生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

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第二章 初恋(正徳二年~正徳三年)

35 代替わり

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 正徳二年の冬は慌ただしかった。
 将軍重態の報が届いてから数日後、御公儀から上様御逝去の正式発表が国許にも届いた。
 すぐに早飛脚が大坂蔵屋敷と江戸上屋敷へ殿からの指示を運んだ。
 また、御逝去の報を知ると殿様は月代と髭を十四日間剃らずに過ごした。新右衛門も同じく剃らなかった。
 おかげで二人とも見たことのないような姿になり、十五日目に剃る前に鏡を見ると、そこに映るのはまるで落ち武者のような姿だった。
 ちなみに江戸の旗本やそば近く仕えた者は二十一日間剃らないことになっている。
 当然、奥入りは無し。食事も精進物が続いた。城下には鳴り物停止の触れが出た。
 国許在国中ゆえ葬儀に参列することはかなわないので、十一月二日の葬儀の日は玄龍寺に参り、本堂で重臣一同とともに亡き上様のために法要を行った。
 江戸からは将軍様へのお供物料やその他もろもろの経費の報告が送られてきた。また次の将軍については亡き将軍の三男鍋松君四歳がおつきになるようだという報告もあった。

「次の上様は四歳ですか」

 それを殿様から知らされた新右衛門は驚いた。小治郎よりも幼い。

「うむ。側用人の間部様と新井白石が恐らく補助する形になるのであろうな」
「四歳ならば、しばらくは上様は変わることはないのですね」
「そうであろうな」

 そう言った後で殿様はつぶやいた。

「ただ、子どもというのは何があるかわからぬ」

 殿様の言葉に新右衛門は言うべき言葉を失った。
 この数日前、お仙の方の子が流れたのだ。
 十月末の頃に来るはずの月の物がなく、十一月半ばには悪阻が起こり御典医の猪川道庵がご懐妊と診断した。
 正式な発表はなかったものの、城内には安堵の空気が広がった。殿様も将軍家の喪中とはいえ、喜びを隠しきれなかった。
 けれど、師走も十日過ぎた頃、悪阻が突然やんだかと思うと、お仙は急な出血と腹痛を訴えて猪川道庵の診察を受けた。
 道庵の見立てでは流産ということだった。
 お仙は衝撃と哀しみでいまだ床に就いたままである。
 殿様も昼間奥に行き、お仙の床のそばで黙ったまま一刻ほど過ごすこともあった。





 満津のほうは結局懐妊はしていなかった。十一月の初めに初めての女のしるしを見たのだ。
 沢井家でのささやかな祝いの席には祖母のきよも呼ばれた。
 一方、鳴り物禁止ということで城内の御隠居所の改装も一時中断してしまった。大工の作業の音も音曲同様憚らねばならなかったのだ。
 ようやく師走になって再開したのは、工事が中断すると大工らが年を越せなくなるという普請作事奉行の訴えがあったからである。
 新右衛門にとって喜ばしいことこの上なかったが、そこに奥の御年寄から横やりが入った。

「お仙の方様の体調が思わしくないのに、城内では作事が行われ、大勢の男どもが出入りし物音がかまびすしく落ち着いて休むこともままなりませぬ。どうか、作事を今しばらくお待ちください」

 結局工事再開後、二日で中断となった。普請作事奉行は欄間や襖、障子など城外でもできる表具関係を先に進めた。大工たちには年内は他の現場の仕事を優先して行ってよいと命じた。だが急に他の仕事をしてよいと言われても、おいそれと新しい仕事が入ってくるものでもない。
 大工たちが途方に暮れていると、安寧寺と照妙寺から寺の本堂の修繕の依頼があり、ようやっと年を越せそうな次第となった。





