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第二章 初恋(正徳二年~正徳三年)
19 一夜明けて
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寝過ごしたと思った。雀の鳴き声が聞こえるし、障子からもれる朝の光は夜が明けたことを教えていた。
もうー、もうー、不意に変な声が聞こえてきた。
近くから聞こえてきた声は次第に遠くへ移動しているようだった。
一体、ここはどこだろう、家ではないような。夢だろうか。
人の気配を感じた。昨夜から寝ずの番をしている侍が足元にいた。
「お時間にございます」
夢ではなかった。新右衛門はぎょっとして飛び起きた。
掛布団、そして家のものとは明らかに違う綿のたくさん入った布団。ここはお城だった。
挨拶をする間もなく、厠へ案内された。なんと案内の者だけでなく二人もついてきた。
戸を開けようとすると、それよりも早く、ついてきた一人が戸を開けた。
さすがに中にまでは誰もついてこなかった。
それでも四畳半はある広さなので、どうにも落ち着かなかった。部屋の真ん中よりやや壁際に便器があるのだが、周囲が畳敷きなので、もし自分が幼子で下り腹などになったら大変なことになるのではないかと恐ろしいことを想像してしまった。
外に出ると手洗いの水が小さな盥で目の前に差し出された。洗うと手にさっと布がかけられたのでそれで拭いた。
その間に背後で戸が閉められていた。
部屋に戻ると、三方に載った歯磨き道具が運ばれてきた。
部屋の中で歯磨きとはと思ったが、冬は寒くなくていいかもしれないと思った。
先が細かく割られた楊枝に塩を付けて歯を磨いた。
「磨き粉をお使いください」
初めて使う磨き粉は何やら匂いがしたが、毒ではなかろうと楊枝の先に付けて同じように磨いてみた。なんとなく口の中がさっぱりした気がした。
口を漱いだ後、水の入った黒い大きな入れ物が二人がかりで運ばれて来た。
「洗面でございます」
さっと侍が二人がかりで寝間着を上半身肩脱ぎにしてしまった。
「こちらへ」
水の入った入れ物の前まで連れて来られた。
「これは何ですか」
「角盥にございます」
どうやら、この中の水で顔を洗えということらしい。水をこぼさぬように顔を洗ったが、正座しているので、寝間着に水滴が落ちてしまう。
その後、二人がかりで髪を整えられた。月代も毛抜きで毛を抜かれた。自分でするのと違い、容赦がないので痛かった。だが痛いと言ってはいけないような気がした。よく見れば、彼らも必死の形相で毛を抜いていた。
髷も油を付けて整えられたが、家のものとは違ってなんともいい香りであった。
髭剃りをするほど髭は伸びていないが、とりあえず顎に剃刀を当てられた。
顔に手が触れないように剃刀を当てるのには驚いた。この係の表情も真剣そのものだった。
それが終わると寝巻を脱がされ昨日着ていたものではない木綿の単衣を着せられた。袴も違っていた。
「拙者の着ていた物はどこに」
「あれは洗い張りを」
今着ている物に比べればきれいではないかもしれないが、さほど汚れていないのに洗い張りをするとは驚きだった。
裃も着けさせられた。
「仏間にご挨拶を」
どうやら仏壇に挨拶をするらしい。これは家でもすることだから当然のことだろう。
部屋から長い廊下に出ると、殿様も出て来たところであった。
「兄上様」
新右衛門は小走りに近づいた。殿様の後ろにいた小姓が仰天した。
「わ、若君様、なりません」
殿様は振り返った。小姓がその前で新右衛門に叫んだ。
「なりません。並んではなりません」
その剣幕に、新右衛門の足は止まった。
「仕来りでな」
殿様は静かに言った。昨夜と違い、厳粛な顔つきであった。
「申し訳ありません」
どうやらいろいろと決まり事があるようだった。
