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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)
05 過ち
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新右衛門は小鯛の焼物を口に入れた。旨かった。むさぼるように食べるさまを見た隆真は慌てた。
「おいおい、そういう食べ方はまずいんだ」
「え?」
新右衛門は隆真の皿を見た。頭はそのままで、半身だけをきれいに食べていた。竹之助の皿もそうなっていた。
「片側だけ食べるんだ。どうしても欲しかったら御代わりをする」
「どうして」
信じられない話だった。
殿様は言った。
「ふだんは半身だけを食べるのだ」
「勿体ない」
「残りは御下がりでな」
旅の間はそういう食べ方はしなかった。国許の城でも。
「こちらの仕来りでな」
そういえば昨夜からずっと飯は白米だった。麦が入っていなかった。
「江戸では麦は食べないのですか」
「国では麦を食べているのですか」
夕姫も朝姫も目を丸くしていた。
「なんという。殿様まで麦飯とは」
「うちじゃ国許でも麦食わないけどな」
隆真の家中の領地は肥沃な田畑に恵まれていた。
「兄上も苦労されてるんですね」
隆成はしみじみと言った。新右衛門はなんだか自分がひどく惨めな生活をしていたように思えてきた。
そんなつもりはなかった。それが当然のことだったのだから。それに家族で囲む食卓は何の気兼ねもなく何を食べても旨かった。
「苦労ではない。それが当然のことだからだ」
殿様も言った。
「むぎ飯というのをわらわも食べてみとう存じます」
眞里姫のおっとりした声に、新右衛門はほっとした。
「まあ、あなたときたら相変わらずの」
夕姫の皮肉めいた口調など耳に入らぬように、眞里姫は続けた。
「殿様がお召し上がりになったのですから、わらわにも食べられぬことはありませぬ。むぎ飯とはどのようなものなのですか。ささげのご飯のようなものなのですか」
新右衛門には信じられない世界だった。麦飯も知らぬ人がいるとは。
粟や稗を混ぜた飯もあると教えたらどんな顔になるのだろうか。
「いずれな」
殿様はにっこりと笑った。眞里姫は嬉しそうにほほ笑んだ。
ふと、満津のことを思い出した。きちんと飯を食べているだろうか。母上が小治郎を身ごもった時のように、吐いたり寝込んだりしていなければいいのだが。
それ以外はおおむね平穏に食事は終わった。竹之助が茶碗を投げることもなかった。
やがて姉二人は帰宅するため退席し、眞里姫は奥に戻った。
その後は酒が出た。隆成と隆真は煙管で煙草を吸った。
そなたもと勧められたが、断った。煙草は好きになれなかった。
「なぜ江戸と国許では食べ物が違うのですか」
殿様に尋ねた。
「昔からの当家の仕来りでな。江戸では白米、国許では麦の入った飯と決まっておる。魚もそうだ。国許では鮎や鯉以外は新しい魚が手に入らぬので干したものを多く食べるから、先ほどの鯛のような食べ方は無理だ。そういう事情もあるのだ」
「それにしても差が大きいよな」
隆真は言った。
「そなた隠居になって暇なら一度、国へ来るがよい。江戸との違いがよくわかるぞ」
殿様の言葉に隆真は首を振った。
「いやいや、それは。船は酔いますゆえ」
それをきっかけに船旅の話になった。
「そういえば、絵はどうなった。見せてもらえるのだろ」
隆成がうるさいので、新右衛門は自分で部屋に絵を取りに行くことにした。小姓に頼んでもよかったが、見られるのは恥ずかしかった。
小姓の案内で自室に行き、手文庫の中から絵を描いた巻紙を出して廊下に出た。
ところが廊下にまでついてきたはずの小姓がいなかった。座敷へ向かったが、どこをどう間違ったのか、なかなか座敷にたどり着けない。こういう時に限って他の小姓や近習もいない。
「参ったなあ」
新右衛門は知らない。案内の小姓は新右衛門付になる前は竹之助に仕えていた。彼は岡部家と家格のさほど変わらぬ家の出で、殿の養子になるらしい新右衛門によからぬ気持ちを抱いていた。嫌がらせのつもりで新右衛門の部屋から離れ、彼が迷うのを物陰から見て田舎者はこれだからと笑っていたのである。
そんなことなどつゆ知らず、新右衛門は慣れぬ御殿の廊下をうろうろしていた。
このままでは、兄上達を待たせてしまう。
その時だった。前方に人影が見えた。これは助かったと思った。
「すまぬ。中奥の殿様が今おいでになる座敷はどこだろうか、教えてもらえぬか」
「はい」
奥女中らしく高島田に紫の矢絣のお仕着せを着ていた。ということはここは奥なのか。
「よもや、ここは奥ということは」
いくら殿様の身内でも勝手に入るわけにはいかない場所だった。
「いえ、広敷といって、奥の手前にございます。奥の御用を務める掛が控えております」
そういうと奥女中はこちらですと、座敷まで案内してくれた。
障子戸を開けた奥女中に礼を言った。
「かたじけない。助かった。そなたの名は何と言う」
あくまでもお礼を言いたかっただけだった。彼女の上役に助かったと伝えようと思ってのことだった。
だが、奥女中は明らかに狼狽していた。
