生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

04 江戸の家族

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 上屋敷は広かった。けれど、人間関係は狭かった。
 早朝の早飛脚がもたらした吉報は、上屋敷の人々すべてに共有されていた。
 それが参勤組の耳に入るのは時間の問題だった。
 屋敷内の長屋にあてがわれた部屋に入った惣左衛門はさっそく同室の先輩近習の狭川さがわ藤兵衛から若君様の御愛妾の懐妊を知らされた。
 惣左衛門は満津の幸いに心から安堵した。これで満津の立場は安定する。
 だが、狭川は惣左衛門が若君様の乳兄弟とは知らずに最後に一言余計なことを言った。

「元は下女だそうだが、若君様に差し出した雇い主もこれでご褒美にあずかれるってもんだろうな」

 惣左衛門の喜ばしさが一気に怒りに変わった。

「我が父はさようなことなど考えてはおらぬ」

 その形相に、狭川藤兵衛は肝を潰した。岡部惣左衛門が御前試合で勝った話は知っていた。

「こ、これは済まん。知らぬこととはいえ御無礼を」

 惣左衛門も来た早々に喧嘩沙汰は起こしたくなかった。

「わしも刀など仲間に向けて抜きたくはない。それに、若君様も御方様も喜ばれはすまい。なんにしろめでたい話なのだから」
「そうだな、めでたい話だ」

 藤兵衛は慌てて買い置きしておいた煎餅の包を出した。

「つまらぬものだが、江戸で評判の煎餅だ。これで勘弁してくれ」

 惣左衛門が煎餅を受け取ってその話は終わった。
 さらに、数刻もせぬうちに、詳しい話が長屋の隅から隅まで伝わった。
 それが改めて藤兵衛の耳に入った時、藤兵衛は戦慄した。

「岡部惣左衛門は、若君の乳兄弟じゃ。岡部は守役を勤めておったのだ。御方様は岡部の下女で若君様とは筒井筒の間柄」

 狭川藤兵衛は次の休みには江戸見物に連れ出して団子の一本も奢らねばなるまいと思った。





 道中、一日として忘れたことはなかった。旨いものを食べれば、これを食べさせてやりたいと思った。美しい景色を見ればともに見たいと思った。手紙も佐賀の関や大坂、小田原で書き送った。
 その満津が懐妊した。
 その報に新右衛門は喜びを隠しきれなかった。
 大久間の出湯がよかったのか、誰も二人のことを監視していなかったのがよかったのか、あるいはたまたま満津と新右衛門の体調が合ったのか、それとも鯛を神社にお供えしたからなのか、理由はわからぬが、これで満津の立場は盤石のものとなるはずである。
 しばらく会えないが、側室は正室と違い移動は自由のはずだから、子が生まれたら江戸に出てきてもらおうかとかいろいろ想像すると、つい顔が緩むのだった。

