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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)
03 東海道の旅
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大坂からは新たにお供の侍や雇いの毛槍持ち等の人足が加わり、行列は百人を超えた。
その代わり、大坂から国許に引き返す者もおり、彼らに手紙や土産を託す者も少なくなかった。
新右衛門も満津や岡部の家への手紙を頼んだ。
殿様は城にだけでなく、江戸への早飛脚に上屋敷への手紙を託した。
ここから先は大坂と江戸を十三泊十四日で行こうという強行軍である。
ちなみに、他の藩もたいがい似たようなものである。
大坂を出た後、京伏見、石部、関、石薬師、宮(熱田)、大浜、御油、浜松、島田、江尻、沼津、小田原、程谷(保土ヶ谷)に泊まって十四日目に江戸下屋敷に着く算段である。
参考におおよその距離だけを記す。
大坂・伏見 四十六キロメートル
伏見・石部 四十二・八キロメートル
石部・関 四十・六キロメートル
関・石薬師 十六・五キロメートル
石薬師・宮 五十一キロメートル
(桑名・宮の間は七里の渡しを利用)
宮・知立 十七・六キロメートル
知立・御油 三十二・三キロメートル
御油・浜松 四十五・五キロメートル(新居の関を越える)
浜松・島田 四十九・五キロメートル
島田・江尻 三十九・六キロメートル
江尻・沼津 四十六・一キロメートル
沼津・小田原 三十七・三キロメートル(箱根の関を越える)
小田原・程谷 四十九・一キロメートル
程谷・品川 二十四・五キロメートル
ざっと書いたが、この間には川をいくつも渡り、箱根の山を越えと、平地だけを歩くわけではない。
いつも好天というわけでもなく、雨の中を進むこともあった。
幸いにも、川止めに遭うことはなく、一行は予定通りの行程で進んだ。
大きな揉め事もなかった。
ただ、途中で藩主の体調不良で予定の行程より遅くなった大藩の行列を追い抜かねばならなくなったことがあった。その時は直前になって、先行していた者が知らせてきたので、急ぎ脇道に入り、ほとんど走るようにして宿場に入った。大藩は一つ手前の宿場に泊まったので、翌日は追い越されぬように早暁に出発した。無論、行列からは見舞いの使者を送っている。
そんな経験すら新右衛門にとっては面白かった。何もかも知らないことばかりで何もかも初めてだった。
伏見の宿で献上された酒は美味しかった。浜松で本陣から献上された鰻は最高の味だった。
富士の山はあまりにも高すぎて頂きが雲に隠れて見えなかったが、駿河湾の海の幸は美味しかった。
箱根の山では傾斜が急なので駕籠から降りて馬に乗って越えた。殿様も馬に乗り、一緒に山越えをするのは浮き立つように楽しかった。
ただ気になるのは、江戸に近づくにつれ、殿様の顔いろが悪くなっていることだった。疲れのせいなのか、食欲もなかった。
すでに浜松で鰻を四分の一も食べなかった。新右衛門は一人前をぺろりと食べたのに。
やはり江戸ではいろいろと心配事もあるのだろうと、新右衛門なりに考えるのだが、それが何なのかは分からなかった。
殿様に聞いても恐らく教えてはくれないように思えた。
そんな心配をしているうちに一行はいよいよ相模の国を出て品川の宿に入った。
高輪の下屋敷から品川の宿に迎えが出ており、彼らとともに泉岳寺にほど近い下屋敷に入ったのだった。
海からの潮風が駕籠の中にまで入ってきて、ここはわりと海に近いらしいとわかった。
やがて行列は止まり、駕籠の戸が開けられ、新右衛門はゆっくりと駕籠から降りた。
そこに立っているのは自分と殿様だけだった。他は皆、跪き頭を下げていた。
新右衛門は息を呑んだ。
「迎え大儀である」
殿様の一言で周囲が動き始めた。