 さて、一方では翌年の江戸への参勤の支度が着々と進んでいた。
 十月の末には、翌年の参勤交代で江戸にお供する者達の氏名が発表された。
 参勤伺いの使者も十月の初めに江戸に到着している。すでに殿様が国許に戻った頃から来年の江戸参勤の日程が練られ、宿の手配、船の準備が始まっていたのだ。
 今回は新右衛門が加わるということで当初よりお供の小姓と近習の数が増えた。その中には岡部惣左衛門、小ヶ田与五郎らも含まれている。
 岡部家では準備のため、勢以は足袋や草鞋、衣服などの仕立てを急いだ。冬支度もあるため、こんな時、於三がいればと思っていると、沢井家から下働きの女が派遣されてきた。須万が岡部家の忙しさを案じて手配したのであった。
 さらに勢以の山置の実家からも惣左衛門への餞別としていくばくかの銀が送られた。
 なんとかこれで準備も終え、無事に年を越せそうだと安堵したのは師走も半ば、すす払いも終わった後のことである。





 明けて正徳三年の正月は前年の将軍家の喪のため、例年に比べて静かに始まった。
 元旦の家臣のお目見えは行われたが、宴はなかった。
 奥の女主人であるお仙の方は身体は回復したものの、気鬱で奥の局に閉じこもりがちになっているため、奥は火が消えたようになっていた。
 新年の殿への挨拶と食事には出てきたものの、それ以外は局でおつきの部屋子達と過ごしているようだった。
 満津は正月三日、沢井須万とともに奥のお仙の方への挨拶に伺った。
 懐妊のお祝い伺いの時以来、久しぶりに会ったお仙の方はやつれていたが、満津に対しては微笑みを絶やさなかった。

「若君様とは会っておりますか」
「公方様の喪中ゆえ、障りがありますので」

 沢井家での月見の夜以来、満津は新右衛門と顔も合わせていない。
 時々、惣左衛門や小ヶ田与五郎が沢井家を訪ねて来て、新右衛門からの手紙や菓子を持って来た。
 手紙には、満津が読みやすいようにひらがなで、元気にしているか、城ではこのように過ごしていると細かく書いてあった。時には手紙の余白に師匠の怒った顔の似顔や御殿に紛れこんだ猫の絵が描かれていることもあった。
 必ず最後には、早く会いたいと書いてあった。
 満津はその文字を繰り返し見ては返事を書いて、次に惣左衛門が来た時に託したのだった。

「文を交わしているだけです」
「早く会えるとよいですね」

 そう言ったお仙の方の微笑みが痛々しく感じられて、満津はいたたまれなかった。御隠居所改築作事の件で御年寄が横槍を入れた件は沢井中老の妻須万の話で知っていた。
 満津はお仙の方に悪意があるとは思いたくはなかった。
 作事の音に何気なく眉をひそめてしまったのを周囲の女中達が見てしまい、それが御年寄の耳に入り、お仙の方を思いやっての苦情具申だったらしいと須万は言っていた。
 そういう側室のちょっとした仕草、態度が周囲に様々な波紋を及ぼすのかと思うと、戦場は閨だけではないのかもしれなかった。むしろ、閨以外もまた戦場だと思ったほうがいいのかもしれないと満津は考えてしまう。哀しみの中にあっても、自分を律しなければならぬことを思うと、気が重かった。
 満津は早々に奥を辞した。





 その日、満津が奥に来たことを新右衛門が知ったのは夕食の後のことだった。
 与五郎が奥の女中から聞いたということだった。
 来るなら教えてくれればと思ったものの、どこで会うかとなると問題は多かった。
 表御殿は公の場、家臣の仕事の場である。中奥は私的な生活空間だが、身の回りのことは男性がすべてしている。奥は殿様付きの女性の空間である。いずれも満津と会うにはふさわしくなかった。
 どのみち、今のままでは満津との逢瀬はかなわない。
 沢井家に行くとなると、伴も連れていかねばならず、沢井家ももてなしに気を遣う。
 岡部の家にいて、親の目を盗んだ時のほうがしょっちゅう顔を見ることができたのに。
 早朝の井戸端で見つかりはせぬかとはらはらしながら口吸いをした時のことを思い出すと胸が苦しかった。




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