「若君様、お着替えを」

 与五郎に言われて、我に返った。与五郎は小姓用の長屋に私物を置くと、着替えてすぐに出仕したのだった。
 風呂から上がったばかりの新右衛門の着替えのためである

「休まなくてもよいのか」
「仕事をして身体を慣らしているほうが後々のためにはよいのです。それにしても、結構なお部屋をいただきましたね」

 その言葉通り、部屋は城の物より広かった。寝室と居間だけでなく、来客用の座敷まであった。
 これが殿様の私的空間である中奥のほんの一部なのだから驚きである。

「お城も広かったが、ここはもっと広い」

 与五郎はうなずいた。

「さようですね。ですが当家中はまだ狭いほう。大大名ともなれば、もっと広いのです」

 言いながら、手は動いて、もう一人の小姓と着替えの手伝いをしているのだから大したものである。

「恐れながら、竹之助様との顔合わせ、くれぐれも隙を見せぬように」

 もう一人の小姓が言った。与五郎も新右衛門もはっとした。

「そなた、名は」

 新右衛門の問いに、与五郎より少し年かさの小姓は答えた。

「牧村東平とうへいと申します。父は国許で普請作事掛の御用を勤めております」

 牧村というのは聞いたことがあった。惣右衛門の同僚で幾度か家に来たことがあったはずである。

「鳥居町の方か」
「はい」

 返事をした後、東平は声を潜めた。

「恐れながら、竹之助様は少々気性が激しうございます。我ら小姓に対しても気分次第」

 そうなのかと新右衛門は驚いた。国許で習い事をしている時の竹之助はどちらかというと大人しく見えたのだが。

「そのようには見えなんだが」
「内弁慶と申しますか。外面はよろしいのです」

 ならば合点がいく。外では大人しいが、内では全く逆ということかと。
 ただ、そう言われても想像がつかなかった。馬を怖がっていた竹之助が、小姓に対して逆の態度をとるとは。

「若君様が出府なさると聞いて以降、我ら皆いつ癇癪が起きるか、毎日はらはらしております」
「癇癪とは」

 身体の弱い竹之助が一体どんな癇癪を起すのか、想像できない。東平も職務上、それについて詳しく語るわけにはいかなかった。

「そういうわけで、我ら誰も国許の御方様の吉事をお知らせできずにおります。今宵、殿の口から初めてお聞きになるはずです」
「留守居役も家老もか」

 与五郎の問いに東平はうなずいた。

「この件に関してはまだ。何しろ、若君様のことを少しでも御前で口にすると、ご機嫌が悪うなります。昨年の暮れのことなので殿様は御存じありませんが、茶の入った碗を投げられた者もおります」

 信じられなかった。新右衛門も我慢強いほうではないが、他人に茶碗を投げるような真似などできない。誰かに八つ当たりするなど絶対にしてはならないことと惣右衛門は教えていた。

「誰か諌める者はおらぬのか」
「沢井信之助が、小姓に対する態度が目に余ると諫言申し上げました。その時に茶碗を。幸い傷はきれいに治ったようですが」

 新右衛門はあまりのことに拳をぎゅっと握っていた。信之助様にそんなことをするとは。
 辰巳と丑寅の対抗試合もご覧になっていたはずなのに。沢井信之助の素晴らしい太刀筋をご覧になったはずなのに。
 
「一体、なぜ、竹之助様はさようになってしまわれたのか」
「甘やかされたのでしょう」

 与五郎の言葉に容赦はない。

「血のつながらぬ者に人はとかく甘くなりやすいもの。小田切家老が甘やかしたのです。若君様もおわかりでしょう」
「わしもそう見えるか」

 新右衛門は岡部惣右衛門に甘やかされたとは思っていない。はっきり言って惣右衛門は殿様よりも恐ろしい。
 けれど、惣左衛門に対する態度と自分に対する態度がまったく同じだったとは断言できなかった。

「はい。それがしも義父に甘やかされておりましたので」

 与五郎はふわりと笑った。東平が一瞬眉を顰めた。新右衛門は気づかなかった。

「小ヶ田殿、若君様に少し言葉が過ぎませぬか」
「これは失礼申しました」
「いや、いい。与五郎の言うことも一理ある。わしは田舎者で知らぬことも多い。牧村殿も何か気づいたら教えてくれ。わしが外で粗相をしたら、そなた達まで笑われることになる」

 牧村東平は、あまりの率直さに驚いた。

「あまりに畏れおおいことにございますれば」
「もしお互い国許にいたら、ともに同じところで学んでいたのかも知れないのだから、気にすることはない」

 東平はその場ではっと言って平伏した。
 その後で顔を上げた。

「畏れながら申し上げます。我ら表の家臣に名を問うのは構いませんが、奥の方々には夜の御用のない限り、決して名を問われぬように」
「どういうことだ」
「奥のお女中に名を尋ねるということは、その方に夜の御用を申し付けることになるのです」

