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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

12 新たな名

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 豊後守の屋敷に出発する前に、新右衛門は殿様に呼ばれた。
 まず服装と月代を点検された。羽織袴の熨斗のし目もきちんとしているし、月代はきれいに剃られている。

「よし、これならばよいな」

 合格点を出した後、殿様は言った。

「初めての親戚まわりゆえ、そなたの名を決めた」
いみなでございますか」
「そうじゃ。岡部家での諱を使うわけにはいかぬからな」

 諱とは本名であり、親や主君などから呼ばれる名である。したがってそれ以外の場面では仮名けみょうと呼ばれる名乗りを用いることになる。新右衛門や惣左衛門というのが仮名である。
 新右衛門は岡部の家で忠行という諱を付けられている。ふだんは新右衛門と名乗っているから、本人も忘れかけている。ちなみに惣左衛門の諱は忠信である。

「この先、様々な書状にも用いることがあるゆえ」

 新右衛門はいつかはと思っていたが、それが案外と早いので驚いた。

「兄上がお考えになってくださったのですか」
「旅の途上でな」

 そう言うと、小机の上にあった紙を広げた。

「これじゃ」

 そこには黒々とした墨で「隆礼」と書いてあった。

「たか、なんと読むのですか」
「たかゆき、と読む」

 どこかで聞いたような名だと思ったが思い出せなかった。

「亡くなられた御分家の啓幸殿と読みが同じじゃ」

 言われて思い出した。

「確かに。なぜでございますか」
「神代にな小碓命おうすのみことという方がいた。その方は熊襲建くまそたけるを討伐した。その時に熊襲建は小碓命に建の名を譲ったのだ。だから、そなたにも啓幸殿の名を与える」

 兄の言葉の意味は前半はわかった。だが、後半がわからない。新右衛門は啓幸殿を討伐したわけではないのに。

「そういう理由でよろしいのでしょうか」
「よい。啓幸殿は雅で教養ある方であった。そなたもそれにあやかるのだ」

 つまり、自分はがさつで頭が悪いからかと、新右衛門は納得した。
 殿様はそれ以上の説明はしなかった。
 すれば、啓幸が玄龍寺に幽閉されたきっかけが、新右衛門であることを話せばならなくなる。
 その件は知らせたくなかった。
 隆礼の未来を曇らせるように思えたのだ。

「隆礼、よいか」
「はい、有難き幸せ」
 こうして新右衛門は山置隆礼となった。





 加部かべ豊後守の上屋敷は丸の内の大名屋敷の中でも、かなり広い敷地を有していた。
 大名の屋敷、特に上屋敷は拝領屋敷といって御公儀から貸し出されているものである。従って幕府の命令で屋敷替えということもあるのだが、豊後守の屋敷はそういうこともなく、幾度かの火災に遭いながらも開府以来この地にあった。
 山置家の屋敷も広いと思っていたが、豊後守の屋敷はさらに広く、新右衛門は自分の前を歩く兄を見失ったら大変なことになりそうな気がして、前ばかり見ていた。
 警護でついてきた惣左衛門も平太も従者用の控えの間に通された。後で聞いたら、家中の控えの間の倍の広さがあり、茶と菓子が出てきたという。
 通されたのは庭園に面した小書院だった。座敷のように広くなく、親戚同士で会うにはちょうどいい広さである。
 加部豊後守は恰幅のよい殿様だった。髪も年の割に豊かで、髷も太かった。

「御国からの無事の参府、めでたきこと」

 滑舌のいい声量のある声は聞いていて不快感を感じさせない。
 新右衛門は不束者ですがと挨拶した。豊後守は鷹揚にうなずいた。

「そなたが又五郎殿の忘れ形見の。耳や目のあたりがよう似ておられる」

 にこにこと笑う顔は眞里姫に似ている。同じようにえくぼがあるせいかもしれない。

「飛騨守様はよい弟御をお持ちのようじゃ」
「恐れ入ります」

 隆迪はそう言うと、実はと眞里姫に仕える女中の卯女のことを話した。

「この隆礼が、卯女という女子を召しまして。豊後守様の御家中の者故、一言」
「構わぬ。構わぬ」

 豊後守は笑った。

「お若いからのう」
「松橋から、そちらの御年寄に文を送っております」
「ならば、話は早かろう。ところで、弟君は、国許にも手つきの方がおいでのようだが」

 やはり知られていると隆迪は思った。

「は」
「御子も近々生まれるとか。先々の頼もしいことじゃ」

 隆礼もまた、知られているのかと驚いた。

「畏れ入ります」

 そう言うと豊後守は笑った。

「気になさらずともよい。男子であれば、世継ぎやもしれぬのだからな」

 そう言った後で、豊後守は隆迪を見た。

「姫のことは申し訳ない。いまだ子を一人もなせず」

 隆迪にとっては思いもかけない奥方の父親の言葉だった。

「眞里は立派に奥の要となっております。安心して国許に行けるのも、眞里あってこそ」
「そう言われると、親としては嬉しい。だが、我が家の血がそちらに根付かぬのは少し寂しい。又五郎殿に申し訳ない。そこでな、孫を弟御にと思うのだが」