殿様の十歩以上後ろを歩いて入ったのは奥と呼ばれる区域だった。出迎えたのも誘導するのも女性だった。男は自分たち二人だけのようだった。小姓は入って来なかった。
仏間にあったのは仏壇などと言うかわいいものではなかった。
壁一面が仏壇といってよかった。まるで箪笥のようだと思った。位牌もたくさん並んでいた。
殿様の斜め後ろに座り、手を合わせた。
その後、父である啓悌院の位牌を殿様は教えてくれた。
ふと、新右衛門は殿様の横に並んでいることに気付いた。
「これは失礼を」
下がろうとすると、殿様はよいと言った。
「ここは奥。中奥ほどはうるさくはないのだ」
どうやら場所によって、振舞が違ってくるらしかった。
仏間を出て隣の部屋に行くと、美しい装束を着た女性達が頭を下げていた。前列に一人、その背後に五人女性が並んでいた。
「御殿様にはご機嫌うるわしう。若君様、お初におめもじいたします」
殿様はこれがお仙じゃと紹介した。お仙は顔を上げにっこりと笑った。
さすがに国許でほとんど寵を独占している側室だけに、きれいだと新右衛門も思う。だが、於三には負ける。
「お仙が奥を束ねておる。そなたは元服しておるのだな。となれば、下々の言う筆おろしというのもせねばなるまい」
さらりと言ったその言葉に新右衛門は激しく動揺した。
殿様がそんな言葉を口に出すとは。江戸に正室、国許に側室がいるから、別に言ってもおかしくはない言葉だが、さわやかな顔の殿様の口から出る言葉にしては衝撃が強過ぎた。
「ふ、ふでおろしでございますか」
「すまぬ。まだそういうことも知らぬのだな」
知っていますとはいくらなんでも兄と大勢の女性がいる中では言えない。
「お仙、後ろの女子たちか」
「はい。若君様には少し年の上の女子がよかろうと思いまして」
顔を一斉に上げた女達は皆揃いの矢絣の着物を着て、高島田に髪を結っていた。顔は城下を歩いている普通の娘のものではなかった。もしかすると、城下に美人がいないのは、皆ここに集まっているからであろうか。
「どうじゃ」
殿様は新右衛門を見た。これはもしかすると、五人の女から気に入った者を選べということなのだろうかと思ったが、朝っぱらからそんなことはできないと思った。
それに何より於三を裏切るわけにはいかない。
「どうじゃと言われましても、不束者ゆえ」
俯いたのは、女達の誰とも目を合せたくなかったからである。
「まあ、おかわいい」
ホホホとお仙は笑った。
「まだ慣れぬからな。もしその気になったら、小姓に朝のうちに伝えよ。奥も支度があるのでな」
「小姓とは、朝の支度をされた方たちですか」
「あれは小納戸方じゃ。小姓は我らを奥まで連れて来た者達、裃の色が違うであろう」
そういえば小納戸方は殿様の身の回りの世話をするということを聞いたことがあった。着替えや髪の手入れは小納戸方になるのだろう。
「兄上もそのようにされるのですか」
「さよう。それが仕来りゆえな」
ふと昨夜二人も寝ずの番がいたことを思い出した。
「奥にも寝ずの番がいるのですか」
「おるが、何か不都合があるのか」
殿様は不思議そうに新右衛門を見た。打ち続く衝撃に新右衛門は頭を抱えたくなった。
奥を出て中奥に戻り裃を外した後、やっと朝食となった。
殿様と一緒の部屋で食べるというのは非常に緊張するものだった。おまけに小姓も二人部屋の隅に控えている。
噂では殿様の食事は冷めているということだったが、この噂は間違いではなかった。
家の麦飯よりも麦の比率の少ない飯、椎茸の吸い物、漬物、豆腐という一汁二菜はすっかり空腹になっていた十四の少年にとっては腹五分か六分であった。岡部の家のほうがもう少し飯が多く、汁物の具も多いような気がした。
けれど同じ物を食べている殿様は何の不平も言わず、食事を全部食べたのだった。文句は言えない。
冷えた少ない朝食を終えると、御典医という医者が来て、脈をとったり、舌の色を見た。
医者は陽の気に満ち溢れておいでだと言った。悪い意味ではないようだった。
