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第二章 初恋(正徳二年~正徳三年)

24 与五郎登場

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 新右衛門は何も知らない。
 それどころではなかったのだ。
 表御殿の広間で殿様に弟と紹介されたのはまだよかった。
 緊張はしたが、何も話す必要もなく、ただ大人しく座っていればよかったのだ。
 居並ぶ重臣の中には川合城代家老、小田切家老、沢井中老など見知った人もいたので少しほっとした。
 ただそういう年齢が父親よりも上の人々が自分に頭を下げているというのは、申し訳ないようなこそばゆいような変な感じがした。
 だが、その後が大変だった。
 殿様は新右衛門を来年の江戸参府に伴うと言った。
 さらに、江戸に来て以来脚気に悩む竹之助を国許に帰し、御分家の婿養子にすると言ったのだ。
 その瞬間、最前列にいた御分家の啓哲たかあきが目を剥いた。
 新右衛門は、容姿端麗、眉目秀麗の形容そのものの男の豹変する姿に腰を抜かしそうになった。
 竹之助様養子の件も驚きだが、それを吹き飛ばすほどの衝撃を新右衛門は受けていた。
 新右衛門が知る限り、啓哲は上品で優雅な物腰の人物だった。歌塾で師匠と話す姿は教養ある文化人そのものなのだ。
 それが目を剥き、殿様を見つめたのだ。ありえないと思った。
 自分も非常識な人間だが、そんなことはできないと思った。
 勿論、他の重臣たちも動揺していた。だが、いずれも内心はどうあれ、表情は大きく変わらない。
 それなのに、香田角一教養ある人が、こんな顔をするなんて。
 新右衛門は衝撃を受けた。人というのは様々な面を持つのだと。
 けれど、殿様は落ち着いていた。

「助言があらば話を聞こう」

 殿様に続いて広間を出ると、後方からざわめきが広がった。やはり皆驚いたのだと思っていると、小姓がお待ちくださいと言う声が聞こえた。
 別の小姓が新右衛門だけを中奥へ通ずる廊下へ導いた。後方では啓哲の大声が聞こえた。何を言っているかわからないが、怒っているのは確かだった。

「あの方はいつもああなのか」

 尋ねると小姓はややあって答えた。

「いつもではございません」

 いつもではなくとも、殿様にああいう顔を見せるのはよくあることらしい。
 訊かれた小姓もなんとなくうんざりしているように見えた。
 そういえば岡部の親戚にもいろいろうるさい老人がいた。やはりどこの家にもうるさい親戚というのがいるらしい。しかもこの親戚は殿様より若い。老人と違い付き合う時間は長くなる。





 新右衛門は居室に入った。
 私室として使えるのはこの十二畳敷きの居間とその隣の寝室だった。
 そういえば先ほど惣左衛門が持って来た書物はと思うと、風呂敷包がそのまま置かれていた。
 幸い小姓はいない。包を解いた。一番上には謡、その下は古今和歌集とすぐには色道指南書が見えないようになっていた。やるな惣左衛門と思って、書物を上から取りのいていった。
 だが、いつまでも指南書が見えない。一番下まで出してみたがなかった。
 さては惣左衛門にからかわれたかと思ったものの、嘘を言う理由はない。おかしいと思っていると、襖の向こうで押し殺したような笑い声が聞こえた。
 新右衛門は音を立てぬように近づいた。

「誰だ」

 がばりと襖を開けた隣の小部屋にいたのは薄縹うすはなだ色の裃の小姓だった。
 書物を広げていた小姓は慌てて閉じると、あっという間にその場に頭を伏せた。

「申し訳ございません」

 自分とさほど年が変わらないように見えた。新右衛門は名を尋ねた。
 平伏したまま、小姓は答えた。

小ヶ田おがた与五郎よごろうと申します」
「小ヶ田ということは小ヶ田頼母先生の縁者か」
「甥にございます。頼母の妹の嫁ぎ先の旗本の子で、伯父の養子になるために拙者一人江戸より下って参りました。失礼の段、お許しくださいませ」

