生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

10 卯女の出世(R15)

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 上屋敷の奥の総責任者である御年寄の松橋はまたも頭を抱えていた。
 昨夜の若君と卯女のことを検分させた中老の葉月と御次おつぎの女中の若狭の話はあまりに突拍子もなかった。
 彼女たちの真っ赤な目を見れば、寝ていないことはわかる。けれど、話を聞いていると現実のものとは思えなかった。
 卯女と同年配の若狭が、それはそれは大変な有様でしたとしか言えなかったのは仕方あるまい。殿様と奥方様の閨にまだ一回しか立ち会っていないのだから。
 問題は三十をとうに過ぎている葉月の狼狽ぶりだった。

「その、明け方まで、御二方は御仲睦まじく」

 顔を真っ赤にしている葉月などこれまで見たことがなかった。
 それでも問いただすと葉月は見たままを語った。
 松橋は聞いているだけでめまいを覚えた。
 眞里姫の輿入れとともに豊後守の家中から飛騨守の奥に入った松橋は、お清(殿様の手が付いていない)の中老だった。前任者の御年寄の引退により就任したが、今もってお清の身である。
 松橋とて、書物で男女のあれこれは知っている。実際には見たことはないが、変則的なこともあると知っていたが、彼女にとっては絵空事も同様であった。
 殿様は奥方様や側室と閨をともにするが、変則的なことはなさらないのだった。お二人とも慎み深い夫婦であった。

「まことなのか」

 豊後守家も飛騨守家も、閨のことを若君に幼い頃から躾けることはない。それよりも子どものうちに身体をしっかり作り、将来の主君としての心構えを叩き込むべきだという家風があった。
 閨のことは年頃になってからでも遅くない。関心が深まれば自然、あるいは世継ぎを成すことが自分の責務であると知れば、女中に手出ししたりして学ぶであろうという考えだった。もっとも殿様の父隆朝侯は大人しい息子に業を煮やし、女中を寝所に送り込んだりしたのだが。
 そういう家に仕えていた松橋にとっては衝撃が大き過ぎた。
 それは葉月も同様のことだった。
 とりあえず記録には「無事、事成りに候」とだけ記載することにした。

「ところで、卯女は若君に何かねだるようなことはなかったな」

 閨で側室が殿様に物をねだったり、親類縁者の出世を頼むのはどこの家中でも御法度である。

「それは」

 葉月がまたも口ごもった。

「もし、何か物をねだるようならば」
「物ではありませんぬが、その、お勤めの最中に、幾度も、もっとと申しておりました」

 松橋は早く若君を上屋敷以外の場所に移して欲しいものと思った。
 殿様のように穏やかにできぬものであろうか。





 卯女の部屋は女中用の四人部屋であった。けれど、中奥でのお勤めの後、連れて行かれたのは、中老用の広い部屋だった。そこで髪と着衣を整えられた後、奥方様の部屋へ御挨拶に行った。

「卯女、お勤めご苦労でした」

 眞里姫はにこにこと微笑みながら言った。
 昨夜は御年寄に御声掛けのことを報告した。御年寄は眞里姫に報告し、眞里姫はそれを許可したのだった。
 眞里姫はおっとりとした様子で言う。

「今朝、仏間で若君様と対面しましたが、晴れ晴れしたお顔でおいででした。卯女の働きがよかったのでしょう」
「畏れ多いことでございます」
「遠い国許から江戸に来て、心細いこともおありのはず。卯女、これからもよう勤めて差し上げよ」
「かしこまりました」

 卯女の主人はあくまでも眞里姫なのだ。

「畏れながら、茜丸様のお世話はいかがいたしましょうか」

 卯女は眞里姫の膝元に畏まっているちんを見た。卯女は狆の茜丸の世話係だった。

「茜丸もようなついていましたけれど、そなたもこれからは茜丸にばかりかかっているわけにもいくまい。若君様にお仕えするのだから」
「申し訳もございません」
「よいよい。喜乃きのに引き継ぎをしておくれ」
「承りました。喜乃ならば申し分ありません」

 三つ年下の喜乃は国許から出て来たばかりだが、働き者だった。卯女が茜丸の絹糸のような毛を黄楊つげの櫛で梳いているのを見ると、自分もやってみたそうな顔をしていたことがあった。聞けば、実家では猟犬の世話をしていたという。喜乃なら適役だった。
 眞里姫の前から下がり、別室で喜乃に仕事を引き継いでいると、次から次へと朋輩が顔を出した。

「おめでとうございます」

 真っ先に来たのは、新参の頃に自分を苛めた先輩女中達だった。奉行風情の娘がと嘲笑った彼女たちの家もさほど身分は変わらぬのだが。
 卯女はごく平穏にやり取りした。若君の御手付に一度なっただけで大きな顔をしていると、後が怖い。寵愛がなくなった時にどんな手のひら返しをされることか。
 内心を見せずに、お姉さま方のご指導のおかげにございますなどと言ったのだった。
 彼女たちがいなくなった後、同年配の者達が姿を見せた。

