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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)
13 豊後守の孫娘
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童女は乱れた髪を直すと言った。
「おじじ様、お菓子を」
「その前に御客様に挨拶じゃ」
童女は隆迪と隆礼に向き直り頭を下げた。
「加部豊後守の子息掃部助が娘祝にございます。おみぐるしい姿をごらんにいれて申し訳ありませぬ」
そう言った後、祖父を見た。
「おじじ様、これでよろしいですか」
「ようできた」
「ではお菓子と蘇芳丸をいただきます」
「ちゃんと毛を毎日梳いてやるのじゃぞ」
「はい」
大きな目の童女の手に豊後守は自分の前に置かれた高坏の上の干菓子を載せた。
「ありがとうございます」
そう言うと童女はそれをぽいと口に入れた。姫君らしからぬ動作に隆迪は驚いた。
さらに童女はそれを噛み砕き呑み込むと言った。
「おじじ様、この方たちはだあれ」
「そうであった。こちらは、姫の父上の妹の眞里姫の御夫君の山置飛騨守様じゃ」
「あ、眞里叔母様の。茜丸はお元気ですか」
隆迪は九つで嫁いできた眞里姫とはあまりに違う、はきはきとした物言いをする姫に驚きを越えてあきれてしまった。物怖じしないといえば聞こえはいいが。
「茜丸は元気じゃ」
「よかったな、姫。茜丸は蘇芳丸の兄上様だから、ご機嫌を伺いに参らねばならぬな」
「はい。そちらの色の黒い方はどなたですか」
隆礼は江戸の姫君というのは意外に気安い話し方をするのだなと思った。
「こちらは飛騨守様の弟御じゃ」
「飛騨守様の弟御は一体何人おいでなのですか」
「ハハハ、これはこれは」
豊後守は上機嫌に笑う。
「四人目の方だ。この度、国許から初めて江戸に参府された」
「それでは、この方が、十五で父上になる方なのですね」
さすがに隆礼も驚いた。豊後守も慌てた。
「これ、姫。さようなこと、どこで。申し訳ありませぬ」
「奥の女達が申しておりました。わらわの婿になるやもしれぬと」
隆迪はこれは逃れられぬと思った。もし断れば、姫に恥をかかせたということで、豊後守の奥の女達を敵にまわすことになる。
「よかった。顔を見られて。姉上たちのように祝言の夜まで顔を見たことがないなどというのは、祝は嫌でございます」
はっきりした口調で言う姫は隆礼を大きな目でまじまじと見上げた。
御分家の壱姫とも沢井家の実乃とも、ましてや満津とも卯女とも違う強い視線だった。
「弟君様の御子の母上はお美しい方なのですか」
姫の口はいっこうに減らなかった。豊後守もこれやめぬかと言ったが、平然とした顔である。
隆礼はなんだか不愉快さを感じていた。子どもらしくない。
「それを知ってどうするのだ」
隆礼の問いに童女は無邪気に笑った。
「お美しい方の赤子なら同じようにお美しいはず。わらわは、美しいものが大好きゆえ、赤子を育てたく思います」
あまりにあっけらかんとしているので、隆礼は何と言っていいかわからなかった。
隆迪はその様子に、これはいいかもしれぬと思い始めていた。
隆礼には、このくらいの正室がちょうどいいかもしれぬ。姫君然とした女子では張り合いもなかろう。
「赤子を育てるのはお人形遊びではない」
隆礼はやっとのことで言った。
「はい。わらわも母上に育てられましたゆえ、わかっております。わらわを産んだのは下屋敷にいる津弥の方。育ててくださったのは中屋敷の父上の正室である母上にございます。母上のように、わらわも他の女子の子を育ててみたいと思うております」
隆礼には理解できない理屈だった。
「子を自分で産みたいと思わぬのか」
「痛いのはきらいです。上の姉上が申しておりました。とても痛かったと。それに死んでしまうかもしれぬし」