「啓悌院様とよく似た気をお持ちですな」
とも言われ、不思議な気がした。
「父上をご存知なのですか」
「畏れながら、最期を見とらせていただきました。ご立派な大往生でした」
さすがに腹上死とは言えない御典医だった。
隆迪はいつになく気分が高揚していた。
生まれた時から江戸育ちの隆成や小田切家に育った竹之助と違い、新右衛門は擦れていなかった。
何もかもが珍しいらしく、あれこれ質問する。それに答えるのが、隆迪には新鮮なことだった。
もし小姓の制止がなければ、今朝、兄上様と駆け寄って来た少年を、隆迪は抱き締めていただろう。
なんというか、かわいげがあるのだ。まるで眞里姫が去年から飼い始めた狆のようだった。
一緒に朝餉を食べた時も気持ちのいいくらいにすべて平らげていた。
隆迪は食欲はなかったが、食べねば皆が心配するので無理矢理全部食べたというのに。
小納戸方の話によれば、岡部の家に戻って書物や衣服を取りに行きたいとも言っているらしい。
まだまだ子どもなのだろうと隆迪はほほえましく思ったのだった。
「岡部惣左衛門に、新右衛門の書物を持って来させよ」
近習頭に命じておいたので、惣左衛門は書物を持って登城するはずである。
様々な心配事はあるものの、新右衛門の処遇をあれこれ考えている間は憂いを忘れることができたのだった。
もし子どもがいたら、こんな気持ちになるのかもしれないと隆迪は思い、江戸の眞里姫に手紙を書いて伝えようと思った。
近習方の詰所に出勤してすぐに近習頭の本田清右衛門の命で自宅に戻った惣左衛門は、母に事情を話した。
昨夜さんざん泣いたせいか、今朝は落ち着いた母は私も手伝いましょうと言ったが、それには及びませんと惣左衛門は部屋に急いだ。
母に見られてはまずいものがあった。
廊下を急ぐ惣左衛門の前で於三が拭き掃除をしていた。
「於三、精が出るな」
「若様、失礼しました」
於三はさっと脇に避けた。惣左衛門は何と声をかけていいものかと思った。
だが、於三から切り出した。
「わしは、平気です。気にせんでください」
「於三、早まった真似をするなよ」
上方ではやっているという心中物の浄瑠璃の話を平太から聞いたことがあった。あれは男女だが、女一人であっても、思いが余れば人は何をするかわからないと惣左衛門は思っている。
部屋に入った惣左衛門は風呂敷を広げ、次々に書棚のものを置いていく。
あの指南本はどうしようかと思ったが、餞別代わりに持っていくことにした。ただ、問題は近習頭の本田様に見とがめられたらということだった。
その時は、これはお家の繁栄のために大切な書物と言うしかない。それで駄目なら仕方ない。まさかこれを持ちこんだことでお役御免になることはあるまい。同僚らの物笑いになるかもしれぬが、そんなことは大したことではない。
風呂敷包を持って家を出ると、背後をついてくる足音がした。
「於三、どうした」
「奥様のお使いで。お城の近くまで参るので」
於三は風呂敷包を抱えていた。仕立物を持っていくのだろう。
そうか、新右衛門のいる城を見たいのかと思い、惣左衛門は少し歩む速さを緩めた。
於三の気持ちを思えば、門の中まで入れてやりたいが、そういうわけにはいかない。
何と言ってやればいいのかわからず、惣左衛門は大手町までほとんど口を開けなかった。
於三もまた口をつぐんだままだった。
大手門の前まで来た時、足を止めて惣左衛門は言った。
「何か伝言はないか。わしはこの書物を持って行くのだ」
振り返ると、於三はにっこりと笑って見せた。
「お幸せにとお伝えください」
そう言うと於三は身体ごと折るように頭を下げた。
「わかった」
惣左衛門は堀にかかる橋を渡り門をくぐった。
於三はずっと頭を下げたままであったが、やがて顔を上げると、元来た道ではない、南へ向かう道へと足を向けた。
