生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

01 初めての海

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「これが海」

 新右衛門は、はるかかなた山々の間に小さく光る水平線を見つめていた。
 海は青いという話であったが、今は日の光を受けて白く光っていた。

「向う岸が見えぬ」

 さほどに広いものらしかった。
 ここまで登る途中で休憩した場所から見た城下は箱庭のようであった。こんな狭い場所で生きていたのかと新右衛門は不思議な気持ちで見た。

「よく見ておくがいい。余はいつも、これが最後かもしれぬと思うのだ」

 殿様の言葉は縁起でもないと思ったものの、満津や岡部の両親がいるのかと思うと、名残惜しい景色であった。

「峠の一番上からは海が見えます」

 駕籠に乗る前の小ヶ田与五郎の言葉に好奇心がもたげてきた。
 駕籠の揺れに耐え、峠の頂上で駕籠から降りた新右衛門は初めて海を見た。小さく見えたが、それはこれから広がる大きな世界の一部だった。世界はそれほどまでに広い。新右衛門はこれからの己の行く末を想像し、胸が高鳴った。
 拍子木が一回鳴った。間もなく出発することを知らせる合図である。二回鳴ったら隊列を整え、三回鳴ったら出発となる。
 この峠道を下ってさらに二里進んだ宿場が今日の宿である。
 新右衛門はしっかりと海の姿を目に焼き付けて駕籠に乗った。
 拍子木が二回鳴った。





 九十八名の行列といっても参勤交代にはまだまだ多くの人員がかかわっている。
 一か月前には「先触れ」が先行して、通過する地を治める大名や幕府御領所に挨拶してまわる。
 前日には「宿割り」の徒頭かちがしららが休憩、宿泊の準備のため先行する。
 彼らは先遣隊でもあるので、途中がけ崩れや洪水などの災害、あるいは他家の行列とかちあう恐れがあると判明した場合は後方の本隊に連絡して対策を練る。
 また遅れる場合も宿場に連絡する。
 携帯電話のない時代である。当然、それは人間の役目だった。何かことがあれば騎馬で本隊に連絡し、また先行しと、気の休まる暇もない。
 また御料理方も「御昼方」が殿様の昼休憩の準備のため翌日の休憩場所に先行している。
 ちなみに朝夕は「御泊方」が準備するようになっている。
 他にも本陣に掲げる「山置飛騨守休」「山置飛騨守泊」の二枚の関札、御夜具、台所諸道具長持、御納戸方預かり荷物といった寝具や日用品、衣類も本隊到着前には到着していなければならない。
 本隊もまた一日十里を進むため、遅れぬように列を乱さぬように必死である。
 港までいくつもの川を徒歩や舟で越えねばならないのも難儀なことだった。

「毎日が雷土山登山じゃ」

 一日の行程を終え、夕食の時になれば、誰の口からともなくそんな言葉が聞こえてくる。

「港から船で江戸には行けぬのか」
「それは御法度じゃ。難波までしか行けぬ」

 幕府は大名に江戸まで船で行くのを禁じていた。だから九州四国の大名は大坂までしか船を利用できず、後は東海道か中山道を通るしかない。
 香田角家中も専用の御座船と脇船を所有している。普段は大坂蔵屋敷に米や産物を輸送し、あるいは大坂から物資や書類を輸送するといったことに利用されている。
 その二隻だけでは参勤の本隊全員を運べないので、殿様や上役以外は借り上げた船を利用している。
 ここ数年は近隣の諸藩同様、天領の太島を出発して大坂に行き、それから先は京に上り、東海道を利用して江戸に向かうルートをとっている。
 ただ、他の家中の参勤とかちあうと、船の融通ができなくなってしまうこともあった。やはり外様の小藩としては大藩には遠慮してしまうこともあるのだった。
 幸い、今回の参勤は他の藩と同じ日に同じ港を使わないことがわかっていたので、船のやりくりはつきそうだった。
 港をめざし行列は太島街道を北上していく。
 香田角から江戸まで三九〇里余り。





