生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

文字の大きさ
上 下
62 / 128
第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

05 過ち

しおりを挟む
 新右衛門は小鯛の焼物を口に入れた。旨かった。むさぼるように食べるさまを見た隆真は慌てた。

「おいおい、そういう食べ方はまずいんだ」
「え?」

 新右衛門は隆真の皿を見た。頭はそのままで、半身だけをきれいに食べていた。竹之助の皿もそうなっていた。

「片側だけ食べるんだ。どうしても欲しかったら御代わりをする」
「どうして」

 信じられない話だった。
 殿様は言った。

「ふだんは半身だけを食べるのだ」
「勿体ない」
「残りは御下がりでな」

 旅の間はそういう食べ方はしなかった。国許の城でも。

「こちらの仕来りでな」

 そういえば昨夜からずっと飯は白米だった。麦が入っていなかった。

「江戸では麦は食べないのですか」
「国では麦を食べているのですか」

 夕姫も朝姫も目を丸くしていた。

「なんという。殿様まで麦飯とは」
「うちじゃ国許でも麦食わないけどな」

 隆真の家中の領地は肥沃な田畑に恵まれていた。

「兄上も苦労されてるんですね」

 隆成はしみじみと言った。新右衛門はなんだか自分がひどく惨めな生活をしていたように思えてきた。
 そんなつもりはなかった。それが当然のことだったのだから。それに家族で囲む食卓は何の気兼ねもなく何を食べても旨かった。

「苦労ではない。それが当然のことだからだ」

 殿様も言った。

「むぎ飯というのをわらわも食べてみとう存じます」

 眞里姫のおっとりした声に、新右衛門はほっとした。

「まあ、あなたときたら相変わらずの」

 夕姫の皮肉めいた口調など耳に入らぬように、眞里姫は続けた。

「殿様がお召し上がりになったのですから、わらわにも食べられぬことはありませぬ。むぎ飯とはどのようなものなのですか。ささげのご飯のようなものなのですか」

 新右衛門には信じられない世界だった。麦飯も知らぬ人がいるとは。
 粟や稗を混ぜた飯もあると教えたらどんな顔になるのだろうか。

「いずれな」

 殿様はにっこりと笑った。眞里姫は嬉しそうにほほ笑んだ。
 ふと、満津のことを思い出した。きちんと飯を食べているだろうか。母上が小治郎を身ごもった時のように、吐いたり寝込んだりしていなければいいのだが。





 それ以外はおおむね平穏に食事は終わった。竹之助が茶碗を投げることもなかった。
 やがて姉二人は帰宅するため退席し、眞里姫は奥に戻った。
 その後は酒が出た。隆成と隆真は煙管で煙草を吸った。
 そなたもと勧められたが、断った。煙草は好きになれなかった。

「なぜ江戸と国許では食べ物が違うのですか」

 殿様に尋ねた。

「昔からの当家の仕来りでな。江戸では白米、国許では麦の入った飯と決まっておる。魚もそうだ。国許では鮎や鯉以外は新しい魚が手に入らぬので干したものを多く食べるから、先ほどの鯛のような食べ方は無理だ。そういう事情もあるのだ」
「それにしても差が大きいよな」

 隆真は言った。

「そなた隠居になって暇なら一度、国へ来るがよい。江戸との違いがよくわかるぞ」

 殿様の言葉に隆真は首を振った。

「いやいや、それは。船は酔いますゆえ」

 それをきっかけに船旅の話になった。

「そういえば、絵はどうなった。見せてもらえるのだろ」

 隆成がうるさいので、新右衛門は自分で部屋に絵を取りに行くことにした。小姓に頼んでもよかったが、見られるのは恥ずかしかった。
 小姓の案内で自室に行き、手文庫の中から絵を描いた巻紙を出して廊下に出た。
 ところが廊下にまでついてきたはずの小姓がいなかった。座敷へ向かったが、どこをどう間違ったのか、なかなか座敷にたどり着けない。こういう時に限って他の小姓や近習もいない。

「参ったなあ」

 新右衛門は知らない。案内の小姓は新右衛門付になる前は竹之助に仕えていた。彼は岡部家と家格のさほど変わらぬ家の出で、殿の養子になるらしい新右衛門によからぬ気持ちを抱いていた。嫌がらせのつもりで新右衛門の部屋から離れ、彼が迷うのを物陰から見て田舎者はこれだからと笑っていたのである。
 そんなことなどつゆ知らず、新右衛門は慣れぬ御殿の廊下をうろうろしていた。
 このままでは、兄上達を待たせてしまう。
 その時だった。前方に人影が見えた。これは助かったと思った。

「すまぬ。中奥の殿様が今おいでになる座敷はどこだろうか、教えてもらえぬか」
「はい」

 奥女中らしく高島田に紫の矢絣のお仕着せを着ていた。ということはここは奥なのか。

「よもや、ここは奥ということは」

 いくら殿様の身内でも勝手に入るわけにはいかない場所だった。

「いえ、広敷といって、奥の手前にございます。奥の御用を務める掛が控えております」

 そういうと奥女中はこちらですと、座敷まで案内してくれた。
 障子戸を開けた奥女中に礼を言った。

「かたじけない。助かった。そなたの名は何と言う」

 あくまでもお礼を言いたかっただけだった。彼女の上役に助かったと伝えようと思ってのことだった。
 だが、奥女中は明らかに狼狽していた。
 そして、座敷の中にいた人々も。
 その理由に新右衛門が遅まきながら思い至った時、奥女中は震える声で答えた。

卯女うめにございます」

 新右衛門は取り返しのつかぬ過ちを犯してしまったことを知った。
 




 
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

ふたりの旅路

三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。 志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。 無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

誰一人帰らない『奈落』に落とされたおっさん、うっかり暗号を解読したら、未知の遺物の使い手になりました!

ミポリオン
ファンタジー
旧題:巻き込まれ召喚されたおっさん、無能で誰一人帰らない場所に追放されるも、超古代文明の暗号を解いて力を手にいれ、楽しく生きていく  高校生達が勇者として召喚される中、1人のただのサラリーマンのおっさんである福菅健吾が巻き込まれて異世界に召喚された。  高校生達は強力なステータスとスキルを獲得したが、おっさんは一般人未満のステータスしかない上に、異世界人の誰もが持っている言語理解しかなかったため、転移装置で誰一人帰ってこない『奈落』に追放されてしまう。  しかし、そこに刻まれた見たこともない文字を、健吾には全て理解する事ができ、強大な超古代文明のアイテムを手に入れる。  召喚者達は気づかなかった。健吾以外の高校生達の通常スキル欄に言語スキルがあり、健吾だけは固有スキルの欄に言語スキルがあった事を。そしてそのスキルが恐るべき力を秘めていることを。 ※カクヨムでも連載しています

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

大江戸美人揃

沢藤南湘
歴史・時代
江戸三大美人の半生です。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

枢軸国

よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年 第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。 主人公はソフィア シュナイダー 彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。 生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う 偉大なる第三帝国に栄光あれ! Sieg Heil(勝利万歳!)

江戸の櫛

春想亭 桜木春緒
歴史・時代
奥村仁一郎は、殺された父の仇を討つこととなった。目指す仇は幼なじみの高野孝輔。孝輔の妻は、密かに想いを寄せていた静代だった。(舞台は架空の土地)短編。完結済。第8回歴史・時代小説大賞奨励賞。

処理中です...