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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

09 平太の仕事

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「苦しうない。平太、顔を出せ」

 新右衛門の声とほぼ同時に、与五郎と惣左衛門の間に平太がひょいと現れた。
 裁付たっつけ袴をはいているだけで、特に変わった装束ではない。

「いや、これは。忍びというのは、本当に忍ぶのだな」

 与五郎は驚いて、平太を見るが、平太はいつもと変わらぬ顔である。
 新右衛門は久しぶりのことで、嬉しかったが、ふと昨夜もこの天井裏に忍んでいたのではないかと不安を覚えた。

「畏れながら申し上げます」

 平太は新右衛門の前に平伏した。

「水臭いぞ、平太」

 新右衛門は言ったが、平太は顔を上げなかった。

「拙者、お目見え以下ゆえ、顔を見せることはできませぬゆえ」
「面を上げよ」

 渋々といった顔で新右衛門は言った。やっと、平太が顔を上げた。少し日に焼けたように見えた。

「村瀬喜兵衛のこと、ただいま調べております。広敷御用なれば、商人との癒着や横領といった問題を抱えておるかもしれませぬ。息子が竹之助様の小姓であったのなら、なおさら何かあるやもしれませぬ。それで若君にもお願いがあります」
「なんだ、平太。おぬしの手伝いか。できることならなんでもするぞ」

 新右衛門はつい言ってしまった。

「では、卯女をお召しください。今宵は無理かと思いますが、明日は大丈夫でございましょう」

 やはり、平太は昨夜御殿に忍んでいたらしい。

「平太、おぬし、少しは遠慮したらどうだ」
「何のことでしょうか」

 しれっとした顔の平太だった。

「召して、どうするのだ」
「若君には立派な拷問のお道具がございますゆえ、それで村瀬のことを探ってもらえれば」

 与五郎は笑いを堪えた。惣左衛門はあまりのことに声も出なかった。
 新右衛門は、がっくりと肩を落とした。

「つまり、その、閨で聞き出せということか。だが女中らがおるぞ」
「それはこちらでどうにかいたします。眠らせることはたやすいことです」

 平太はなんでもないことのように言う。恐らく奥女中の中にも守倉衆の配下がいるのだろう。

「指南書で学んだこと、かような時に使わず、いつ使うのですか」

 平太は平然とした顔で言う。与五郎はあれかと思い出したようで、また笑いを堪えた。

「だが、平太。もし卯女から聞き出したとして、村瀬に何かあった場合、卯女の密通の件はどうなるのだ」

 新右衛門は、一晩だけのこととはいえ契った卯女を不義密通で罰するのは気が進まなかった。情が湧いてしまったのかもしれなかった。

「どうなさりたいのですか。若君のお考え次第です」

 平太の言葉に皆驚いた。

「拙者の仕事は、家中の不利益になる不届き者を探し出すこと。村瀬喜兵衛の行いを調べ、不正あれば正すのみ。卯女が若君と契った後で村瀬と不義密通を繰り返すならば、それも正すのみ」

 思いも寄らぬ平太の話であった。与五郎はうなった。惣左衛門はなんとと言ったきり押し黙った。やはり平太は只者ではなかった。

「一番よいのは、卯女が村瀬との契りを忘れるほどに若君が御寵愛なさること。さすれば不義密通は起きぬかと」

 平太は顔色一つ変えず言う。新右衛門はそんなことが出来るのか全く自信がなかった。

「卯女は傷つけたくない。奥方様や豊後守様にも迷惑をかけることになる」

 新右衛門の言葉の後半は付け足しだった。本音は前半である。

「御意」

 平太は頭を下げるや、すっと姿を消した。

「なんとまあ」

 与五郎はあたりを見回し天井も見上げたが、どこにも姿はない。

「平太という御方はまことに不思議な」
「で、よいのか、それで」

 惣左衛門は確認するように尋ねた。

「わしの責任なのだ、卯女のことは」
「だが、満津の方様は、それではすまぬだろ」
「そうだな。きよが死んだことも今日知った。どうすればよかろう」
「仕方ありません」