 新右衛門はそれはまずいと思った。

「わかった。気を付ける」





 その日の夕食には、竹之助や下屋敷から来た隆成だけでなく、他家に養子に行った隆真、殿様の二人の姉まで姿を見せた。
 大名の兄弟姉妹が集まって夕餉というのは珍しい話で、江戸の山置家は比較的そのあたりが緩いようだった。
 新右衛門が何より驚いたのは、隆真の姿である。
 他家の養子となって一国の主となったはずなのに、隆迪と違い、月代を剃らず総髪にしていた。
 その理由は本人の口からすぐにわかった。

「先月、隠居しました。三人目の息子ができたので、お役御免というわけです」

 それには殿様も驚きを隠さなかった。

「では文に書いてあったのはまことのことだったのか。いつもの冗談だと思ったぞ」
「冗談ではありません。おかげで気楽なもんです。兄上も隠居したらいい。そしたら大門もくぐりやすくなる」
「これ、まさ殿、なんということを」

 たしなめたのは一番上の姉の夕姫だった。姫といっても最初の正室の長女だから五十を過ぎている。しかも貫禄たっぷりである。

「これは失礼。夕姉上。御隠居様はお元気ですか」
「お陰様で」

 夕姫は夫が先年隠居したので、三田の中屋敷に夫婦ともども住んでいるとのことだった。
 山置家の上屋敷のはす向かいに上屋敷があり、そこには側室腹の藩主が奥方と住んでいて、山置家とも付き合いが深いらしい。
 その妹の朝姫は夫が現藩主。実の息子が次の藩主ということだった。
 住まいは丸の内の上屋敷。息子は赤坂の中屋敷に住んでいる。
 夫は間もなく参勤で国許に戻るということである。
 こちらは少しやせ気味で夕姫とは対照的な体格だった。
 下屋敷から来た隆成は夕姫に少し似ていた。

「しげ殿、母上は息災か」

 朝姫は隆成に尋ねた。

「はい。元気過ぎて困ります」

 隆成は笑っていた。

「母上は夕姉上よりも二つ年下ですからねえ」

 隆真も笑っている。
 これには驚いた。昨日見た寿姫は夕姫よりも年上に見えた。
 そこへ奥女中が入って来た。

「奥方様、御成り」

 奥に住む奥方はめったに中奥には出てこないので、このような大げさなことになるらしい。

「幕閣の姫などもらうから」

 夕姫がつぶやいた言葉に新右衛門はぎょっとした。だが、聞こえているはずの他の人々は顔色を変えない。どうやらいつものことらしい。
 やがて奥女中に先導されてあわせ堤帯さげおび姿の眞里姫が入って来た。
 小柄な姫に新右衛門は驚いた。一体いくつなのだろうか。満津より少し上くらいにしか見えない。
 しかも、色白で目がぱっちりとして、なにやら作り物めいて見えた。

「ごきげんよう」

 その声の可愛らしさにまたも新右衛門は驚いた。

「殿様、無事の御帰り、おめでとうございます」
「うむ。そなたも息災のようで何より」

 殿様の顔が自然にほころんだことに新右衛門は気づいた。明らかにお仙の方の時とは違って見えた。
 お仙の方にも殿様は優しいが、ここまで優しく柔らかい笑顔ではない。
 姫は夕姫の上座の席についた。夕姫は会釈した。
 これで夕食が食べられると思ったら、殿様は新右衛門の紹介を始めた。

「国許より連れて参った啓悌院様の忘れ形見の八千代丸、新右衛門じゃ。当年十五。しばらく上屋敷に置く」

 一番下座にいた新右衛門は頭を下げた。

「不束者なれば、よろしくご指導のほどお願い申し上げます」
「指導などいらぬだろ」

 隆真の声にぎょっとした。

「そなた、もう国許に子がおるそうだな。大したものだ。わしなど子が初めてできたのは十七の時だというのに」
「まだ生まれておりません」

 新右衛門は慌てて言った。隆成は笑いを堪えられなかった。
 それまで黙って座っていたその隣の竹之助の顔いろが変わった。新右衛門は東平の話を思い出した。
 癇癪が出たらこの席が滅茶苦茶になる。