痛いのが嫌だから産みたくない。死にたくない。他の女子に産んでもらった子を育てたい。しかも美しいものが好きだから、美しい方の赤子を育てたいなどとは。その理屈こそ、隆礼には我儘勝手に思えた。
姫君というのはこんなにも我儘なのだろうか。
「面白い姫君じゃ」
隆迪は言った。
「兄上、何を」
隆礼は愉快そうに笑う兄を見てまたも驚いた。
「姫様、我が弟の奥になってくれるか」
姫は隆迪の問いに小首を傾げた。
「なぜ、ご本人ではなく、兄上様がおっしゃるのですか」
「理屈が通らぬか」
「はい」
「よい、これはよい。豊後守様、お話承りました」
豊後守のほうが驚いた。
「本当に宜しいのか」
「構いませぬ」
「兄上、わしは」
隆礼はこれはまずいと思った、こんなに簡単に自分や姫君の将来を決めていいのか。
だが、そう思ったのは姫も同様だった。
「おまちください。弟御のお気持ちをきかなくともよいのですか」
隆礼は驚いた。幼いながらも初めて会った自分の気持ちのことまで考えるとは。
「そうであったな」
隆迪はうなずいた。
「隆礼、どうじゃ。この姫を奥に」
「姫様のお気持ちがわからぬのに」
「わかっておるではないか。先ほど、姫はそなたの子を育てたいと言ったのだ。側室の子を育てるのも正室の役目」
「ですが、美しいものがお好きなだけ。赤子は美しいだけでは済みません。ゆばりもすればくそもする。病気になれば、夜昼関係なく熱を出す。狆の子とは違うのです」
幼い小治郎を世話したこともあるから、赤子がどれだけ大変か隆礼も知っている。
「狆の子もそうじゃ。ゆばりもくそもするし、病にもかかる」
姫は立ち上がった。
「狆をバカにするでない」
そう言うと姫は障子を開けて縁側に出ようとする。
「これ、姫」
豊後守は立ち上がり、それを追った。
「うっ、苦しい」
突然、豊後守は胸を押さえて、その場にしゃがみ込んだ。
「豊後守様」
隆礼が先に駆け寄った。
「大事ない。すぐようなる」
姫も縁側から駆け戻って来た。
「おじじ様、誰か呼んで参ります」
「よい、大丈夫じゃ。じっとしておれば治る」
隆迪は縁側に出て庭で狆を探している女中を呼んだ。
「豊後守様が胸を押さえておる。医者を呼べ」
すわ一大事と女中は医師の詰所へ向かった。
隆迪は振り返った。
豊後守は少し人心地ついたようだった。その左右に隆礼と姫がそれぞれとりすがっていた。
「そなたらが夫婦になってくれたら、余は安心して極楽に参れる」
「極楽などまだ早すぎます。わらわはめおとになど」
「う、苦しい」
豊後守はまた胸を押さえた。
「のう、隆礼殿、姫を頼む。でないと、余は死んでも死に切れぬ」
「死ぬなど気弱なことを」
「ああ、苦しい。頼む、姫を」
豊後守は隆礼を見つめた。その眼光に隆礼は一瞬、畏れを覚えて、怯んでしまった。
「わ、わかりました。姫様をお預かりします」
言ってしまった。
「そうか、かたじけない。姫や、隆礼様の言うことをきちんと聞いて、よき奥方になるのだぞ」
「おじじ様、しっかりしてくださいませ」
姫は泣きそうな顔ですがりついた。
そこへどたどたと医師や小姓、側近たちがやって来た。
「殿、殿」
豊後守はむっくりと立ち上がった。
「何を慌てておる」
隆迪も側近たちも、祝姫も隆礼も唖然とした。豊後守の声はしっかりしていた。
「余が倒れたからといって、かように騒いでなんとする。武士たるもの、常に戦場にあると思い、落ち着いて行動すべきものぞ」
その声に恐れを見せず若い医師が言った。
「畏れながら、御脈を」
「大事ない。皆下がってよい」
隆礼はあまりのことにあきれて物も言えなかった。仮病とは。
医師たちがすごすごと下がった後、姫は叫んだ。
「おじじ様、うそをついたのですか」
「嘘ではない。そなたらが二人、喧嘩をする姿を見ておると何やら胸が苦しくなってのう。このままでは極楽に参れぬと思ったのじゃ。だが、隆礼殿が姫を預かると言うてくれたから、胸の苦しさが取れたのじゃ。これで余はいつ何があっても安心じゃ。隆礼殿、姫を頼みますぞ。ちと変わっておるが、そなたにはこれくらいがよかろうて。飛騨守殿、中屋敷の件、若年寄から追って沙汰があるはず。弟御のお目見えの件、わしからも口添えをしておこう」