 滑舌のいい落ち着きのある話し方に新右衛門は驚いた。香田角の言葉とは明らかに響きも違う。
 色道指南書の盗み見を指摘するのも忘れてしまいそうになった。

「面を上げよ」

 与五郎は顔を上げた。さらに新右衛門は驚いた。美少年という言葉は聞いたことはあるが、実物は知らない。だが、恐らくこれが美少年なのだろうと新右衛門は感じていた。
 まず色が白い。鼻筋が通っている。目が切れ長で目元がさわやか。唇は少女のように赤い。さらに頬にも赤みが差し、このまま女にしてもおかしくないように思えた。
 その顔で与五郎はにっこり笑った。若い娘が見たら頬を染めてしまうような笑みだった。

「お荷物を片付けようと思いましたら、ついこの書物が目に入りまして。義父はご存知の通りの堅物。このような書物など目に入れるのも毒と言わんばかりで、つい珍しく見入ってしまいました。お許しくださいませ」

 新右衛門はこいつはこの顔で得しているのだろうなと思った。つい男の自分でも許してしまいそうになる。

「たとえ、家族のものでも、他人の書物を勝手に見るのはよくないと思う」

 新右衛門は睨みこそしなかったが、少しきつめに言った。恐らく自分につく小姓なのだろう。舐められたくはなかった。

「次から見たければ言えばよい。黙って見られるのはわしも気分が悪い」

 わしと言ってからしまったと思った。余と言うわけにはいかないが、もっと別の言い方があったはずである。だが、与五郎は表情を変えなかった。

「申し訳ございません。拙者が考え違いをしておりました」

 頭を下げた。

「ならばそれでよい。小ヶ田与五郎、手伝ってくれないか。書棚に他の書を入れたいのだが、どの棚を使えばよいのかわからないのじゃ」
「はい」

 与五郎はさっと立ち上がり、風呂敷の上の書物をてきぱきと棚に納めていった。
 その並べ方を見ると、きちんと謡、歌、漢籍とまとめて分野ごとに並べている。書物の高さまで揃えていた。

「こちらは手文庫に収めたほうがよろしうございます」

 色道指南書は漆塗りの手文庫に入れられた。その上には覆い隠すように厚めの陸奥紙の束を置いた。

「これなら、人に気付かれませぬ」
「おぬし、やるな」
「江戸にいる時分、そうやって家人の目を逃れて春画を隠しておりましたゆえ」

 与五郎の言葉に新右衛門の耳はピクリと動いた。

「しゅんがとは、もしやあの」
「さようにございます」

 先ほどとは違い、真面目くさった顔の与五郎だった。

「ですが、こちらへ参る際に、母に見つかりまして」

 それは残念と思ったが、新右衛門は口にしなかった。言えば物欲しげに思われそうだった。





 そこへ別の小姓が来た。

「お稽古の時間です」

 着替えを持った小納戸方も入って来て、またしても二人がかりで脱がされ着せられた。
 一人でもできるのにと思ったが、二人の手際はよかった。

「何の稽古だ」
「弓術です」

 弓場に行ける、城外に出られると思っていたら、案内されたのは城の中の弓場だった。
 しかも、弓の師匠と一対一である。
 今までは大勢の弟子のひとりだから、師匠から直接教えを受ける時間は限られていた。それが他にはまったく誰もいない状態なのである。
 緊張感は半端なものではなかった。
 もっとも師匠の方もとまどっていたのだが。なにしろ、先日まで集中が足りぬと怒鳴りつけていた弟子が若君様になったので、城から呼び出された時はこれはどうしたものかと頭を抱えた。
 だが、外側は変わっても中身は同じと師匠は開き直り、以前と同じように接することにした。