下屋敷に入るとすぐに殿様とともに大広間に通された。
殿様は上座に座り、新右衛門は一番下座に座らされた。
まず入って来たのは切り下げ髪の婦人だった。年齢はきよよりも下に見えたが、母よりは上のようだった。
その後ろから殿様に何となく似た男性が入ってきた。殿様よりも少し肥えていて顔色は白い。
二人は殿様と畳二枚ほど離れた場所に正座し、頭を下げた。
「御無事の江戸入り、おめでとうございます」
そう言ったのは婦人だった。声がしっかりしている。
「母上にはご機嫌うるわしう」
殿様の言葉は間違いではない。生みの母は於絹の方だが、父の正室寿姫を母親と呼ぶ習わしになっている。実際、実の母よりも寿姫に育てられた年月のほうが長い。
「兄上、おめでとうございます」
「うむ。隆成、息災であったか」
「おかげ様で」
これが殿様のすぐ下の弟隆成であった。
彼らは新右衛門がいないかのように話をしていた。自分のことが本当に見えないのではないかと、新右衛門が真剣に考えてしまいそうになった時だった。
「新右衛門、これへ」
やっと呼ばれて、前に膝行した。どこまで行けばいいのかわらないので、婦人と隆成の横に並ぶと、苦しうない、前へと言われ、一尺ほど前に進んだ。
「母上、隆成、これが父上の忘れ形見の新右衛門です」
そう言われ、新右衛門は二人のほうに向き直った。
「宜しくお願いいたします」
できるだけゆっくりと言って頭を下げると、二人とも頭を下げた。
そろそろいいかと顔を上げると、まだ下げていた。反射的にまた頭を下げた。
「新右衛門、面を上げよ」
言われて顔を上げた。その後、二人も顔を上げた。
その瞬間、新右衛門は寿姫の視線に寒気を覚えた。怖い。こんな目つきで見られたことなどなかった。
於絹の方もよく見ると凄みのある目つきだが、ここまで怖くない。
だが、それも一瞬のことで、寿姫の顔は無表情に戻った。
隣の隆成はにっこりと笑った。なんというか、年の割に無邪気な感じがした。とても隣の寿姫の実子には思えなかった。
「おお、父上によう似ておる」
ゆったりした話し方だった。
「目のあたりが父上と同じじゃなあ。耳の形も。母上もそう思いませぬか」
寿姫は抑揚のない声で言った。
「まことに。啓悌院様に似ておいでのこと」
「かたじけなく存じます」
そう言うと、殿様もうなずいた。
「上屋敷に入った後、改めて披露する。よしなに」
二人が下がった後、何人もの重臣が入っては挨拶をしていったが、寿姫の視線の冷たさを忘れることはできなかった。
夕食は殿様だけでなく、隆成も一緒だった。寿姫は別御殿にいるのでそちらで食べるということだった。正直、新右衛門は安堵した。あの婦人と食事をしたら食欲がなくなりそうだった。殿様の母上だから、そんなことを思うのはよくないのだが。
夕食の席では、新右衛門はできるだけ殿様と隆成の会話に口を挟まないようにした。二人は久しぶりに会うのだからと思ってのことだったのだが、なぜか二人とも新右衛門を会話に巻き込んだ。
「で、新右衛門殿は、鯵を釣ったのだな」
「はい」
「あれは旨かった。そなたにも食べさせたかった」
「お言葉だけで十分です。で、鯵の他には何を釣ったんだい」
「鯛を釣りました。でも大きかったのでお社に奉納しました」
「そりゃあ凄いなあ」
「おかげで次の日にはよき風と潮に恵まれた。そういえば、そなた島々の絵を描いておったようだな。あれはどうしたのだ」
「手文庫にしまっておりますが、見せられるものではありません」
「後で上屋敷の者に見せたいのだが、よいか」
「それは困ります。ただの手慰みで」
「私も見たいなあ。兄上、上屋敷に拝見しに参ってもよろしいですか」
「披露の時にでも見せよう」
勝手に決められたのは困ったものだったが、殿様の笑顔を見ると嫌と言うのが申し訳ない気がした。
下屋敷に入った翌日、吉時を選んで下屋敷から江戸日本橋を経て上屋敷に入ることになった。