豊後守はそう言うと豪気に笑った。
「いやあ、長生きはするもの。祝姫の花嫁姿を見る楽しみが増えたのう」
隆迪は仮病にしては真に迫っていると思ったものの、変わらぬ声の張りに安堵した。
控えの間では、平太が肩を震わせて必死に笑いを堪えていた。
「どうしたのだ」
惣左衛門の耳打ちに平太はようやっと答えた。
「後で話す。卯之助も年貢を納めることになったようじゃ」
一体、平太には何が聞こえるのか。惣左衛門は不思議でならなかった。
飛騨守一行が屋敷を出た後、豊後守は庭先に降りた。
蘇芳丸は見つかり、女中達はもういない。
豊後守は手をパンパンと二回打った。池の鯉でも呼ぶように。
だが、そこに池はない。鯉も池ではなく領地の田で食用として育てる物だった。だからこの喩えは当時であればいささか不適切であろう。
目の前の植え込みの躑躅のこずえがささと揺れた。
豊後守は低い声で命じた。
「飛騨守の厨に入り、飛騨守の十日分の食事の量を調べよ」
「はっ」
声がしたかと思うと躑躅の木の背後から人の気配がすっと消えた。
豊後守はゆっくりと庭を見渡した。
一年ぶりに会った飛騨守はまた痩せていた。
それを見た瞬間、絶対に祝姫と隆礼を縁組させねばならぬと思った。
これまで生きてきた経験から、豊後守は飛騨守の身体はもうそれほど長くはもたぬように感じられたのだ。
隆礼のお目見えの済まぬうちに、倒れられては困る。
正式な跡継ぎの手続きをしなければ、山置家は断絶してしまう。
娘や孫のことを思えば、それだけは避けたかった。
豊後守の部下には忍びもいた。彼らを使い、飛騨守の健康状態を探る必要があった。
何をどれくらい食べたかで大体の体調はわかる。忍び達は命令の意味をわかっているはずだから、飛騨守の体調をこちらが望む以上に詳しく調べるだろう。
彼らは飛騨守の他の弟二人が後継者になれないであろうことも調べ上げていた。
「又五郎殿、そなたの子孫は、わしが守るからな」
先に逝ってしまった友を思い、豊後守は赤く染まりつつある西の空を見つめた。
「おじじ様、お菓子を」
「その前に御客様に挨拶じゃ」
童女は隆迪と隆礼に向き直り頭を下げた。
「加部豊後守の子息掃部助が娘祝にございます。おみぐるしい姿をごらんにいれて申し訳ありませぬ」
そう言った後、祖父を見た。
「おじじ様、これでよろしいですか」
「ようできた」
「ではお菓子と蘇芳丸をいただきます」
「ちゃんと毛を毎日梳いてやるのじゃぞ」
「はい」
大きな目の童女の手に豊後守は自分の前に置かれた高坏の上の干菓子を載せた。
「ありがとうございます」
そう言うと童女はそれをぽいと口に入れた。姫君らしからぬ動作に隆迪は驚いた。
さらに童女はそれを噛み砕き呑み込むと言った。
「おじじ様、この方たちはだあれ」
「そうであった。こちらは、姫の父上の妹の眞里姫の御夫君の山置飛騨守様じゃ」
「あ、眞里叔母様の。茜丸はお元気ですか」
隆迪は九つで嫁いできた眞里姫とはあまりに違う、はきはきとした物言いをする姫に驚きを越えてあきれてしまった。物怖じしないといえば聞こえはいいが。
「茜丸は元気じゃ」
「よかったな、姫。茜丸は蘇芳丸の兄上様だから、ご機嫌を伺いに参らねばならぬな」
「はい。そちらの色の黒い方はどなたですか」
隆礼は江戸の姫君というのは意外に気安い話し方をするのだなと思った。
「こちらは飛騨守様の弟御じゃ」
「飛騨守様の弟御は一体何人おいでなのですか」
「ハハハ、これはこれは」
豊後守は上機嫌に笑う。
「四人目の方だ。この度、国許から初めて江戸に参府された」
「それでは、この方が、十五で父上になる方なのですね」
さすがに隆礼も驚いた。豊後守も慌てた。
「これ、姫。さようなこと、どこで。申し訳ありませぬ」
「奥の女達が申しておりました。わらわの婿になるやもしれぬと」
隆迪はこれは逃れられぬと思った。もし断れば、姫に恥をかかせたということで、豊後守の奥の女達を敵にまわすことになる。