「駄目です。心が乱れております。姿勢を整えて」

 言葉遣いは丁寧になったが、言っていることは同じである。厳しいことに変わりない。
 新右衛門も変にお世辞めいたことを言われないのでほっとした。
 ただ、競う相手が近くにいないというのは少し張り合いがなかった。
 終わった後で師匠に誰か他の者と一緒に教わることはできないか尋ねた。

「それはできません。主君を守らねばならぬ家臣と違い、御一門の方々の武術は、御自分との戦い、いわば精神の修養が大事。人と競うものではありません」

 恭しくそう告げられ、それ以上は何も言えなかった。
 だとすると、剣術もそうなのだろう。
 人と競うのが楽しい新右衛門としては、物足りなかった。
 師匠もまた内心、この男は競争して力を伸ばす型ゆえつまらぬかもしれぬと思ったが、それは口にはできなかった。





 練習が終われば汗を拭かれ、また着替えである。
 城内の太鼓が鳴って昼食の時間になる。
 これも朝同様、麦の割合の少ない飯、椎茸の味噌汁、漬物、焼いた豆腐、青菜のお浸しという具合で腹八分にもならない。
 さすがにこれには耐えかねた。

「兄上様、もう少し量は増やせないのでしょうか。家中の金子が乏しいことは承知していますが」

 殿様は前半よりも後半に衝撃を受けていた。まだ元服間もないのに、家中の財政を案じているということが殿様を驚かせ悲しませた。

「すまぬ。余がふがいないゆえ」

 侍っていた小姓の顔に動揺が走った。殿様は結構落ち込みやすいのだ。

「別に兄上様のせいではないと思います」

 新右衛門も殿様の様子がまずいと感じていた。量を急に増やせと言っても無理だろうと思い、まずは飯だけでもと考えた。

「江戸のお暮らしにお金がかかることは存じております」

 殿様はおおっとまたも驚いた。江戸暮らしの出費の多さをこの若さで知っているとは。
 新右衛門は家族が江戸にいる者の話を聞いていたから知っていただけなのだが。

「だから、せめて腹もちをよくするために、飯にもう少し麦を多く混ぜたほうがよいかと」
「なるほど。それはよき考えじゃ」

 さあ大変である。これを聞いた御小姓は台所の係にその旨を伝えた。台所の係はどれくらいの割合で麦を入れるべきか飯炊きの係とともに協議を始めた。体面を保つためにはこれ以上麦を混ぜるべきではないと頑なに言い張る者、半分半分にと言う者、とりあえず一割増やして様子見をなど意見はいっこうまとまる気配がなかった。





 そんな騒ぎになっているとも新右衛門は知らず、午後は歌の師匠の講義を受けることになった。
 これも一対一で、居眠りもできぬと新右衛門は眠気を我慢してなんとか講義を聞いたのだった。

「次は五日後。それまでに五首歌を作っておくように」

 宿題も塾と同じだった。
 師匠が帰った後、そういえば御分家の啓哲様はどうしたのか気になった。昼に殿様が何も言っていなかったから大丈夫だということだろうか。
 誰か小姓に聞いてみようかと思っていると、お風呂にございますと小姓が入って来た。
 そういえば、お城には風呂があると聞いたことがあった。
 この前入ったのは紅葉の宴の前日、川合城代家老の家でだった。翌日は御殿に参上するのだからと後見役やワキ方とともに風呂を馳走になったのだ。
 御殿の浴室は広かった。脱衣の間、湯船、洗い場がそれぞれ独立しており、風呂の係がいてまたも服を脱がせてくれた。洗い場でも身体をこすってくれた。湯船の湯はちょうどいい具合で、一人で使うのが勿体なく思われた。
 惣左衛門にも使わせてやりたいと思った。だが、恐らく家臣は無理だろうなと思った。
 風呂から上がると、濡れた身体に浴衣というのを着せられた。それで身体についた湯を取るという。一枚では取れるはずもないから何枚も着せ替えられたのには驚いた。
 最後は浴衣を着たまま、廊下を部屋まで戻ったのだが、何やら肌寒く、十月でこうならこの先もっと寒いのではないかと思われた。






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