「それはめでたいことにございますね」

 唐突な声に一同は、はっとした。眞里姫だった。

「わらわも早くそなたの子の顔が見てみたい。新右衛門殿、国の方によしなにな」

 柔らかな声が一瞬に竹之助の顔いろを元に戻した。

「はっ、有難き幸せ」

 新右衛門は頭を下げた。
 殿様は言った。

「新右衛門の子らが山置の家を盛り上げてくれよう」

 竹之助の視線が新右衛門を射抜いた。夕姫も顔色を変えた。

「殿様、それでは、御世継は」
「余には子ができぬ。ならば子のできる者に後を頼むのが務め」

 朝姫は言った。

「姉上、よいではありませんか。新右衛門は父上に似ておる。きっとたくさん子を儲けてくれることでしょう」
「隆成、なんぞ言わぬか。そなたは母上の実の子。そなたが世継ぎになるのが筋のはず」

 夕姫は明らかにいきり立っていた。

「姉上、私には無理です。御存じのはず」

 隆成はそう言うと殿様を見た。殿様はため息をついた。

「姉上様、いろいろとご不満はおありでしょうが、これは江戸表、国許双方の家老達とも相談の上でのこと。国許の川合も、身体丈夫が第一と申しておりました。昨年、元服した者たちで雷土山に登っておりますが、新右衛門もともに登っております。この度の参勤でも騎馬で箱根を越えております」
「川合の息子も早婚だからなあ」

 隆真は言った。

「まあ、いいんじゃないか。参勤は体力がないと勤まらないからな。私なんぞ、国許に三回しか行ってないけど、もう行きたくないもんな」
「まさ殿、そなたの領国は江戸より百里も離れておらぬであろう」

 朝姫はあきれ顔だった。

「そうなんですけどね。面倒なんですよ。着いたら着いたで国許から江戸に報告しないといけないし、江戸に戻れば戻ったで老中に御挨拶してお城に行って。旅だけならどんなに楽か。兄上もこれからまた大変ですな」
「それが御公務というものだ。そなたの隠居とて手続きがあれこれあったであろう。その手順を踏んだゆえ、今こうしていられるのではないか」

 殿様は江戸でも真面目だった。

「まあ、そうですけど。で、竹之助はどうするんですか」

 隠居の隆真の問いで、皆竹之助に目を向けた。竹之助は俯いていた。先ほどまで新右衛門を鋭い目つきで睨んでいたというのに。

「竹之助、顔を上げよ」

 殿様の言葉に竹之助は顔を上げた。まるで何も考えていないような表情だった。新右衛門は先ほどの目つきは何かの勘違いだったのかもしれないと思った。

「そなたの身体を考えると、江戸の水は合わぬように思えるのだ。江戸患いのこともある。病が落ち着いたら、よき折を見て、国許の御分家との縁組をしようと思うておる」
「有難き幸せ」

 竹之助は頭を下げた。

「すまぬな。身体が第一だ。わしがそなたを連れて来なければ、そなたの病も悪くはならなかったのだからな」
「勿体ない仰せ、いたみいります」
「御分家の姫はまだ十一歳ゆえ、少し先のことになるが」

 殿様がそう言うと、隆成がええっと叫んだ。

「兄上、私ではいけませんか」
「そなた、寝言は大概にせよ」

 殿様に言われ、隆成は肩を落とした。

「あの、そろそろ。台所の者がいつまでも仕事を終えることができないのではありませんか」

 新右衛門は言った。空腹が我慢できなかったのだ。

「まあ、そうね。皆様、おなかがおすきでしょう」

 眞里姫の言葉に殿様はうなずいた。

「そうだな。今宵は祝いの膳。いつまでも口をつけぬわけにはいかぬ」

 というわけでやっと食事が始まった。 




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