「よかった。顔を見られて。姉上たちのように祝言の夜まで顔を見たことがないなどというのは、祝は嫌でございます」
はっきりした口調で言う姫は隆礼を大きな目でまじまじと見上げた。
御分家の壱姫とも沢井家の実乃とも、ましてや満津とも卯女とも違う強い視線だった。
「弟君様の御子の母上はお美しい方なのですか」
姫の口はいっこうに減らなかった。豊後守もこれやめぬかと言ったが、平然とした顔である。
隆礼はなんだか不愉快さを感じていた。子どもらしくない。
「それを知ってどうするのだ」
隆礼の問いに童女は無邪気に笑った。
「お美しい方の赤子なら同じようにお美しいはず。わらわは、美しいものが大好きゆえ、赤子を育てたく思います」
あまりにあっけらかんとしているので、隆礼は何と言っていいかわからなかった。
隆迪はその様子に、これはいいかもしれぬと思い始めていた。
隆礼には、このくらいの正室がちょうどいいかもしれぬ。姫君然とした女子では張り合いもなかろう。
「赤子を育てるのはお人形遊びではない」
隆礼はやっとのことで言った。
「はい。わらわも母上に育てられましたゆえ、わかっております。わらわを産んだのは下屋敷にいる津弥の方。育ててくださったのは中屋敷の父上の正室である母上にございます。母上のように、わらわも他の女子の子を育ててみたいと思うております」
隆礼には理解できない理屈だった。
「子を自分で産みたいと思わぬのか」
「痛いのはきらいです。上の姉上が申しておりました。とても痛かったと。それに死んでしまうかもしれぬし」
痛いのが嫌だから産みたくない。死にたくない。他の女子に産んでもらった子を育てたい。しかも美しいものが好きだから、美しい方の赤子を育てたいなどとは。その理屈こそ、隆礼には我儘勝手に思えた。
姫君というのはこんなにも我儘なのだろうか。
「面白い姫君じゃ」
隆迪は言った。
「兄上、何を」
隆礼は愉快そうに笑う兄を見てまたも驚いた。
「姫様、我が弟の奥になってくれるか」
姫は隆迪の問いに小首を傾げた。
「なぜ、ご本人ではなく、兄上様がおっしゃるのですか」
「理屈が通らぬか」
「はい」
「よい、これはよい。豊後守様、お話承りました」
豊後守のほうが驚いた。
「本当に宜しいのか」
「構いませぬ」
「兄上、わしは」
隆礼はこれはまずいと思った、こんなに簡単に自分や姫君の将来を決めていいのか。
だが、そう思ったのは姫も同様だった。
「おまちください。弟御のお気持ちをきかなくともよいのですか」
隆礼は驚いた。幼いながらも初めて会った自分の気持ちのことまで考えるとは。
「そうであったな」
隆迪はうなずいた。
「隆礼、どうじゃ。この姫を奥に」
「姫様のお気持ちがわからぬのに」
「わかっておるではないか。先ほど、姫はそなたの子を育てたいと言ったのだ。側室の子を育てるのも正室の役目」
「ですが、美しいものがお好きなだけ。赤子は美しいだけでは済みません。ゆばりもすればくそもする。病気になれば、夜昼関係なく熱を出す。狆の子とは違うのです」
幼い小治郎を世話したこともあるから、赤子がどれだけ大変か隆礼も知っている。
「狆の子もそうじゃ。ゆばりもくそもするし、病にもかかる」
姫は立ち上がった。
「狆をバカにするでない」
そう言うと姫は障子を開けて縁側に出ようとする。
「これ、姫」
豊後守は立ち上がり、それを追った。
「うっ、苦しい」
突然、豊後守は胸を押さえて、その場にしゃがみ込んだ。
「豊後守様」
隆礼が先に駆け寄った。
「大事ない。すぐようなる」
姫も縁側から駆け戻って来た。
「おじじ様、誰か呼んで参ります」
「よい、大丈夫じゃ。じっとしておれば治る」
隆迪は縁側に出て庭で狆を探している女中を呼んだ。
「豊後守様が胸を押さえておる。医者を呼べ」
すわ一大事と女中は医師の詰所へ向かった。
隆迪は振り返った。
豊後守は少し人心地ついたようだった。その左右に隆礼と姫がそれぞれとりすがっていた。