 初めて海を見た峠道を下り、松並木の続く街道を一行は進んでゆく。
 新右衛門は二日目から駕籠を下り馬に乗って太島までの街道を進んだ。
 馬からなら海が少しでも見えるだろうと思ったのだ。だが、海は思ったほど近くには見えなかった。
 もっと波打ち際を通ると思っていたのだ。
 昼の休憩に止まった宿場の本陣で、なぜ道が海から離れているのかと尋ねると、主人は何かと不便があるからだと言う。

「寛文のとんところの地震が起きた時など、波が押し寄せましてな。このあたりもずいぶんと浸かりました。それでここも今の場所に移ったのです。あの時は田畑がすべて潮でおおわれまして。その節はお手伝い普請に御家中の皆様がおいでくださり助かりました。ありがたいことです」

 主人の言う「とんところの地震」とは寛文二年(1662年)九月二十日未明に日向灘沖を震源として起きた大地震である。「外所」と書いてとんところ(とんどころ)と読む。
 日向国、大隅国を中心に大きな被害があり、現在の宮崎市佐土原町で震度六強の揺れがあったと推定される。
 延岡から大隅半島にかけての海岸を津波(最大五メートル)が襲い、正連寺平野一帯(現在のJR日南線運動公園駅付近)は水没し入り江と化した。
  死者は二百人を数え、約三八〇〇世帯の家屋が損害を受け、七つの村が水没した。
 五十年前は恐らく子どもであったろう主人は今もその頃の恐怖を感じているように見えた。さらに、当時の恩義も忘れずにいるようだった。
 殿様はうなずいた。

「こうやって主人が伝えてくれるのはありがたいこと。昔の禍を忘れてはならない」
「また同じことが起きるのでしょうか」

 新右衛門の疑問に主人はうなずいた。

「起きると思います。現に、宝永の時にも、波が打ち寄せました。とんところほどではございませんでしたが。年寄りが覚えて子や孫に話していたおかげで、この辺りでは誰も人死には出ませなんだ。そういえばここから南に下った村では五十年の法要の際にいしぶみを建てたそうでございます。なんでもこれから五十年おきに碑を作ろうとかいう話になっておるとか。石に文字を刻めば紙のように濡れたり燃えたりすることはございませんし」
「それはよき知恵だな」

 殿様はうなずいた。
 新右衛門も宝永の地震の時は驚いたものだが、もはや忘れかけていた。馬小屋が揺れて崩れるのではないかと、きよと於三が母屋で夜を過ごしたことがあった。

「江戸もよう揺れる」

 そろそろ出発という時に殿様は言った。新右衛門は思い出した。

「富士の山が火を噴いたそうでございますね。その時はどうだったのですか」
「うむ。灰というのか砂というのか、江戸まで降ってきてな。空がまっ黒になった。あれは恐ろしいものであった」

 恐ろしいと殿様に言わせるような状態というのが、新右衛門にはぴんとこなかった。

「富士の山が早く見たいものです」
「そうだな。あれは火さえ噴かねば素晴らしい」

 殿様はつぶやいた。

「ただ、山の形が歪になってしもうたがな」
「いびつにとは」
「火を噴いた場所が盛り上がって、こぶのようになってしまったのだ」
「さようなことが」

 山の形が変わるとは、世の中にはいろいろなことがあるものと新右衛門は思う。まだ三日も旅をしていないのに。





 世の中には旨いものがあると知ったのも、この参勤の旅であった。
 参勤交代では宿場を利用するのだが、その宿場やその周辺の村々から、殿様に様々な食べ物が献上されるのだ。
 問題がないと御料理方が判断すれば、それが夕食の膳に並ぶのだ。
 二日目の本陣に、宿場から献上されたのは鶏卵とみかんだった。
 みかんは香田角でも家の庭などに植えられている。それをちぎって食べたものだったが、献上されたみかんの味は格別だった。甘かった。

「これは本当にみかんなのですか」

 夕食の後に出たみかんを一口食べて叫んでしまった。
 殿様はにっこりと笑う。

「このあたりはみかんがよく作られておってな」
「このみかんの種を香田角で蒔けば甘いみかんができますね」
「それだけではできないそうだ。よい堆肥を適切に施し、実が成るまで様々な手入れをせねば甘くはならぬそうだ」
「では、みかん作りの名人を呼べばいい」