 隆迪は息を呑んだ。
 隆礼は弟とは誰のことかと思った。

「姫様はまだ十にもならぬはず」
「五年もたてば、十四。弟御も二十。ちょうどよい年回りではないか」

 自分のことかと隆礼は驚き、豊後守を見た。豊後守はほほ笑んだ。

「少々、元気の有り余っておる姫でな。顔も知らぬ殿方には嫁ぎたくないなどと申しておる。五年も猶予があれば、幾度かは顔を合わせる折もあろう」

 隆迪は狼狽していた。いくらなんでも、眞里姫の姪とは。豊後守とここまで深い縁を結ぶことになるというのは果たしていいことなのか。

「気にせずともよい。そうそう、飛騨守殿のところには中屋敷はありませぬな」

 江戸の山置家には上屋敷と蔵屋敷兼用の下屋敷しかない。二万石であれば、それを維持するだけでも大変である。

「下屋敷にすでに他の弟御がおいでで、手狭なのではないか。それでな、先日若年寄と話す機会があったのだが、その時に、さる御家中が屋敷替えをしたゆえ、これまで使っていた屋敷が空くことになったという話を聞きましてな」

 要するに、中屋敷にいい物件があるんだけれど、どうですかという意味である。大名屋敷の土地建物に関する事務を行う屋敷改(新地奉行)は若年寄の配下にある。

「それは勿体ないお話です」
「場所は愛宕下でな」

 隆迪はこれは断れぬと思った。要するに、孫娘と結婚するなら中屋敷を融通しようということなのだ。無論、そこに住むのは隆礼と豊後守の孫娘、卯女らである。
 家中の財政が苦しくなければよい話なのだが。
 けれど、簡単に断ることのできない話であった。
 舅の権力には逆らえないのだ。
 隆礼もまた、なんとなくこの場の雰囲気に不安を感じていた。自分の結婚話と中屋敷のことが繋がっているように思われた。

「奥を取り仕切る者はうちから手配しよう。いずれは孫が入る家ゆえな」
「勿体ないお話。されど、弟は見ての通り、まだ子どもも同然。田舎育ちゆえ姫様と釣り合いもとれませぬ」
「子どもというのはあっという間に大人になるもの。いや、もう子どもではないな、父になるのだから。屋敷の改装もあるゆえ、今すぐという話でもない。田舎育ちなど気になさることはない。又五郎殿、先の殿様もそうであられたではないか。我ら江戸育ちの身からすれば、又五郎殿は頼もしいお方であった」

 物は言いようである。野生児の先代隆朝侯、幼名又五郎は江戸育ちの上品な御世継の子弟たちの中では明らかに浮いていたのである。
 五つ年下の豊後守はそんな又五郎と親しくつきあえた器の大きい友人の一人だった。

「どうじゃな、隆礼殿。屋敷はともかく、孫と一度顔を合わせて見ぬか」

 今度は隆礼に話を持ち掛けた。

「畏れ多いことです」
「まだ九つじゃ。遊び相手になるおつもりで」

 御分家の壱姫を思い出す。あんなふうにこましゃくれた姫は苦手だった。
 それに、卯女のことだけでなく結婚話まで国許の満津の耳に入ったらどうなることか。

「拙者のような田夫野人には畏れ多く」

 はっきりと嫌だと言えないのがもどかしかった。 





 その時だった。書院の外、庭園から叫び声がした。

「いやあ、蘇芳すおう丸、にげないで」

 何ですかと尋ねようと思ったら、豊後守が立ち上がった。
 庭に面した障子戸を開けると、ぺたぺたと足音が近づいて来た。

「おじじ様、蘇芳丸が言うことを聞きませぬ。わらわをおいてにげてしまいました」

 その声に振り返ると、髪振り乱した稚児髷の童女が豊後守を見上げていた。身体は小さいが、声は大きくはっきりしていた。

「姫様、なりませぬ」
「そちらはお客様が」

 奥女中たちが悲鳴のような声を上げて小走りに近づいた。

「ああ、よいよい」

 豊後守は女中達に向かって言った。その後、猫を撫でるような声で童女に言った。

「姫、そちらからお上がりなされ。菓子を差し上げましょう」
「蘇芳丸は」
「女中達が探すから心配いらぬ」
「はい」

 童女は縁側にかけられたきざはしから書院に上がった。

「これが我が孫娘」

 してやられた、隆迪は気づいた。豊後守はこうなることを予測して我らを呼んだのかと。
 隆礼にもこれはどうも仕組まれたことらしいと思われた。



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