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第二章 初恋(正徳二年~正徳三年)

16 おばば様の言葉

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「ずいぶんゆっくりでしたね」

 帰って来た新右衛門に母親が言った。

「申し訳ありません。途中で下駄の鼻緒が切れましたので」

 於三はそう言うと情事の跡を気取られぬように急いで台所に向かった。
 予定より一日早く惣右衛門は戻って来ていた。
 新右衛門が座敷に行き挨拶をすると、父は日に焼けた顔で笑った。

「見ない間に少し背が伸びたようじゃな」
「大久間はいかがでしたか」
「晴れた日が多かったのでだいぶはかどった」

 大久間の出湯いでゆ周辺の川の堤の補修工事の監督を父はしていたのだった。
 毎年夏に大雨が降ると、堤の破損した箇所から川の水があふれるため、出湯周辺では温泉が濁ったり冷めたりすると旅籠仲間からの訴えがあっての工事だった。
 殿様もお出ましになる温泉だからということで、工事の予定は早く決まり十月中には完成する予定であった。

「わしも早くお役をいただき働きとうございます」
「焦るでない。時がくれば、おまえにもふさわしいお役がまわってくる」

 新右衛門は噂のことを尋ねてみることにした。丑松があれほど自信たっぷりに言うということは、大人たちの間ではもっと広まっている恐れがあった。

「ところで、父上、大久間で何か噂を耳にしませんでしたか」
「噂。はて、何の噂じゃ」
「わしが婿入りをするという噂です。それも御分家に」

 惣右衛門の穏やかだった顔色が険しいものに豹変した。

「誰がさようなことを申した」
「祭りで会った近所の者です。御分家の方がお城に挨拶に伺ったとか、紅葉の宴の後で殿様からじきじきにお話があるとかいう話がまことしやかにささやかれております。父上に何の一言もなくさようなことがあるとは思えません」
「わしは何も聞いていない。おまえには心当たりはあるのか」

 現場で作業をする人夫達の監督のため近くの町役人の屋敷に宿を借りていた惣右衛門は、郡奉行所にほとんど出入りしていなかった。同僚らの噂など耳にする暇もなかった。

「一度、歌塾に御分家の壱姫様がおいでになられ、講義の後、お師匠様の部屋に呼ばれたら壱姫様がおいででした。ですが、さような話はありませんでした」

 さすがに菊という女中とのやり取りについては話せなかった。話せば父は御分家様に失礼なことをと怒るに違いなかった。

「壱姫様は十になられるな。おまえは十四。年回りからすればちょうどよいかもしれぬ」

 まるでよい話だと言わんばかりの父の言葉だった。

「さようなことは考えておりません。婿入りなど」

 惣右衛門は腕を組んだ。惣左衛門に頭の傾き方がそっくりだった。

「だが、いずれ、惣左衛門に嫁がくれば、この家にいづらくなるぞ」
「その前に所帯を持ちとう存じます」

 惣右衛門ははっとして新右衛門を見た。もしや息子には誰か意中の女子がいるのではないかと。
 だが、早過ぎる。今はまだ学問技芸を磨くべき時であった。惣右衛門は息子からその女子の名を聞くことはやめておいた。若い男女というのは燃え上がるのも早いがそれが消えるのも早いのだ。なまじその名を聞けば、別れた時に新右衛門の傷が深くなるかもしれなかった。

「ならば学問に励まねばな。それで認められればお役がまわってくるやもしれぬ。今の世は剣術よりも知恵が求められる。知恵を深めるために古のことを学ぶのは大事なこと」
「歌や能が役に立つのでしょうか」
「歌はもののあはれを知ることになる。もののあはれは人の心を知ることにもつながる。能は立居振舞に普段の鍛錬が表れる。明後日はその鍛錬を殿にお見せする大事な場ぞ」

 殿、顔もほとんど知らない兄。あまりに遠い存在過ぎて、新右衛門にとっては身内とはとても思えなかった。

「殿はわしのこと御存じなのでしょうか」

 前からの疑問だった。自分のことを果たして知っているのか。

「ご存知なのではないか。小田切様や川合様、沢井様もご存知なのだから」
「では、もし、能の後で御分家の件を確かめて、それが本当ならお断りしてもよろしいものでしょうか」

 明らかに断るつもりだなと父親にはわかった。

「直接殿にお断り申し上げるのは憚りがある。表向きはおまえはわしの倅なのだからな」
「どうすればよろしいのでしょう」
「噂の件はわしも調べてみよう。根も葉もないことゆえ、気にすることではないと思うがな。ただ、もし殿からその話があった場合、断ることはできまい」

 殿の命令は絶対、そんなことは新右衛門も知っている。家禄が四分の一減らされても誰も不平を言えないのだ。

「覚悟はしておけ。それに、どのみち、おまえのことはわしの一存だけではどうにもできぬのだ」
「梅芳院様のお考え次第ですか」

 惣右衛門もそのことは以前から気になっていた。梅芳院の意向が新右衛門の教育に反映しているのも事実だった。

「梅芳院様は殿の御生母にしか過ぎぬ。殿はご自分でお決めになるはずじゃ。何があってもよいように、心を平らかにして受け止めよ」

 それができたら誰も苦労はしないと新右衛門は思う。

「畏まりました」

 結局はそう答えるしかない新右衛門だった。





 先に帰っていた惣左衛門は近所の卯之吉らにそれとなく噂について訊いてみたと言った。
 やはり噂はかなり広まっているようだった。
 具体的な日取りまで言う者がいたのには怒りを通り越してあきれてしまった。

「わしもできるだけ、火消しをするが、おまえも早まったことをするなよ。くれぐれも喧嘩などしてくれるな」
「わかっておる。おまえの出世に響くからな」

 新右衛門はそう言って笑ったものの、怒りと不安は簡単に消えそうもなかった。





 その夜、於三は馬小屋に祖母よりも遅れて戻って来た。惣右衛門が帰って来たので、夕餉の後、近所の同僚が訪ねてきて、勢以とともにその応対やちょっとした肴の準備、片付けをしたためである。
 すでに床に入っていたきよは音を立てぬように入って来た於三に気付いた。老いのせいか眠りが浅いのだった。

「お客様はお帰りになったか」
「はい」

 於三は帯を解き、寝間着に着替えた。床に入ると、きよの声がした。

「於三、覚えておるか、ばばが前に話したこと」

 おばば様の話はたくさんあってどれのことかわからぬと於三は思った。

「どの話」
「三途の川じゃ」
「縁起でもないよ」
「わしのことではない。女はな、三途の川を渡る時にな、最初の男に背負われて渡るのじゃ」

 ずいぶん前に聞いたことがあるような気がした。だが、於三はすっかり忘れていた。
 新右衛門の顔が浮かぶが、まだ於三には遠い話だった。

「女にとって、最初の男というのはな、それだけ大事なものなんじゃ」

 それだけきよは言って、そのうち寝息かいびきかわからぬような音をたて始めた。
 祖母は気付いているのかもしれない。於三は恋の終わりを予感した。




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