 そう簡単にはいかないと殿様は思ったが、人を呼ぶということを考えた新右衛門の発想は驚きだった。

「そうだな。どうやったら来てくれるだろうな」
「高い給金を出せばよいのではありませんか」
「うちはあまり出せぬぞ」
「家中からは無理ですね」

 新右衛門は少し考えた。今でさえ禄が四分の一借り上げられているのだ。金を持っているのは誰だろう。

「商人に金を出させればいいのです。できたみかんを金を出した商人が優先的に売ることができるということにして。そうすれば商人も儲かるし、みかん作りの名人も喜ぶでしょう」
「なるほど」
「本当は家中が名人に禄を出して、家中を通じてしか売れないことにしたほうが儲かりますけど」

 殿様はぎょっとした。それは専売ではないか。すでにいくつかの家中ではそのようなことをしていると聞いていた。
 勘定方の中には干し椎茸を専売制にしてはと言う者もいるらしい。
 だが、なかなか踏み切れないのは、先例を重んじる老臣達が反対しているからであった。
 殿様はみかんの皮を見つめた。みかん一つでこんなことを考える新右衛門は、只者ではないのではないか。

「兄上、みかんはもうお召し上がりにならないのですか」

 高坏の上に残ったみかんに新右衛門は目を付けたらしい。

「食べてもよいが、三つは残せ」
「はい」

 新右衛門は二つ食べた。残りは後で小姓達に下げ渡されるのだ。





 鶏卵も驚くほど旨いものだった。正確には鶏卵を使った玉子焼きだが。
 香田角では鶏卵は病人が精をつけるために食べるものであって、ふだんの食事に出るものではなかった。
 鶏を飼う者もいるが、毎朝卵を産むわけではないので、卵というのはなかなか手に入らない物だった。
 従って、卵をたくさん使う厚焼き玉子など食べたこともなかった。しかもそこには砂糖がどっさり使われているのだ。当時の砂糖は貴重品である。
 玉子焼きは新右衛門にとって未知の味だった。

「何ですか、これは。お菓子ですか」

 三日目の夕食に出たそれは山吹色に輝き、この上なく柔らかく甘かった。
 これを母上やきよや満津に食べさせたらどんなに喜ぶだろうか。

「鶏卵に砂糖を混ぜて焼いたものじゃ」
「卵ですか。こんな味になるのですか」
「そうだ。旨かろう」
「はい」

 新右衛門はぱくぱくと玉子焼きを食べた。その食べっぷりのよさを見ているうちにいつもは半分以上残す殿様も全部食べてしまった。

「江戸のお屋敷には鶏はいないのですか」
「おらぬ」
「では飼いましょう。たくさん飼って玉子焼きを食べましょう」

 それはちょっとと思う殿様だった。一羽二羽ならまだしも玉子焼きを食べられるほどたくさん飼うと近所迷惑だろう。鶏が一斉に朝の勝ち鬨を上げればいくら敷地の広い大名屋敷でも隣の屋敷にまで聞こえてしまう。
 それこそ前例がございませんと江戸家老が大騒ぎをするに違いなかった。

「上屋敷では無理であろうな」

 遠回しに言う。

「では下屋敷ならば。鶏は卵を産む他にも食べることができるゆえ、きっと役に立ちます。山鳥もおいしいのですから、鶏もおいしいに決まっています」

 殿様はなんだか心が弾んできた。他の弟達とはこんな話をしたことがなかった。

「そうか、山鳥はおいしいか」
「はい。江戸にもいるのでしょう。弓矢があれば捕って参ります」
「山鳥というからには山にいるのではないか」
「江戸にも山はあるでしょう」
「そうだな」

 江戸の町で弓矢で狩りなどしたら町奉行が大騒ぎする。だが、新右衛門の話を想像すると、少しだけ殿様は心が晴れる心地がした。
 心に思うだけならば誰にも咎められることはない。そういう思いは少しだけ殿様の心を楽にした。





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