 与五郎は言った。切り替えの早い男である。

「江戸と香田角は離れております。今すぐ卯女殿の件が知れるわけではありません。文にこういう事情があったのだと書いて送れば、噂よりも早く届くかと思います。とにかく、こういうことは他人の口から知れるとろくなことはない。早く謝っておくほうがよろしいかと」

 確かにそうだった。インターネットもスマートフォンもない江戸時代。新右衛門が卯女を閨に招いたことなど、すぐに九州まで知れるわけはない。

「そうだな。ついでにきよへの悔やみと戌の日の祝いも送ろう」

 というわけで、新右衛門は満津への手紙を書くことにした。





 その頃、表御殿では、上使の幕府御年寄を迎えていた。老中への江戸到着の披露を受けてのことである。
 御殿の黒書院で殿様は御年寄に対面していた。といっても、姉夕姫の嫁ぎ先の大名の一門なので、親戚同様の付き合いのある人物である。
 無事に到着したことを喜んだ御年寄はところでと話を変えた。

「弟君に御子が生まれるとか」

 殿様は話が伝わるのは意外に早かったなと思った。もう御年寄の耳にまで入っているとは。

「恐れ入ります。とはいえ、まだ先のことゆえ」
「いやいや、十五でそれならば、末々の頼もしきことよ。でな、今すぐとは言わぬが、上様お目見えが済んだ後にでも、縁組を披露できるように準備したほうがよいのではないか。留守居役にも先ほど話したのだが、適当な年頃の者のいる家は限られておるからな。御子が生まれる前に話だけは決めたほうがよい。生まれた後ではあまり外聞も宜しくなかろう」

 親戚としてあれこれ気を遣ってくれるのはありがたい話ではあった。

「その件でございますが、こちらも留守居役を通じていくつか話を承っております」
「ほう、早いな。して、どこに決めた」
「いずれも甲乙つけがたく」

 殿様は言葉を濁した。ことは慎重に運ばねばならぬ。
 新右衛門の性格からして、大人しい女子では物足りぬはずだ。かといって出しゃばり過ぎる女子も大名家の正室には望ましくない。
 周囲に目配りがきき、賢く、丈夫で、忍耐強く、品格がありと、正室に求められる条件は意外に多い。大名の息女の場合は、足りない面を補う奥女中が実家からついてくるからいいのだが、やはり一番いいのは本人がふさわしい資質を備えていることだった。
 よくよく考えて相手を選ぶ必要があった。御年寄に下手な相手を勧められたりしたら、断り切れない。
 御年寄との面会を終えた後、今度は眞里姫の父豊後守からの使いがあった。
 無事の到着を喜ぶと書かれた文の結び近くに、若君とともにおいでくだされとあった。
 殿様は使いに謹んでお受けしますと返事を書いて渡した。
 豊後守の長男には息子が三人、娘が四人いる。上の娘二人はすでに嫁ぎ、三番目の娘は昨年婚約が決まった。末の姫はまだ幼いと聞いている。
 よもや豊後守は長男の末の姫を娶せようとしているのではないかと思ったが、まだ十にもならぬ姫を海のもとのとも山のものとも知れぬ新右衛門にと考えるような軽はずみな人物ではないことを、殿様は知っていた。
 卯女のこともある。豊後守の家中からの手当てを今後は当家からのものに切り替えねばなるまい。奥の事務を司る広敷の用人達はすでにその算段をしているはずだった。
 豊後守の家中の役人との折衝はそちらに任せればいいが、一連の事情は直接豊後守にも伝えねばならないだろう。
 奥からの報告はまだないが、新右衛門の今朝の様子からすると、卯女とのことは無事に成就したようだった。豊後守の心証を悪くせぬよう、できるだけ穏便に済ませておきたかった。
 旅の疲れを癒す間もなく、殿様は仕事だけでなく、家庭のことにも気を遣うのだった。




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