ちなみに下屋敷から上屋敷までの行列は百五十人規模に増える。下屋敷の者や雇いの人足が加わるのだ。
二里(約七・九キロメートル)の道のりをこれまでの旅路で一番遅い速度で進んだ。
毛槍持ち達が奴踊りを見せるので、そういうことになるのだった。
もっとも駕籠に乗らなければならない新右衛門にとって、それはほとんど無意味だった。見てみたいのに見られない。はっきり言って苦痛だった。
屋敷に到着した後で殿様達の前で再演するとのことだが、どうせなら市中で大勢の人々が喝采する中で見るほうが面白いように思えた。
そんな不満はあったものの、行列は無事に上屋敷に到着した。
下屋敷以上に大勢の人々に迎えられた。
奴踊りを見た後、旅装を解くために別室に案内され、着替えて座敷に入った。
江戸家老と留守居役がすでに詰めており、すぐに上座に殿様が入った。
型通りの挨拶の後、留守居役から老中へ江戸到着の届けを済ませたことが報告された。他にもいくつか報告がなされた。
新右衛門にとってはほとんど意味がわからない話だったので、床の間の掛け軸の滝の絵を見ていると不意に家老が言った。
「若君様におかれましては国許よりまことにめでたき知らせがあり、我ら一同恐悦至極に存じます」
新右衛門は家老を見た。「めでたき知らせ」とは何の話だろう。
殿様もわからないようだった。
「国許から何の知らせがあったのか」
家老も留守居役もはっと顔色を変えた。家老は言った。
「申し訳ありません。実は今朝方、国許より早飛脚が着きまして。高輪の屋敷にも国許からお知らせがいったかと思っておりました」
どうやら早飛脚は参勤交代の行列を追い越してしまったらしい。
追い越すほど早く届けなければならない知らせとは一体何なのか。
新右衛門は呼吸を整えた。
留守居役は言った。
「国許の満津の方様ご懐妊の由、まことにおめでとうございます」
新右衛門は思わず声にならぬ声で叫んでいた。いや、それは叫びというよりは咆哮だった。
そこにいた殿様も家老も留守居役も小姓も、呆気にとられていた。座敷の外の者たちもこんな真昼に吠える獣が江戸にはいるのかと顔を見合わせたのだった。
その代わり、大坂から国許に引き返す者もおり、彼らに手紙や土産を託す者も少なくなかった。
新右衛門も満津や岡部の家への手紙を頼んだ。
殿様は城にだけでなく、江戸への早飛脚に上屋敷への手紙を託した。
ここから先は大坂と江戸を十三泊十四日で行こうという強行軍である。
ちなみに、他の藩もたいがい似たようなものである。
大坂を出た後、京伏見、石部、関、石薬師、宮(熱田)、大浜、御油、浜松、島田、江尻、沼津、小田原、程谷(保土ヶ谷)に泊まって十四日目に江戸下屋敷に着く算段である。
参考におおよその距離だけを記す。
大坂・伏見 四十六キロメートル
伏見・石部 四十二・八キロメートル
石部・関 四十・六キロメートル
関・石薬師 十六・五キロメートル
石薬師・宮 五十一キロメートル
(桑名・宮の間は七里の渡しを利用)
宮・知立 十七・六キロメートル
知立・御油 三十二・三キロメートル
御油・浜松 四十五・五キロメートル(新居の関を越える)
浜松・島田 四十九・五キロメートル
島田・江尻 三十九・六キロメートル
江尻・沼津 四十六・一キロメートル
沼津・小田原 三十七・三キロメートル(箱根の関を越える)
小田原・程谷 四十九・一キロメートル
程谷・品川 二十四・五キロメートル
ざっと書いたが、この間には川をいくつも渡り、箱根の山を越えと、平地だけを歩くわけではない。
いつも好天というわけでもなく、雨の中を進むこともあった。
幸いにも、川止めに遭うことはなく、一行は予定通りの行程で進んだ。
大きな揉め事もなかった。
ただ、途中で藩主の体調不良で予定の行程より遅くなった大藩の行列を追い抜かねばならなくなったことがあった。その時は直前になって、先行していた者が知らせてきたので、急ぎ脇道に入り、ほとんど走るようにして宿場に入った。大藩は一つ手前の宿場に泊まったので、翌日は追い越されぬように早暁に出発した。無論、行列からは見舞いの使者を送っている。