そして、座敷の中にいた人々も。
その理由に新右衛門が遅まきながら思い至った時、奥女中は震える声で答えた。
「卯女にございます」
新右衛門は取り返しのつかぬ過ちを犯してしまったことを知った。
「おいおい、そういう食べ方はまずいんだ」
「え?」
新右衛門は隆真の皿を見た。頭はそのままで、半身だけをきれいに食べていた。竹之助の皿もそうなっていた。
「片側だけ食べるんだ。どうしても欲しかったら御代わりをする」
「どうして」
信じられない話だった。
殿様は言った。
「ふだんは半身だけを食べるのだ」
「勿体ない」
「残りは御下がりでな」
旅の間はそういう食べ方はしなかった。国許の城でも。
「こちらの仕来りでな」
そういえば昨夜からずっと飯は白米だった。麦が入っていなかった。
「江戸では麦は食べないのですか」
「国では麦を食べているのですか」
夕姫も朝姫も目を丸くしていた。
「なんという。殿様まで麦飯とは」
「うちじゃ国許でも麦食わないけどな」
隆真の家中の領地は肥沃な田畑に恵まれていた。
「兄上も苦労されてるんですね」
隆成はしみじみと言った。新右衛門はなんだか自分がひどく惨めな生活をしていたように思えてきた。
そんなつもりはなかった。それが当然のことだったのだから。それに家族で囲む食卓は何の気兼ねもなく何を食べても旨かった。
「苦労ではない。それが当然のことだからだ」
殿様も言った。
「むぎ飯というのをわらわも食べてみとう存じます」
眞里姫のおっとりした声に、新右衛門はほっとした。
「まあ、あなたときたら相変わらずの」
夕姫の皮肉めいた口調など耳に入らぬように、眞里姫は続けた。
「殿様がお召し上がりになったのですから、わらわにも食べられぬことはありませぬ。むぎ飯とはどのようなものなのですか。ささげのご飯のようなものなのですか」
新右衛門には信じられない世界だった。麦飯も知らぬ人がいるとは。
粟や稗を混ぜた飯もあると教えたらどんな顔になるのだろうか。
「いずれな」
殿様はにっこりと笑った。眞里姫は嬉しそうにほほ笑んだ。
ふと、満津のことを思い出した。きちんと飯を食べているだろうか。母上が小治郎を身ごもった時のように、吐いたり寝込んだりしていなければいいのだが。
それ以外はおおむね平穏に食事は終わった。竹之助が茶碗を投げることもなかった。
やがて姉二人は帰宅するため退席し、眞里姫は奥に戻った。
その後は酒が出た。隆成と隆真は煙管で煙草を吸った。
そなたもと勧められたが、断った。煙草は好きになれなかった。
「なぜ江戸と国許では食べ物が違うのですか」
殿様に尋ねた。
「昔からの当家の仕来りでな。江戸では白米、国許では麦の入った飯と決まっておる。魚もそうだ。国許では鮎や鯉以外は新しい魚が手に入らぬので干したものを多く食べるから、先ほどの鯛のような食べ方は無理だ。そういう事情もあるのだ」
「それにしても差が大きいよな」
隆真は言った。
「そなた隠居になって暇なら一度、国へ来るがよい。江戸との違いがよくわかるぞ」
殿様の言葉に隆真は首を振った。
「いやいや、それは。船は酔いますゆえ」
それをきっかけに船旅の話になった。
「そういえば、絵はどうなった。見せてもらえるのだろ」
隆成がうるさいので、新右衛門は自分で部屋に絵を取りに行くことにした。小姓に頼んでもよかったが、見られるのは恥ずかしかった。
小姓の案内で自室に行き、手文庫の中から絵を描いた巻紙を出して廊下に出た。
ところが廊下にまでついてきたはずの小姓がいなかった。座敷へ向かったが、どこをどう間違ったのか、なかなか座敷にたどり着けない。こういう時に限って他の小姓や近習もいない。
「参ったなあ」
新右衛門は知らない。案内の小姓は新右衛門付になる前は竹之助に仕えていた。彼は岡部家と家格のさほど変わらぬ家の出で、殿の養子になるらしい新右衛門によからぬ気持ちを抱いていた。嫌がらせのつもりで新右衛門の部屋から離れ、彼が迷うのを物陰から見て田舎者はこれだからと笑っていたのである。
そんなことなどつゆ知らず、新右衛門は慣れぬ御殿の廊下をうろうろしていた。
このままでは、兄上達を待たせてしまう。
その時だった。前方に人影が見えた。これは助かったと思った。
「すまぬ。中奥の殿様が今おいでになる座敷はどこだろうか、教えてもらえぬか」
「はい」
奥女中らしく高島田に紫の矢絣のお仕着せを着ていた。ということはここは奥なのか。
「よもや、ここは奥ということは」
いくら殿様の身内でも勝手に入るわけにはいかない場所だった。
「いえ、広敷といって、奥の手前にございます。奥の御用を務める掛が控えております」
そういうと奥女中はこちらですと、座敷まで案内してくれた。
障子戸を開けた奥女中に礼を言った。
「かたじけない。助かった。そなたの名は何と言う」
あくまでもお礼を言いたかっただけだった。彼女の上役に助かったと伝えようと思ってのことだった。
だが、奥女中は明らかに狼狽していた。
そして、座敷の中にいた人々も。
その理由に新右衛門が遅まきながら思い至った時、奥女中は震える声で答えた。
「卯女にございます」
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