「そなたらが夫婦になってくれたら、余は安心して極楽に参れる」
「極楽などまだ早すぎます。わらわはめおとになど」
「う、苦しい」
豊後守はまた胸を押さえた。
「のう、隆礼殿、姫を頼む。でないと、余は死んでも死に切れぬ」
「死ぬなど気弱なことを」
「ああ、苦しい。頼む、姫を」
豊後守は隆礼を見つめた。その眼光に隆礼は一瞬、畏れを覚えて、怯んでしまった。
「わ、わかりました。姫様をお預かりします」
言ってしまった。
「そうか、かたじけない。姫や、隆礼様の言うことをきちんと聞いて、よき奥方になるのだぞ」
「おじじ様、しっかりしてくださいませ」
姫は泣きそうな顔ですがりついた。
そこへどたどたと医師や小姓、側近たちがやって来た。
「殿、殿」
豊後守はむっくりと立ち上がった。
「何を慌てておる」
隆迪も側近たちも、祝姫も隆礼も唖然とした。豊後守の声はしっかりしていた。
「余が倒れたからといって、かように騒いでなんとする。武士たるもの、常に戦場にあると思い、落ち着いて行動すべきものぞ」
その声に恐れを見せず若い医師が言った。
「畏れながら、御脈を」
「大事ない。皆下がってよい」
隆礼はあまりのことにあきれて物も言えなかった。仮病とは。
医師たちがすごすごと下がった後、姫は叫んだ。
「おじじ様、うそをついたのですか」
「嘘ではない。そなたらが二人、喧嘩をする姿を見ておると何やら胸が苦しくなってのう。このままでは極楽に参れぬと思ったのじゃ。だが、隆礼殿が姫を預かると言うてくれたから、胸の苦しさが取れたのじゃ。これで余はいつ何があっても安心じゃ。隆礼殿、姫を頼みますぞ。ちと変わっておるが、そなたにはこれくらいがよかろうて。飛騨守殿、中屋敷の件、若年寄から追って沙汰があるはず。弟御のお目見えの件、わしからも口添えをしておこう」
豊後守はそう言うと豪気に笑った。
「いやあ、長生きはするもの。祝姫の花嫁姿を見る楽しみが増えたのう」
隆迪は仮病にしては真に迫っていると思ったものの、変わらぬ声の張りに安堵した。
控えの間では、平太が肩を震わせて必死に笑いを堪えていた。
「どうしたのだ」
惣左衛門の耳打ちに平太はようやっと答えた。
「後で話す。卯之助も年貢を納めることになったようじゃ」
一体、平太には何が聞こえるのか。惣左衛門は不思議でならなかった。
飛騨守一行が屋敷を出た後、豊後守は庭先に降りた。
蘇芳丸は見つかり、女中達はもういない。
豊後守は手をパンパンと二回打った。池の鯉でも呼ぶように。
だが、そこに池はない。鯉も池ではなく領地の田で食用として育てる物だった。だからこの喩えは当時であればいささか不適切であろう。
目の前の植え込みの躑躅のこずえがささと揺れた。
豊後守は低い声で命じた。
「飛騨守の厨に入り、飛騨守の十日分の食事の量を調べよ」
「はっ」
声がしたかと思うと躑躅の木の背後から人の気配がすっと消えた。
豊後守はゆっくりと庭を見渡した。
一年ぶりに会った飛騨守はまた痩せていた。
それを見た瞬間、絶対に祝姫と隆礼を縁組させねばならぬと思った。
これまで生きてきた経験から、豊後守は飛騨守の身体はもうそれほど長くはもたぬように感じられたのだ。
隆礼のお目見えの済まぬうちに、倒れられては困る。
正式な跡継ぎの手続きをしなければ、山置家は断絶してしまう。
娘や孫のことを思えば、それだけは避けたかった。
豊後守の部下には忍びもいた。彼らを使い、飛騨守の健康状態を探る必要があった。
何をどれくらい食べたかで大体の体調はわかる。忍び達は命令の意味をわかっているはずだから、飛騨守の体調をこちらが望む以上に詳しく調べるだろう。
彼らは飛騨守の他の弟二人が後継者になれないであろうことも調べ上げていた。
「又五郎殿、そなたの子孫は、わしが守るからな」
先に逝ってしまった友を思い、豊後守は赤く染まりつつある西の空を見つめた。
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