「ねえ、大丈夫なの。さっき御年寄様の部屋にお茶を運んだら、葉月様や若狭さんの様子がおかしかったんだけど」

 心配そうな顔をするのは一番仲のいい登志だった。

「前例のないことだから」
「そう。それにしても、なんだかね。若君様はお優しかったの」
「畏れ多くて」

 卯女はすごく優しかったと言いたかったが、堪えた。閨のことは誰にも語ってはいけないと御年寄に命じられている。
 彼女たちも自分の仕事にそれぞれ戻り、喜乃に引き継ぎをした後、中老用の部屋に入った。
 奥の部屋には床がのべてあった。今日から付くという自分より若い女中が二人、挨拶に来て、御年寄様のご命令ですのでお休みくださいと言う。卯女は礼を言って、床に就いた。
 はっきり言って限界だった。眠い。卯女はすぐに寝入ってしまった。





 卯女にとって昨夜の体験は青天の霹靂だった。
 広敷用人の村瀬喜兵衛から御年寄への書類を預かったついでに、卯女はわずかな時間だが、広敷の仕事部屋で村瀬と逢っていた。
 村瀬は卯女の初めての男だった。三年前、江戸上屋敷に赴任した村瀬とは最初は接点はなかった。
 だが、眞里姫が狆の茜丸を飼い始めた。実家の豊後守の家で生まれた仔犬を一匹譲り受けたのである。
 卯女がその世話掛に命じられた。
 広敷では奥の事務処理を行っていた。必要な物品の購入もここを通している。
 茜丸の食事や寝具などの用意のため、卯女は費用のことで広敷の役人と掛け合うことがあった。その際に村瀬と知り合ったのだった。
 田舎出の役人達は犬には人の残り物をやればいいという考えで、食事代など認めるわけにはいかないという者が多かった。
 だが、村瀬は犬の茜丸もまた奥様にお仕えしているのだから食事代を認めるべきだと、他の役人を説得してくれた。
 その上、村瀬は姿形がすっきりしていた。国許から来た野暮ったい侍と違い、大坂勤番も経験しているので、あか抜けていた。
 単身で赴任してきた村瀬と男慣れしていない卯女が親しくなってしまったのは仕方のないことかもしれなかった。
 初めての逢瀬は、茜丸とともに眞里姫が豊後守の上屋敷に泊りがけで里帰りした時だった。
 その期間、卯女ら数人の女中は交代で休みをとった。
 待ち合わせていた宿で、卯女は村瀬と結ばれた。初心な卯女にとって、それはささやかだが幸せな経験だった。
 その後も数度、休みに示し合わせて外で逢った。
 けれど、一昨年の夏のこと、村瀬の息子が国許から竹之助様付き小姓として江戸に赴任してきた。
 村瀬との逢瀬は減った。さすがに息子に知られるわけにはいかなかったのだろう。
 卯女は次第に村瀬との距離を感じるようになった。考えてみれば、いつかは国許の妻の元に帰る人なのだ。決して結ばれることはない。
 決定的だったのは、偶然に同僚から村瀬の妻の名を聞かされたことだった。よりによって、自分と同じ名だったとは。
 卯女は己が村瀬の妻の身代わりでしかないのだと悟った。
 だから昨夜書類を預かった時、二人のほか誰もいない仕事部屋で抱きしめられても心は冷えていた。
 戻らねば不審に思われますと言い、卯女は廊下に出た。村瀬は追ってもこなかった。
 その時だったのだ、若君様の声がしたのは。
 田舎から出てきたばかりで迷子になった若君様は素直だった。ちょうど村瀬の息子と同い年くらいに見えた。
 その若君様から名を問われた。それが意味することを知らない卯女ではなかった。教えるべきか、否か。いや、そもそも教えないという選択肢は存在しない。
 卯女は心の中で村瀬に別れを告げ、震える声で答えたのだった。
 その後は、決まり事通りだった。御年寄に若君から名を問われたことを告げ、村瀬からの書類を渡した。その後、風呂場で身体を磨かれ、中奥の若君様の寝所に入った。
 中老の葉月はともかく、同僚の若狭が立ち会うというのは少し嫌だった。
 若君様は慣れないのだろうか、守役の父の仕事の話を始める始末だった。
 どうなることかと思っていたら、あの口吸いである。
 あれで卯女は村瀬のことを忘れた。村瀬の口吸いとは全く違った。自分でも驚くほど、興奮した。若狭が立ち会っていることなど頭の中から吹き飛んだ。
 さらにその後も。愛撫だけでも村瀬の倍以上の時間がかけられた。村瀬との逢瀬はどうしても時間を気にするものだったから仕方ないのだが。それにしても、若君のそれは念入りだった。
 自分が生娘でないのが申し訳ない気がした。けれど、若君はそれがわかったはずなのに、卯女を愛おしげに抱いてくれた。
 最初の交わりで、卯女は村瀬との幾度かの逢瀬のことを完全に忘れた。
 現代の言葉で言えば、上書きされたしまったというところか。
 時間の長さもさることながら、自分の反応を見て、試行錯誤しながらの行為は卯女を驚かせた。村瀬はいつも自分の調子で進めて、卯女の反応など、あまり気にしなかった。それが普通のことなのだと卯女は思っていた。だが、若君様はそれが違うことを卯女の身体に教えてくれた。
 卯女は初めて知った快楽の深みに嵌った。
 国許の御方との間に御子が生まれるという話を聞いていたけれど、自分もこの方の子を産みたいと思った。村瀬との関係でそんなことを思ったことは一度もなかった。
 明け方、奥に戻った時、卯女は身体は疲れきっていたが、心は満ち足りていた。
 その日は仕事はなく、ゆったりと疲れを癒すことができた。





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