大きく目を見開き、口を固く閉じた於三を偶然に見かけた作田の奥方は、勢以様のところの下女だと気付いたものの、お使いか、なんとまあ愛想のない下女だと思っただけで、琴の稽古に向かったのだった。
もうー、もうー、不意に変な声が聞こえてきた。
近くから聞こえてきた声は次第に遠くへ移動しているようだった。
一体、ここはどこだろう、家ではないような。夢だろうか。
人の気配を感じた。昨夜から寝ずの番をしている侍が足元にいた。
「お時間にございます」
夢ではなかった。新右衛門はぎょっとして飛び起きた。
掛布団、そして家のものとは明らかに違う綿のたくさん入った布団。ここはお城だった。
挨拶をする間もなく、厠へ案内された。なんと案内の者だけでなく二人もついてきた。
戸を開けようとすると、それよりも早く、ついてきた一人が戸を開けた。
さすがに中にまでは誰もついてこなかった。
それでも四畳半はある広さなので、どうにも落ち着かなかった。部屋の真ん中よりやや壁際に便器があるのだが、周囲が畳敷きなので、もし自分が幼子で下り腹などになったら大変なことになるのではないかと恐ろしいことを想像してしまった。
外に出ると手洗いの水が小さな盥で目の前に差し出された。洗うと手にさっと布がかけられたのでそれで拭いた。
その間に背後で戸が閉められていた。
部屋に戻ると、三方に載った歯磨き道具が運ばれてきた。
部屋の中で歯磨きとはと思ったが、冬は寒くなくていいかもしれないと思った。
先が細かく割られた楊枝に塩を付けて歯を磨いた。
「磨き粉をお使いください」
初めて使う磨き粉は何やら匂いがしたが、毒ではなかろうと楊枝の先に付けて同じように磨いてみた。なんとなく口の中がさっぱりした気がした。
口を漱いだ後、水の入った黒い大きな入れ物が二人がかりで運ばれて来た。
「洗面でございます」
さっと侍が二人がかりで寝間着を上半身肩脱ぎにしてしまった。
「こちらへ」
水の入った入れ物の前まで連れて来られた。
「これは何ですか」
「角盥にございます」
どうやら、この中の水で顔を洗えということらしい。水をこぼさぬように顔を洗ったが、正座しているので、寝間着に水滴が落ちてしまう。
その後、二人がかりで髪を整えられた。月代も毛抜きで毛を抜かれた。自分でするのと違い、容赦がないので痛かった。だが痛いと言ってはいけないような気がした。よく見れば、彼らも必死の形相で毛を抜いていた。
髷も油を付けて整えられたが、家のものとは違ってなんともいい香りであった。
髭剃りをするほど髭は伸びていないが、とりあえず顎に剃刀を当てられた。
顔に手が触れないように剃刀を当てるのには驚いた。この係の表情も真剣そのものだった。
それが終わると寝巻を脱がされ昨日着ていたものではない木綿の単衣を着せられた。袴も違っていた。
「拙者の着ていた物はどこに」
「あれは洗い張りを」
今着ている物に比べればきれいではないかもしれないが、さほど汚れていないのに洗い張りをするとは驚きだった。
裃も着けさせられた。
「仏間にご挨拶を」
どうやら仏壇に挨拶をするらしい。これは家でもすることだから当然のことだろう。
部屋から長い廊下に出ると、殿様も出て来たところであった。
「兄上様」
新右衛門は小走りに近づいた。殿様の後ろにいた小姓が仰天した。
「わ、若君様、なりません」
殿様は振り返った。小姓がその前で新右衛門に叫んだ。
「なりません。並んではなりません」
その剣幕に、新右衛門の足は止まった。
「仕来りでな」
殿様は静かに言った。昨夜と違い、厳粛な顔つきであった。
「申し訳ありません」
どうやらいろいろと決まり事があるようだった。
殿様の十歩以上後ろを歩いて入ったのは奥と呼ばれる区域だった。出迎えたのも誘導するのも女性だった。男は自分たち二人だけのようだった。小姓は入って来なかった。
仏間にあったのは仏壇などと言うかわいいものではなかった。
壁一面が仏壇といってよかった。まるで箪笥のようだと思った。位牌もたくさん並んでいた。