そんな経験すら新右衛門にとっては面白かった。何もかも知らないことばかりで何もかも初めてだった。
伏見の宿で献上された酒は美味しかった。浜松で本陣から献上された鰻は最高の味だった。
富士の山はあまりにも高すぎて頂きが雲に隠れて見えなかったが、駿河湾の海の幸は美味しかった。
箱根の山では傾斜が急なので駕籠から降りて馬に乗って越えた。殿様も馬に乗り、一緒に山越えをするのは浮き立つように楽しかった。
ただ気になるのは、江戸に近づくにつれ、殿様の顔いろが悪くなっていることだった。疲れのせいなのか、食欲もなかった。
すでに浜松で鰻を四分の一も食べなかった。新右衛門は一人前をぺろりと食べたのに。
やはり江戸ではいろいろと心配事もあるのだろうと、新右衛門なりに考えるのだが、それが何なのかは分からなかった。
殿様に聞いても恐らく教えてはくれないように思えた。
そんな心配をしているうちに一行はいよいよ相模の国を出て品川の宿に入った。
高輪の下屋敷から品川の宿に迎えが出ており、彼らとともに泉岳寺にほど近い下屋敷に入ったのだった。
海からの潮風が駕籠の中にまで入ってきて、ここはわりと海に近いらしいとわかった。
やがて行列は止まり、駕籠の戸が開けられ、新右衛門はゆっくりと駕籠から降りた。
そこに立っているのは自分と殿様だけだった。他は皆、跪き頭を下げていた。
新右衛門は息を呑んだ。
「迎え大儀である」
殿様の一言で周囲が動き始めた。
下屋敷に入るとすぐに殿様とともに大広間に通された。
殿様は上座に座り、新右衛門は一番下座に座らされた。
まず入って来たのは切り下げ髪の婦人だった。年齢はきよよりも下に見えたが、母よりは上のようだった。
その後ろから殿様に何となく似た男性が入ってきた。殿様よりも少し肥えていて顔色は白い。
二人は殿様と畳二枚ほど離れた場所に正座し、頭を下げた。
「御無事の江戸入り、おめでとうございます」
そう言ったのは婦人だった。声がしっかりしている。
「母上にはご機嫌うるわしう」
殿様の言葉は間違いではない。生みの母は於絹の方だが、父の正室寿姫を母親と呼ぶ習わしになっている。実際、実の母よりも寿姫に育てられた年月のほうが長い。
「兄上、おめでとうございます」
「うむ。隆成、息災であったか」
「おかげ様で」
これが殿様のすぐ下の弟隆成であった。
彼らは新右衛門がいないかのように話をしていた。自分のことが本当に見えないのではないかと、新右衛門が真剣に考えてしまいそうになった時だった。
「新右衛門、これへ」
やっと呼ばれて、前に膝行した。どこまで行けばいいのかわらないので、婦人と隆成の横に並ぶと、苦しうない、前へと言われ、一尺ほど前に進んだ。
「母上、隆成、これが父上の忘れ形見の新右衛門です」
そう言われ、新右衛門は二人のほうに向き直った。
「宜しくお願いいたします」
できるだけゆっくりと言って頭を下げると、二人とも頭を下げた。
そろそろいいかと顔を上げると、まだ下げていた。反射的にまた頭を下げた。
「新右衛門、面を上げよ」
言われて顔を上げた。その後、二人も顔を上げた。
その瞬間、新右衛門は寿姫の視線に寒気を覚えた。怖い。こんな目つきで見られたことなどなかった。
於絹の方もよく見ると凄みのある目つきだが、ここまで怖くない。
だが、それも一瞬のことで、寿姫の顔は無表情に戻った。
隣の隆成はにっこりと笑った。なんというか、年の割に無邪気な感じがした。とても隣の寿姫の実子には思えなかった。
「おお、父上によう似ておる」
ゆったりした話し方だった。
「目のあたりが父上と同じじゃなあ。耳の形も。母上もそう思いませぬか」
寿姫は抑揚のない声で言った。
「まことに。啓悌院様に似ておいでのこと」
