さぬことを知っていた。
「申し訳ございません。御免なさいませ」
「灰汁は、後でうちの下女をそちらにやりますゆえ」
多米を追い出すように台所の戸口から追い立てた。
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