殿様の斜め後ろに座り、手を合わせた。
その後、父である啓悌院の位牌を殿様は教えてくれた。
ふと、新右衛門は殿様の横に並んでいることに気付いた。
「これは失礼を」
下がろうとすると、殿様はよいと言った。
「ここは奥。中奥ほどはうるさくはないのだ」
どうやら場所によって、振舞が違ってくるらしかった。
仏間を出て隣の部屋に行くと、美しい装束を着た女性達が頭を下げていた。前列に一人、その背後に五人女性が並んでいた。
「御殿様にはご機嫌うるわしう。若君様、お初におめもじいたします」
殿様はこれがお仙じゃと紹介した。お仙は顔を上げにっこりと笑った。
さすがに国許でほとんど寵を独占している側室だけに、きれいだと新右衛門も思う。だが、於三には負ける。
「お仙が奥を束ねておる。そなたは元服しておるのだな。となれば、下々の言う筆おろしというのもせねばなるまい」
さらりと言ったその言葉に新右衛門は激しく動揺した。
殿様がそんな言葉を口に出すとは。江戸に正室、国許に側室がいるから、別に言ってもおかしくはない言葉だが、さわやかな顔の殿様の口から出る言葉にしては衝撃が強過ぎた。
「ふ、ふでおろしでございますか」
「すまぬ。まだそういうことも知らぬのだな」
知っていますとはいくらなんでも兄と大勢の女性がいる中では言えない。
「お仙、後ろの女子たちか」
「はい。若君様には少し年の上の女子がよかろうと思いまして」
顔を一斉に上げた女達は皆揃いの矢絣の着物を着て、高島田に髪を結っていた。顔は城下を歩いている普通の娘のものではなかった。もしかすると、城下に美人がいないのは、皆ここに集まっているからであろうか。
「どうじゃ」
殿様は新右衛門を見た。これはもしかすると、五人の女から気に入った者を選べということなのだろうかと思ったが、朝っぱらからそんなことはできないと思った。
それに何より於三を裏切るわけにはいかない。
「どうじゃと言われましても、不束者ゆえ」
俯いたのは、女達の誰とも目を合せたくなかったからである。
「まあ、おかわいい」
ホホホとお仙は笑った。
「まだ慣れぬからな。もしその気になったら、小姓に朝のうちに伝えよ。奥も支度があるのでな」
「小姓とは、朝の支度をされた方たちですか」
「あれは小納戸方じゃ。小姓は我らを奥まで連れて来た者達、裃の色が違うであろう」
そういえば小納戸方は殿様の身の回りの世話をするということを聞いたことがあった。着替えや髪の手入れは小納戸方になるのだろう。
「兄上もそのようにされるのですか」
「さよう。それが仕来りゆえな」
ふと昨夜二人も寝ずの番がいたことを思い出した。
「奥にも寝ずの番がいるのですか」
「おるが、何か不都合があるのか」
殿様は不思議そうに新右衛門を見た。打ち続く衝撃に新右衛門は頭を抱えたくなった。
奥を出て中奥に戻り裃を外した後、やっと朝食となった。
殿様と一緒の部屋で食べるというのは非常に緊張するものだった。おまけに小姓も二人部屋の隅に控えている。
噂では殿様の食事は冷めているということだったが、この噂は間違いではなかった。
家の麦飯よりも麦の比率の少ない飯、椎茸の吸い物、漬物、豆腐という一汁二菜はすっかり空腹になっていた十四の少年にとっては腹五分か六分であった。岡部の家のほうがもう少し飯が多く、汁物の具も多いような気がした。
けれど同じ物を食べている殿様は何の不平も言わず、食事を全部食べたのだった。文句は言えない。
冷えた少ない朝食を終えると、御典医という医者が来て、脈をとったり、舌の色を見た。
医者は陽の気に満ち溢れておいでだと言った。悪い意味ではないようだった。
「啓悌院様とよく似た気をお持ちですな」
とも言われ、不思議な気がした。
「父上をご存知なのですか」
「畏れながら、最期を見とらせていただきました。ご立派な大往生でした」
さすがに腹上死とは言えない御典医だった。