「かたじけなく存じます」
そう言うと、殿様もうなずいた。
「上屋敷に入った後、改めて披露する。よしなに」
二人が下がった後、何人もの重臣が入っては挨拶をしていったが、寿姫の視線の冷たさを忘れることはできなかった。
夕食は殿様だけでなく、隆成も一緒だった。寿姫は別御殿にいるのでそちらで食べるということだった。正直、新右衛門は安堵した。あの婦人と食事をしたら食欲がなくなりそうだった。殿様の母上だから、そんなことを思うのはよくないのだが。
夕食の席では、新右衛門はできるだけ殿様と隆成の会話に口を挟まないようにした。二人は久しぶりに会うのだからと思ってのことだったのだが、なぜか二人とも新右衛門を会話に巻き込んだ。
「で、新右衛門殿は、鯵を釣ったのだな」
「はい」
「あれは旨かった。そなたにも食べさせたかった」
「お言葉だけで十分です。で、鯵の他には何を釣ったんだい」
「鯛を釣りました。でも大きかったのでお社に奉納しました」
「そりゃあ凄いなあ」
「おかげで次の日にはよき風と潮に恵まれた。そういえば、そなた島々の絵を描いておったようだな。あれはどうしたのだ」
「手文庫にしまっておりますが、見せられるものではありません」
「後で上屋敷の者に見せたいのだが、よいか」
「それは困ります。ただの手慰みで」
「私も見たいなあ。兄上、上屋敷に拝見しに参ってもよろしいですか」
「披露の時にでも見せよう」
勝手に決められたのは困ったものだったが、殿様の笑顔を見ると嫌と言うのが申し訳ない気がした。
下屋敷に入った翌日、吉時を選んで下屋敷から江戸日本橋を経て上屋敷に入ることになった。
ちなみに下屋敷から上屋敷までの行列は百五十人規模に増える。下屋敷の者や雇いの人足が加わるのだ。
二里(約七・九キロメートル)の道のりをこれまでの旅路で一番遅い速度で進んだ。
毛槍持ち達が奴踊りを見せるので、そういうことになるのだった。
もっとも駕籠に乗らなければならない新右衛門にとって、それはほとんど無意味だった。見てみたいのに見られない。はっきり言って苦痛だった。
屋敷に到着した後で殿様達の前で再演するとのことだが、どうせなら市中で大勢の人々が喝采する中で見るほうが面白いように思えた。
そんな不満はあったものの、行列は無事に上屋敷に到着した。
下屋敷以上に大勢の人々に迎えられた。
奴踊りを見た後、旅装を解くために別室に案内され、着替えて座敷に入った。
江戸家老と留守居役がすでに詰めており、すぐに上座に殿様が入った。
型通りの挨拶の後、留守居役から老中へ江戸到着の届けを済ませたことが報告された。他にもいくつか報告がなされた。
新右衛門にとってはほとんど意味がわからない話だったので、床の間の掛け軸の滝の絵を見ていると不意に家老が言った。
「若君様におかれましては国許よりまことにめでたき知らせがあり、我ら一同恐悦至極に存じます」
新右衛門は家老を見た。「めでたき知らせ」とは何の話だろう。
殿様もわからないようだった。
「国許から何の知らせがあったのか」
家老も留守居役もはっと顔色を変えた。家老は言った。
「申し訳ありません。実は今朝方、国許より早飛脚が着きまして。高輪の屋敷にも国許からお知らせがいったかと思っておりました」
どうやら早飛脚は参勤交代の行列を追い越してしまったらしい。
追い越すほど早く届けなければならない知らせとは一体何なのか。
新右衛門は呼吸を整えた。
留守居役は言った。
「国許の満津の方様ご懐妊の由、まことにおめでとうございます」
新右衛門は思わず声にならぬ声で叫んでいた。いや、それは叫びというよりは咆哮だった。
そこにいた殿様も家老も留守居役も小姓も、呆気にとられていた。座敷の外の者たちもこんな真昼に吠える獣が江戸にはいるのかと顔を見合わせたのだった。
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