隆迪はいつになく気分が高揚していた。
生まれた時から江戸育ちの隆成や小田切家に育った竹之助と違い、新右衛門は擦れていなかった。
何もかもが珍しいらしく、あれこれ質問する。それに答えるのが、隆迪には新鮮なことだった。
もし小姓の制止がなければ、今朝、兄上様と駆け寄って来た少年を、隆迪は抱き締めていただろう。
なんというか、かわいげがあるのだ。まるで眞里姫が去年から飼い始めた狆のようだった。
一緒に朝餉を食べた時も気持ちのいいくらいにすべて平らげていた。
隆迪は食欲はなかったが、食べねば皆が心配するので無理矢理全部食べたというのに。
小納戸方の話によれば、岡部の家に戻って書物や衣服を取りに行きたいとも言っているらしい。
まだまだ子どもなのだろうと隆迪はほほえましく思ったのだった。
「岡部惣左衛門に、新右衛門の書物を持って来させよ」
近習頭に命じておいたので、惣左衛門は書物を持って登城するはずである。
様々な心配事はあるものの、新右衛門の処遇をあれこれ考えている間は憂いを忘れることができたのだった。
もし子どもがいたら、こんな気持ちになるのかもしれないと隆迪は思い、江戸の眞里姫に手紙を書いて伝えようと思った。
近習方の詰所に出勤してすぐに近習頭の本田清右衛門の命で自宅に戻った惣左衛門は、母に事情を話した。
昨夜さんざん泣いたせいか、今朝は落ち着いた母は私も手伝いましょうと言ったが、それには及びませんと惣左衛門は部屋に急いだ。
母に見られてはまずいものがあった。
廊下を急ぐ惣左衛門の前で於三が拭き掃除をしていた。
「於三、精が出るな」
「若様、失礼しました」
於三はさっと脇に避けた。惣左衛門は何と声をかけていいものかと思った。
だが、於三から切り出した。
「わしは、平気です。気にせんでください」
「於三、早まった真似をするなよ」
上方ではやっているという心中物の浄瑠璃の話を平太から聞いたことがあった。あれは男女だが、女一人であっても、思いが余れば人は何をするかわからないと惣左衛門は思っている。
部屋に入った惣左衛門は風呂敷を広げ、次々に書棚のものを置いていく。
あの指南本はどうしようかと思ったが、餞別代わりに持っていくことにした。ただ、問題は近習頭の本田様に見とがめられたらということだった。
その時は、これはお家の繁栄のために大切な書物と言うしかない。それで駄目なら仕方ない。まさかこれを持ちこんだことでお役御免になることはあるまい。同僚らの物笑いになるかもしれぬが、そんなことは大したことではない。
風呂敷包を持って家を出ると、背後をついてくる足音がした。
「於三、どうした」
「奥様のお使いで。お城の近くまで参るので」
於三は風呂敷包を抱えていた。仕立物を持っていくのだろう。
そうか、新右衛門のいる城を見たいのかと思い、惣左衛門は少し歩む速さを緩めた。
於三の気持ちを思えば、門の中まで入れてやりたいが、そういうわけにはいかない。
何と言ってやればいいのかわからず、惣左衛門は大手町までほとんど口を開けなかった。
於三もまた口をつぐんだままだった。
大手門の前まで来た時、足を止めて惣左衛門は言った。
「何か伝言はないか。わしはこの書物を持って行くのだ」
振り返ると、於三はにっこりと笑って見せた。
「お幸せにとお伝えください」
そう言うと於三は身体ごと折るように頭を下げた。
「わかった」
惣左衛門は堀にかかる橋を渡り門をくぐった。
於三はずっと頭を下げたままであったが、やがて顔を上げると、元来た道ではない、南へ向かう道へと足を向けた。
大きく目を見開き、口を固く閉じた於三を偶然に見かけた作田の奥方は、勢以様のところの下女だと気付いたものの、お使いか、なんとまあ愛想のない下女だと思っただけで、琴の稽古に向かったのだった。
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